月に沈む闇
第二章 『湖底都市の攻防』
  




第三話

「こんどの碧焔さまは、どんな戦いを見せてくださるんだろうな」
「何しろあの、普段はあまり他人に関心をお持ちにならない緋炎さまが惚れ込んで強く陛下にご推挙なさったって話だからな。実力は確かだろう。頼もしいことだよ」
 兵士たちは少し遅い昼食をとりながら、眼前に広がる湖を眺めて口々にそう囁いた。その口調は戦いが近いという少しばかりの緊張感のなかに、どこか和やかな雰囲気が混ざっている。
 帝国最強といわれる炎彩五騎士。そのひとりである碧焔の騎士を戴いているという安心感から来るものなのだろうか。それとも眩く湖面に降りそそぐ日差しのせいか。兵士たちの間にぴりぴりしたものは感じられない。
「ふん。みんな他人事のように言ってやがるな。碧焔サンは作戦立てたり指揮はとるだろうが、前線で実際に戦うのはお偉方じゃなくて自分てめえら兵士だっての」
 碧焔の騎士に対する期待がおおいに漂う周囲の会話を耳にしながら、他の兵たちからは少し離れた場所で食事をとっていた二人の男は互いに顔を見合わせるように肩をすくめた。
 先ほどから兵士たちの話を聞いていれば、まるで碧焔の騎士がひとりで敵陣に斬り込んで行って決着をつけるとでも思っているような、そんな気楽な雰囲気さえ感じられる。
 もちろん、そんなことを本当に思っている輩はいないのだろうが周囲にながれる空気が戦いを前にした軍という雰囲気でないのは確かだった。
「こんなヌルイ覚悟しかない奴らばかりで、ホントに勝てるのかよ」
 太い木の幹によりかかるように無造作に握り飯を口にしていた若い男は、溜息まじりに天を仰ぐ。ゆるい癖のある黒い長髪をひとつに結んだ男の眼差しは強く、けれども右の目は閉じたまま、その上を大きな刃傷が走っていた。
 新しい傷ではない。かなりの古傷だ。まだ若そうなのに、随分と昔から戦場に身を置いているのだろうと思わせる鋭利な雰囲気が、鋼のような細身の長身全体から発せられている。
「俺やおまえの部下はあんなぬるい思考はしてないだろうけどよ、百人やそこら覇気があったって勝てやしないんじゃねえか? そう思うだろう、クレネル?」
「うーん。そうだなぁ……」
 クレネルと呼ばれた男は軽く唸るように応えると、スープに入っている根菜のひとつを口の中に放り込みながら仲の良い隻眼の部隊長をみやった。
「アッシュはラーカディアストに来てまだ日が浅いから、そう思うのかもなぁ。俺は彼らの気持ちも分かるよ」
「……わかるだって? 本気かよ?」
 黒髪の男……アッシュは、片方しか開いていない藍色の目を剥くように問い返す。まさかこの戦友が、そんなことを言うとは思ってもみなかった。
「ああ。俺はいま戦いを前にして不安よりも楽しみが大きいんだ。ヌルイ覚悟しかしてないというよりも、"いける"というプラス思考が働いてる。みんなそんな感じなんじゃないかな。それだけ碧焔の騎士に期待しているってことだ」
 クレネルはにこりと笑った。
 兵士たちが昼食を取りはじめる少し前に、碧焔の直属部隊『氷鏡』が腹心ラスティムに率いられて整然と陣を離れていく所を、クレネルはぐうぜん見ていた。碧焔の騎士により、既になにやら湖底都市攻略に対しての手が打たれ始めているのだろう。それならば、自分たちは今後の指示に従うほかはない。
「へーえ。俺は炎彩五騎士麾下の軍に加わるのは初めてだが、五騎士が出る戦いってのはいつもこんな雰囲気なんかよ?」
「さあ? 俺もいままで五騎士が指揮する戦に参加したことないから」
 あっさりと、クレネルは応える。思わずアッシュは苦笑した。
「……まあ炎彩五騎士といやあ、人間離れして桁外れに強いって話だからな。期待しちまうのは無理ねぇか」
 それだけラーカディアストの人間にとって、炎彩五騎士は信頼に値する者たちであり、強く支持されているということなのだろう。まだ、帝国の軍に加わって半年ほどの自分にはさほど実感はないけれども ―― 。
 いざ戦いが始まった時に"期待"が求心力を発揮するのか。それとも変わらず依存した雰囲気のままなのか。それによって大きく戦の趨勢が変わるはずだ。
「ま、碧焔サンに関しちゃこれが初陣だから、何とも言えねえけどよ」
 諦めたように吐き捨てると、アッシュは不満を打ち消すようにがしがしと後頭部の黒髪をかきまわす。その無造作な動きが一瞬、ぴたりと固まった。
「 ―― それにしてもこの湖の景観はすごいものだな。あの下に街があるとは、まだ信じられねえよ」
 どこか暢気そうな口調とは裏腹に、どんな些事も見逃すまいとするかのように藍色の左目を大きく見開き、脇に置いていた剣を素早く手に取る。そうして、いつでも動き出せるよう片膝だちに立ちながら、アッシュは周囲の様子を探るように鋭く視線を投じた。
「あはは。信じられない所に在るから隠れた街なんだろうけどね」
 暢気な口調を合わせながらも、同僚に促されるようにクレネルも表情を改め、周囲に気を配る。はたからその声だけ聞いている分には、二人が楽しく雑談しているようにしか思えなかっただろうが。
「…………」
 ややして、黒髪の百人隊長はクレネルに軽く目配せをした。"獲物"はあそこに居る ―― 。
 言葉がなくても互いに意思は通じた。小さく頷き合うと、相手に自分たちの殺気を感じさせないよう注意しながら瞬時に移動する構えをとる。
 その間も"獲物"を油断させるためなのだろうか、意味のない雑談はつらつらと続いていた。不意にその雑談が途切れ、二人は一気に走り出す。
 向かう場所にずれはなく、鋭く"獲物"を包囲する。
「 ―― !?」
 それまで周りを警戒しながら息を殺し、草深い場所と木々の間を縫うようにして歩んでいた"獲物"は、ややして二人が追って来たことに気付いた。けれども時は既に遅く、逃れる術もなくあっけなく身柄を拘束された。
「何すんだ、はなせよっ!!」
「……んだよ。まだガキじゃねえか」
 じたばたともがくように叫ぶ"獲物"をじっくりと見やり、アッシュは呆れたように首を振った。いろいろな状況から推察するに、この"獲物"はこちらの陣を探りに来たカスティナの密偵だろうと思う。
 しかし、それにしてはあまりにも若かった。いま自分たちの目の前で、亜麻色の髪を振り乱してひどく抵抗するこの少年は、まだほんの十六・七歳ほどの年齢にしか見えなかった。
「子供だからって密偵を見逃すわけにもいかないし……やっかいなもの捕まえちゃったな。どうする、アッシュ?」
「ふん。俺はガキを斬るような剣は持ってねえよ」
 舌打ちをするように、アッシュは吐き捨てる。子供は戦場に居るべき存在ではない。
 だからといって「じゃ、帰っていいよ。さよなら」などと解放するわけにもいかなかった。子供だからとて、この少年が密偵であることには変わりがないのだから。
 この子供がこちらの情報を何か得たとは思えないが、戦いを前にして用心に越した事はない。
「仕方ねえから今回の戦が終わるまでは捕虜にしとくか。湖底都市とやらを陥落させたあとは解放してやるから、しばらく我慢しな」
「 ―― !? そんなことされてたまるかっ!」
 リュバサを陥落させるという男たちの言葉に、少年は怒りをあらわに暴れだした。こんなところで捕まっては、自分はカスティナにとってなんの役にも立てないままで終わってしまう。
 それに……自分が偵察に出るということを反対した大切な人に、必ず無事に戻ってくるからと説き伏せてリュバサの街を出て来たのだ。その約束さえも破る事になる。それはどうしてもイヤだった。
「おとなしくしろって。ったく、暴れられると手荒にしなきゃなんねぇだろうが」
 あまりに激しく暴れる少年に辟易したように、アッシュは溜息をついた。甘くしていてはこちらの身がもたないと判断して、仕方なく少年の身体を地面に突き倒すように押さえつける。
 どんなに必死の抵抗も、大人ふたりの力にかなうはずがない。倒れ込んだ地面に生い茂る草が土の匂いとともに口の中に入ってきて、少年に屈辱の味を否応なく味わわせた。
「ぐぅっ……ち……しょう……」
 どうやっても、自分を押さえつけるその腕から逃れることは出来そうにない。悔しさに歯を食いしばり、少年は呻くように身体を捩らせた。
「いったい、何の騒ぎだ?」
 不意に、凛々とした鋭い声音が三人の耳朶を打つように、低く周囲に響きわたった。
 その声が誰のものなのか。アッシュもクレネルもすぐに分かった。本国で調練中に何度も聞いた、人を鼓舞させるように強く響く碧焔の騎士の声 ―― 。
 このすぐ近くには、"密偵"が目指していただろうラーカディアスト本営の幕舎が設えられている。その幕舎の中に、軍を統率するべき碧焔の騎士が居るはずだった。
 兵たちと同様に昼食をとっていたか。それとも戦に関する策戦・指揮の見直しでもしていたのかは知らないが、外でのこの騒ぎを耳にして様子を見に幕舎の外に出て来たのだろう。
「……碧焔様。本営近くをお騒がせして申し訳ありません。アッシュ……アスフィート=ランベルと共に、密偵らしき者を捕まえたのですが、相手がまだ子供のようで、どうしようかと相談していたところです」
 クレネルは丁寧に頭を下げると、問いを発した碧焔の騎士にそう答えた。アッシュは少年を地に押さえつけたまま軽く頭を下げる。
「子供の密偵?」
 ちらりとその様子を眺めやり、ユーシスレイアは不審そうに眉を上げた。
 自分がカスティナに属していた頃は子供がそんな役目を担うなど有り得なかった。子供を偵察などという危険な任務にあてるわけにはいかないという倫理観を抜きにしても、そんな者を使わなければならないほど、カスティナは人材に不足していないはずだ。
「カスティナが子供を偵察に使うとは思えんが……」
 三人のほうへと歩み寄りながら、碧焔は一人ごちた。近付くに連れて視界に飛び込んでくる、どこか見覚えのある亜麻色の髪にユーシスレイアの心がざわりとうごめき、地に押し付けられながら「離せ」と叫びもがくその声も、何故か耳に懐かしかった。
「…………」
 微かな予感を覚えながら少年の傍まで歩み寄り、ユーシスレイアは覗きこむように軽く片膝をついた。
「アスフィート」
 碧焔の騎士は隻眼の男の名を呼んだ。
 その鋭い白金の瞳を向けられて、アッシュは引き込まれるように頷いた。捕虜の顔を検分するつもりなのだろうと理解して、少年の頭を押さえつけていた力をわずかに緩める。
 首から上が自由になった"捕虜"は、まるで噛み付こうとでもするように激しい形相で顔を上げた。自分を捕らえた二人の男にも。新たに姿を現した碧焔の騎士にも、憎しみをぶつけてやらなければ気が済まなかった。
「 ――!?」
 しかしその目に映ったのは ―― ここに在るはずのない人の顔。
 あざやかにたなびく銀色の髪に彩られた端正な容貌も。すべての真実を見据えるかのように鋭利な白金の瞳も。いまは太陽の光が逆光となり全体に影を落としているけれど。
 それでも決して見間違えようはずがないほど見知った人間の、有り得ざるべき碧い姿 ―― 。
「ユ……」
 あまりに信じられないものを目にして、吐きだす言葉さえも凍りついたように少年……アリューシャは、ラーカディアストの兵から『碧焔さま』と ―― 碧焔の騎士と呼ばれた青年を呆然と見上げた。
 何が起きているのか分からなかった。己のすべての思考がたちまち凍り付き、完全に停止してしまったかのようだ。
「……ル?」
「…………」
 その驚愕の眼差しを受け、ユーシスレイアは軽く目を細めた。僅かにざわめく心を鎮めるように、ゆっくりと呼吸をしながらひとつだけ瞬く。
 この少年が生きていたとは思わなかった。いや。生きていたことは悦ばしく思う。けれどもどうして彼がこのような場所に偵察に来ているのだろうか? それがどうしても理解できなかった。
「アスフィート=ランベル。クレネル=コート。その子供は俺が取り調べよう」
 戸惑う感情を一瞬のうちに消し去り、ユーシスレイアは再び白金の瞳に強い眼光を宿す。
 カスティナが子供を偵察に出したことを自分が理解できようができまいが、こうしてアリューシャが密偵として捕われていることは歴とした事実なのだ。認めるより他はない。
 それならば、今はそのことを思案するよりも、今後の判断をすることの方が優先されるべきだった。
「おまえたちは、他に怪しい者がいないか確認してくれ」
 いまだに凍りついたように固まったままの少年を軽く一瞥してから、ユーシスレイアは二人の部下にそう命じた。その口許には、怜悧な笑みがわずかに浮ぶ。
「敵の密偵が来ていたなどと、兵たちにいらぬ動揺を与えるわけにはいかないからな。急げ」
「かしこまりました」
 クレネルが慇懃に応えると、ユーシスレイアは軽く頷いた。そうして再び鋭い視線をアリューシャに向け、その腕をきつく取って歩き出す。
 有無を言わせずアリューシャを連れて行く碧焔の騎士の動きにあわせるように、碧い焔を思わせる外套が大きく風を孕み、アッシュやクレネルの目を奪うようにふわりと空を流れた。
「……ふ……ん」
 少年が再び暴れるかもしれないと考えて、しばらく身構えるようにその姿を見つめていたアッシュは、どうやらそれが杞憂だったと悟る。先ほどまでの威勢はどこへ行ったのか。碧焔の騎士の姿を見たとたんに、少年は嘘のように大人しくなってしまっていたのだから。
「あんな抵抗してたのが急に大人しくなるなんて、やっぱりそれだけ炎彩五騎士っていう存在が、敵方に脅威を与えるってことなのかな。……まあ、碧焔の騎士にあの目で睨まれちゃ、俺でも逆らえないけどね」
 クレネルは可笑しそうに黒髪の友人を見やる。
「それだけが理由ってことはねぇだろうな。……まあ、とりあえず他にも密偵がいねえか見てまわろうぜ」
 どこか間抜けたクレネルの感想に軽く苦笑してそう返すと、アッシュはゆっくりと歩き出した。


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2005.3.16 up