月に沈む闇
第四章 『西大陸連盟軍』
  



第三話

「さてと、そろそろ私も帰ろう」
 碧焔の騎士が行軍を再開すると、離れた場所から白炎と碧炎のやり取りを見ていたミレザはゆったり微笑んで従者の青年を振り返る。
 もうここに見るべきものはないといった主人の表情に、カルティは安堵したように長い息を吐きだした。
「はい。すぐに馬を引いてまいりますので、橙炎様はこちらでお待ちください」
 軽く頭を下げてから、カルティは橙炎の騎士の馬が止めてある場所まで全速力で走っていく。
 今から馬で普通に駈けて帰っても凱旋の行軍をしている碧炎よりも先に帝都ザリアにつくことが出来るだろう。けれども彼は一刻も早く主人をザリアに連れ帰り、礼装にて出迎える準備をしてもらいたかったのだ。
「別に、私はこのままでも構わないのだけれどねえ」
 やたらと正装することにこだわっている従者の言動に、ミレザはくすくすと笑う。
 炎彩五騎士の礼装に基本形は在るが、そこから派生する独自のデザインは自由だった。普段から身につけている軍装も各々の炎色にちなんで作られた荘厳かつ典雅なものだが、もちろんこれは見栄えよりも機能性が最重要視されている。
 しかし礼装となると話は別で、こちらは機能性はそこそこに創造性に富んだものが多かった。その出来映えは服飾職人達の腕の見せ所とも言える。
 カルティの父親は橙炎の騎士の礼装を手掛けている職人だった。だからこその言動なのだろう。
「まあ、あんなのは滅多に着ることもないからね。彼が意気込むのも仕方ないかな」
 とりあえずは親孝行な従者の意を汲んでやろうと思ったのか、ミレザは楽しげに呟いた。
 その柔らかな表情のなか、ふと、何かに気付いたように翡翠の瞳だけが鋭さを帯びて煌いた。
「いきなり人の背後に出るというのは、不躾なんじゃないかな」
 やんわりと歌うように、ミレザはゆうるりと後ろを振り返る。
 いつのまにか、自分の背後に一人の女性が立っていた。
 蜂蜜のような色をした長くゆるやかな巻き髪に、それとは対象的な闇夜の如く漆黒の翼を持った美しい女。その不意の出現から相手が人間ではないとすぐに分かっていたが、振り向いてその姿を見たミレザの深い翠色の瞳は僅かに楽しげなものになる。
「ふうん。見事だねえ」
 その美しさに対してなのか。それとも自分の背後に気配なく近づいたことに対する賛辞なのか、ふわりと微笑んで見せる。
「ありがとうございます」
 女性は桜色の唇に微かな笑みをのせ、軽く礼をするように小首を傾げた。ミレザを見やる彼女の淡い琥珀の瞳に剣呑さは欠片もなく、どこか友好的な彩が浮かんでいた。
「はじめに……名乗りをあげられませんことを、お許しくださいませ」
 鈴の音のように軽やかな声音でそう言うと、黒翼の女性は軽く目を伏せる。
 魔族が人間に対して簡単には名乗れないということを、その理由も含めミレザはよく知っている。だから特に追求するつもりはなかったし、名前が知りたいと思うほど目の前の女性に対して興味も無かった。
「ああ、別に構わないよ。とりたてて興味もないからね。まあ……もちろん、このあとの用件次第では名乗らせるかもしれないけれど」
 柔和な貴公子めいた微笑みを浮かべる橙炎の騎士の、翡翠の瞳だけがどこか強い光を帯びる。
「ふふ……。やはり、噂どおりの御方ですのね」
 女性はわずかに口元を緩め、天使はかくあるだろうという優しげな顔をした青年を見やる。この男の性格が外見ほどに甘くないことは、他の者たちから聞き知っていた。
「それで。私にどんな用件があるんだい? 悪いけれど、そんなにはゆっくりもしていられない身なものでね」
 何か用が在るからこそ、こうして自分に近付いてきたのだろう。やんわりとミレザは問い掛ける。
 女性は小さく頷くと、体重を感じさせないほどに身軽な仕草でするりと身体を寄せてきた。何も知らない者が傍から見れば、恋人同士の抱擁に思えたかもしれない。
 己の鼻孔すぐ傍で、ふわりと揺れた蜂蜜色の髪から柔らかな花の匂りが立ちのぼる。その甘く心地好い香りに、普通の男ならばコロリと陥落しただろう。しかし生憎そんなことで動じるような可愛い神経を持ち合わせてはいないミレザは、くすりと可笑しそうに笑っただけだった。
「内緒話かい?」
「……ええ。この国の正当な後継者は誰か。それについてのお話ですもの。大きな声で言うには憚られますわ」
 そっと、ミレザの耳元に囁くように女性は言葉を紡ぐ。
 橙炎の騎士と呼ばれるこの青年が現皇帝のエルレアを強力に支持し、それに敵対する存在とみなした者には容赦がないことは知っていた。けれども敢えてそれを口にした。
 いま自分が持っている情報の中で、良くも悪くも、それが一番この男の興味を引ける話題だと思った。
「 ―― ふうん。それは楽しそうな話だね」
 青年の形の良い口許が鋭い笑みを宿すように吊り上がる。怖いくらいに優しい笑みと口調を奏で、ミレザは魔族の女性をじっと見据えた。敵か……味方か。それを見極めるような鋭い視線。
 普通ならば身の毛がよだつような橙炎の狂気に近い眼差しを受けて、けれども彼女は恐れたようすはなく、どこかうっとりと笑むように青年の顔を見返した。
「それでは……楽しい話をゆっくりと出来る場所に、一緒においでいただけますか?」
 とろける水飴のような琥珀の視線が、ゆるりとミレザに絡みつき、そうして静かに離れていく。
「ふ……ん。まあいいか。付き合ってあげるよ」
 艶やかな紅茶色の髪を僅かに揺らすように、ミレザは再び微笑んだ。このままここで彼女を敵として打ち倒すことは簡単だが、それよりも興味の方が勝ったようだった。
 何よりも、ここのところ魔族の不審行動が目に付いて来ていた矢先でもある。そのあたりを調査するにも都合が良い。
 ミレザの了承を得ると、女性は嫣然と辞儀をしてから漆黒の翼を羽ばたかせるようにふわりと広げた。
「 ―― お待たせしました橙炎様。馬のご用意が……あ……れ? えっと……お知り合いですか?」
 ようやく馬を引いて戻ってきたカルティは、主人の側に佇む女性に気付いて目を丸くした。見知らぬ美女がまるで寄りそうようにミレザの隣に立って居るのである。しかも人では有り得ない、漆黒の翼が優雅に天に広がるように揺らめいていた。
「ああ、ちょっと野暮用が出来てしまったのでね。少し出掛けてくる。刻限までには戻るつもりだが、もしかすると碧焔の迎えには参列できないかもしれないな。カルティ、陛下にお伝えしておいてくれるかい?」
 やんわりと、ミレザは従者に言葉をかける。その表情はいたって穏やかなので、魔族に拉致されようとしているわけではなさそうだ。
 しかしカルティもそれで納得するわけにはいかない。このまま一人で屋敷に戻っては、游絲の主席幕僚であり橙炎の腹心。イェンス=アウメイダに何を言われるか分かったものではない。
「野暮用って何をおっしゃっているんですか!? 一緒にザリアにお戻りく……あっ、ちょっと!?」
「すぐ戻るよ」
 ここは断固抗議しなければと思ったカルティの意志にもお構いなく、ミレザはひらひらと軽く手を振ると、漆黒の翼に抱かれるようにその場からふわりと姿を消してしまう。
 その場に取り残されたカルティは、もうどうすることも出来ず、ただただ独り帝都への帰路につくしかなかった。


「橙炎が? どういうことだ?」
 エルレアは思わぬ報告に僅かに片眉を上げた。
 好き勝手やっているように見えるが、橙炎の騎士は皇帝の言葉や威儀を軽んじることはない男だ。それなのに、式典の刻限まであと僅かという時になっていきなり欠席するとの伝言はにわかには信じがたい。
「はぁ……従者が申しますには橙炎様は魔族の美女と一緒に居られたようで、"野暮用"が出来たとおっしゃられていたそうでございますが」
 カルティからの連絡を受けて、渋々エルレアのもとへと報告にやって来たイェンス=アウメイダは、困ったように眉根を寄せた。普段から深い眉間の縦じわが、更に深くなる。皇帝の意向に背くほどの"野暮用"とはいったいなんなのか、イェンスには想像もできなかった。
「野暮用、か?」
 エルレアはイェンスの言葉を反芻し、しばし考えるように目を閉じる。ややして苦笑するように口端を上げた。
「もっと詳しい話を聞きたい。その従者を呼べ」
「……御意」
 イェンスは短く応えると、急いでカルティを呼びに行く。そうしてしばらくしてイェンスに連れられて来た青年は、まるで石のようにカチコチになって、皇帝の前に跪いた。
「は、初めて御前に上がります。と、橙炎さまの従者、か、カルティにございます」
 偉大な皇帝を前にした緊張と、主人のことで一喝されるかもしれないという怖れとで頭がいっぱいだった。
「楽にしなさい。橙炎の式典欠席の理由の詳細を聞こうと思って呼んだだけだ。おまえが見聞きしたことだけを教えてくれれば良い」
 緊張しすぎて石化している若者を楽しげに見やると、エルレアは情報を促すようにグレイの双眸をカルティに向ける。間にイェンスを介した伝聞ではなく、直接その場に居た者の言葉が聞きたかった。
「は、はい。実は……橙炎様はルセラの港まで、碧焔様が凱旋される姿を見に行っておられました。しばらくそれをご覧になったあと、ザリアに戻られるとのことでしたので、馬を用意するために私は一度お側を離れました。ですが、戻った時には既に橙炎様のお側には見たことのない女性がおり、その御方と何か話をしたいことがあるようで、陛下へのことづてを私に残し、そのままお二人で居なくなってしまわれたのです」
「その女は魔族だったのだな?」
「はい。蜂蜜のような金色の髪と、対象的な漆黒の美しい翼を持っておりましたので、そうかと思われます」
「また……有翼人か」
 他人には聞こえないように、エルレアは小さく口の中でつぶやいた。
 翼の色は違えど、以前ミレザの実家であるマセル公爵家の領地内の境界を突破したのも有翼人だった。だからこそミレザはあえてその者と共に行ったのだろうとエルレアは思った。
「分かった。橙炎の式典欠席は任務に通づるものと判断し、不問に付す。橙炎が戻ったら、私の許に報告に来るよう伝えておけ。何時になっても構わない」
 身勝手な橙炎の行動を非難する言葉はひとつもなく、ただその行動に理解を示す言葉がきっぱりとした口調で投げられる。
 一喝されると思っていたカルティは、思わず皇帝の顔を盗み見た。エルレアの懐の深さなのか。それとも互いの信頼関係の為せる業なのか ―― その表情には怒りどころか不快げな感情ひとつ浮かんではいなかった。
「かしこまりました。お言葉、確かに承りました」
 イェンスもカルティもそんな皇帝の意向に感銘を受けたように深く頭を下げる。そうしてそれぞれの仕事に戻る為に、各々部屋から出て行った。
 二人が部屋から出て行くと、エルレアは大きな外套を翻すように颯と椅子から立ち上がる。硬質な軍靴の音を響かせながら窓際に歩み寄ると、雲ひとつない晴れ晴れとした蒼天を軽く見上げた。
「ふふ。この空と違って、考えることも、やるべきことも山積みだな」
 憂いるような言葉とは裏腹に、どこか楽しそうな表情が皇帝の顔には浮かんでいる。やるべきことを行い、己の道を進むことがエルレアにとっては活きる道なのかも知れない。
「このところ、やけに魔絡みの事態が多い。私の方でも調べてはいるのだが……なかなか役に立てなくてすまないね」
 ひと月前にはイルマナで。数週間前にはギョクトの街で。魔に関わる者たちが不審な行動を起こしている。もちろんそれについての調査は行い、打てる策は打ってある。けれども、こうも立て続くとなると、同じ魔族である彼らの動きを掴みきれていない自分自身の不明さがカレンはもどかしかった。
「有翼人の件は橙炎が何とかするだろう。カレンはカレンにしか出来ないことをすれば良い」
 自嘲するような腹心の青年に、エルレアはふっと笑むように言い放つ。そのグレイの双眸は真っ直ぐ射るように強い。全身からほとばしるような皇帝の覇気は、心地好い緊張感となって、カレンの心奥へとすとんと落ちた。
「そうだね。ありがとう」
 にこりと微笑んで、カレンは小さく頷いた。そうしてほんの僅か考えに沈むように瞼を閉じ、ややして青翠の瞳が再び開く。窓から入りこんできた風に、さらりと、長い髪が流れるように宙を舞った。
「やはり、あなたには言っておこうか。魔族を統べる ―― 王の名を」
 皇帝の寵姫だと間違われるほどの美貌に凛とした意志の力を漲らせて、カレンは静かに口を開く。
 以前、魔族の王の存在が炎彩五騎士やエルレアの間で話題にのぼった時には、カレンは決して王の名を語ろうとはしなかった。それを今になって伝えようとするからには、何か理由があるのだろうか?
「……良いのか?」
「ああ。私自身のけじめだからね。それに……いざというときに貴女の役に立つかもしれない。橙炎に接触してきた有翼人は漆黒の翼に金の髪だったと彼の従者は言っていたね。その組み合わせを持つ有翼人を、私は二人しか知らない。そしてその二人は、共に王の側近だ」
 カレンがその二人しか知らないと言うのであれば、有翼人で金髪黒翼の者はそれ以外には存在しないのだろう。そう思わせるほどに、きっぱりと強い断定。
「分かった。ならば聞こう」
 エルレアはゆるりと頷くと、窓枠に寄りかかるように身体ごとカレンへと向き直る。己が知るべきだと判断したことは迷うことなく求める。その貪欲さはいっそ潔かった。
「魔族の王の名はセイラン……真名の文字は晴れた日の嵐。それで晴嵐セイランという。その名のごとく気分の浮き沈みも激しい方でね」
 カレンは少しだけ溜息をつくように、軽く肩を竦めて見せた。己の記憶の中に在る王の様子を思い出して、辟易しているようにも見えた。
「そういえば以前おまえが言っていたな? 魔族の王は冥貴人にしては気性が激しいと」
「うん。そうだね。普段は穏やかだけど、怒ると手が付けられなくなる。白炎を更にパワーアップさせた感じかな」
 カレンは少し茶化すように言う。けれどもエルレアが見据えるようにグレイの瞳を細めると、茶化すような表情を改めて、そっと濃藍色の髪に触れるように手を伸ばした。
「……晴嵐の名が、今後のあなたにとって無用のものであることを願いたい」
 己を見上げてくる強い眼差しに小さな笑みを返す。その口調はどこか複雑な感情を宿しているようで、エルレアは思わずまじまじと、穏やかに笑うカレンを見やった。
 普段はこの魔族の青年が何を思い、何を望んでいるのか。たいていの事は分かるほどに長い時間をともに過ごしているというのに、今回ばかりはその心中を把握することができなかった。
「陛下、そろそろ碧焔さまがご到着になられます。ご準備を……」
 扉の向こうで自分を呼ぶ声が聴こえて、エルレアはふっと息をついた。カレンの不可思議な眼差しも気にはなったが、今は他にやるべきことがあった。
「すぐに向かう」
 ひとこと部屋の外に応えると、エルレアは気を取りなおしたように魔族の青年の肩をぽんっと軽く叩く。
「今のおまえが何を憂いているのかは分からない。だが、私たちが征く道に無用なものなど有り得ない。どのような形にせよ、すべての生ある者が関わってくる ―― そういう道を選んだのだから」
 何事からも逃げることの無い真摯なグレイの瞳が、強い笑みをたたえて煌きを増す。
 強大な力を持った魔族は己の名を人間に教えるのさえも禁忌とされている。それなのにその頂点に立つ王の名を自分に明かしてくれたということ。それが、どれだけ大きなことなのか分かる。
 強い信頼と絆。カレンが示してくれたそれを、無駄にするつもりはエルレアにはもちろんなかった。
「例え望まぬ形での関わりであったとしても、それが自分が信じる道をゆくための過程であるのなら、私は素直に受け入れる」
「……あなたなら、そう言うと思った」
 エルレアがこういう性格だからこそ、自分は彼女の傍にいるのだと思う。遠い昔に"或る人物"と交わした約束などとは無関係に ―― 。
「とりあえず今は碧焔の出迎えだね。それが終われば、また一歩。前に進もう」
 碧焔の騎士を出迎えるために扉の方へと歩きはじめたエルレアに、カレンは静かに語りかけるように言う。
 その声に重なるように、人々の歓声が遠くから流れる風に乗って聞こえてきた。ユーシスレイア率いる氷鏡が皇宮にだいぶ近付いてきているのだろうと分かる。
「 ―― そうだな。そうしよう」
 ユーシスレイアが母国カスティナを捨てラーカディアストへとやって来たことで開けた道が在る。
 今まで皆で積み重ね切り拓いてきた道も在る。そうやって、一つ一つ、確実に進んで行く先にある未来の姿を見据えるように、エルレアは強い笑みを唇に佩いた。

 

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2008.02.27 up