「お、おいっ。あれ……ユーシスレイア様じゃないか?」 リュバサの街と鍾乳洞とを隔てる大門の櫓に立っていた門兵は、こちらに向かってくる騎馬の集団を見つけてそう叫んだ。 薄暗い洞内の様子はよく分からなかったけれど、ほのかに道を照らす燈明の光に映える銀色の髪と、馬を操る凛々としたその姿を見忘れるはずもない。 それに……道を知らぬものが入ったら二度と出ることはかなわないと言われるこの鍾乳洞だ。それを超えてリュバサの街に辿り着いたということは、やはりあれはユーシスレイアであろうと思うのだ。 「良い時に帰って来てくださった……」 数百の騎馬を率いてこちらに向かってくるその姿に、門兵は安堵したように呟く。帝国軍と交戦している今、行方不明といわれていた『軍神の帰還』は彼らにとっては光明だと思われた。 ジェラードから王へ『ユーシスレイア造反』を知らせる伝令は出されていたけれども、まだ末端まではそのことが伝わっていなかったのだろう。 大いなる勘違いをしたまま門兵たちから「わあ」という歓声が上がり、何の迷いもなく門が開かれる。 「よほど貴方は頼りにされていたのですね」 歓声とともにゆっくりと開かれていく街の門を目にして、ラスティムは苦笑するようにユーシスレイアを見た。 向こうの勝手な勘違いとはいえ、戦わずに街に入ることが出来るのだ。こんなに楽なコトはないと思う。その分この銀髪の青年の良心は疼くだろうし心理的な負担は増大するのだろうとは思ったが、そんなことに滅入るような男ならば炎彩五騎士となれるわけもないと思い直す。 「カスティナ国民の貴方への信頼と依存心が、カスティナの息の根を止める。そんなところですね。信じている彼らがいささか哀れな気もしますが」 わざとラスティムはそう言ってみた。外での戦闘ではユーシスレイアの側近くには居なかったので見ることが叶わなかった。だから、かつての味方を前にしてこの碧焔の騎士がどのような反応を示すのか興味があった。 「……無駄口を叩くな」 ユーシスレイアは僅かに目を細めて主席幕僚の青年をたしなめるように睨む。しかしすぐに苦い笑みを浮かべ、溜息をついた。 「予想はしていたが……これでは戦というよりも詐術だな。まるで弱いものを弄っているような気分だ」 「まあ、楽に勝てるならそれに越したことはありませんよ。そのぶん犠牲者も少なくなるでしょうし」 どちらの、とは言わずにラスティムはにこりと笑った。ユーシスレイアの表情はどこか不愉快そうではあるがその瞳に迷いはない。もちろん信じてはいたが、実際にその様子を見て安堵する心は別物だった。 「バンズの隊は門の守備隊を制圧し、ここで待機。あとから来る帝国軍の受け入れ準備をしろ。他の者はおれと共にこのまま王宮に向かう」 門に差し掛かる少し手前でユーシスレイアは部下たちに指示を出す。自分を出迎えようと門の外に出てきたのであろうカスティナ門兵たちの歓喜の様相を一瞥すると、そのまま馬の速度を上げた。 迎えに出た者たちの横を無言のまま通り過ぎ、まだ開ききってはいない門に向かって颯爽と駆けていくユーシスレイアを見つめるカスティナ兵の、ぽかんと驚いたような表情はどこか滑稽だった。 「ラス、このまま突破するぞ。あちらも間違いに気付いたようだ」 門のそばに置かれていた兵舎から慌てたようにとびだしてくる守備隊長と守備兵の姿が見えて、ユーシスレイアはにやりと笑う。バンズ隊以外の部下たちに速度を上げるように促して、自分も馬の腹を蹴った。 こんなところで、足止めを食っている暇はなかった。 「あ、開けるなっ! しめろっ! 通すな!! ユーシスレイアは敵だっ!」 王からの伝令を受けたばかりの守備隊長は、開きはじめている門に向かって必死に怒鳴る。けれども時は既に遅く、碧焔の騎士率いる氷鏡の大半が街の中になだれ込んでいた。 「ここは任せたぞ、バンズ」 「はっ。お任せください、碧焔さま!」 丸太のように太い腕を礼をとる形に掲げ、バンズは麾下の兵をともなって門の守備兵たちに向かって駆けていく。 それを見届ける間もなく、ユーシスレイアは残りの氷鏡を率いて国王フィスカのいるであろう仮王宮へと馬を走らせた。 リュバサの街は、滝のような雨が降っていた。 鍾乳洞から門にかけては降っていなかったものが、"街"の中に入ったとたんに土砂降りの雨だ。ラスティムは天を仰ぎ、そうして碧焔の騎士に目を向けた。 「……ここは湖の底なんですよね? 天井が破れて水没でもするんじゃないですか?」 リュバサの天井と呼ばれるこの街を守る結界に、碧焔の騎士が何か手を加えたのだということは知っていた。まさか彼がこの街を水没させるとは思わないが、あまりのひどい雨に心配にもなる。 おそらくこの豪雨が降っている区域が湖底にあたる場所……リュバサの天井におおわれた場所なのだろうと思った。 「大丈夫だ。人々が出てこれないように"ハッタリ"をかましているだけだ」 激しく降りつける雨に全身乾いたところは既になく、重く濡れた銀色の長い髪からはとめどなく雨の雫が流れ落ちている。しかし、応えるユーシスレイアの表情はどこか明るかった。 普段はリュバサにこのような大雨が降ることは決して有り得ない。それなのに当たれば痛いくらいの強い雨が降っているのだ。それもこれも、みなリュバサの結界の異変のせいだと思われた。 街には一人の人影もなく、ひっそりと静まり返っている。夕刻から続くリュバサの天井をめぐる異変を怖れ、みな家の中で嵐が過ぎ去るのを待っているかのようだった。 「そのための、雨なのですね?」 碧焔の騎士が何を意図してこのような状況を作り上げたのか。それを理解してラスティムは笑う。このリュバサという街の内情を知っている人間だからこそ考え得る"ハッタリ"だ。 それは、自分たちの王宮までの行軍をリュバサの住民に邪魔されないように……軍に関係のない民衆を巻き込まないようにするためだったのだろう。 それに対するユーシスレイアの返答はなかったが、ラスティムとて民衆を殺したいとは思わない。だから『甘い』などと、ユーシスレイアを責めるようなことはしなかった。 「 ―― !?」 ふと、ユーシスレイアは走らせていた馬を止めて振り返った。その様子にラスティムは首を傾げた。 「碧焔さま、どうかされましたか?」 「いや……」 ぼんやりと答えながら、ユーシスレイアは視線をめぐらせる。今、なにか声が聞こえたような気がしたのだ。自分を呼ぶ懐かしい声。在るはずのない、妹の ―― 。しかしあたりを見渡してみても誰もいない。そこにあるのは、いまは人影もない多くの店が建ち並ぶ路だけだった。 「……いや。なんでもない」 ユーシスレイアは苦笑するように溜息をついた。 在るはずのないものを聞いたように思うのは、この"カスティナ"の地にあるべくはずのそれを、自分が無意識に望んでしまったからだろうと思った。 不意に、前方からバタバタと多くの人間や馬が走る音が聞こえた。雨に煙る道の向こうから、ずぶぬれになった兵馬たちが飛沫を上げて進んでくるのが見える。 「城の守備兵が来たようだな。蹴散らすぞ」 そう吐き捨てる白金の双眸には既に感傷の色はなく、敵を前にした炎彩五騎士の鋭い眼光が浮かび上がっていた。 「まさか……ユーシスレイアが裏切っていたとはな……」 次々とはいってくる伝令からの報告を聞きながら、苦々しげにフィスカは吐き捨てる。 彼の父親であるアルシェは自分が最も信頼していた将だった。そしてその息子ユーシスレイアにも目をかけ、よくしてやったつもりだったのに。何故このようなことになるのか。さっぱり理解できなかった。 先ほどリファラスが裏切っているかもしれない者の名前として彼の名を挙げた時も、自分は真っ先にそれを否定してみせたというのに……。 フィスカは玉座から立ち上がると、苛立たしげに部屋の中を落ち着かない呈で歩き回る。どうすればこの怒りが収まるのか。自分自身の心をもてあますように、剣の柄を何度も叩いた。 「人の心とは判らぬものです。それよりも陛下……再び落ちることを考えてはいただけませんか?」 リファラスはじっと、歩き回る国王の姿を見つめて言う。 帝国の別働隊の存在を察知できずに、軍を三つに分けてしまったのは己の愚だ。そのため各個に崩されて、圧倒的な数的優位をおのずから失ってしまったことが外で行われた戦闘での敗因であり、それを進言したリファラスは悔やんでも悔やみきれなかった。 今この王城に残っている守備兵はもう僅かである。もともと、この隠された湖底都市が見つかるはずはないという観点から、リュバサに駐留していたのはジェラード・アルタナ・ベスタの三軍だけだった。それが敗れた今となっては、もはやこの街を……王を守るすべはない。 すぐそこまでユーシスレイアが……否、ラーカーディアストの部隊が近付いて来ているとの報告もあるというのに、である。 もちろん城に残っていた守備兵が彼らのゆく手を阻んではいるものの、帝国軍がこの王の間に辿り着くのは時間の問題だろうと思われた。 「まだ帝国に屈していないライラックやエルナース地方には、我が軍の兵たちが多く集まり抗戦を続けています。そちらで再起を……」 「余は、2度も敗走する気はない」 怒りの様相で、フィスカは宰相を振り返った。 王都シェスタを その裏切り者に背を向けて逃げ出すというのは、大きな屈辱だと思った。 「ライラックにはもうじき西大陸連盟軍が援護に駆けつける予定です。リュバサを失うのは想定外ではありますが、今までの国土奪還策は予定通りに進められます」 かたくなに脱出を拒む国王に、リファラスは再び言葉を向ける。 現在カスティナの国土の半分近くは帝国に制圧されてしまっている。しかし奪われた土地の大半は海岸部から王都シェスタまでの地域で、内陸の地域はまだほとんど無傷で残っており、攻め込まれている街もまだ抵抗を続けている。 国土が半分ちかくになってしまった今でも、広大な土地を治めるカスティナ王国の国力はまだ十分にあるはずだった。 「それに……"リュバサの案内人"がこの街にいる限り、時期を見て我らがリュバサを取り戻すことは可能です」 じっと、真剣な眼差しでリファラスは幼なじみの国王を見やる。 「ふむ。それはそうだが……」 フィスカはわずかに気持ちが動いたように宰相を見やり、落ち着くように玉座に戻る。けれどもふと、王は苦い笑みを浮かべた。 「だが、もうそこに来ておるようだがな」 部屋の外が不意に騒がしくなっていた。 怒声と剣激。大勢の軍靴が廊下に響く音が聞こえ、この扉に近付いてくるのが分かる。国王を逃がす前にラーカディアストの軍が来てしまったのだと悟り、リファラスは内心で歯噛みした。 「陛下、早くこちらへ!」 国王を抜け道に続く隠し通路へ促すようにリファラスが叫ぶ。それと、扉が開いて敵味方の兵士たちが入り混じるように王の間になだれ込んできたのは、ほぼ同時だった。 その乱戦のさなかにあって一際目立つ、目の醒めるような銀色の長い髪。見慣れた長剣をいとも軽やかに操るあざやかな戦いぶりに、フィスカは思わず溜息をつく。 ユーシスレイアが剣を振るう姿を見るのが好きだった。それを……よもや敵として見ることになろうとは思いもしなかった。 「ユーシスレイア!」 フィスカは鋭く叱咤するようにその名を呼んだ。 その低く重厚な声に、はっとユーシスレイアは国王フィスカを見やった。 今すぐにでもフィスカに襲いかかろうとする氷鏡の部下たちを軽く右手で制し、雨に濡れた紺碧の外套をひるがえすように一歩前に出る。 カスティナの近衛たちは、裏切り者の将軍から王を守るように急いで人垣をつくり身がまえた。その人垣の向こうで、フィスカは玉座からゆるりと立ち上がった。 「ユーシスレイアよ、そなたの父アルシェが命がけで守ったカスティナの国。その王たる余に、何ゆえ剣を向けるか」 厳しい声音でそう告げながら、フィスカはユーシスレイアの白金の瞳を睨み据えた。 「…………」 その眼差しを受けて、ユーシスレイアは構えていた剣をおろすように背後に回す。そうして無言のまま床に片膝をつき、王を見やった。 まるで礼をとるようなその姿勢に、にわかに周囲がざわめいた。氷鏡の者たちは息を呑み、慌てたように主席幕僚であるラスティムに目を向ける。ラスティムは、無表情のまま碧焔の騎士を見つめていた。 カスティナの国王に受けた恩。そして一度は忠誠を誓った心。すべてに区切りをつけるためにそれは必要なのだろうと、ラスティムは思った。 新しく主と決めた男を疑うつもりなど毛頭ない。彼から碧焔の騎士の幕僚にと請われたとき、旧主の仇であると知りながらも自分は新たな碧焔に付き従ったのだ。今さらユーシスレイアの……否、碧焔の騎士の心を疑うことは、自分の判断を裏切ることにもなる。 だから、不安そうに碧焔の騎士と自分を交互に見つめてくる他の氷鏡の騎士たちに、ラスティムは大丈夫だというように軽く頷いて見せた。 表面上のことなど気にせずに、自分たちはただ碧焔の騎士の指示を待てばいい。 「今ならば、まだ帰参を許すぞユーシスレイア。今回のこと……そなたの今までの働きと相殺すれば、まだ許すことが出来る。安心して余の元に戻るがいい」 国王はゆっくりと言い含めるように言葉を紡ぐ。 慈愛に満ちた王の声。けれどもどこか歪んだその言葉に、ユーシスレイアは深く瞼を閉じ、そうしてゆっくりと開く。ふと、形の良い唇がつりあがるように笑みを宿した。 「……ユーシスレイア?」 自分を見上げる青年の表情に、思わずフィスカはあとずさる。その白金の瞳は複雑な彩を帯びながらも、母国を裏切ったという悔悟の念はなく、あざやかな戦意がほとばしっていた。 「カスティナ国王、フィスカ=オブ=カスティナどの……」 旧主を前にしても、危惧していたような迷いは沸いてこなかった。既に自分はラーカディアストの人間なのだと、そう思えただけだ。だから、半年前まで忠誠を誓っていた者との繋がりを断ち切るように鋭い微笑を口許に佩き、ユーシスレイアは立ち上がる。 「ラーカディアスト帝国炎彩五騎士がひとり、碧焔。我が皇帝陛下の為、御身を拘束させていただく」 殊更そう名乗り、静かな声音とともに碧い焔を思わせる紺碧の外套がばさりと水飛沫をあげて翻る。それと同時に氷鏡も動き出し、国王を守る人垣が崩れた。 ユーシスレイアは斬りかかって来る守備兵を弾き飛ばすように身を躍らせると、国王フィスカの動きを封じるように剣を向ける。そこで、一気に片がつくかと思われたその刹那 ―― 。 「ユール!! その剣を下ろせ!」 ふいに大きな声が響いた。自分を愛称で呼ぶその声に、ユーシスレイアは聞き覚えがあった。 部屋の中ではない。外だ。そう気がついて、隙をつくらぬように窓外を見やる。 「 ―― っ!?」 そこに在るはずのない光景を見出して、白金の瞳が驚愕に見開かれた。想像もしなかった現実に、言葉を失い息を呑む。 王の間の窓から見える雨の降り頻る城壁の上に ―― シリアが立っていた。よく見知った青年……父の腹心であり、自分にとっては友でもあったヒューイに、その身を捕らわれるようにして。 「お……にいちゃん? お兄ちゃん!!」 視線の先に見間違えようはずのない兄の姿を見つけて、シリアもまた驚きに叫んだ。 自分が人質になっているのだとは思いもせずに、空色の瞳が歓喜に染まる。兄はやっぱり約束を違えたりしなかったのだと。生き延びて、ちゃんとあとから来てくれたのだ。そう思うと嬉しかった。 「シ、リア……」 大切な。何よりも大切な妹。彼女が生きていてくれたのだという安堵と、今おかれている状況への焦燥。わきあがる思わぬ迷いに、ぎりっと、ユーシスレイアは唇を噛んだ。 「ヒューイおまえ……っ!」 「俺も……シリアを傷つけたくはない。だが、おまえが陛下をどうあっても離さぬと言うのならば話は別だ」 淡々と。感情を押し殺したような口調でヒューイはそう告げる。その表情は本気だった。 ヒューイにとっても、いまの自分の行動は不本意だった。彼女は敬愛していた今は亡き上官の愛娘であり、本当はこんなふうに人質にするために"ここ"に連れてきたわけではなかったのだから。 結界の支柱と呼ばれるあの場所で、リュバサの天井を乱す"物"を捜索していたとき、不意に中庭の四阿の柱に彫りこまれた女神像の額から短剣がこぼれ落ちてきたのだ。柱の女神も短剣も……何故か雪でもかぶったように凍れるほどに濡れていた。 常識的に考えれば有り得ないその現象に、この短剣こそが結界を乱した元凶なのだとヒューイは直感した。そして ―― 愕然とした。女神像から現れたその短剣に、見覚えがあったからだ。 それはかつて"友"が戦勝の褒美にと国王から賜ったもので……その柄の細工も刃の形も、見間違えるはずもないほどの逸品。 リュバサを守る結界を襲撃したのは、それを持っているはずのユーシスレイアなのだと気付かざるを得なかった。そう考えれば、帝国軍がリュバサの街についてこうも詳しく知っていた理由にも説明がつく。 だからこそヒューイは急いで回廊から街に戻り、シリアを保護したのだ。ユーシスレイアの裏切りを知った兵たちが憤りにまかせて彼女を害さないように……と。 しかし ―― 国王の身を救うためにはシリアを人質にするしかない。自分が知っているユーシスレイアならば、決して妹を見殺しにはしないと確信しての苦肉の策だった。 「碧焔さま、どうされますか!?」 ラスティムはじりじりとフィスカへの間合いを詰めながら、ユーシスレイアの顔を見やる。 先ほど碧焔の騎士を『兄』と呼んだあの娘が、彼にとってどのような存在なのかは知らない。けれども、今までは揺るぎなかった碧焔の騎士の白金の瞳が苦しげに揺れていた。 ひどく迷っているのだと分かる。もしかすると、あの少女は彼にとって最大の弱点なのかもしれない。そうラスティムに思わせるほどの動揺がその表情からは伺えた。 「……くっ」 青褪めるほどに唇を噛み締めて、ユーシスレイアは頬をゆがめる。 おそらく自分がここで国王を捕らえれば、ヒューイは脅しだけでなくシリアを確実に殺すだろうと思った。しかし王を見逃すことは ―― 今の自分に出来ることではない。 城壁の上などではなく、もっとあの二人が自分にちかい位置に居たならば、シリアを救い出すことも可能だったのにと、己の不甲斐なさが恨めしい。 「ユール!」 ヒューイはもう一度叫んだ。ユーシスレイアが国王を見逃してくれたならば、そのあとシリアは自分が守る。言葉には出さずとも、そう願いを込めて友の名を叫ぶ。 「お兄ちゃん……」 シリアはすぐにでも兄のもとに駆けて行きたかった。しかしヒューイに押さえられてそこから動けない。だから、兄に来て欲しいと思った。だから……いつものように。甘えるように兄に呼びかける。 その背後では、業を煮やしたようにヒューイがすらりと長剣を抜き放つのが見えた。 「…………っ」 一瞬。目の前が真っ白になった。閉じられていた想いの一部がはじけるように、ユーシスレイアの胸郭を満たす。緋炎の騎士と戦った時……彼女が死んだのだと勘違いしたあの時に味わった喪失感と深い絶望。 どうしても ―― 妹を見捨てることなど出来なかった。 嵐の吹き荒れる白金の瞳でじっとヒューイに睨み据え、そうして国王へと向きなおる。ユーシスレイアは深く長い息を吐きだして、静かに剣をおろしていた。 「ラス。退いてくれ」 自分と同じようにフィスカに詰め寄っていた主席幕僚の青年に、苦しげに頼む。 ラスティムは僅かに眉をしかめ、けれどもすぐに碧焔の騎士の指示に従った。それが彼の妹だろうがただの民間人だろうが、少女を人質を取られているということはラスティムにとっても楽しい事ではなかった。 「すまない、ラスティム」 「いえ……。ここに居たのが氷鏡のみでよかったですよ。我らには貴方の言葉が絶対ですからね」 思わず苦笑を浮かべて、ラスティムは肩をすくめるように応えた。 氷鏡は帝国の正規の軍ではなく、碧焔の騎士個人が有する"私軍"だ。帝国の正規軍にとって碧焔の騎士は"指揮官"だが、氷鏡の者にとっては"主人"である。その主が決めたことならば皆それに従うのが当然なのだ。謝られるようなことではない。 「まあ……この偽善者を逃がすのかと思うと腹は立ちますが、橙炎様や白炎様の楽しみを残しておいて差し上げるのだと思えば、なんということはありませんしね」 戦好きな五騎士の名前を挙げながら、ラスティムはカスティナの王を蔑むように見やった。 ラーカディアストの人間がフィスカを指すとき、『偽善者』と呼ぶことが多い。緋炎の騎士も以前そう呼んでいた。西大陸連盟の盟主として先頭に立って帝国と戦っているのにカスティナ王国が平和主義国家だと言って憚らないからなのか。それとも他に理由があるのか。ユーシスレイアはその理由を定かには知らなかった。 「陛下、お早くお退きください!」 不意に、氷鏡の隙を見計らっていたかのように新たなカスティナ兵が部屋の中へと駆け込んでくる。ヒューイが結界の回廊に率いていた者たちが、国王を脱出させるために飛び込んできたようだった。 再び部屋の中で敵味方が入り乱れ、乱戦となる。 戦いのさなかでふと窓の外を見ると、城壁の上には既にシリアもヒューイもいなかった。そして国王や宰相ら重臣たちも、乱戦に乗じていつのまにかその姿を消していた。 そうして ―― 乱戦が氷鏡の優勢によって収束に向かいはじめたちょうどその頃、リュバサ湖岸での掃討を終えた帝国本隊からユーシスレイアの元に伝令が届いた。 氷鏡を率いて鍾乳洞を通る際にユーシスレイアが配置しておいた要所要所の兵のおかげで、副将に率いられた帝国本隊は迷うことなくすべてリュバサの街に入り、バンズの隊と合流して残っていたカスティナ守備兵たちの鎮圧をも終えた、との知らせだった。 ―― 戦闘開始からおよそ五時間。カスティナの軍神と呼ばれていた青年の、思わぬ造反に浮き足立ったカスティナ軍は自滅するかのように崩れ、 |
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