月に沈む闇
第二章 『湖底都市の攻防』
  




第四話

 背中に感じていた二人の部隊長の視線が消えると、ユーシスレイアは歩む方向を変えた。
 アリューシャが捕らえられた場所から近い本営ではなく、少し離れたところに設営されていた小振りの幕舎に入る。多くの者が出入りする"本営"とは違い、ユーシスレイアが独りになる為にあえて設営していた場所だ。
 ここには幕僚や身の回りを世話する従者たちでさえも、彼が許可をしない限り入ってこない。だから今、この幕舎の中に居るのはユーシスレイアとアリューシャの二人だけだった。
 ユーシスレイアは巻き上げられていた入り口の幕を降ろしながら少年の腕を解放し、椅子に座るように促した。
 しかし少年は未だに何が起こっているのか理解できないように、呆然とユーシスレイアの……否、碧焔の騎士の顔を。藍い軍装をまとった"男"の姿を見つめていた。
「あの傷で助かったのは運が良かったな、アリューシャ。緋炎の腕の良さと刃の鋭さが幸いしたか。……まあ、おれも他人のことは言えんが」
 座ることも言葉を発することも出来ずにただただ立ちつくす少年を、ユーシスレイアは苦笑するように見やる。その表情は静かであったけれど、淡々とした口調とまっすぐ向けられた白金の瞳が、どこか暖かい。
 それらはあまりに記憶に馴染んだ男のもので……アリューシャは泣き出しそうに頬を歪めた。
「…………ユール。本当に、ユールなんだな……」
 本来ならば喜ぶべきことだ。死んだといわれていた大切な"家族"が、無事な姿を目の前に見せてくれたのだから。
 ユーシスレイアが無事であったと知れば、街で待っているシリアがどれほど喜び、明るい笑顔を取り戻してくれることだろう。
 けれども ―― いまの状況はアリューシャが素直に喜ぶことを許してはくれなかった。
「ユールが……碧焔の騎士だっていうのはホントなのか?」
 どうしても確認しなければいけないことだった。ここの兵たちが、ユーシスレイアのことをそう呼んでいた。それを自分はこの耳で聞き、そして見てしまったのだから……。
 それでもやはり答えを聞くのは怖くて、アリューシャは強く唇を噛んだ。こんなこと、何かの間違いであってくれたらいい ―― 。
「ああ、本当だ」
 しかしアリューシャの微かな希望を打ち砕くように、ユーシスレイアはあっさりと頷いた。あまりに淡々としたその様子に、アリューシャは一気に奈落の底に突き落とされたような気分になる。
 以前と変わらぬユーシスレイアの強く鋭い白金の瞳には、少しの迷いの色も見当たらない。相変わらず、真実を見つめるような強い光が灯っている。それが一層アリューシャの心を暗くさせた。
 兄とも慕っていた強靭なこの青年が死ぬはずはないと信じていた。だからこそ……もし再会できたならお互いの無事を喜びあい、そして今後のカスティナ復興についていろいろと話をしたいと考えていたのに。
 それが ―― カスティナに攻め寄せてきているラーカディアストの軍に。しかも、それを指揮する炎彩五騎士のひとりとして、自分の目の前に立つことがあるなどと、あってはならないことだ。
「嘘……だっ!! なんで? そんなこと……ありえないだろっ!」
 今まで固まったように立ち尽していたアリューシャは、弾かれたようにユーシスレイアの二の腕を強くつかみ揺さぶった。あまりに理不尽すぎる現実に、悲鳴のような声を上げていた。
 カスティナの紺碧の外套ではなく、碧い焔を思わせる……ラーカディアストの軍装に身を包んだユーシスレイアなど、認めることなど出来ようはずがない。いくら色彩が似てはいても、その立場はまったくの逆なのだ。
「こんなことで嘘はつかないさ」
 軽く吐息をもらすと自分にしがみつく少年の手を引き剥がし、そのまま近くの椅子に座らせる。そうしてユーシスレイアは駄々っ子を諭すように相手を見やった。
「じきにリュバサへの攻撃が始まる。おれはその最終調整と確認をしておかなければならないのでな。悪いが、これ以上おまえに割く時間はないんだ」
 どこか底冷えのする笑みを口端に浮かべて、ユーシスレイアは低く言った。
「……ユールっ!?」
 その表情にアリューシャは見覚えがあった。ユーシスレイアが、本気で敵をたたこうとする時の顔だ。今までに何度も見た凛々とした表情。同性が見ても思わず見惚れてしまうような、あでやかで鮮烈な笑み。
 ただし今までそれが向けられていた相手はラーカディアストだったはずの ――。
 この期に及んでようやく、ユーシスレイアが本気でリュバサを落とす気なのだとアリューシャは悟らざるを得なかった。
「アルシェ小父さんや……小母さんを殺した奴らに……なんで味方すんだよ!」
 怒りと哀しみと悔しさと戸惑い。それらすべての感情を宿した淡い水色の瞳が、射るようにユーシスレイアの顔を見やる。
「…………」
 ほんの一瞬。痛い所を突かれたように青年の表情が僅かに強張った。けれどもすぐに冷静な笑みを取り戻し、再び叩きのめすような宣告を少年に向ける。
「それは……関係ないな。おれは、己の在るべき場所を、在りたいと思える場所を見つけただけだ」
「 ―― !!」
 嘘でも冗談でもなく、ましてや悪い夢でもない。信じていた者の、完全な裏切り。この男が寝返ってしまったために、隠された町であるはずのリュバサの所在がラーカディアストの知ることになったのだと思うと、アリューシャは許せなかった。
 もう、くつがえしようのないだろうユーシスレイアの変心に、アリューシャは拳を強く握りこんだ。どんな言葉も思いつかなかった。
 けれども ―― 振りあげたその拳は難なく相手に押さえ込まれ、逆にアリューシャは頚筋に鋭く重い手刀を受けた。
「ユ……ル……」
 リュバサにはシリアがいる。それでもおまえは攻め込むのか? 朦朧と闇の底へと落ちて行く意識の中で、必死にアリューシャはユーシスレイアに問いかけようとする。まず最初にそのことを……シリアが街にいることを伝えるべきだったと後悔しても、もう落ちていく意識をとどめることは出来ない。
 伝えたい言葉は声にはならず、ただ小さな呼気となって、微かに空気に熔けこむだけだった。
「まだ騎士でもないアリューシャを偵察に出してくるとはな」
 崩れるように意識を失った少年の身体を支えてやりながら、ユーシスレイアは僅かに怒気を含んだ溜息を吐いた。
 リュバサの街の構造上、軍の許可を得ないでアリューシャが自分の判断のみで勝手に偵察に出てくることなど出来るはずもない。たった数ヶ月のあいだで、カスティナの軍は自分が居た頃のものとは性質が変わってきているようだ。そう思うと、少しやるせない気がした。
「……まあ、今更おれがそんなことを憂いる資格はないが」
 軽く肩をすくめて、自嘲する。そうして静かにアリューシャを床に横たえると、ユーシスレイアは何か気配を感じたように幕舎の外に顔を出した。
 外には、いつのまにか小柄な男が膝を折るように控えていた。膝を折ってはいるが顔はしっかりとユーシスレイアを見るように仰向いている。その、糸のように細い笑い目が、どこか愛嬌があった。
「ふ……。やはりビジュか。ちょうど良かった」
 ユーシスレイアは軽く苦笑するように口端を上げた。
 ビジュと呼ばれたこの男は、彼の身の回りを世話する従者の一人だ。"炎彩五騎士の一員"となる以前。怪我の治療を受けていた頃から緋炎がユーシスレイアの世話に付けてくれていた者で、小柄ながら力も強く気配りも利く。
 普段からユーシスレイアは従者たちを傍には置かず、必要な時……呼んだ時に来れば良いと皆には言ってある。しかし何故かビジュは自分が人手を欲しいと思った時には、呼ばずとも必ず目の前にあらわれるという不思議なところがある男だった。
「何かございましたか? 子供の怒声が少し漏れ聞こえておりましたが」
「ああ。捕虜がひとり騒いでいた。今はおとなしくさせたが」
 軽く幕を上げて、幕舎の中で横たわる少年の姿を見せる。ビジュは訝しむように軽く眉を動かした。
「碧焔さまが子供に御手を上げなさるとはお珍しい」
「あまり時間がなかったからな。仕方ないさ」
 苦笑して、ユーシスレイアは再び幕を降ろす。そうしてじっと、ビジュの糸のように細い目を見据えた。
「ビジュ。あの子供をカエナの街に連行してくれ。ここには捕虜をとどめおく場所はない」
 今は湖の周りに幕舎を設え本営をおいてはいるが、作戦の開始と同時にここはすべて陣払いすることになっている。そのことは、ビジュも知っていた。
「承知しました。カエナ港の牢に収容しておきましょう。……それとも、碧焔さまの旗艦になさいますか?」
「……カエナで良い」
 アリューシャをラーカディアストに連れて行こうとは思わなかった。あの生真面目な少年が自分のように敵方に寝返るとは思えなかったし、そんなことをさせるつもりもなかった。
「連行したあと、おまえはそのままカエナで待機。リュバサを落とし、明日の夕刻までにはおれも港に戻るつもりだ」
 淡々とそう言うと、ユーシスレイアは碧い焔を思わせる外套をふわりとひるがえすようにビジュから離れて行く。その足の向かう先は、すべての指揮が執られる碧焔の騎士の幕舎。すでに彼の表情からは、アリューシャへの。否、カスティナへの懐旧は消え失せ、戦意を帯びた白金の瞳が煌いていた。


「そうか。まだ戻らぬか。……捕まったのであろうな」
 逞しい腕を無造作に組んで窓の外を眺めていた男は、足元に跪き『アリューシャ帰還せず』の報告をする臣下を忌々しげに見やった。
 昨夜おそくに、みずから志願してラーカディアスト軍の偵察に出た少年の必死な眼差しを思い出し、更に眉間の皺が深くなる。あの眼差しにほだされて偵察を許可したはいいが、やはりその道のプロではない子供を出すべきではなかったのだ。
「また、アルシェに顔向け出来ないことをしてしまったな」
 報告に来た者を下がらせると、フィスカは溜息をつくように頭を振った。
 先の王都襲撃の際に自分たちを逃すため命を落とした腹心アルシェの恩に報いるどころか、その養い子であった者をみすみす敵の手に落としてしまった。
「アルシェの娘にも、何て言ってやればよいものか……」
「陛下。悔やんでも仕方ありません。彼は未だ正式な騎士ではなかったとはいえ、あと一年もすれば近衛に入る予定だった者です」
 使者と入れ替わるように入ってきたリファラスは、藍色の瞳に苦笑を浮かべて主君であり幼馴染でもある国王を見やる。沈痛に染まるフィスカの表情とは違い、どこかサバサバとした表情だった。
「ましてや、今は亡きアルシェ殿もお認めになられていた優秀な人材。そのような後悔は逆にあの者への侮辱になりますよ」
「だが……子供であることには変わりない」
「そうですね。"帝国出身の人間以外は虫けらと蔑んでいる者たち"ですからね。子供と言えども処刑されるかもしれませんね」
 物騒な言葉とは裏腹に、くすりとリファラスは笑う。まるで、ラーカディアストの軍がそのような無慈悲なことをするはずがないと知っているかのような、達観した口振りだ。
「ふん。また戯言を。……もうよい」
 自分をからかっているのだと悟り、フィスカは不愉快そうに鼻を鳴らした。
「そんなことよりもリファラス。なにか新しいことが分かったのか? 奴らはなんの為に湖の周りに陣を敷いているのだ」
 偵察に出たアリューシャが戻ってこないことで、陣を敷く帝国の目的を知ることもいまだ出来ていない。リュバサの街という特殊な環境に対する安心感はあったが、何も分からないことが逆に不気味で、フィスカは心落ち着くことが出来なかった。
「……そうですね」
 リファラスは王の問い掛けに、藍の瞳を鋭く細めて笑みを消した。
「アリューシャ以外にも密偵は放ってありましたが、戻ってきた者はまだ一人も居りません。しかしつい先刻、一羽だけ戻ってきた鳥がおりました」
 その鳥が運んできた書状には、どうやらラーカディアスト帝国はリュバサの存在をつかんでいるらしいと書かれていた。ただ、帝国は街の詳細な所在も辿り着く術も分からないのか、湖の周りに陣を張るのみで戦を控えた軍独特の張り詰めた様子はないとの報告だった。
「このあとの御前会議にて対策を論ずる予定ですが……。フォルテス殿は『帝国はこちらが動くのを待っているのだろうから動かぬが得策』とおっしゃっておられました。動けば帝国に街の所在を知らせる事になるからと。しかし私は逆に先制を仕掛けた方がいいと思います。なかなか納得してはいただけないでしょうがね」
 リファラスは僅かに苦い笑みを浮かべた。
 国王フィスカが自分の案を是としてくれることは分かっているが、軍事を統括するフォルテスを説得するのには骨が折れそうだった。
 かつては文のリファラス・武のアルシェと優秀な才能が国王フィスカの両翼をしっかりと固め、互いに補いつつ柔軟な運営がなされていたものである。
 しかしアルシェ亡きあと軍務の統括を引き継いだフォルテスには、思考の柔軟さが足りないとリファラスは思っていた。年齢が十歳以上も下だからという理由で昔から、宰相である自分を軽んじている気配もある。
 自分は軍事についての専門家ではなかったけれども、先を見越し物事を見極める目は確かだと自負している。アルシェはそんなリファラスの意見もよく聞き入れ、そして更に良策へと転じてくれたものだったのに。
 ―― アルシェ殿のご子息がここに健在であれば、あのような頑固爺に軍務を引き継がせなくても済んだものを……。
 リファラスはフォルテスの頑迷そうな表情を思い出し、行方不明になっている青年……カスティナの軍神と謳われた将軍。ユーシスレイアのことを思わずにはいられなかった。
「冷徹の宰相と言われたリファラス=リーアらしからぬ、弱気の発言だな」
 フィスカは軽く笑った。彼から弱音らしきものを聞いたのは久しぶりだった。王都からリュバサに撤退して以来あまりに雑事が多すぎて、疲れているのかもしれないと思う。
「余はそなたを信じているのに困ったものだ」
「ありがとうございます、陛下。大丈夫ですよ。年齢が若いからといって侮ってもらっては困りますからね。あの頑固爺はしっかりとやっつけます。……彼の偏屈な思考でカスティナを窮地に立たせるわけには参りませんから」
 リファラスもつられたようにくすりと笑って、肩をすくめて見せた。



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2006.5.10 up