「 ―― くそっ!」 目の前に立ちはだかる太木の幹に思い切り蹴りを入れると、白炎は唇を噛み締めるように呟いた。 最悪の現実だと思った。親友だったゼア=カリムの称号『碧炎』を継いだのが、どうして彼を殺した張本人のユーシスレイアでなければならないのか。どうして……仇敵であるはずのあの男の幕僚として、ラスティムが唯々諾々と就いてしまったのか。どうして皇帝陛下は ―― 。 様々な疑問と不満が心の中を渦巻いてくる。現在自分をとりまいている環境を考えただけでも、クォーレスはひどい吐き気がした。 「ゼアの……ばかやろ……なんで死んじゃったんだよ……」 前碧炎の騎士。ゼア=カリムはユーシスレイアに実力で敗れたのだと、先ほど放たれたルーヴェスタの言葉が重く心に圧し掛かる。その言葉は、深くクォーレスの心を抉った。 確かに、当時カスティナの将であったユーシスレイアは卑怯な手段を使ってゼアを殺したわけでもなく、尋常なる戦いの中で碧炎の軍『蒼海』を破ったのだ。恨む筋ではない。 そんなことは、緋炎などにわざわざ言われなくても分かってはいるのだ。 けれども。頭で分かっていようと心が受け付けない。 ゼアは誰よりも強く、眩い輝きを放っていた男だったのに ―― 。 「くそ……っ」 もう一度そう呟くと、今度は強く拳を幹に叩きつける。その衝撃に大きく枝葉が揺れて、はらはらと何枚もの木葉が舞うように地に落ちた。 「白炎、その木にあたっては可哀相ですよ」 あとを追い掛けて来ていたラディカは、周りに当たり散らすように自分を傷つける白炎に静かに声をかけた。木に叩きつけられた白炎の手の方が、赤くなっていた。 「……んだよ、紫炎。俺のことは放っておけよ!」 ぐっと凄むようにクォーレスは紫炎の騎士の顔を睨みつける。 緋炎か橙炎にでも言われて自分を説き伏せに来たのだろうが、そんなことは望んでいないし、はっきり言って今は誰とも顔を合わせたくなければ、言葉も交わしたくなかった。 しかし白炎の鋭い眼光に動じた様子もなく、ラディカはその隣へ歩みを進めると、どこか昔日を思い出すようにアメジストの瞳を細めて小さく笑った。 「僕はね、白炎。個人的に緋炎をとても尊敬しています。だから彼の言いたいことは分かる。でも……それと同時に僕は 「 ―― !?」 思いもかけない紫炎ラディカの告白に、思わずクォーレスは眉をひそめて同僚を見やる。この紫炎が、そんなふうに心情を吐露することは珍しかった。 「まあ……碧炎は敬愛よりも友愛を抱かせ、威風よりも寛容という言葉が良く似合う人でしたからね。彼を嫌う人間はあまり居なかったでしょうが」 くすりと笑んで、紫炎は驚く白炎の顔を見つめ返す。 五騎士の主座を務める緋炎と、前碧炎の騎士の年齢は同じだったが、持っている雰囲気は互いに大きく異なるものだった。 どこか侵しがたい威厳と求心力を持ち、兵たちの熱狂的な支持を受けるルーヴェスタと、明るく朗らかで親しみを持たれるゼア=カリム。 多くの騎士たちにとって、緋炎は常に高みに在る"追うべき光"……いわば天上の星であり、碧炎は追わずともその身に降りそそぐ"陽の光"のように、身近な存在だった。 その暖かな"陽光"に最も近く照らされていたのは白炎だったろう。 人は、目指すべく"光"を失うことよりも、己を照らす"光"を失った時の方が落ちる暗闇は遥かに深いのだと紫炎は思う。その太陽を失った白炎の失意は他の誰にも計り知れない。 だから、それを失う原因となったユーシスレイアを『仇敵』と憎む白炎の心情も分からなくはなかった。 けれども ―― それはどこか捩れた感情の発露でもあるのだということを、紫炎は知っていた。 白炎の翻意を促すことは、自分に彼を追わせた橙炎の思惑どおりなるようで不本意ではあったけれど、このままでは炎彩五騎士とその配下による行動が円滑に立ち行かなくなる可能性もある。 それは、帝国に不穏な気配が流れ始めたこの時期には最も避けたいことだった。 「……おまえがゼアのことを好きだったってのは分かった。けど、それがなんだって言うんだよ?」 クォーレスは訝しげに問い掛けた。彼がいったい何を言いたいのかを探るように、注意深くその銀灰の瞳を細めて紫炎の顔を見やる。 ユーシスレイアが『碧焔』だったことをなぐさめられたり、説き伏せられたのであれば、大いに反論してやろうと思っていたのに。ただ自分の心情のみを語られたのでは返しようがないのだ。 「特に意味はありません」 一見すると冷めた印象を与える紫色の瞳が、ゆるやかに笑む。 「ただ、おそらく僕のように感じる人間は多いでしょうね」 「……ふん。なんだ。やっぱり俺を説得しようというだけか」 紫炎の意図を察して、白炎は頬を歪めるように鼻で笑った。 先程の心情の吐露も結局はそこに繋げるためだったのかと思うと、真面目に聞いていた自分が馬鹿馬鹿しくなってくる。 「俺が碧焔に対して嫌悪の姿勢を見せれば、そいつらも浮き足立って素直には 静かに自分を見つめてくるラディカから視線を逸らして吐き捨てるようにそう言うと、白炎はぷいっと遠くに視線を投げた。 最もゼア=カリムに近かった自分が碧焔を……ユーシスレイアを認めれば、他の者たちも異を唱えることなくそれに従うだろう。だからこそ、さっき緋炎は『兵の動揺を抑える方法の検討をしたい』などと、自分に向かって言ったのだ。それはよく分かっていた。 けれども ―― そうするつもりなど、白炎にはさらさらない。 どうして憎むべき相手の手助けを自分がしなければならないのか。そんなことは有り得ないと思うのだ。 「白炎は、本当にユーシスレイア=カーデュが憎いんですか?」 「……何?」 唐突な問い掛けに、クォーレスは鋭く視線を戻す。紫炎は真摯な眼差しで白炎を見やっていた。 「当たり前だろうっ!? あいつはゼアを殺した奴だ。憎まないわけがない。目の前にあいつが現れたなら、今すぐにでも殺してやりたいくらいだ!」 呻くように、クォーレスは言う。何を今さら、馬鹿なことを訊いてくるのかと思った。 「ええ。それは、そうなのでしょうね。でも、その感情はどこかで捩れているということにも、白炎……あなたなら気付いているはずですが」 「 ―― !?」 さっと、白炎の顔が引き攣るように蒼褪めた。固く唇を噛み締め、紫炎の顔を睨み据える。 その痛々しいまでの同僚の表情に、紫炎は思わず溜息をつきたくなった。どうして自分にはこういう損な役どころがまわってくるのかと、天に文句を言いたいくらいだ。 しかし行き掛かり上仕方のないことではあったし、必要なことでもあると諦めた。 優しい言葉や甘い言葉ならば、いくらでも掛けることはできる。白炎がただの……街のどこにでも居るような二十一歳の青年だったならば、自分はそうしただろうと紫炎は思う。 けれどもクォーレス=ジゼルは炎彩五騎士がひとり白炎の騎士であり、帝国の中枢を担う者だ。先ほど緋炎が言っていた通り、自分たち五騎士には私情よりも公務を優先させる義務と責任がある。 ましてや上辺だけの甘いなぐさめの言葉を、白炎が欲しているとも思えなかった。 だから紫炎は、ゆっくりと言葉をつないだ。 「ゼア=カリムは、"戦"の中で生命を落としたんです」 詭弁のように思えるけれど、それは ―― 紛れもない真実でもある。 己を照らす太陽を失った失意と悲しみ。心を捕らえるその深い闇を紛らわす為に、悲哀の念を無意識のうちに転化させて、敵将だったユーシスレイアを『憎んで』いるに過ぎないのだ。そのことは、聡明な白炎自身が一番良く分かっているはずだった。 もちろん相手が敵のままであったなら、その"捩れ"を巧く作用させて戦意を高めることも出来る。しかし味方となってしまった以上は、その"捩れ"をほぐしてゆくしか道はないのだから。 「な……」 何か言い返そうとして、それでも言葉が続かずに白炎は開きかけた口を閉じた。 銀灰の瞳が揺れるように宙を迷い、そうして静かに吐き出される吐息とともにゆっくりと閉じられる。 「……分かったふうなことを……言うじゃないか」 高ぶる感情をようやくおさめて、クォーレスはじろりと紫炎の騎士を睨み据えた。どこか意地悪な眼光が立ち上がっていた。 「じゃあさ、紫炎。戦のさなかに……シェリルが死んだら、おまえはそう思えるのか? それで自分を納得させて諦められるのか?」 地の底から響くように低く、白炎はそう言った。シェリルというのは、紫炎がこの世で最も大切にしている人間。紫炎にとって幼馴染みであり、婚約者でもある女性の名前だった。 「白炎。話をすりかえようとしても無駄です。シェリルは軍に身を置く指揮官でも兵士でもない。ただの街の娘です」 アメシストの瞳に静かな意志を宿し、紫炎は返す。 「それとも白炎は、ゼア=カリムが"小娘"のようにユーシスレイアに抗うすべもなくただ殺されたのだと、そう思っているのですか?」 「……っ!?」 ぎりっと唇を噛み締め、白炎は憎たらしいほどに落ち着いた様子の紫炎を見上げた。自分に向けられていた紫色の眼差しは射るように厳しく、けれどもどこか優しかった。 「僕は、弱い敵は嫌いです。戦うのであれば強い相手がいい。そのぶん己の生命を賭すことになりますが、騎士としての本能が強い敵を望んでしまうんです。だからシェリルにもそう言ってあります。……橙炎はあまりに極端ですが、五騎士は皆そうじゃないですか? 白炎、あなたも」 「…………」 「それならば、"ユーシスレイア"を憎むことは、逆にゼア=カリムに失礼なのではないかと……僕は思います」 「くそ……っ」 込み上げてくる感情を呑み込むように、白炎は鋭く吐き捨てる。その瞳は充血したように赤く腫れ、溢れそうになる涙を堪えるように大きく揺れていた。 「白炎……」 「うるさいっ。もういいっ! 少し……頭を冷やしてくる。今度はもう、追いかけてくるな」 ひとつ頭を強く振ると、白炎は己の表情を隠すように紫炎に背を向け、庭園の更に奥へと歩き出す。放たれた言葉は変わらず荒かったが、先ほど彩宮を飛び出した時のように激情的な叫びでなかった。 決してまだ納得した様子ではなかったけれど、考える余地は出来たように思う。だから紫炎は、ほっとわずかに息をついた。 「ええ。僕はもう少しここで休んだら彩宮に戻ります。……今日は書類の決裁も多いので、遅くまで彩宮に居ることになるでしょう。気が向いたら手伝いに来てください」 「……おせっかい。胃に穴が開くぞ」 振り向きもせず、ただぶっきらぼうにそう言い捨てると、白炎は今度こそ去って行った。 「まったく。誰も彼も……そんなに僕は胃が弱そうに見えるんでしょうかね」 思わず紫炎は苦笑した。 確かに自分は橙炎ほど神経は太くないが、あの奇人とは比べられたくはない。自分は人並み以上の胆力はあると紫炎は自負しているし、繊細でもない。そう簡単に胃をやられるわけもないだろうと思うのだ。 「紫炎様はお優しいから、みなさん心配なさっているんですよ」 くすくすと背後から柔らかな女性の笑い声が聞こえて、ラディカはゆっくりと振り返る。 「ああ、マリルさん……」 ティーセットがひとつ置かれたトレーを手にした女性の姿を目にして、紫炎は僅かに苦笑した。そういえば、橙炎が自分を追いだす際に「マリルがお茶を淹れてくれる」と言っていたことを思い出す。 「カミツレのお茶……橙炎に命じられたんですね。そんな理不尽な命令は断っても良いんですよ?」 このマリルという穏やかな老婦人は、もともとは皇帝の乳母であり、今は奥向きの用を預かっている女性である。彼女にそんな私用を命じるとは、橙炎の勝手にも困ったものだと紫炎は思う。 「ふふ。先ほどミレザ様が蒼昊の宮に立ち寄られましてね、カミツレのお茶を淹れて欲しいとおっしゃいましたの。おそらく貴方が どこか楽しそうに目を細め、マリルはわずかに首を傾ける。 「ここ何年もお見えにならなかったミレザ様が、久しぶりに"お願い"をしてくださったのですもの。わたくし喜んでこのお茶を淹れましたのよ」 老婦人はとてもほがらかに破顔した。 「そうですか……」 橙炎の騎士を称号ではなく『ミレザ様』と呼んだことで、彼女が橙炎に名を呼ぶことを許された者なのだと知ることが出来る。それだけ親しい相手ということだ。 紫炎は意外そうにマリルを見やり、ややして自分自身が納得したように「ああ」と小さく頷いた。 普段から『五騎士』としてのミレザにしか接していないので忘れていたが、橙炎の騎士ミレザ=ロード=マセルは皇位継承権を有する、皇帝エルレアの従兄なのだということを思い出した。 マリルの言葉や表情を見る限りでは、橙炎自身も幼い頃はエルレアと一緒にこの女性の世話になっていたのだろうと推測できる。 「では……ありがたく頂きます」 やんわりとマリルが差し出してくるトレーの上からカップを取り上げると、紫炎は軽く頭を下げた。 白いポットからゆったりとカップに注がれるカミツレのお茶の香りは確かにとても心地よく、ゆうるりと気持ちが落ち着いてくるような気がした。 ややして紫炎がそれを飲み終わると、マリルは穏やかな笑顔を残し、ゆったりと蒼昊の宮へと戻っていた。 「僕の分だけ……なんだな」 ラディカは老婦人の背を見送りながら、ぽつりと呟いた。彼女が用意していたカップは一人分だけだったし、白炎のことを気にしている様子もなかった。 「……はぁ。本当に不本意ではあるけれど、僕も白炎も 紫炎一人がこの庭園に残るだろうと予測していたかのように、ミレザはその分だけのお茶をマリルに依頼したのだ。相変わらず敏い。思わずそう苦笑して、紫炎は天を仰いだ。 「 ―― 碧焔が 遠くカスティナに赴いている男の顔を思い浮かべて、紫炎は溜息をつく。彼が戻って来る頃には、白炎の気持ちも落ち着いていると良い。そう思わずにはいられなかった。 |
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