「ユールは"妹"のような女性に弱いようですね」 くすくすと。楽しそうに笑う柔らかな声音が、ひとりで海を眺めていたユーシスレイアを振り向かせた。 振り向いたその先には誰もいない。樹齢何百年も経っていそうな立派な幹を持つ大木が静かな趣で佇んでいるだけだ。けれども彼はすっと目を細め、名前も知らないその大木を睨むように見据えた。 「……ユールと呼ぶな」 声の主が誰なのかはすぐに分かった。しかしその持ち主に気安く愛称を呼ばれる憶えはない。ましてやそのあとに続いた言葉に好意など持てるはずもなかった。 ―― くすくすくす。 再び笑い声が聞こえた。さわりと。風もないのに木の葉が揺れて小さな音を立てる。今まで誰もいなかったその場所に、ゆうらりと風をまとうように人の姿が現れていた。 微笑むようにこちらを見やるその容貌は、どこまでも綺麗だ。 透きとおる泉のような淡い水色の髪と、その泉に映える森林のような深い青緑の瞳。 溜息が出るほどに柔らかく美しいその姿の、尋常ならざる眼光だけが、その"存在"が普通の者ではないことをあらわしていた。 「……カレン」 苦々しげに、ユーシスレイアはその名を呼んだ。 一般的には皇帝の"寵姫"と呼ばれているこの魔族。だがしかし、カレンは決して"姫"などではなかった。この物腰柔らかな麗人は、れっきとした男……青年なのである。 何か深い事情があって女装しているというわけではない。ただ、皇帝の傍にいつも静かに控えているカレンを周囲の人間が勝手に寵姫と言い出しただけだ。 ラーカディアストでは"カレン"という名が女性に付けられる事が多かった為でもあるが、それよりも何よりも、やはり人並みはずれたその美しさが"姫"と勘違いされてしまった最たる原因だろう。 服装だって男物だし、背だってユーシスレイアほどではないにしても世の男性の平均はクリアしている。それでも"女"に見られるということに、カレン自身は不服だったに違いない。 しかし「間違える方が馬鹿なんだ」という皇帝のひとことで、周囲のそんな反応を「まあ、いいか」と簡単に受け入れた。実際問題、寵姫だと思われているほうが都合のいい事もあったし、いちいち否定してまわるのも面倒で馬鹿馬鹿しかった。 「そう、苦虫を噛み潰したような顔をしないでください。わたしとて、好んであなたに会いに来たわけではないのだから」 どこか人をからかうような笑みを浮かべ、カレンはゆうるりと歩み寄ってくる。体重を感じさせないその仕草はひどく優雅だ。 「陛下があなたを探されていたので、わたしが呼びに参ったということですよ」 長く豊かな水色の髪を風に遊ばせるように、カレンはわざとらしくお辞儀をしてみせる。 「本当は、あなたをエルレア様に近づけるのはまだ少し不安なのですけれどね」 笑顔のままで、カレンは言った。その眼光は表情ほどには笑っていなかったけれども。 「陛下が? ……リュバサ攻略のことか」 「おそらくは」 応えながらカレンは、すっと長い指を伸ばした。ユーシスレイアの額に落ちかかる髪をさらりと払い除け、白金の瞳をじっと覗き込む。 「ユール。あなたも不思議な御方です。まさか自分から進んで"リュバサ"の情報を教えてくださるとは、陛下もわたしも思ってもみないことでした。あの時はさすがに驚きましたよ」 王宮の隠し通路から逃げたとされるカスティナ国王の行方を見つけ出せずにいた自分たちに、『碧焔の騎士』の叙任式を終えたユーシスレイアは、リュバサの湖底都市のことを教えたのである。 まるで、そうすることによってカスティナへの想いと迷いを断ち切るかのように。 「わたしたちにしてみれば、捜索する手間が省けて助かりましたけれどね」 くすりと笑って、カレンは軽く肩をすくめて見せる。すべてを見透かしているような楽しげなその表情が、ユーシスレイアの癇に障った。 いちど強く睨み据えてから、しかし一向に堪えるようすのないカレンに深い溜息をつく。 この魔族の青年が何を考えているのか、さっぱり分からない。思考がまったく読めない相手というのはなんとなく落ち着かなかった。 溜息混じりに視線を落とすと、カレンの左手首をおおう銀の飾りが目に留まる。幅の広い表面に秀逸な細工で月と稲妻が彫り込まれ、角度によって色合いの変わって見える優麗な腕輪だった。 本来ならば皇帝と五騎士のみが身に付ける至高の紋章『 だが魔族が人間の国家……ラーカディアストの紋章を好んで身につけるなど、あまりに奇異だとユーシスレイアは思う。それだけカレンがエルレアに忠誠を誓っているということなのだろうか。 苛烈なまでに覇気をまとう存在。みずからが進む"道"に揺らぐことなく向けられた、皇帝の鮮烈なグレイの眼差しは、魔族であるカレンが魅せられるに足るものであるように思う。 長いあいだ敵であったはずの自分もまた、それに惹かれたのだから ―― 。 ユーシスレイアは己の心を見つめるように目を閉じた。そうしてゆっくりと再び開いた双眸を海の青にきらめく陽光へ向け、最後にカレンを見やる。 「……おれはもう、カスティナの将ではなく、ラーカディアストの碧焔の騎士だ。この国にとって有益な情報をもたらすのは当然だろう」 白金の双眸に強い意志を宿し、ユーシスレイアは言った。その気持ちに嘘はない。母国を捨ててこちらの将になると決めた以上は、中途半端にするつもりはなかった。 「頼もしいことです。でもそれが、リュバサ攻撃を開始した時にも変わらないといいのですけれどね」 思わず、カレンは皮肉るようにそう返す。 言い終えた瞬間、カレンは驚いたように自分の口元を手でおおった。今のは、完全なる嫌味だった。そんなことを言うつもりなど、まったくなかったというのに。思いとは裏腹に口が滑っていた。 「…………」 なぜ自分がそんなことを言ってしまったのか。 ―― 先ほどユーシスレイアの気配を探している時に、偶然セリカと話している彼の様子を見てしまったからだろうか? カレンはそう自己判断する。 自分の"家族"のことを話す碧焔の騎士の様子が……彼の家族に対する強い想いをあらわしているような気がして不安だったのだ。 ユーシスレイアは家族はみな死んだと思い込んでいるようだが、その最期をはっきりと見届けたのは母親のセリカだけだ。他の家族の生死は、彼本人がその目で確認したわけではないのである。 もし、戦いの場面で"家族"やそれに類する存在に出会ってしまったとき、この男は碧焔の騎士であり続けることが出来るのだろうか? カスティナの軍神ユーシスレイア=カーデュに……否。父母の息子であり、妹の兄である"ユール"に戻ってしまうのではないだろうか? さきほどの碧焔の様子を見れば、そんな危惧をカレンが抱いてしまうのも無理はなかった。 無論、そうなればなったで叩き潰すだけのことではあるのだが ―― エルレアに反旗を翻すかもしれない要因がある相手に対して好意を持てるはずもない。 だからといってあんなふうな皮肉を言ってしまう自分が子供っぽく、情けない気もしたけれど……。 「おれは、自分の意志でラーカディアストを在るべき場所と選んだ。もちろん、今までの同胞を相手に戦うことになるというのは覚悟の上で、だ」 ユーシスレイアは極低温の炎のような眼光をカレンに向けて、静かに言い放つ。そこには確固たる意志が散りばめられているように感じられた。 もちろんカスティナには愛着もあった。守りたいと思っていたからこそ軍役に就き、『軍神』とまで呼ばれるような働きをしてきた。しかし、カスティナの軍に身を置いていたのは、それが母国だったからだ。違う国に生まれていれば、そこの国の将だっただろう。 いわば、自然の成り行きだ。だが、ラーカディアストに身を置くことは、そういったしがらみをすべて排除し、自分の意志で決めたことなのである。それを再び翻すような真似をするつもりはなかった。 「今さらそれを疑われるというのは、心外だ」 「……申し訳ありません。詮ないことを言いました。あなたを信じていないわけではないのですよ」 意外にも、カレンは素直に謝意を示した。その言葉は上辺だけではなく、本心からの謝罪だと感じられた。 いつものようにはぐらかすだろうと思っていたユーシスレイアは、思わず目をまるくする。 魔族といえば、流血と殺戮を好む残酷で傲慢な種族であり、人を卑しむ者たちなのだとカスティナでは子供の頃からずっとそう教えられていたのだが ―― 。 「驚いたな。カレンも人に謝ることがあるのか」 「ふふ。ひどいですね。それは魔族に対する偏見というものですよ。わたしは貴方がたとなんら変わらない。ただ、人にはない"力"を持っているだけです」 くすりと、カレンは笑った。 「そうか……」 軽く苦笑して、ユーシスレイアは天を仰いだ。この国に来てから、今まで自分の中にあった常識や価値観をすべて丸ごとひっくり返されたように思う。 カスティナでは一般的だった思考が、こちらでは異端であったりする。国が変われば文化も気風も違うのだから、それは当然のことかもしれないが、それでもやはり戸惑いはあった。 生まれてから今までの二十七年間。積み重ねる歳月とともに、ずっと培われてきたその意識はすぐに変えられるようなものでもない。 「皇宮に行く」 戸惑いを打ち消すように紺碧の大きな外套をひるがえし、ユーシスレイアはカレンに背を向けた。近くにつないでいた愛馬へ軽やかに騎乗すると、皇宮の方へと馬首を返す。 「では、わたしは城に戻り、あなたのお越しを陛下とともに待っておりましょう」 優雅に礼をすると、カレンはふわりと宙に溶けて消える。それを背中で感じながら、ユーシスレイアはゆっくりと馬を前へとめた。 見晴らしの良い露台に出るための、大きな窓を彩る柔らかなドレープを軽く左手で持ち上げてユーシスレイアは外の景色を眺めやった。 五騎士会議のあとにルーヴェスタと見た皇宮庭園のカミツレの花が、この場所からも良く見える。花畑を挟んで少し離れた対面に、炎彩五騎士が集う"彩宮"の白い外壁が青空を映すように建っていた。 彩宮も花畑も、そして あまりに広すぎるために全貌を見渡すことは叶わなかったけれど、周囲には五騎士に与えられたそれぞれの居館もあるはずだった。 「 窓の外に見える光景に、ユーシスレイアはひとりごちた。 彩宮には五騎士が集って会議をする部屋のほかに、各自の執務室も備えられている。五騎士はみな自分の館で執務することが多く、彩宮の執務室を使うことは少なかったけれど、ユーシスレイアは幾度もそこで日を過ごしたことがある。 まだ自分の館を持っていないからでもあるのだが。時おりその執務室から目にしていた壮麗な建物の正体を知って、なんとなく可笑しかった。 まさか皇帝がプライベートに使用する館のひとつだったとは思いもしなかったけれど ―― 。 「ええ。さようでございます。すこおし距離がありますから、よほど遠目の利く方でないと彩宮からエルレア様のお姿を拝見することは、叶わないかと存じますけれどね」 穏やかな声が、ごくごく自然に応じてくる。 白髪の混じり始めた黒髪をきっちりと結い上げ、落ち着いた深緑の服を身にまとった老婦人がにこやかに笑ってユーシスレイアを見ていた。 普段エルレアが居ない時にこの屋敷を預かっているマリルという女性だ。上手に歳を重ねたものだけが持てるであろう、ゆるりと穏やかな上品さが好ましい。 「それよりも、碧焔さま。お待ちになるあいだお茶でもいかがですか? ゆっくりと飲むお茶は、良い時間つぶしにもなりますよ」 呼ばれて皇宮に来たユーシスレイアだったが皇帝に急用が出来てしまったため、それが終わるまで少し待つようにと、こちらに通されたのである。 「待つのは構わない。……でも、そうだな。ちょうど喉が渇いていたところなんだ。ありがたく頂こう」 ユーシスレイアは軽く笑って、窓際からテーブルの方へと歩み寄る。応える口調がどこか和やかだったのは、彼女の穏やかな雰囲気のせいだろうか。皇帝の配慮なのか。それともそういう人間がこの国に多いのか。ユーシスレイアの周りに施される女性は彼の神経を穏やかにさせるような者たちばかりだ。 「じきにエルレア様とカレン様もいらっしゃいます。それまで、ごゆるりとお寛ぎくださいませね」 ほがらかに微笑んで、マリルは白磁のカップに琥珀色の液体を注ぐ。たちのぼる湯気とともに匂りたつ、ほのかなお茶の香が心地よかった。 「ありがとう」 静かに退室する老婦人の背にそう声をかけてから、ユーシスレイアは香りの良いお茶が満たされたカップを持ち上げる。これが何という種類のお茶なのかは知らなかったけれど、そのふくよかな香りにとても心が落ち着くような気がした。 そういえば朝から口にしたのはリンゴを一口だけだったのだと思い出し、ユーシスレイアは可笑しそうにカップの中身を見やる。 「こんな香りのお茶は、初めて飲むな」 軽く口許をほころばせ、香りを楽しむようにゆっくりと。ひとくち。ふたくちと喉を潤していく。こうしてのんびりとお茶を飲むなどというのは、本当に久しぶりだ。 張り詰めていた神経に染み込んでいくように心地よさが広がっていくのを感じながら、ときにはこういう時間も必要なのかもしれないと、ユーシスレイアはぼんやりとそう思った。 以前はよく、軍務から帰宅した自分を母や妹がこうして心休めてくれたものだと、ふと懐かしくなる。 失われた家族を思い出して、いつものように痛みではなく懐かしさを感じたのは、このお茶の不思議な温もりと香りのせいか ―― 。ユーシスレイアはやんわりとまぶたを閉じた。 そうしてしばらく心地よさに身をゆだねていると、不意に、扉の開く音がした。 ユーシスレイアが部屋の入り口に目を向けるのと、黒い軍装を身につけた細身の人物が入ってきたのは、ほぼ同時だった。 その背後には、あでやかな笑みを浮かべたカレンが静かに随っている。 一見すると凛々しい青年にも見える黒衣の人物はしかし、勘の良い者が見れば女性であると気付くこともできるだろう。とはいえ、そうと知る者などほんのごく僅かに限られていたが。 女性にしては背の高い、すらりとしたしなやかな肢体。ぴんと背筋の伸びたその立ち姿は大いに覇気をまとい、心地よい緊張感をユーシスレイアに与える。 きりりと身の引き締まるような硬質な空気を肌に感じ、ユーシスレイアはすっと椅子から立ち上がった。 ゆうるりと周囲に視線をめぐらせるように顔を上げた黒衣の人物は、そんな彼の姿を認めて軽やかに部屋の中央へと歩き進む。 「呼びつけておきながら、待たせて悪かったな。碧焔」 凛と。よくとおる伸びやかな声が、歯切れよく部屋に。そしてユーシスレイアの耳に響く。 切れ上がるようにあざやかな笑みを浮かべたその女性は、紛れもなくラーカディアストの皇帝。エルレア=シーイ=フュション。その人だった。 |
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