落としたリュバサの街の主な事後処理を終え、ユーシスレイアは今後の管理を当初の予定通り帝国軍の副将ジングに一任し、カエナの港に戻って来ていた。 碧焔の騎士とその私軍・氷鏡についてはリュバサ攻略後は国許への帰還が命じられており、今はこのカエナの港町でしばしの休息を取っている状況だった。船の出港準備が整い次第、帝都に向けて帰還することになっている為、カエナの街は慌しくも賑やかな喧騒に包まれていた。 彼が率いてきた帝国の本隊は同じくジングに指揮権を委譲し、リュバサが落ち着き次第カスティナに居る他の帝国軍との共闘もしくは交代を経て遠征を続ける予定となっている。 リュバサの街は"外部"の者であるラーカディアストの人間にとっては守り難い街だ。何せカスティナ首脳部はその多くの抜け道や秘密を知っており、それを内外の両方から巧く使われればこちらは脆い。 国王フィスカやその重臣たちが脱したあともリュバサには多くのカスティナの民がそのまま残っており、実際にこの街を支配するのはなかなかに難しい事だろうと思われた。 しかしリュバサの街を落ち着かせることが出来たならば、このカエナの港へ運ばれる荷とリュバサの"奇跡"に恵まれた豊かな物資を併せて補給線を整え、旧王都シェスタを軍事の拠点としてスムーズにカスティナ遠征を継続させることが出来る。 その為ユーシスレイアは己の知るリュバサの情報を開示し、想定し得る今後の問題や方針政策などについて細やかにジングと話し合い、現状で出来る限りの処理を行ってから湖底都市を後にしていた。 そんな多忙を極めるユーシスレイアがゆっくりと寛いでいる姿を、リュバサの攻略を開始して以来ラスティムは一度も見ていなかった。 「碧焔様……少しはゆっくりと休憩なさってください。貴方が休まなければ、我々も大手を振って堂々とは休めませんよ」 ラスティムは溜息をつくように申し出た。 カエナに戻ってからは帰還の際に通る航路や補給などの細かな打ち合わせをこなし、さらには負傷した将兵の様子見や捕虜への処遇指示などを行い、なかなか休もうとはしない。 ラスティムを含む氷鏡に属する者たちは十分に休息を取っているというのに、その主たる碧焔が不眠不休の働きではあべこべというものである。 それでなくても故国の街を攻め落とした碧焔の心労は大きいはずであり、妹シリアの件もある。もちろん碧焔の騎士がそんなことで参るような男ではないということはラスティムも知っているし、そうでなくては困るとも思う。だが、人には休息も大事なのだ。 「ああ……そうか。すまない」 これから街の様子を見に行こうとしていたユーシスレイアは、ゆったりと足を止めて振り返った。静かにこちらへと近付いてくる主席幕僚の姿を認めて、白金の瞳が僅かな苦笑を刻む。 為すべきこともまだ多く、何となく動いていたい心境でもあったのだが、確かに自分が休んでいなければ他の者たちは気が気でないだろう。 「そうだな。おれも少し、休むとしよう」 「ええ。是非そうしてください。……実は先ほど良い物を手に入れたので、碧焔さまにお持ちしたんですよ」 褐色の肌にからりと明るい笑顔を浮かべて、ラスティムは玻璃で出来たグラスをひとつ、碧焔の騎士へと差し出してみる。 「ん? これは…… 腹心の青年が差し出して来た透明のグラスを受け取りながら、ユーシスレイアは小さく笑った。 グラスの中には美しい琥珀色の液体がゆらめくように注がれて、甘く豊かな香りが漂っている。このカエナの港町を統括していた総領事の蔵からでも拝借して来たのだろう。ラーカディアストにはない、林檎を用いたカスティナ特有の蒸留酒だった。 アルコール度の高い蒸留酒ではあるが、熟れた林檎の豊かな芳香とまろやかな口当たりがカスティナの人間には好まれ、愛飲されている。 ユーシスレイアも例外ではなく、このカルヴァドスは好きだった。嗜む程度でそんなに多くの量は飲まないが、以前は父アルシェと共にゆったりと杯を傾け、多くの話をしていたものだった。 そんな時は決まって母セリカが簡単につまめるような料理を作ってくれて……。そして時にはシリアやアリューシャがミルクやお茶を持って楽しそうに加わって来ることもあった。 「…………」 ふと思い出した家族の記憶は温かく、そして茨の棘のように青年の心をたゆたい消える。 玻璃のグラスに満たされた琥珀の液体を眺めながら、ユーシスレイアはゆうるりと笑みを浮かべ、そうして深い息をひとつ、ゆっくりと吐きだした。 「どうか、されましたか?」 「いや。なんでもない。……ラス、一緒にどうだ?」 軽く杯を掲げて、ユーシスレイアは笑う。 穏やかな笑みと静かな痛みが共存したようなその表情は、自分が見知った"碧焔の騎士"とはどこか少し雰囲気が異なっているように感じられて、ラスティムは一瞬目を見張った。 けれどもすぐに笑みを浮かべると、ラスティムは大きく頷いて懐からもうひとつ空のグラスと小さな瓶を取り出して、ぱちりと片目を閉じて見せた。 「もちろん、そのつもりでした」 酒などというものは、独りで飲むよりも相手が居た方が良いに違いない。以前はラスティムも遠征先では前碧炎のゼア=カリムと共に飲んだことを思い出す。 そうしていま目の前にいる男の顔を見やり、くすりと笑った。旧主を殺した相手にここまで心酔している自分も可笑しいと思うが、人と人との巡り合わせというものは不思議なものなのだと思う。 「ありがたく頂きますよ」 碧焔の私室に割り振られている部屋へと向かい、二人はゆったりと卓を挟んで座った。 何を話すということもなく、ただゆるゆると静かな時間を過ごし杯を重ねる。まだ細かった月は既に西の彼方へと沈み、窓の外には一面に広がる星空だけが浮かび上がって見えた。 普段よりも幾分穏やかな表情で窓の外を見上げグラスを傾ける碧焔の騎士を、ラスティムはぼんやりと眺めていた。 いつもは真実を見据えるような強い眼光を放つ白金の瞳が、どこか柔らかなきらめきを宿して見える。それは碧焔の騎士でも軍神ユーシスレイアでもない。ただカーデュ家の息子であり兄である一人の青年。『ユール』という人間の顔なのではないだろうか? 星空を見やる碧焔のその横顔を眺めながら、ラスティムはそう思った。 旧主ゼア=カリムは太陽のような人だった。けれども ―― ユーシスレイア=カーデュという新たな主。この碧焔の騎士は、まるで月の光のようだ。否、もともとは太陽だったのかもしれない。けれど祖国を裏切り敵国だったラーカディアストに付いたことで、彼は眩く周囲を照らすものではなく、夜空に静かに浮かび毅然と闇を照らす、月の光へと変わったのかもしれない。 『月』を至上のものであると考え尊び、『月と稲妻』の紋章を戴くラーカディアスト帝国においては、この青年が炎彩五騎士になるのが必然だったかのような錯覚さえおぼえて、ラスティムは複雑な気分になると同時に嬉しくもなった。 「どうした?」 ふと笑みをもらした腹心の青年に、ユーシスレイアは銀色に流れる髪を揺らすように振り返る。ラスティムはゆるりと頭を振ってから、にこりと笑った。 「いえ……。ただ、碧焔様はどうして私を氷鏡の主席幕僚として迎えてくださったのかと考えておりました」 旧主ゼア=カリムを失ってからこの二年間。自暴自棄になって前線から退いていた。ユーシスレイアがラーカディアストに来た頃には、既に武人としての名声も何もかも消え失せていたというのに。何を思って自分を迎えに来たのか、それがいまだに謎だった。 くすりと、今度はユーシスレイアが笑った。 「ナファスの海上戦で、おれは敵としておまえの働きを見ていた。碧炎の騎士の強さは、おまえが在ってこそ存分に発揮されていたように見えたよ」 形のよい唇をあざやかに微笑ませて、ユーシスレイアは軽くグラスを傾けるように濃厚なカルヴァドスを口にする。ふわりと、林檎の甘い香りが口内に広がった。 「碧焔として人事を進める為に兵舎や官舎を見てまわっていたときに、『蒼海』唯一の生き残りとしておまえが居ることを知ってな。純粋にその力が欲しいと思った」 「……仇敵と、罵倒されるとは思わなかったのですか?」 純粋に自分の力が欲しいと言ってくれたことは、素直に嬉しかった。しかし、あまりに大胆だったのではないかと思う。何せこのユーシスレイアはラスティムを幕僚に迎えるにあたって、自分の正体やら何やらすべてを包み隠さずに打ち明けてきたのだから。 下手をすれば、その場で『旧主の仇だ』と襲われてもおかしくはない。もちろんそうなればなったで、技量の差は歴然でラスティム自身が敗れていただろうけれど……。 ふっと、ユーシスレイアはどこか楽しそうな笑顔になった。白金の瞳が強いきらめきを宿し、じっとラスティムを見やる。 「自惚れを承知で言うなら、旧主碧炎を失ったおまえが再び誰かに仕えるならば、おれでしか有り得ないと思っていたのでな」 「 ―― は?」 「おまえも、敵としての『ユーシスレイア』に対峙した。だから……おれという将をよく知っているはずだ」 にやりと笑んだその表情は、ひどくあざやかで。心地よい。ラスティムは完敗だというように苦笑した。旧主の仇だと憎むよりも先に、その圧倒的な強い眼差しと存在感に敬意すら払ってしまう。そんな相手でなければ、自分が再び起つことはなかったに違いなかった。 「その通りですよ、碧焔さま。ああもう……参りましたね」 おどけたように肩をすくめて、ラスティムは笑いながら一気にグラスをあおる。そうして何か心を決めたように真顔になると、不意に片膝をつくように床におりた。 今までは、旧主の仇であるユーシスレイアに対して己が既に心酔してしまっているのだということを、見せたくない気持ちが心のどこかにまだ残っていた。けれども、この人はそんな自分の愚かな虚勢さえ、跡形もなく消し去ってくれるのだ。 「 ―― ラス?」 「碧焔様。貴方がユーシスレイア=カーデュであることを、私や……氷鏡の者たちは誇りに思っています。ただ帝国軍には貴方に敗れた人間も多く、少し風当たりが強まるやもしれません。それも白炎さまの動向次第かとは思いますが……。しかし例えどのような状況になろうとも、我ら氷鏡は必ず貴方の許に居りますことを、お忘れなきよう」 「ああ……分かっている。ありがとう、ラスティム」 褐色の引き締まった頬に真摯な表情を浮かべる部下に、ユーシスレイアはゆっくりと頷いた。今回のリュバサ攻略の報を以って、碧焔の騎士がユーシスレイア=カーデュであることも公表されることになる。帝国に戻る前に、それに応ずる対策は十全に整えておかなければならなかった。 「白炎、か……」 五騎士最年少である彼と前碧炎の騎士がどのような繋がりを持っていたのかは、ルーヴェスタに聞いて知っていた。それらを考えると、すぐにわだかまりをなくすのは難しいだろうとも思う。 しかし、同じ炎彩五騎士の一員として帝国に。そして皇帝に尽くすためには、そのようなことを言っている場合ではないことも分かっていた。 「国に戻ったら、いちど彼と話をする必要があるだろうな」 脳裏には飛来する純白の矢と、叫ぶ母。そして飛び散る鮮血がまざまざと思い浮かぶ。けれどもそれを強いて打ち消して、ユーシスレイアは再び席に着いたラスティムに静かな笑みを向けた。 「緋炎、すまなかったな」 濃い闇色の外套を翻すように、皇帝エルレアは彩宮の五騎士が集う広間へと足を踏み入れていた。 本来ならばみずからの口で、白炎にユーシスレイアのことを告げるつもりだった。それがユーシスレイアを登用した自分の彼に対するけじめだと思っていたのだが、どうやら自分がここに到着する前に、告げなければならない状況に陥ってしまったようだった。 緋炎は僅かに苦笑すると、静かに首を横に振ってみせた。 「これは我ら五騎士の間で解決すべきこと。陛下がお気になさることではございませぬ」 「そうか。では、そうしてもらおう。だが私からも後ほど少し話はさせてもらう」 迷いのない歯切れの良い口調が広間に響く。 「我が炎彩五騎士に軋轢など生まれては困るからな」 意志の強いグレイの瞳を凛と煌かせて、エルレアは五騎士のうち今この部屋に居る二人を見やった。己の分身として存在する炎彩五騎士が不和により崩れれば、今後の帝国の行動にも支障が出る。 「大丈夫ですよ、陛下。五騎士は、あなたが認めた騎士なのだからね」 くすりと笑う柔らかな声音に、皇帝は声の主へと視線を合わせた。 「ふふ。そうだな。ところで橙炎、イルマナに戻っていたそうだが、ラクルは壮健か?」 「おかげさまで、すこぶる元気なようで領地をとびまわっておりましたよ。そして……父から陛下にと、ことづても預かっております」 にこりと。僅かに下がる目尻に笑みを浮かべて、ミレザは凛と佇む皇帝の姿を身やる。その橙炎の騎士の、一見すると穏やかで優しい翡翠の眼差しに何か含みがあることをエルレアが気付かないはずもなく、グレイの瞳が強い光を宿して切れ上がるように笑んだ。 「ほお? 珍しいな。私に伝言か?」 「ええ。ラクル=トゥ=マセルより、どうしてもお伝えしたいことがあると」 先の言葉を促すように興味深げに向けられたグレイの瞳にもう一度ゆるりと微笑ってみせると、ミレザは皇帝の背後に佇むカレンに視線を移し、穏やかな緑の瞳をすっと刃のように細めた。 「……もし、知っていて言わないのであれば、私はおまえを潜在的な敵とみなすよ、カレン?」 音楽でも奏でるかのように流れる穏やかな声が、鋭い刃となってカレンの耳朶を打つ。細められた翡翠の瞳にはちろちろと危険な光が宿ってみえた。 「ご随意に」 橙炎の騎士の氷刃の眼差しで見据えられたというのに慌ても驚きもせず、カレンは艶然と微笑んだ。その返答は、肯定にも否定にもどちらにも取れる。 けれども、その態度は橙炎の意に適っていたのだろう。細められていた瞳からは剣呑な眼差しが隠れ、にこりと穏やかな笑みが戻っていた。 「ふうん、まあいいか」 くすくすと笑いながら、ミレザはカレンがその身に着ける『 そして ―― 彼が名乗るカレン=ダルティニスという名前。もともと魔族に姓はないと言われているにも関わらず彼が持つこのダルティニスという姓は、皇帝みずからが与えたものだ。それは帝国の建国神話に出てくる騎士の名前であり、現在は帝国の守護者となっていると云われる者の名。 子供の頃にはダルティニスの名を自分が冠することを思い願っていた時期もあったミレザには、それだけエルレアから信頼されているカレンを本気で疑うつもりなどなかった。 ただ、それが自分の甘さではないと確認したかっただけだ。 「おまえが陛下を裏切らないことは、知っているからね」 くすりともう一度微笑んで、ミレザはゆうるりと皇帝エルレアへと視線を戻した。 「それで、ラクルからの 庇うでもなく、たしなめるわけでもない。先程の剣呑なる空気にはひとことも口を挟まなかったエルレアの態度は、双方の エルレアは自分が為すべきことだと判断したこと以外には一切口を挟まない。そういう性格だった。 「はい。少々長くなりますが、陛下が封印をとかれました魔界に関する話ですよ」 心地好い覇気を醸す皇帝の声に橙炎の騎士はやんわりとした口調でそう返す。近ごろの魔族はその行動に統制が欠けて来た。否、新たなる統制が出来かけていると言ってもいい。それは以前から緋炎と共に気付いて探ってはいたのだが、裏付けるような事実がラクルから入ったのだ。 「我がマセル公爵家が拝領しているイルマナに存在する"境界"のひとつ。深き川のリジェルを、何者かが使用した形跡がありました」 長い睫毛に陰るように半ば伏せられていた橙炎の翡翠の瞳が、皇帝の顔を射抜くようにすっと微笑む形で見開かれる。 それに応えるように、エルレアのグレイの瞳が炎をまとって煌いた。 「多数の魔族が通ったと思われ、リジェルの凍結樹が半分ほど溶けかかるという事態になっており、父も陛下にお伝えしなければと思ったようです」 放射される皇帝の覇気の心地好さに身を委ねながら、ミレザは軽く背を預けるように窓辺に寄り掛かる。そうして父ラクルがひと月という時をかけて調査にあたった情報を再構築するように、ゆっくりとその言葉を繋いでいった。 |
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