Misty Night


第三夜 『幻惑の華』  後 編



 部屋の大きな窓枠に腰掛けながら、レイフォードは空を見上げた。明け方に降った雨の気配は今はなく、ゆうるりと白い雲が青い天を流れていた。
 ふつうのヴァンパイアは眠る時間。けれども日の光を浴びても灰にならず、弱ることもないレイフォードには、まったく関わりのないことだ。
「まったく……女々しい……」
 レイフォードは肩の上で不揃いに揺れる漆黒の髪をかきあげながら溜息をついた。
 最近、なぜかよく過去の夢を見る。自分がいて、大切な友人がいて、そして……恋人が居た、もう何百年もむかしの楽しかった頃の夢。
 あの頃に帰りたいと思っているわけではない。そんなことは有り得ないし、失われた生命は決して戻らないことだって知っている。
 けれども、どういうわけかこの数週間。眠ると昔の夢を見るのだ。
「サユラであいつに会えたあとだって、夢なんか見なかったのにな。なんだって今ごろ……」
 こてんと柱に頭を預け、気怠るそうに視線を落とす。
 楽しく幸せな夢は、毎夜やってきた。あのころの思い出すべてを再現するように、静かにゆっくりと夢の中で時は流れていた。
 そして昨夜、レイフォードは気が付いたのだ。このまま夢を見続ければ、自分は再び彼らの最期を見ることになる。そして ―― それはこの夜だということに。
 そう思うとどうしても眠ることが出来ず、昨夜は独りで散歩に出掛けたのだ。我ながら情けないと、レイフォードは苦笑した。
「センリもシエナも……俺に関わらなければ、もっと長生きできたろうにな」
 両の耳に飾られた美しい十字のピアスをそっとはずし、手のひらに置いて眺めながら、レイフォードはぽつりと呟いた。言葉はどこか吐き捨てるような淡々とした口調ものであったけれど、その表情はひどく哀しげに歪んでいた。
「…………」
 一瞬、己の白い手と十字のピアスを濡らす真紅の幻影かげを見たような気がして、レイフォードは唇を噛んだ。その幻は、否応なく彼に二人の最期を思い出させる。
 自分と会いさえしなければ長く豊かに過ごしたであろう生を、その中途で無残に奪い取られ終わらされた者たち。二十七年という短いセンリの生。そしてシエナは二十歳にもなっていなかったのに。
 二人が最期に自分に遺したのは、静かな祈りにも似た笑みだった。決して恨みごとを言うでもなく、哀しげな、けれどもひどく穏やかな笑み ―― 。
 ぐっと迫り上がってくる苦く熱い感情を抑えるように、青年は深紅の瞳を震わせ目を閉じた。
「レイフォード様、よろしいですか?」
 扉を軽く叩く音と、聞き慣れた使い魔の声が自分を呼ぶのに気付き、レイフォードはふっと瞼を開けた。己の胸郭を満たしていたすべての思いを拭い去るように強く頭を振ってから、入れと命じる。
 ダストはおずおずと、先程レイフォードが脱ぎ捨てた外套を手に部屋に入ってきた。
「どうした、ダスト?」
 普段はリュカと同じくらいに活発で騒がしいこの使い魔の、あまりにらしくない態度にレイフォードは軽く眉を上げる。ダストが外套をまだ持っていること自体おかしかった。
 あの外套にはリュカが言ったように血が付いているのだ。いつものダストならば、さっさと洗濯をしているところだろう。この使い魔はなんのかんの言いながらかなりの綺麗好きなのだ。
「あの……この服についている血なんですけれど……もしかして、その……」
 ダストは言いにくそうに、主人の顔を見上げた。
「ご主人様の血……じゃないですか? どこか、お怪我でもされたんですか?」
 人間と同じような生活を好んでしているうえ聖獣を傍に置き、他の魔族との交流は一切しないこの青年を嫌っている同族は多い。このザレードの街にずっと彼が居ることで、他の魔族はこの魅力的な街に手が出せないと逆恨みされているとも聞く。
 けれどもそんな者たちでさえ簡単には手が出せないほどにレイフォードは強い。同族の中でも破格の存在だと言われている程なのだ。
 高位の神官と呼ばれる者たちだって、彼を調伏するのに今まで成功した試しがない。
 そんな彼がそう簡単に血を流すほどの怪我をするとは思えなかったけれども、外套に付着した血液から感じられる気配が、彼の尊敬する主人のものに思えて仕方がないのである。
 何を言ってるんだとバカにされるのを願いながら、しかしダストは心配げに眉を寄せた。
「さすがに、馬鹿リュカよりは勘がいいな」
 自分を心配する使い魔に、レイフォードはからかうような笑みを向ける。
「……ああ。おまえとはいちおう血の契約を交わしていたんだったな。分かって当然か。その事をすっかり忘れてたよ。外套は捨てるべきだったか」
「おっ、お怪我は大丈夫なんですかっ!?」
 意外にもあっさりと自分の血であることを認めた主人に、ダストは勢い込んで詰め寄った。誰にやられたのか気になったけれど、今は怪我の具合のほうが心配だった。
「たいした怪我じゃない。ちょっと切っただけだし、もう治した」
 公園でぼんやりと考え事をしているさなか、不意に背後から襲われて首筋に傷を受けたのだと、レイフォードは面倒くさそうに言った。
 普段なら背後の気配に気付かないはずがなかったけれど、夢のことを考えていたせいで明らかに注意力が散漫となり、とっさに避け損ねたのだ。
「もちろん、何万倍にもして報復してやったがな」
 にやりとレイフォードは笑う。
 ―― だからさっきはレイフォード様の機嫌がすこぶる悪く、深く闇に傾倒なさっていたのか。ひとり納得したように、ダストはにこりと笑んだ。
 彼が報復したというのなら、相手は人間ではなく同族だったのだろう。人間に対しては何故かそういう負の感情を彼の主人は抱かない。それが、ダストはもどかしくもあるのだが ―― 。
「そういえば、レイフォード様。あのバカ聖獣はご主人様が人間を襲ったと勘違いしたまま、飛び出して行っちゃいましたけど……探さなくていいですか?」
 あんな小憎らしい、この主人を独り占めにする聖獣は居なくなった方がいいと思ったけれど、念のためにダストはそう報告する。
 レイフォードは一瞬まじまじとダストを見やり、そして苦笑した。
「……なんにせよ、今の俺の『気』は聖獣にとっては毒だろうからな。放っておけ」
「おなかがすいたら、戻ってきますかねぇ」
 ダストはしみじみと呟きながら、軽く首をかしげる。
 いつも喧嘩しているけれど、居なくなると寂しいのだろう。レイフォードはそんな使い魔の様子に、軽く肩を竦めて笑った。


「私が呼び出す前に、ここに来るとは思わなかったわ」
 金色の髪をかきあげながら、女性は突然やってきた来訪者をからかうように、その緑色の瞳にあでやかな笑みを宿す。
「ふ…ん。馬鹿者が人の名を何度も呼ぶからな。うるさくて寝てもいられない」
 男は不遜な笑みを口許に佩いた。その返答に女は一瞬目を丸くして、そして可笑しそうにくすくすと笑声を上げた。
「……う……ん」
 ぐったりと気を失っていたリュカは、ふと聞こえてきた人の話し声に目を覚ました。
 すぐ近くで誰かが会話をしているようだったけれど、自分は何か箱のような物に閉じ込められているようで、そこに誰が居るのかは分からなかった。
 しかも先程とらわれた闇の気配のせいか身体が重く、なかなか動くことが出来ない。ゆっくりと少しずつ身体を動かして、ようやくリュカは箱の隙間から声の主を見ることができた。
 話をしていたのは自分を捕らえたクフェラと……そしてここに居るはずのないレイフォードだった。
「……あー。レイだぁ」
 その顔を見た途端に、リュカは思わず泣きたくなった。ここに彼が居るということは、もしかすると自分を探しに来てくれたのかもしれない。
 時間にすればほんの数時間しかたっていないのだろうけれど、リュカは、青年の漆黒の髪と相手を射すくめるような深紅の瞳を見るのがひどく懐かしく、そして嬉しいような気がした。
 目の前に立つ青年から放たれる気配には既に邪気も闇の彩どりもなく、いつものレイフォードのものだったので、余計に嬉しく感じたのかもしれない。
「レイー!」
 自慢の大声で、自分はここにいることを伝えようとリュカは声を張り上げる。けれども、それは小さな呻きになるだけで何故か声にはならなかった。
 それに気付いて慌てるリュカの前で、クフェラがすっとレイフォードに手を伸ばすのが見えた。
「髪を切っていたのね。昔は、この黒髪が腰まで伸びていて綺麗だったのに。もったいないわ」
 クフェラはくすりと笑い、青年の肩の上で揺れる黒髪をさらさらと弾いてみせる。
 二人は知り合いなのだ。そう気がついて、リュカは目を丸くした。
 レイフォードが自分の髪に触れられて何も言わないことにも驚いたけれど、クフェラの言葉の方が小さな聖獣をより驚かせた。
 彼女は、レイフォードの髪が長い頃を知っている ―― 。
 リュカだって実際には見たことがない。以前ダストがこの青年に「昔みたいに髪を伸ばしてほしい」と言っているのを聞いた事があるだけだ。
 確か、もう数百年も前に髪を伸ばすのをやめたのだと、そのとき彼は言っていた。ということは、クフェラとレイフォードはそれよりずっと前の知り合いということになる。
 リュカは大きな目をさらに見開いて、じっと二人の様子を見つめた。
「それに、随分と無粋なものを付けているのね。これ、あの兄妹のペンダントでしょう?」
 憎々しげに、クフェラは青年の耳元に揺れる十字のピアスを見やった。
 あの腹立たしい人間の兄妹がひとつずつ。この十字の形をした小さなペンダントをしていたのを自分は見たことがあった。それを、この男はピアスに替えて己の身に着けているのだ。
 そう思うとクフェラはよけいに腹が立った。
「触るな」
 抵抗せずに髪を触らせていたレイフォードは、彼女のその指が髪からピアスへと動こうとした瞬間、ぴしゃりとそれを弾き飛ばし、睨み据えるように深紅の瞳を閃かせた。
「……どういうつもりだか知らないが、あれはおまえの仕業だったわけだな」
 極低温の声音がレイフォードの口から零れ落ちる。怒りと悲しみが入り混じったような、複雑な眼光。
「それに今まで気付かなかった俺も、たいがい間抜けだが」
 ゆうるりと、青年は頭を振った。
「あら。私はてっきり、気付かない振りをして幸せなところだけ見ておこうとしているのかと思っていたわ。まさか本当に気付いてなかったなんてね。落ちぶれたんじゃない? レーイ」
 クフェラはからかうように唇を歪め、にたりと笑った。
 それは端から見れば鳥肌が立つほど美しい笑みで、しかしひどく妖しい彩を織り成している。
「おまえみたいな夢魔に付け入られるんだから、そうかもしれないな」
 ふんと、レイフォードは顎を上げた。言っていることばは殊勝そうに聞こえるけれど、その表情は思い切りクフェラを馬鹿にしたものだった。
「……そうやって、あなたはいつも同族を見下すのね。人間なんかを大切にして」
 ふいっとレイフォードから顔をそむけたクフェラの表情が、脇の箱中から様子を見ていたリュカにの目にハッキリと映る。
 ひどく悔しそうに、それでいてとても哀しそうに彼女の唇がわなないているのを見て、リュカははっと気が付いた。彼女は、レイフォードが好きなのだ ―― 。
 クフェラと自分が知り合ったばかりの頃。どうしてザレードの街に引っ越してきたのかと聞いたときに、彼女は言ったのだ。
 大好きな人がこの街に住んでいるからだと。今までは遠くから見ているだけで良かったけれど、どうしても、近くに来たい理由ができたから、ザレードに来たのだと。
 でも、その人にはずっと昔から大切にしている存在がいて……だから、自分は同じ街の中で生きることが出来ればそれでいいのだと……そう言っていた。
 いま考えてみれば、リュカは彼女にレイフォードのことばかり話していた気がする。そして彼女は、ずっとそれを嬉しそうに聞いていたのだ。
 だからリュカは彼女が邪気を隠した魔物だなんて気がつかなかったのだろう。自分の話を聞いて喜んでくれた彼女の心は、本物だったのだから……。
「……ねえ、レイフォード。この子はあなたにとって何?」
 ひょいっと横に置かれていた箱の蓋を開いて、クフェラはリュカを包み込むように抱き上げてみせる。ふっと前方に戻された彼女のその表情は、既に己の感情のかけらは消えていた。
 レイフォードはとつぜん目の前に引き出された聖獣の姿に目を見張った。いつもうるさいくらいに元気なリュカが、ぐったりと伸びている。
「リュカ。本当におまえは、俺を騒動に巻き込む達人だよな」
 深紅の瞳の青年は溜息をつくように髪を揺らした。そして仕方なさそうにくすりと笑って、レイフォードはリュカにそっと手を伸ばす。
 からかうような笑みを浮かべたその表情は、しかしクフェラが見たことのないひどく暖かいものだった。
「そんな聖獣さえも大切にするくせに……」
 唇を噛み締めた彼女をおおう闇の気配が強まって、腕に抱かれたリュカはうっと息が詰まる。
「どうして同族をそんなに嫌うのかしら。自分の中の魔性が彼らを殺したから?」
 そう言ってレイフォードを見上げる彼女の顔は、ほの暗い笑みを浮かべていた。己の気持ちを封じ込めたのか。それとも、だからこそ憎いのか。確実にこの青年の傷を広げるような言葉を捜した。
「だから同族を避けて、こんな聖獣を傍においているわけよね? もう、自分の中に潜む魔性が暴走したりしないように」
 さあっとレイフォードの顔から血の気が失せたのを見て、可笑しそうにクフェラは笑う。
「……クフェラちゃん……だめだよ……」
 大きな黒い瞳に涙をためて、リュカは彼女を見上げた。もう分かってしまったから。彼女の気持ちが、リュカは切なくて仕方がなかった。
 けれどもクフェラの言葉は止まらない。レイフォードに止めを差すかのように、くすりと笑って彼の心の闇を静かに冷たく暴いていく。
「でも……それは欺瞞よね。だって、死んだ人はもう戻らないのよ。大切な人を殺したのは、他の魔族でも誰でもない。あなた自身なんだものっ!」
 罪を告発するように、クフェラはレイフォードの深紅の瞳を食い入るようにじっと見つめた。怒って、あなたの自尊心を……思い出を踏み躙る自分に報復しなさい。
 クフェラの狂気のような激しい眼差しは、まるでそう言っているようだとリュカは思う。
 その視線を静かに受け止めて、レイフォードは深く息を吐き出した。
「そうだよ。あいつを殺したのは……俺自身だ。だが自分の魔性が抑えきれなくなったわけじゃない。ハッキリと自分の意思を持って行動したんだ。それを忘れるつもりはないさ」
 静かに、レイフォードはそう言った。
 もっと激情するかと思った。怒り、そして憎悪に燃えて彼は自分を殺してくれるのではないかとさえ、思っていた。それなのに、どうしてこんなに静かなのだろう?
 クフェラは不思議なものを見るように、レイフォードの顔を呆然と見上げた。
「それに……後悔してはいないんだよ、俺は。センリたちの生命を奪ったことを後悔したら、出会ったことさえも否定しなくてはいけないからな」
 ゆうるりと、レイフォードは笑った。
 どこか幸せそうに、そして今にも泣き出しそうな。不思議な笑みだった。
「なんで……そうなのよ。あなたは……」
 クフェラは力が抜けたようにぺたんと地面に座り込んだ。
 レイフォードがあの兄妹を殺したと伝え聞いたとき、何か深い理由があったのだろうと思った。それが何かはわからなかったけれど、理由もなしに彼が大切な存在に対して、そんなことをするはずがないという事くらい、クフェラにも分かっていた。
 ましてや彼の魔性が暴走することなど、有り得ない。
 けれども、それを故意に見ぬ振りをして攻撃したというのに。あっさりとこの青年は自分に思い知らせてくれるのだ。彼にとって、あの兄妹がどれだけ大きな存在だったのか。そして自分がどう足掻こうとも、レイフォードの心に入ることは出来ないのだと ―― 。
 ずっと、ずっと好きだったのだ。深夜の散歩をする彼を初めて見かけたときから、ずっと……もう何年もの間。ただ見ていたのだ。
 そしてようやく意を決してクフェラがレイフォードに話し掛けることが出来た時にはもう、彼の中にはあの兄妹が居た。彼らがこの世を去ったあとも……何百年もの間、それは揺るがない。
 そう考えて、クフェラは可笑しくなった。
 くすくすと笑いながら、その美しい頬には透明な雫が幾つもこぼれ落ちた。
 本当は、彼に殺して欲しかった。自分の長かった寿命はもうじき尽きようとしている。それを悟ったからこそ……自分はザレードの街にやってきたのだ。
 誰からも忘れ去られるように消えていくよりは、この青年の手で散りたかった。でも……。
「もう、いいわ。もう……あなたたちに関わらないわ」
 そっと、リュカをレイフォードに差し出すように彼女は言った。レイフォードは軽くそれを受け取ると、バカ聖獣と呟いて、軽くリュカにげんこつを落とす。
「ふーんだ。今回はレイだって悪いのになぁ」
 リュカはへらへらと笑った。
 今までずっと闇の気配におおわれていたせいで体力が尽きかけていたのか、ヴァンパイアである友人の腕の中で安心したように、リュカはこてんと眠りに落ちる。
 その能天気そうな聖獣の顔をしばらく眺めてから、レイフォードはふと、座り込んだままの彼女にその深紅の瞳を向けた。
「クフェラ。おまえの最期の華は、どこに居ても見届けに行ってやるよ」
 苦笑するように、しかしどこか優しい笑みを、レイフォードは彼女に向ける。
 クフェラは驚きに顔を上げ、そうして他人にではなく初めて自分に向けられた彼の笑みを見た。
「あ……」
 最期の華。それは寿命が尽き自分が土に還る前に咲かせる命の華だ。ひとり消えてゆくのではなく、彼がその最期を見届けてくれるというのか ―― 。
 ふわりと、クフェラの表情に穏やかな笑みが浮かんだ。初めてリュカがザレードで彼女を見かけたときの、優しくて強い、月下に咲く花のような。
「じゃあ、な」
 レイフォードは軽く手を上げると、くるりと彼女に背を向けて歩き出した。
「きっと……見届けてね……」
 近い将来訪れるであろう、自分の寿命の終焉も。これでもう怖くはない。
 クフェラは静かに微笑んだ。そして、愛しい青年の笑みと言葉をそっと心に焼き付けるように。いつまでもその後ろ姿を見送っていた。


「ねー、レイ。100年に一度くらいなら、仕方ないよね。餓えたら大変だもん」
 屋敷に帰る途中、ぱっちりと目を覚ましたリュカは突然わけのわからないことを言ってレイフォードの片眉を上げさせた。
「何の話だ、それは」
「レイが、人を襲って血を吸う回数」
「……バカ聖獣」
 おもいっきり蔑むように口端をつりあげて、レイフォードは吐き捨てた。今までそっと抱きかかえていたリュカの首根っこをむんずと掴んで、今度は乱暴に目の前にぶら下げる。
「おまえはもう少し、聖獣としての自覚と力を学んだ方がいいんじゃないか? 俺はいつまでもおまえのお守りをしてる気はないんだよ。バカ聖獣!」
「そんな……何度もバカバカ言うなよー!」
 リュカはじたばたと暴れるように足を泳がせると、むうっと口を尖らせた。
 今回のことは、自分よりもレイの方が悪いんだ。自分は被害者なんだぞと喚き散らして、レイフォードの頭をぽかぽかと殴る。
 レイフォードはもう一度「バカ聖獣」と呟いて、可笑しそうにリュカを見おろした。
「俺は、人を襲わなくても餓えたりしないんだよ」
「えっ? ほんとに?」
 ぱっと、リュカは明るい笑顔を満面に押し出した。餓えてしまうなら仕方ないと思ったけれど、人を襲わなくても大丈夫ならそれに越したことはない。
「ふふん。襲わなくても、美女の方が自分から提供してくるからな」
「な……なんだよそれはーっ!!」
 どこまで真実で何が冗談なのか分からないと、リュカは怒ったように小さな腕を天に突き上げる。
「おまえはどっちだと思うんだよ?」
 レイフォードはくすりと笑うと、からかうように深紅の瞳を細める。リュカは少し考えるように、ちょこんと首をひねった。
「……うーん。どっちでもいいや。レイはレイだもん。もう、怖がったりしないからなっ」
 へへっと、リュカは照れを隠すように笑った。
 かつてこの青年が友人の命をその手で奪ったのだとしても。自分はレイが大好きなのだ。それは、変わらないとリュカは思った。
 過去に何があったのか。知りたくないといえば嘘になる。もっともっといろいろなことが訊きたい。けれど、やはりどうでもいいとも思う。
 過去の彼がどうであっても、今ここにいるレイフォードは、何のかんのと言いながらも結局はいつもこうして自分を迎えに来てくれる。そういう人なのだから。
「ほぉ? 怖がったのか、俺のこと」
 にやりと笑い、レイフォードは純白の聖獣の頬をつつく。
「わーん。ごめんってば」
 ひょいっとどこかの家の塀の上に自分を置き去りにしようとする青年の腕にしっかと抱きつきながら、リュカは叫んだ。
「まあ、ダストが寂しがるからな」
 仕方なさそうに肩を竦め、リュカを再び肩に乗せる。きちんと定位置に座ったのを見て取ると、レイフォードはふと空を見上げ、そっと髪をかきあげるように耳元のピアスに触れ、静かに笑った。
 そうして、ゆっくりと。いつものように二人は丘の上の屋敷へと戻っていく。
 穏やかで心地よい空間を織り成して自分たちの帰りを待っている、その場所へ ―― 。


第三夜 幻惑の華 おわり


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2003.7.6 up

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