「いいえ。楽しい時間を過ごさせていただきました。お気になさらず」 待たせたことを詫びる至高の女性に、ユーシスレイアは軽く笑むように頭を下げた。 炎彩五騎士は定められた公式の場を除けば皇帝に対しても跪く必要はない。だからといって増長して礼を失するような愚かな者はもちろん誰一人としていないが、過度な礼がエルレアの意に沿わないと知っているため、他者の目がない場所ではこの程度の軽い礼をとるのみだった。 「そうか? それならよかった」 意外なことを言う青年を不思議そうに見やり、エルレアはひょいと肩をすくめてみせた。 改めて彼に着席するように促すと、固くひとつにまとめた濃藍色の長い髪を軽く右手で払いながら自分も手近な椅子に腰を下ろす。 座りしな、テーブルに匂りのよいお茶が飲みかけで置いてあるのを見つけ、彼女はにやりと笑むようにグレイの瞳を細めた。 「マリルが淹れたカミツレのお茶は、美味しいだろう?」 「…………?」 とつぜんカミツレのお茶と言われ、一瞬その意味を捕らえかねたユーシスレイアだが、すぐに思い当たったのか皇帝に促されるまま椅子に腰掛けながら納得したように頷いた。 先ほど初老の女性が淹れてくれた甘くふくよかな香りのするお茶は、外に咲き広がるカミツレの花で淹れたものだったのだろう。 「はい。初めて頂きましたが、不思議な甘さがありますね。とても心が和むような気がしました」 「ふふ。私もカミツレの香りは好きだ。だが、まさか今日という日にこんなにリラックスした碧焔の表情を見られるとは思わなかったよ。さすがはマリルだな」 くすくすと、皇帝は肩を揺らすように笑った。先ほどの碧焔が言った"楽しい時間"という言葉の意味を理解して、なんだか可笑しかった。 緋炎の騎士から、今日の五騎士会議で碧焔にリュバサ攻略の指揮を一任したという報告は受けていた。 そしてカレンからは、先ほど街外れで交わされた二人のあまり友好的とは言いがたい会話についても聞かされていた。 だからこそ、自分を待っているユーシスレイアがこんなに柔らかな表情をしているとは思わなかったのだ。 「…………」 そんなことで皇帝に嫌な顔を見せるぐらいなら、最初からこの国の人間になったりはしない。そう思いはしたものの、なんと応えていいものか。少し困ったようにユーシスレイアは眉根を寄せた。 よほど自分は、いつも厳しい顔をしていたのだろうか? 自分でも気付かないうちに、ずっと休まることもなく神経を張り詰めいていたのだということは、先ほどマリルのお茶を飲みながら気がついたことだった。 だからといって、いつも不機嫌そうな顔をしていたつもりもなかったのだけれども。 「……それで、どのようなご用でしょうか?」 ひとつ息を吐き出してから、ユーシスレイアはけっきょく諦めたように話題を変えた。考えても、自分自身では分からないのだから仕方がない。 「ああ、そうだった」 エルレアは笑顔を消してちらりと背後に佇むカレンを見やった。そうして碧焔に再び視線を戻す。 「リュバサについてもう少し話を聞いておこうと思ってね。……この世界に在る街や遺跡のことをカレンはすべて知っている。その彼でさえリュバサの街の存在を知らなかったというのだから興味は尽きない」 「それは買いかぶりですよ、エルレア様」 深い青緑の瞳をふわりと細めて、皇帝の背後からカレンは微笑んだ。 確かにこの大地に自分が知らない場所は少ないけれども、隠された場所まですべてを精通しているというのは大げさに過ぎるだろう。万能の神でない以上、知らない町や遺跡の一つや二つあっても不思議ではないのだから。 「そう、なのか?」 どこか不満そうに、エルレアは背後を見上げた。しかしいつもどおりの柔らかな微笑をたたえているだけのカレンに軽く肩をすくめ、すぐに気を取り直したように、目の前にいる、つい数ヶ月前までは最も手強い敵と思っていた青年を楽しげに見やる。 「まあいい。リュバサに興味があるのは、それだけが理由じゃない」 凛とした皇帝の力強い眼光を受けて、ユーシスレイアは頷いた。 湖の底にある街。カスティナの国王が逃げ込んだ場所。その街のことを思い出すように彼はゆっくりと目を閉じ、そうして開く。 「……リュバサは、太古に魔族との戦いでカスティナ王国が滅びかけたときに作られた隠れ都市だと聞いています。当時は人間の中にも存在していたという不思議な力を持つ者の協力を得て、再起を図るための拠点として建設されたのだと……。結局そのときカスティナは滅びず、魔界の封印という形で戦いは終わったというのは歴史でも学ぶことですが、街は非常時の備えとして残されたようです」 今回の王都陥落がなければ、その存在を一般に知らされることは決してなかったであろう街。 その街に住む者は太古から脈々と受け継がれた人々であり、そこで生まれ、街から出ることもなく一生を終えるのだという。そのリュバサに出入りすることが出来るのは王族と、それに随行し許可を得た者たちだけという徹底した隠しぶりだった。 ユーシスレイアとて騎士として多くの功績を挙げ、名実ともにカスティナを担う将の一人として数えられるようになった頃、ようやく知らされたのだ。国王フィスカと父アルシェ。そして宰相のリファラスに連れられてリュバサの街を訪れたのは、まだほんの五年前のことに過ぎない。 訪れたリュバサの街は、カスティナの王都シェスタの規模をいくぶん縮小させてそのまま湖底に造営されたような、立派な都市だった。 まさか湖の底にこれほど広大な街が在るなどと、それまで思ったこともなかった。 陸から見れば、それはただの湖にしか見えないのだから当然だ。いや、おそらく空から見下ろしたとしても、湖底に街など見えはしないだろう。 今朝の五騎士会議で緋炎が白炎に言っていたとおりに、潜ってみたところでそれを見つけることは決して叶わないのだから。 それは、リュバサの天井と呼ばれる"奇跡"なのだと、そのとき国王フィスカから聞いた覚えがある。 「魔族との戦い……力を持つ人間。そして奇跡……か?」 ふと、皇帝が言葉をもらす。その口調がどこか冷たい嘲笑のように聞こえて、ユーシスレイアは思わずまじまじとエルレアを見やった。 「カレン、おまえが言っていたアレのことだな?」 「……おそらくは。まさかそのような街を創っていたとは思いませんでしたけれど」 静かにカレンは微笑んで見せる。 エルレアは頷くと、凛としたグレイの瞳をじっとユーシスレイアに向けた。 「碧焔。その街を……三日で そう言って放たれる眼光は、厳しくも心地よい。 ユーシスレイアは背筋を伸ばすようにその眼光を受け止めた。 「それがリュバサ攻撃を開始した後の日数だというのでしたら、可能です」 「ふん。もちろんそういう意味だ。おまえの軍はまだ整ってはいないからな」 言いながらエルレアはすっと立ち上がり、窓際に歩み寄る。ほんの少し窓外を眺めるように遠い目をした皇帝が何を見ているのか。それはユーシスレイアには分からない。 ややして彼女は軽く目を閉じ、そうして何かを決めたように碧焔の騎士を振り返った。 「だが、ひと月以内だ。軍備を整えるのにそれ以上長くは待たん」 すべてを短期間でやってみせろと言うその口許に浮ぶあざやかな笑みが、窓からこぼれる陽の光に彩られて力強さを増す。 「承知いたしました。"碧焔の騎士"の初陣を迅速な勝利にておさめさせていただきます」 皇帝を彩る鋭い覇気に、思わずユーシスレイアは膝をついてそう応じた。 リュバサの街の話をしていた自分の言葉の何が皇帝の覇気に火をつけたのか。それを知ることは出来なかったけれど、その"何か"によって彼女が、カスティナの国王フィスカを捕らえるための攻略ではなく、リュバサの街そのものを欲したのだというのは分かった。 「楽しみにしていよう、碧焔」 「はい。それでは、今日はもう下がらせていただいてもよろしいですか?」 幕僚にと今までリストアップしてきた人物たちの顔を思い浮かべながら、ユーシスレイアは退席許可を願う。すべての人事を今日明日中には終えて、すぐにでも戦の準備へと取り掛かりたかった。 既に意識は戦いへと向き、祖国であるカスティナの攻略を考えているというのに、こうも気分が高揚している自分自身が少し可笑しい。けれども心はなぜか充足感を覚えていた。 「ふふ。もう少しリュバサの話を聞きたいが、今はそっちの準備を優先させよう。話はいつでも出来るが、戦いには"機"があるからな」 「ありがとうございます。機を逃さぬよう努めます」 「……そうだ。リュバサの攻略が成れば、その功を以っておまえに居館を与える。碧焔の騎士が、いつまでも緋炎の屋敷に居候というわけにはいかないだろう?」 颯爽と部屋を出て行く碧焔の騎士の背に、可笑しそうにエルレアはそう告げる。何の功もなく何かを与えることはしないという、彼女らしい言葉だ。 ユーシスレイアは振り返ると、それについては何も言及せず軽く一礼だけして蒼昊の宮をあとにした。 「この屋敷を、彼に与えるつもりだね?」 いつもそうしているように、二人になるとカレンは本来の口調に戻ってそう問い掛ける。 彼を待たせるのに、エルレアがわざわざここに通したことを考えれば、そう判断する他はない。彼女の考えることはたいてい分かるほどに、二人は同じ時間を共有していた。 「ゼア=カリムの、碧炎の屋敷をあてがうわけには行くまい? 白炎が怒る」 エルレアはにこりと笑った。ユーシスレイアが居る時よりもほんの少しだけ、くだけた表情になる。 カレンは軽く息を吐き出し、ゆうるりと頭を振った。さらりと、淡い水色の髪をうしろに流しエルレアの瞳をじっと覗き込む。 「いいのかい? 貴女にとってここは思い出の場所だろうに」 「思い出は自分の心の中に持っていれば良い。場所や物がその思いを持っているわけではないだろう? それに私は、過去にすがったりはしないよ、カレン」 「……ああ、そうだったね」 きっぱりと言い放つエルレアの強い眼差しに、カレンは静かに頷いた。 「そんなことよりも、まさかこんなところでアレに遭遇するとは思わなかったね。ユーシスレイアが我が国に来たことを、わたしは初めて神に感謝したよ」 悪戯っぽく青緑の瞳を片方だけ閉じて、カレンはくすりと笑う。エルレアはそんな魔族の青年をちらりと見やってから、大きな窓を開けて見晴らしのよい露台へと出た。 「カレンがそんなことを言うとは珍しい。でもまあ、気持ちは分からないでもないな。我々の目指すべきものを、見失わずにすみそうなのだから」 ふいに、強い風が濃い藍色の髪を巻き上げるように吹き荒び、ラーカディアストの皇帝の身体に激しく叩きつける。それにも構わず、彼女はここにはない何かを見つめるようにすっと目を細めた。 そこに強い意志と力があふれるように載せられて、周囲に鋭い覇気を放射する。炎彩五騎士が魅せられる、皇帝のグレイの眼差しだ。 「ははっ。そのためにも"碧焔"には頑張ってもらわないとね」 そっと風を遮るようにエルレアの隣に佇んで、カレンも同じものを見る。 「リュバサの街といい、カスティナ王国もいろいろと秘密を持っていそうだし、わたしはもう少しあの国を調べてみよう。貴女はただ、信じる道を進めばいい」 優しく耳元でささやくように、カレンは微笑んだ。 |
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