「……そろそろか」 眼前に広がる海岸線を見渡すように舳先に佇みながら、ユーシスレイアは軽く目を細めた。長く伸びた銀色の髪とあざやかな紺碧の外套が、潮風に舞うように蒼い空へと大きく翻る。 意志の強い白金の双眸が、前方に見えるラーカディアストの陸影と波間にゆらめく陽光とをはっきりと映して、さらに凛々と引き締まった。 「碧焔さま。あと二十分ほどでルセラ港に入ります。下船準備をお願いします」 静かに碧焔の騎士の背後に立ち、ラスティムはそう告げた。既に迎えの小型船が数隻やってきており、この旗艦を港へ先導するように進んでいる。 リュバサを攻略した碧焔の騎士の、華々しい凱旋なのだ。先ほど帝都から受けた伝令では数十万の民がルセラの港から帝都ザレアへの沿道を埋め尽くしているとのことだった。 「ようやく本国だな、ラス」 己の正体が、かつてはこの国にとって最大の敵であったカスティナの将だということが人々に知れ渡ってから、これが初めての帰還となる。 現在は勝利を挙げて凱旋する"炎彩五騎士"という立場であるとはいえ、ラーカディアストの人々の心情はそう簡単には割り切れないはずだった。何せ、これまで自分は幾多のラーカディアスト軍を破ってきたのだ。ユーシスレイア率いるカスティナ軍に生命を奪われた将兵も多いだろう。 その親類縁者からしてみれば、"ユーシスレイア=カーデュ"は憎むべき 「はい。ようやく帰還できますね。船の上は疲れますので、安堵しました」 ラスティムは軽く肩を竦めるように笑う。もともとは 頭上には、この日の凱旋に花を添えるように、雲ひとつない蒼天が心地好く広がっていた。 「ルセラでは皆が、碧焔さまの凱旋を祝す為に集まっておりますよ。……ですが、中には害意を持つ者も居るかもしれません。沿道からの襲撃等を警戒する為に氷鏡を配置させる準備はできております。あとは碧焔さまのご裁可を待つのみですが」 「その必要はないと言っただろう? おれは、ユーシスレイア=カーデュであることを羞じるつもりはないし、過去を否定するつもりもない」 真実を見据えるようだと言われる強い白金の眼差しが、静かに笑むように腹心へと向けられる。 「ですが……」 「ラス。大事なのは"ユーシスレイア=カーデュ"という"碧焔の騎士"を皆が認めることだ。おれが碧焔の騎士だからということで、人々が"ユーシスレイア"に対する負の感情を抑え込むのでは意味がないのだ」 ここで氷鏡をガチガチに警備につけて自分が人々の前に出るのは、『炎彩五騎士』という威を借りて人々の心を力でねじ伏せるのと同じだ。それだけはしたくないし、してはいけないとユーシスレイアは思う。 「碧焔さま……」 己の主が今どういう心境であるのか。端正な顔に浮かぶ力強くも穏やかなその眼光を見て、ラスティムには分かったような気がした。それは ―― 大きな覚悟なのだろうとラスティム思う。 ラーカディアストの地に降り立ったユーシスレイアに向けられるであろう旧い憎しみと、そして……新たなる思慕と。その矛盾したすべてを受け入れることを、この主はさらりとやってのけるだろう。 そんな碧焔の騎士の堂々とした力強さ、潔さに人々は焦がれずにはおれなくなる。彼に腹心にと請われたあのときの自分自身がそうであったように ―― 。そう思えることが、ラスティムは嬉しかった。 「分かりました。では通常の隊列にて凱旋を致します。……出過ぎたことを申し上げました」 「いや。おれの身を案じてくれたことには感謝しているさ。ありがとう、ラス」 ふと碧焔の騎士に浮かんだその笑みが以前よりも砕けたものであることを感じて、ラスティムは嬉しさが込み上げた。リュバサ陥落後にカエナでともにカルヴァドスを酌み交わしてからだったろうか? ユーシスレイアの自分に対する応対が僅かに親しげになったように思う。笑顔を見る機会も増えた。 凛々としたその美貌は一見すると緋炎の騎士同様に他を寄せ付けない孤高さを感じさせるけれど、実際には気を許した相手にはもっと気さくなタイプなのかもしれないと思えてラスティムは可笑しかった。 「私は貴方の腹心ですからね。当然のことですよ」 からりと明るい笑みを返して、ラスティムは軽く片目を閉じて見せる。 そうして互いに頷くと、大きく外套をひるがえし、下船準備をする為に船室へと降りていった。 月と稲妻の紋章が縫い取られた碧く美しい大軍旗を翻しながら、碧焔の騎士を乗せた大きな船がルセラに入港すると、港内には大きな歓声がわき起こった。 戦勝の将の姿を待ちわびるその大歓声に混じって、複雑な表情をした人々の溜息と呻くような嘆息もちらほらと散見出来る。 そんな人々の様子をひととおり観察するように見終わると、焦茶の髪をした二十歳前後の青年は何かを納得したように頷いてから、そっと人込みを抜けるように路地へと向かった。 凱旋に賑わう大通りとは違って、路地は閑散として静かだ。ほとんどの住民が碧焔の騎士を迎えに港や街道へ出ていることが伺えた。 「様子は?」 ふと掛けられた声に、焦茶の髪の青年はすっと地に膝をついた。目の前には己の主である橙炎の騎士がゆったりと、路地裏に置かれた樽に腰掛けるようにこちらを見おろしている。 本来ならばこのような場所にいるはずの人間ではないが、妙に馴染んでいるところが可笑しかった。 「やはり所々には複雑な面持ちの人間もおりますが、多くの者は歓迎と祝勝の意を示しております」 「ふうん。まあ当然だろうね。うちの国の者たちは強い人間が好きだからね。彼が勝ち続ける限りは、カスティナの将だったことへの批判は僅少だろう」 楽しそうに呟くと、ミレザ=ロード=マセルは紅茶色の髪を揺らすように、座っていた樽からゆうるりと立ち上がった。 「それで、 「はい。不穏な動きをしている者はおりませんが、エトの旧部下達が集まっている箇所がございました。碧焔の騎士の言動いかんによっては、何か騒ぎを起こす気かもしれません」 ユーシスレイアに敗れて戦死した者は、何も前碧炎のゼア=カリムだけではない。他にも大勢いる。中でも、戦死したエトという将の配下は気性が激しいことでも有名だった。それが集まっているとなると確かに不穏ではあるが、彼らに五騎士に刃向かう度胸があるとは思えなかった。 「そうか。まあ……彼らなら気にする程ではないかもね」 のんびり橙炎は笑うと、優雅な足取りで路地を更に奥へと入って行く。 「橙炎さま、そろそろ 焦茶の髪の青年は主の背中に注進するように言う。公式の行事なのだから、いつもの略装ではなく正式な礼装を以って出迎えの議を執り行う。その準備もしなければならなかった。 「はは。おまえも近頃イェンスに似て口うるさくなってきたね、カルティ。そのうち二人揃って眉間に深い皺を寄せながら、私に小言をいうようになるのかな」 ミレザは己の付き人であるカルティを可笑しそうに振り返りながら笑う。 イェンスは橙炎が統率する私軍『 「……お珍しいですよね。橙炎様がここまでお出ましになるなんて」 気がついてみれば、橙炎の騎士はルセラの港街を見おろせる高台に向かっているようだった。 皇宮で出迎える予定が立っているにもかかわらず、わざわざ港まで様子を見に来た橙炎の騎士の思惑がうまくつかめなかった。普段の彼ならば、そんなことはしない。よほど碧焔の騎士に興味があるのか、それとも本当に単なる気まぐれなのか ―― 。 カルティは優雅な足取りで前を行く主人のうしろを追うように歩きながら、そっと呟いてみる。もちろん聴こえるように言ったのだが、こういう問いに対しての返答はないだろうとも予想していた。 「碧焔は、とても面白そうだからね。あの緋炎でさえ彼に興味を抱いているようだし。それに……何よりシロとの関係が興味深い」 予想に反して返答があったので、カルティは一瞬驚いた。けれどもミレザはこちらを見てはいなかった。どこか遠くを望むように、翡翠のような眼差しを遥か彼方へと向けている。 「あれはシロ様……ですか?」 ミレザの視線の先へと目を向けてみると、そこには白炎の騎士の姿が小さく見えた。遠く離れていても見間違えることのない白い髪を風になびかせて、港に入ってきた船をじっと見つめているようだった。 既に船は入港を終えて、もうそろそろ碧焔の騎士が人々の前に姿を現す頃だろうということはここからでも分かる。大きな歓声が一際高く天上へと広がった。 「橙炎さま……私の見間違いでなければ、シロ様は弓を持っておられるように見受けられますが……」 遠目の利くカルティは、息を呑むように言う。前碧炎の騎士を慕っていた白炎の騎士の気持ちは分からないではない。だが凱旋してきた碧焔の騎士を、同じ炎彩五騎士のひとりが襲撃するなど前代未聞であり、在ってはならないことだった。 「ああ、本当だ。持っているようだね」 くすりとミレザは笑った。慌てるカルティとは反対に、天使のような笑みをその端正な顔に浮かべてゆうるりとその光景を眺めている。 「お止めしなくてよろしいのですか?」 「シロが本気で碧焔を射るつもりなら、ここからでは止めようがないだろうね」 今から走って白炎の許に向かったとしても、とうてい間に合わないのは確かだ。それにしても、橙炎の騎士の落ち着きぶりはカルティには不思議だった。 「ですが、このままでは……」 「カルティ。炎彩五騎士を見くびってもらっては困るな。私怨に動かされて馬鹿をするような人間は、陛下に五騎士と叙せられることはない」 すっと、深い翠の眼差しが刃のような鋭さを宿す。表情も口調もひどく穏やかで優しげなものであるだけに、その眼光はひときわ凄みを感じられて、カルティは思わず首を竦めた。 「……まあ、若いだけに何をするか分からないところもあるけれどね。あの子の気性は激しいから」 今度は楽しそうにミレザは笑う。 「はあ……」 結局は、何が起こるか分からないから主人はここに来たのだろうと、カルティは理解した。 その理由が、皇宮よりもここに居たほうが不測の事態にも迅速に対応できるからなのか、それとも単に興味を満たすための行動なのかは、分からなかったけれど。 「何も、起こらないと良いですね」 「うん? ああ、そうだね」 ミレザは軽く目を細めてカルティに応えると、ゆうるりと眼下に広がる港街の光景を眺めやった。 船を降りて隊列を整えた氷鏡とともに、ユーシスレイアは人々の前に姿を現した。凱旋の常として、戦勝を祝う人々が両脇に集まった主街道を行軍して、これから帝都へと帰還するのである。 このままの速度で進んでいけば、帝都まではおよそ一時間ほどかかる行程だった。 炎彩五騎士の優麗な軍装を身にまとい騎乗するユーシスレイアの姿は、凛々として人々の目を奪う。碧く広がる大きな外套と、目の醒めるような銀色の髪に彩られた端正な顔に浮かぶ力強い颯爽とした表情は、誰の目から見ても炎彩五騎士の名に相応しかった。 「碧焔様。右前方、三十メートルほど先にはお気をつけください。"ユーシスレイア"に敗れて戦死した将エトの旧配下が集まっているように見えます」 腹心として碧焔の騎士の斜めうしろに騎馬を置いていたラスティムは、そっと注進するように言う。彼らから殺気は感じないが、刃のように光るものが見えたこともあり、用心に越したことはないと思った。 しかしユーシスレイアは意に介したふうもなく、それまでと変わらぬ姿勢でその場を通り過ぎてゆく。自然体で堂々としたその態度には、彼に悪意を持っていた者でさえ敬意を覚えずにはいられない。 「やっぱり……碧焔の騎士に選ばれるだけの人間ってことか。器が違いすぎるんだよ……」 何か罵声を浴びせたいと考えていたエトの旧配下たちは、あまりに大きな碧焔の騎士の存在に、悔しいような、嬉しいような、やりきれないような……複雑な溜息とともに、がくりと頭を垂れた。 碧焔がカスティナの軍神ユーシスレイアだったことが皆に知れ渡って初めての帰還。普通の人間ならば人々の反応に神経質になると思うのだ。 だからこそ威で圧するように虚勢を張るか。逆に受け入れられようと柔和な懐柔策に出るかだろうと考えていた彼らにとって、ユーシスレイアの自然な態度はあまりに予想外なものだった。 そんな一部の人間の挫折感や敗北感とは裏腹に、凱旋を祝う明るく活気のある空気が人々の間にゆうるりと、けれども確実に広がって行く。 いま自分たちの目の前を通り過ぎ行く馬上の男が誰なのか。そんなことは人々にはどうでも良い。ただ、リュバサ攻略の立役者。凱旋する将への祝福と労いだけが、大きな歓声となって沸きおこっていた。 「 ―― ユーシスレイア=カーデュ!」 祭りのように沸く人々の歓声の中で、不意に碧焔の騎士の名を呼ぶ声が鋭く響き渡った。 その声の主が行軍をさえぎるように道の中央へと静かに歩み出て来ると、周囲は一瞬にして緊張に包まれ、ざわめいた。 「……白炎、か」 確かな足取りで道の真ん中へと出て来たのは、白炎の騎士。クォーレス=ジゼルだった。その左手にはしっかりと弓を持っている。けれども矢は、つがえられてはいなかった。 とっさにユーシスレイアの身を守ろうと動きかけたラスティムも、それに気付いて、とりあえずいつでも動ける体勢のまま、様子を見るようにその場に留まった。 「…………」 クォーレスはそんなラスティムに気がつくと一瞬不快そうに眉を上げた。けれども結局は無言のまま、かつかつと軍靴を響かせてユーシスレイアの騎乗する馬の前へと歩み寄ってくる。 どこか拗ねたような、怒っているような表情。しかし敵意は感じられなかった。 「ユーシスレイア=カーデュ。俺は、おまえがカスティナの将だったことを忘れない。ゼアの仇であることも忘れない。……けど、おまえは自分の意志でカスティナを捨ててラーカディアストを選んだ。そのことを、戦勝という形で示した。俺は……過去のおまえのことは今も、これからも大嫌いだ。でも……碧焔の騎士としてラーカディアストを己の生きる場所と定めたユーシスレイア=カーデュのことは、信じる。だから……碧焔。受け取れ。俺からの凱旋祝いだ」 すいっと、掴んでいた弓を前に差し出して、白炎の騎士はじっとユーシスレイアを見やる。 心の底からユーシスレイアのことを納得したわけではない。けれども ―― 彼が碧焔の騎士に叙せられたことは変えようのない現実。だからこそ、クォーレスはこれまで大切にしてきた弓を贈ろうと思った。それは、親友ゼア=カリムの仇である男を仲間として受け入れる為の白炎なりの覚悟だった。 「……受け取ろう」 ユーシスレイアはちりちりと心の奥で疼く痛みを抑えるように、静かに笑った。白炎の騎士の覚悟が分かるからこそ、受け取らないわけにはいかなかった。 この弓が、あのとき母セリカの命を奪った矢を放った弓なのだと、分かってはいたけれど ―― 。 「凱旋祝い、感謝する」 帝国に戻ったら一度ゼア=カリムのことも含めていろいろ白炎と話をしなければと思っていた。しかし白炎自身もそう考え、覚悟を決めてみずからこちらに歩み寄って来てくれたことは、素直に感謝するべきだとユーシスレイアは思った。 弓に触れることを躊躇しそうになる心奥の痛みを押し殺して、ゆっくりと白炎の手から祝いの品を受ける。 「……ふう。なんか少しスッキリしたかも。……凱旋の行軍を止めて悪かったな」 ユーシスレイアが弓を受け取ると、クォーレスは少し安堵したように笑った。なんとなく肩の荷が下りたようで、どこか晴れやかだった。 「おまえが皇宮に戻る前にさ、言っておきたかったんだ。これで ―― 俺も帝都でおまえを仇ではなく五騎士の仲間……"碧焔"として迎えられるからな」 どこか照れくさそうにぶっきらぼうに言い捨てると、ひらりと身を翻し、白炎は己の馬を留めてある場所へと駆けて行く。これから急いで皇宮に戻り、炎彩五騎士として碧焔の出迎えをしなければならなかった。 「またあとでな、碧焔」 そう言って白炎の騎士が立ち去ると、一度は静まり返って様子を見守っていた人々からは再び大きな歓声があがる。心配された五騎士同士の確執が回避されたことも、碧焔の騎士の凱旋も、人々にとってはどちらも喜ばしいことだった。 「……白炎の弓……か……」 「碧焔さま、どうかされましたか?」 手にした弓をじっと見つめている主に、ラスティムは不思議そうに声をかける。その弓とユーシスレイアの母の因果関係を知らないラスティムには、その表情の理由が分からなかった。 「……いや。なんでもない。再び隊列を整え、皇宮へ向かおう」 ユーシスレイアは軽く笑んで応えると、ひとつ大きく深い呼吸をしてから、白炎に譲り受けた弓を背負う。そうして再び白金の瞳で前を見据えるように、帝都への凱旋を再開した。 |
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