月に沈む闇
第二章 『湖底都市の攻防』
  




第六話

 深い緑におおわれた岩場から絶え間なく湧き出る細く澄んだ水流は、さああっと涼やかな水音を奏でながら下の泉へ小さな滝となって流れ落ちていた。その流れの奥の岩壁には、カスティナの神々の一人である女神像が刻まれている。
 額に水晶が填め込まれ、ゆるやかな光を発する女神像が刻まれた岩肌を撫でるように流れ落ちる湧水は、ところどころに突き出た岩や周囲をおおう木々の葉にはじけては飛沫きをあげ、泉の水に触れるように膝を折っていた青年の銀色の長い髪。そして碧い服に珠のように降りそそいだ。
「もう、いいか……」
 ユーシスレイアはゆっくりと立ち上がり、濡れるのも厭わずに湧水の流れ落ちる泉の中へと足を踏み入れる。深くはない。膝よりもほんの少し上が浸かる程度だ。けれども水は、氷のように冷たかった。
「相変わらず"魔界の水"を思わせる冷たさだな」
 軽く苦笑するように呟くと、皇帝エルレアの背後に常に付き従うカレンの姿を思い出す。
 魔族の住む北の大陸は、一年中を氷に閉ざされ凍りついているのだという。この泉水だけが、まるでそこに繋がっているかのような極寒の冷たさを有し、晩夏の陽射しにも温むことなく青年の歩みにあわせて足元から体温を奪うように大きな波紋をつくっていた。
「……まあ、カレンが知らないのだから関係はないのだろうが」
 あの力の強そうな魔族が、リュバサやその周辺に関しての知識をまったく持っていなかったことは意外だった。
 それは、このリュバサが魔族に滅ぼされるのを避けるためにつくられた街だということに関わりがあるのかとも思う。けれども造られた当時の人間がいない今となっては、それも推測の域を出る事はない。
 ユーシスレイアが『この場所』を見つけたのは、もうだいぶ以前のことだ。
 五年前。二十二歳という若さでカスティナ史上最年少の将軍となり――その時はまだ軍神という呼称は得ていなかったけれど――国王よりリュバサの街の存在を知らされた。
 それ以来ユーシスレイアは少しでも時間を見つけては、独断でリュバサの周辺を探索・調査してきた。
 リュバサの周辺には国王や宰相から教えられた抜け道の他にも多くの隠し通路があるようだったし、仮にカスティナが危機に晒された場合にその多くを知っていなければ守りきることは出来ない。そう思っての行動だった。
 そんな時に、偶然この泉を見つけた。最初はこの場所に意味があるとは考えていなかったが、数年たって己の地位が向上し、初めて結界の回廊へと連れて行かれた時にユーシスレイアは気が付いたのだ。
 ―― リュバサの天井が形成される結界の支柱は、この泉の真下に在るのだ……と。
 そのことは、国王や宰相さえも知らないようだった。リュバサの街を取り巻く環境や結界には謎も多く、王族でも知らないことが多々あるのだろうと父アルシェは言った。そして、泉のことを上に報告しようとした息子を止めた。
『そのことは忘れなさい。リュバサの探索もこれ以上する必要はない。臣下が踏み込んではならない領域というものがある。わかるな、ユール?』
 父のその言葉に、この街について臣下が多くを知ることはフィスカの意に沿わないのだと悟り、ユーシスレイアは王に報告するのをやめた。ただ、もしリュバサが攻められるようなことがあったならば、この泉も守らなければならない。そう考えて、父には言わず調査は続けていた。
 それらはすべてカスティナを……この国を守ろうとすればこそだったのだが――。
「……皮肉なものだな」
 小さく呟いて再び苦笑する。守るために得た知識を逆の立場で使おうとしている自分自身がとても可笑しかった。
「カスティナの神々に恨みはないが……」
 白金の瞳に鋭い眼光を宿し、ユーシスレイアの唇は微笑みに似た表情を形作る。その目が陽が傾き始めた西の空を一瞥し、そうしていまだ明るい東の空を見やる。
 新月を迎える今夜は、月が見えずに夜の闇は深くなる。その前に。まだ空が明るいうちに。為すべきことは多くあった。
「しばらく眠っていただこう」
 自分を見つめるように煌く女神像に静かにそう告げると、かつて戦勝の褒美にとフィスカから賜った短剣を抜き放ち湧水の流れ落ちる岩場の中央に突き立てる。ぶわっと、押し戻されるような感覚があった。水圧だろうか? 一瞬そう考えたがそれは有り得ない。すぐにユーシスレイアは強く剣の柄を握り直し、反発の力を跳ね返すように壁に向かって叩きつけた。
 今度は、岩を砕く手応えがあった。ややして、深く刃が突き刺さった岩場からゆらゆらと紅い影が溢れるように生じ、先程とは逆に引き寄せられるような力が剣に働き始める。ゆるやかに湧き出ていた清らかな水も、それに呼応するかのようにぴたりと止まった。
 ユーシスレイアは軽く息を吐きだすと、ゆっくりと柄から手を放した。
 青年の手が離れると、短剣は音もなく岩場の中へと消えていく。あとには……岩壁に刻まれた女神像の、額を切り裂かれた無残な姿だけが残されていた。
「…………」
 無言でそれを一瞥すると、ユーシスレイアは濡れそぼる髪や外套を軽く払い、近くに繋いであった馬へと戻る。
 本当に『リュバサの天井』をどうにかしようと思うならば、この地下にある結界の支柱を目指す必要がある。けれども今、それは重要なことではない。
 そんなことよりも、ここから急ぎ戻り、リュバサの入口である北の鍾乳洞に向けて進軍する本隊の指揮を執らなければならなかった。
「ラスは……待ちくたびれている頃だな」
 一足早く陣を発って準備をしている己の私軍『氷鏡』。その指揮を任せた幕僚の名を呼び、ふっと笑う。そのラスティム・ヴァリエードからは、すでに最初の指令は完遂し、今は最終指令の準備も整っているとの使者を受けていた。
 あとは―― 時が満つるのを待つだけだった。
***

「ジェ、ジェラード将軍、ラーカディアストの軍が近付いてきていますっ!」
 王都を落とされた時と同じ茜色の空の下に、月と稲妻の紋章が縫いとられた碧い大軍旗が高らかに翻えっていた。その光景を見つけた物見の兵士が顔色を変えて、慌てたようにジェラードに注進した。
「落ち着け。兵の数でも我が軍の方が勝っている。地の利もある。そう取り乱すな。王都陥落の時のように魔がいるわけでもない。炎彩五騎士がなんだというのだ。強いといっても同じ人間ではないか」
 低く落ち着いた声音で、将軍は浮き足立った部下たちを叱る。王都シェスタがあっけなく陥落したのは魔物たちが居たせいだ。そうでなければ、あんなふうに敗走することはなかったのだとジェラードは思う。
 そして今、目の前に迫る敵は『人間』のみだ。必要以上に怖れる事はない。ましてや、アルタナ・ベスタの両将と合流さえすれば、その兵数は敵の三倍ちかくにものぼるのだから。
 その静かな叱咤が効いたのか、周囲からゆるやかに落ち着きが広がっていく。
 味方が慌てふためいていたのでは勝てる戦も勝てなくなる。なんとか自分の言葉でその場の動揺を治めることが出来て、ほぉとジェラードは息を吐いた。
 敵の数は五千。空にひるがえる大小の軍旗の群れの下にかすむように、整然と一糸の乱れもなくこちらに向かってくる。その陣は中心が前に張り出して、両翼が下がっている。思ったとおり魚鱗に陣を組んでいるようだ。
「兵数が少ないのだから常道の用兵だな。だがあれは背後からの攻撃に脆い。帝国もすぐにその陣形を取ったことを後悔するだろう」
 自分が考えていたとおりの陣形でやってくる敵に、ジェラードは笑みを浮かべる。包囲作戦を進めている自分たちにとっては格好の餌食となろう。味方を鼓舞するように、ジェラードはわざとそう口に出していた。
 しかし……と彼は遥か遠くを見やるように首を伸ばした。
 そろそろアルタナやベスタから挟撃準備完了の使者が到着してもいい頃合ではないかと思うのに、一向に来る様子がないのだ。まさかとは思うが、何か手違いでもあったのか――。
 このままでは自分の率いる軍だけで戦う事になる。ジェラードは舌打ちをしたい気分になった。
 皆を叱咤した手前、ここで自分が不安を見せるわけにもいかない。それに両将と合流しなくとも自分が指揮する軍は帝国の倍もの兵を擁しているのだ。怖れることはない。そう自分を鼓舞する。
 じきに互いの弓の射程距離内に入る。こちらに少しでも有利となる開戦時期を逃さぬように神経を研ぎ澄ませ、ジェラードは敵の動きを何一つ見逃すまいと目を凝らした。
「……な……っ!?」
 その目が、ある一点に集中するように大きく見開かれた。
 魚鱗に陣を組んだその前方に、碧い炎を思わせる軍装に身を包んだ敵の将らしき者が居た。側近くに碧い大軍旗が掲げられているのを見ても、あれが新しく立った碧焔の騎士だろうと分かる。普通であれば総指揮官は陣の後方に下がっていて然るべきなのに。……いや、そんなことはどうでもいい。ジェラードは強く頭を振った。
「まさか……有り得ない……」
 遠目にその人物を見つめながら、ジェラードは自分の見ている物が信じられないとばかりに呆然と呟いた。
 離れた場所にいる人間の顔がハッキリと見えたわけではない。しかし腹心として常に側にいた自分には、騎乗したその姿勢。凛と敵を見やるそのオーラとでもいうのだろうか。それだけで分かってしまった。あれは――自分の上官だった将軍。カスティナの軍神と言われた、ユーシスレイア・カーデュだ。
 単によく似た雰囲気の将なのだと。ただの勘違いだと思いたい。しかし自分が良く知る人物も、総指揮官がいるべきはずの後方ではなく前線に身を置くことが多かった。それを思い出し、ジェラードは苦しそうに眉根を寄せた。
 ざわざわと。にわかに周囲も騒がしくなった。
 今ジェラードが率いている軍は、もとはといえばユーシスレイアの麾下だった騎士たちだ。彼が行方不明になったことでジェラードがあとを引き継いだに過ぎない。彼らにも、前方にいる"敵将"の姿が見えているに違いなかった。
 『カスティナの危機を知り援軍に駆けつけてくれたに違いない』そんな妄想をする暇もない。あれが炎彩五騎士で、帝国軍を率いてこのリュバサに攻めて来ているのだということは、幼児が見ても分かる状況だった。
 あぁ……と、どこかで絶望するような声が上がる。声のした方を見やると、すでに敗北が決まったかのように憔悴した表情があった。虚ろな眼差しを前方の敵将へと向けている者も居る。
 自分たちは今まで敗れたことがなかった。それは――軍神と呼ばれる"彼"がいたからだ。麾下であった者たちにはその気持ちが根強くある。では、今"彼"がいるのは? そう考えて、戦意を喪失してしまったようだった。
 帝国軍が近付くにつれて、そのざわめきと消沈はジェラードの軍全体へと広がって行く。
 ジェラード自身も相手がユーシスレイアだと悟った瞬間、アルタナ・ベスタ両将との合流はもう無いだろうと思ってしまった。それほどまでに、必勝不敗の"軍神"ユーシスレイアに対する依存度が高かったのだ。
 しかし――だからと言って逃げるわけにも行かない。ジェラードは苦虫を噛み潰したように口許を歪めた。戦意喪失しかけている自軍を眺め、そうしてもう一度、向かってくる帝国の軍へと視線を戻す。
 帝国軍は歩みを止めていた。もちろん休んでいるわけではない。碧焔の騎士の号令があれば、すぐにでも攻撃に入るだろうと分かる張り詰めた空気がある。その中心に騎乗する碧焔の騎士の腕が高く天を突き、だいぶ傾いてきた西陽を横から浴びて、目の醒めるような銀色の髪は朱金に染まってなびいていた。
 ジェラードは歯を食いしばった。あの腕が振り下ろされた時が開戦となるだろう。その前に、及び腰になった自軍の立て直しができるかどうか……。
「……将軍を取り戻しましょう! ユーシスレイア様を!」
 思いもしない言葉が背後から湧き上がった。驚いてジェラードが振り返ると、まだ若い騎士が顔を紅潮させて叫んでいた。ユーシスレイアが母国を裏切るわけが無い。何かやむをえない事情があってあそこにいるのに違いない。そう、声高に言うのである。
 それは有り得ない。ジェラードは思った。彼がそんなに半端な覚悟の持ち主ではないということは腹心だった自分は良く知っている。だが――若い騎士の言葉に、周囲がにわかに活気付いていた。
 ユーシスレイアを完全な『敵』と認識するよりも、その方が戦う意欲がわくのかもしれない。ジェラードはその甘美なる勘違いを利用することにした。
「帝国軍を撃破し……ユーシスレイアどのを救出せよ!」
 今の自分の言葉はひどく滑稽で、もし聞こえていたらユーシスレイアは苦笑するだろうと思う。けれどもジェラードは高々と、もっともらしくそう言った。士気が上がるのであれば、どんな虚言でも吐くつもりだった。
 一瞬の沈黙があった。それぞれが各々考えていたのだろう。その僅かな間ののち、意気消沈し戦意を喪失しきっていたカスティナの軍がおおいに活気づき、威勢のいい鬨の声を上げた。
 逃げ腰になっていた兵たちも、逸るように槍の柄を握りなおし、敵方を睨み据える。
 その鬨の声と、ユーシスレイアの腕が振り下ろされたのはほぼ同時だった。

「ふふっ。碧焔サンも意外と人使いが荒いな」
 ゆるく癖のある黒髪をひとつに結んだ男は、片方だけしか開いていない左目に楽しげな笑みを浮かべてそう呟いた。自分が率いる隊を含む帝国軍二千は、カスティナの軍が構える鶴翼の右翼を強襲している。
 初めに持っていた槍はとうに使い物にならず捨てていた。両の脚で巧みに馬を操りながら太刀を振るう。彼のとおった後には何人ものカスティナ騎士や兵たちが倒れていた。
「嬉しそうじゃないか、アッシュ。昼間は散々ヌルイだのなんだの言ってたのに」
 クレネルはやはり長剣で敵を薙ぎ払いながら、おかしそうに隻眼の僚友を見やった。昼食をとっているときに『こんなんで勝てるのかよ』と不満そうに言っていた表情が思い出される。
「こういうのは、嫌いじゃねえからな」
「あはは。アッシュらしいね。……それにしても炎彩五騎士がその身を戦に投じるのを好むという噂は本当だったな」
 間断なく敵を倒しながらの会話とは思えないクレネルの暢気な言葉に、にやりとアッシュは笑った。
「俺は前線に出てくる大将は信用するぜ。それだけの技量と覚悟を持ってるってことだからな」
 もちろん碧焔の騎士が最前線にいるわけではない。戦況を的確に把握して采配を振るうのが総指揮官の仕事なのだからそれは当然だ。それでもアッシュが今まで知っていた、戦の火の粉が振りかからないような後方から指揮をしていた指揮官とは違い、碧焔の騎士は常に戦のさなかに居る。迫り来る敵に長剣を振るっている姿も幾度となく見た。その剣技は圧巻で、噂には聞いていた『炎彩五騎士』の強さというものをアッシュは実感していた。
「思った以上に兵もちゃんと動くしな。これで一ヶ月しか調練してねえっていうんだからなあ」
 笑うように言いながら、横から迫ってきたカスティナ騎士の剣撃を軽くいなすように弾き、その剣を奪う。己の持っていた太刀は既に脂がまわり切れ味が悪くなっていた。
「おっ。引きの合図だ。めいっぱい引きずり出してやろうぜ」
 アッシュはにやりと不敵な笑みを僚友に向けると、己の部下を統率しながら馬首をひるがえす。
 カスティナに攻撃を始めた帝国軍は碧焔の騎士の采配どおりに乱れることなく、幾度となく攻撃と退避を繰り返していた。昼間にアッシュが感じた兵たちの意識のヌルさはどこに消えたのか。個々の意識がそれぞれ同じ絵を描き、ひとつになって動いている。炎彩五騎士という存在……碧焔の騎士という求心力はアッシュの想像以上だった。
 カスティナがこちらを包囲する為に両翼を閉じようとすれば、するりと退避してしまう。それに引きずられるように追ってくれば後方に待機していた隊に強襲される。まるで挑発してからかっているような用兵だ。
 最初は寡兵の帝国軍をおびき寄せて包囲するように左右両翼の陣を前に張らせて中央を下げていたジェラードの陣は、執拗な右翼への強襲に耐え切れずに次第にその陣形を崩さざるを得なくなっている。数での有利さを活かすこともできないまま、戦いは帝国の優勢にて進む一方だった。
 そうしてユーシスレイアの狙いどおりにジリジリと、鍾乳洞の入口から離れた場所へと自分たちが引きずり出されてしまっていることに、カスティナの兵たちはまだ気が付いていなかった。
「……終わりだな」
 ユーシスレイアは延びきったカスティナの隊列を眺めるように目を向け、ゆっくりと深い息を吐きだす。そうして、軽く右手を上げた。
 刹那、西の森がざわざわと大きな葉音を立てた。風のせいではない。今まで何もなかったその木陰から、大勢の人馬が勢いよく戦場に飛び込んでくるのだ。
 それを見て、ジェラードは思わず安堵の溜息をもらす。ようやくベスタ将軍が率いる別働隊がやってきた。これで敗色濃く押され気味の状況を打破できる。そう、思った。
 しかし ―― 森からとびだしてきた者たちは予想に反してカスティナに攻撃を仕掛けてきていた。よく見てみれば、その兵たちはみなラーカディアストの軍装に身を包んでいる。
 延びきって防御の手薄になっていた側面を攻撃されて、カスティナの軍は浮き足立った。
 そして更に、リュバサの街への入口。北の鍾乳洞を形成する丘陵の側面から怒涛のように騎兵たちが駆け下りてきていた。下手な騎手ならば転げ落ちてしまうだろう急な斜面を難なく駆け下りた騎兵たちは、慌てふためくジェラード軍の背後を急襲する。
 その先頭を駆けていたのは、ユーシスレイア直属の氷鏡を率いた幕僚のラスティム・ヴァリエードだった。
「カスティナの別働隊二つは仰せのとおりに潰してあります。後顧の憂いなく采配をどうぞ、碧焔様」
 ラスティムは小さく笑う。そのことはとうにユーシスレイアには使者をたてて伝えてある。殊更それを口にしたのは、カスティナ軍への心理的なダメージを与えるためだ。
 旧主ゼア・カリムの仇をとることはもう出来ない。だからこそラスティムはカスティナへの攻撃に容赦するつもりはなかった。褐色の肌に戦意をほとばしらせて、両手に持った三日月のような曲刀は既に血で濡れていた。
「……ベスタ将軍やアルタナ将軍が……やられたのか……!?」
 ラスティムのその言葉は稲妻のようにカスティナ騎士たちの精神を打ち砕き、微かに残っていた戦意を挫けさせるのには十分だった。自分たちが帝国を包囲するはずだったというのに。蓋を開けて見れば、逆に帝国軍に自分たちの方が挟撃されてしまったのだ。
 しかも――自分たちがかつては軍神と呼び、最も頼みにしていたユーシスレイアが敵将となって。
「……やはり……あの方には勝てぬな」
 ジェラードは唇を噛んだ。目の前で崩れて行く自分の軍があった。浮き足立ち、右往左往するもの。戦意を喪失して投降するもの。闇雲に突撃して倒されるもの。森の中に逃げゆくもの。湖に飛び込むもの。
 もう、ジェラードが率いていた軍は"軍"とは呼べなくなっていた。
 カスティナの誇る騎士たちは決して脆い精神の持ち主ではないはずだった。けれども……ユーシスレイアが敵将であることに皆の心が激しく動揺し、混乱した。戦う前より挫けていたのだ。敵の指揮官が彼でなかったならば、こうも自分たちの軍が崩壊することはなかっただろうとジェラードは思う。
 裏切られたという衝撃を怒りに変えて挑むには、時間が少なすぎた。
「もはや、これまでか」
 そう呟くと、ジェラードは皺の深く刻まれた目もとに何故か笑みを浮かべた。このままリュバサの街に……王のもとに帰参することは出来なかった。それならば、武人らしく戦って死ぬしかない。
 すらりと己の長剣を抜き放ち、見誤ることもないユーシスレイアに……否、碧焔の騎士に目を向ける。
「ユーシスレイア殿!」
 馬の腹を蹴り、ジェラードは声を限りに叫んでユーシスレイアのもとへと駆けた。この名を呼んで振り向いてほしくないという思いと、名将ユーシスレイアと剣を合わせたいという複雑な想いが、ジェラードの中にわき起こる。
「……ジェラードか」
 ゆうるりと、ラーカディアストの碧い軍装に身を包んだ青年は振り返った。やはり、勘違いではない。あれはユーシスレイアだったのだ。分かりきっていたことを改めて確認して、ジェラードは目を細める。
 迫りくる敵から碧焔の騎士を守るように動き出した部下たちを押しとどめ、ユーシスレイアは馬首をジェラードへと向けた。剣を振りかざして立ち向かってくる、かつての腹心に複雑な眼差しを投げる。
「何故……母国を、カスティナを裏切られたのかっ!?」
 きぃんと刃の合わさる音がした。ジェラードは剣の向こうにある懐かしい顔にそう叫んだ。敗れるにしても……その理由だけは、知っておきたかった。
 ジェラードが仕掛けてくる剣戟を往なしながら、ユーシスレイアの白金の瞳が静かに、けれども鋭い煌きを宿す。すべての真実を見据えるようだといわれるその両眼が、じっとジェラードをとらえていた。
「己の在るべき場所を見つけた。……それだけだ」
「 ―― !?」
 返された言葉はあまりにも単純で。それゆえに……深い。ジェラードは泣き笑いのように顔を歪めた。そう言われてしまえば、もはや語る言葉もありはしなかった。
「分かり……申した。それならば……遠慮はいたしませぬぞ」
 一気に踏み込み、決着をつけるべくジェラードは剣を振りかざして相手の懐へと飛び込んでゆく。己の振り上げた剣が、ユーシスレイアの髪をわずかにかすめて幾本か切り裂くのが見えた。
 刹那、熱く灼けるような痛みが肩から胸へと走った。目の前を流れ過ぎるユーシスレイアの銀の髪を眺めながら、己の身体は力を失い宙に浮いた感覚だけが残る。耳元で、どさりと重く渇いた音がした。それが、自分が落馬した音なのだとは気付かないまま、ジェラードの意識は深い闇の中へと沈んでいった。
「…………」
 ユーシスレイアは深く息を吐きだした。いたたまれないというように目を閉じて天を仰ぐ。覚悟していたこととはいえ、かつての部下たちを自分自身で斬り捨て、倒れゆく姿を見ることはやはり心に堪えた。他の将が率いていた軍ではない。目の前にいたのは、かつて自分が率いていた騎士たちだ。知らぬ顔はひとつもなかった。
 その哀惜を断ち切るようにゆっくりと深く呼吸をし、静かにまぶたを開く。
 再び開かれた白金の瞳からは悼みの色が消え、まっすぐと前を見据える鋭い意志の煌きが戻っていた。
「あとの掃討はおまえたちに任せる。おれは氷鏡と共にリュバサの街に入る」
 近くにいた副将にそう告げると、ユーシスレイアは北の鍾乳洞へと馬を走らせる。ラスティム率いる氷鏡の一隊もそのあとに続いた。
 碧い炎を思わせる大きな外套が風を孕んで大きくひるがえり、西からの残照をうけて朱々と煌く。東の空からは薄墨色の天翼が広がり初め、もう間もなく空も暗くなるだろうと思われた。


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2006.8.12 up