Misty Night



第四夜 『覚醒の空』  前 編



 ぴかぴかに磨きこまれた床にぐったりと真っ白な身体を寝そべらせて、リュカは呻くように息をついた。ひんやりと冷えた床の硬さが、熱っぽく火照る身体にほんのり気持ち良い。
 己の口から吐き出される呼気さえもひどく熱かった。身体中が熱を発しているような気もするが、逆に悪寒が走って身震いもする。じっとしていると苦しい。動いても身体がひどく重くてだるい。
 なんとかこうして這うように居間まで辿り着いたけれども、これ以上はもう一歩も動けそうになかった。
「れーーいーーー。苦しいよぉ」
 もうどうしていいのか分からなくなって、リュカは助けを求めるようにか細い悲鳴にも似た声を上げる。熱でぼんやりと霞む目に、居間のソファで寝転ぶように本を読んでいるレイフォードの姿が見えた。
 けれども頼みの青年は、いっこうにこちらを向こうとはしなかった。
 不思議に思い耳をそばだてると、すうと静かに寝息を立てている様子が伺えてリュカは泣きたくなった。おそらく、本を読んでいるうちに眠ってしまったのだろう。
 いつもならば耳元で大声でわめいたり、顔の上にかぶさって起こすのだけれども。今はそんな元気なことは出来そうにもない。身体がだるいせいか、声さえもまともに出ないのだ。
「なんで寝てるんだよお……」
 いつもの能天気さは影を潜め、リュカはこのまま自分が誰にも見つけてもらえないまま死んでしまうような気がして心細くなった。
 早く起きてくれないかなと泣き出しそうになりながら、もう一度レイフォードを見やる。
 その祈りが通じたのか、レイフォードのまぶたが微かに震え、深紅の瞳がぱちりと開いた。
 自分が本を持ったまま眠っていたことに気が付いて軽く苦笑すると、まだ眠気が醒めていないように、いささかぼんやりとソファから身体を起こす。
 そうして床に転がっている小動物を見つけて、レイフォードは軽く眉を上げた。
「……何をそんなところで転がっているんだ、リュカ?」
「うごけなーい」
 リュカは普段の5割増ほどうるうると潤んだまんまるな瞳で青年を見上げ、ひとことだけそう言った。気が付いてもらえたことにほっとすると同時に、少しばかり残っていた気力も尽きる。そう言うのが精一杯だった。
 そのぐったりとした様子を見る限り、冗談などではなさそうだ。レイフォードは眉をひそめるようにリュカの正面に片膝をつくと、黒い瞳を覗き込んだ。
「街で人間の風邪でももらってきたか、バカ聖獣が」
 憎まれ口を叩きながら、レイフォードはリュカの小さな身体をそっと抱き上げる。普段はふわふわとした純白の綿毛のように柔らかくなめらかな身体が、ごわごわと色艶も悪い。しかも触れる手にひどく熱かった。
 仮にも神に愛でられた聖獣が人間の風邪ごときをもらってくるとも思えなかったが、その症状はこの時期に多くの人間がかかると言われる流行性感冒とよく似ている。
「……そっかあ。おれも風邪ひくんだねぇ」
 リュカはぐったりとしながらレイフォードを見上げた。いままで街を散歩してはいたけれども、そんなに病人の間を行き来していたつもりはなかった。だが人間の病気が神の眷族である自分に伝染うつるとは思ってもいなかったし、注意を怠っていたといわれれば確かにそうだった。
「ふん。バカは風邪ひかないって言うんだが、たまにはそういうこともあるんだな」
 レイフォードは手の中でぐったりとのびている聖獣を眺め、にやりと口端を吊り上げる。
 風邪ならば、聖獣であるリュカはすぐに治るだろう。神の眷属は魔などが放つ穢れには弱いが、基本的に細菌などには強く病気をしない生き物だといわれていた。
 何かの拍子でかかってしまったとしても、己の聖なる気ですぐに治るのだと、レイフォードはかつて友人から聞いたことがある。だからひどく具合が悪そうな聖獣を気遣いながらも、深刻には心配していなかった。
「ひどいなぁ。本当に苦しいのにさー」
 こんな時までも自分を『バカ聖獣』呼ばわりする青年に、リュカは拗ねたように口を尖らせた。
 不意に、可笑しげだったレイフォードの表情がすうっと真顔に戻った。切れ上がるような深紅の瞳が鋭い煌きを帯び、リュカの身体を凝視する。その純白の胸から腹にかけて、うっすらと黒味がかったまだらな模様が点々と浮かび上がっているのが目に付いた。
 さわっと指で触れてみたが、どうやら汚れではない。この聖獣の身体にそんな斑点を見たのは初めてで、レイフォードは考えるように口元を引き結んだ。
「どうしたのさぁ、レイ?」
「……いや。とりあえず、おまえはここで寝てろ。あとでダストが帰ったら、薬湯を作らせる」
 レイフォードは気を取り直したように軽く笑うと、リュカの寝床である籐籠を毛布でくるみ、小さな身体をそれに横たえる。暖炉にも火をくべて、部屋を温かくもしてやった。
 その上で、ひんやりと冷たい布を熱にほてったリュカの顔にあてる。不本意ながらも、レイフォードは風邪をひいた病人への思いつく限りの応対はしたつもりだ。
 ずいぶんと昔 ―― もう何百年も昔のことだが、やはり同じように風邪をひいた人間を看病したこともある。そのときよりは少し手馴れているはずだと、レイフォードは苦笑混じりにそう思った。
「じゃあなリュカ。しっかり休みな」
「ええっ? 行っちゃうの、レイ? 一人じゃ寂しいよお」
 あっさりとそう言って自分の傍から去ろうとした青年に、リュカは拗ねたように訴える。自分にとっては初めての病気なのだ。苦しいし、だるいし、怖い。独りになってしまうのはあまりにも心細い気がした。
「……ったく。ガキか、おまえは!」
 あきれたように片方の眉を吊り上げ、レイフォードは泣きごとを言う聖獣を見おろした。しかし本気で心細げなリュカの黒い瞳が、じぃっと自分見上げてくるのに深い溜息をつく。
「この、バカ聖獣が」
 怒ったように言いながらも脇のソファに腰を下ろしてしまうあたりが、己の使い魔に『ご主人様はあの聖獣に甘すぎる』と言われる所以なのだろう。
 自分の時間をこんなことに取られるというのは、まったくもって不満なことだ。しかし ―― リュカの身体に見られる斑点が、ただの風邪ではないことを示しているようで、気にもなった。
 やはりここはもうしばらくリュカの様子を見ていよう。レイフォードは仕方なさそうに頭を振ると、静かに椅子の背もたれに身体を預け、先ほどまで読んでいた本を再び手にした。


「珍しいなぁ。おまえ一人で夜の散歩かい?」
 新月が早々と西の空に沈み、静かな闇色に包まれた夜空を一人でハタハタと翔んでいたダストは、声をかけられて振り向いた。
 高い塔の天辺にゆったりと腰を下ろし、にこにこと人懐こそうに笑っている亜麻色の髪の青年の姿を見付け、ダストは目を見張った。
「アデルフィオ……さん?」
「おー。覚えていてくれたんだねぇ。おにーさんは嬉しいよ」
 取ってつけたように『さん』をつけて名を呼んだダストに、青年はにこりと笑った。まるで見えない翼でもあるようにふわりと宙に舞い上がり、ゆるやかに飛翔するようダストのもとへとやって来る。
「おまえのご主人様は、相変わらず不遜に元気なのかい?」
「……もちろん、お元気です。レイフォード様を害せる存在など、この世にはいませんから」
 青年の言い草が気に食わなかったので、思わずダストはむっと口を引き結びそう応えた。アデルフィオは気を悪くしたふうもなく、からからと声を上げて笑った。
「まあ、そうかもなぁ。彼を害せるとしたら、あの世に居る人だけだろうからね」
 なかなかきわどいことを言いながら、楽しそうにダストを眺めてくる。そんなアデルフィオに、相変わらず掴み所のない男だとダストは溜息をついた。
 彼は自分やレイフォードのような魔族ではない。ましてや人間でもない。神の眷属といわれる者。天人あまつひとや天使という呼び名を持つ者だ。分類するならば、リュ力の同類と言って良いだろう。
 本来ならば、こんなふうに気軽に魔族に話しかける天の者などいるはずもないのだが ―― 。
「……こんなところで何をやってるんですか?」
 それでも一応は、彼が自分の主人であるレイフォードと知り合いということを考慮して、失礼にならないように言葉を選ぶ。けれども魔に属するダストには苦手な相手だった。
 リュカと一緒にずっと生活をしているせいか、以前ほど聖なる存在の持つ『気』に対して苦痛を感じなくなったけれど。今でもあまり得意とはいえない。
「うん。たまには夜空の遊泳も楽しいかなと思ってね」
 やはりにこりと笑って、アデルフィオはそう言った。
「君は何をしていたのかな?」
「……僕は、レイフォード様のお好きな紅茶の葉が切れてしまったので、エルナの都まで買いに行っていたんです。では、急ぐので失礼します」
 あまり関わっていたくなかったので、ダストはくるりと方向を変えて飛び去ろうとする。その身体には、よく見れば大きな袋のようなものを重そうに提げていた。買って来たという紅茶の葉なのだろう。
 ザレードにも茶葉は売っているけれども、最もレイフォードが好む茶葉は都にしか売っていなかった。
 エルナの都からザレードは程近いとはいえ、歩いていけばかなりの距離がある。街で買い物をするときは人型を取っていたけれども、早く屋敷に戻ってご主人様に紅茶を入れたかったダストは、行きも帰りも本性であるコウモリに立ち戻り、重いのもなんのそので空を飛んでいたのだ。
 それでもこんな時間になってしまった。こんな男などにかまっている暇は、ダストにはなかったのである。
「ふうん。麗しき主従愛だねぇ。羨ましいな」
 くすりと、アデルフィオは笑った。
「君が主人を想う気持ちに感じ入ったってことで、おにーさんが手伝ってあげよう」
 ひょいっと手を伸ばし、青年はダストの首に掛けられた袋を取り上げる。
「あっ。返してください!」
 慌ててダストは青年から袋を奪回しようと体当たりするように立ち向かう。しかしアデルフィオはにこにこと笑ったまま、ひょいひょいとかわし、いっこうに返してくれる様子はない。
「一緒に行ってあげるって言ってるのに」
 必死な様子でハタハタと周りを飛び回るコウモリを面白そうに眺め、天の青年は微笑んだ。自分が行けば、おそらくあのヴァンパイアは良い顔はしないだろうということは分かっていた。
 けれども、アデルフィオはくすりと笑顔を見せる。
「たぶん、私の力が必要になっていると思うよ。君のご主人様はね」
 人間が見ればうっとりしそうなその笑みが、どこか薄ら寒い微笑だとダストはそう思った。
「レイフォード様が、他人の力を必要となさるはずもありません」
「そんなことはないよ。彼だって万能の神ではないんだからね」
 わざとらしく右手のひとさし指でダストの小さな頭をつつきながら、アデルフィオは言う。
 あたりまえだと、ダストは思った。自分の主人が神であってたまるかと思う。主人は他に追随を許さないほど強く、そして……誇り高きヴァンパイアなのだから。
「ってことで、さあ出発するよ。こうもりくん」
「あ……ちょっと待ってくだ……!!」
 けれども、あまりに強引なアデルフィオの言動に、ついにダストは自分に同行して屋敷に来るというその申し出を、断ることが出来なかった。


「……すみません」
 ダストは第一声にレイフォードに謝った。
 アデルフィオの姿を映したレイフォードの深紅の瞳が、瞬時に苛立たしげに細められるのを見て、やはりあの男を連れて来るべきではなかったと後悔する。しかし後悔先に立たず、だ。
「ふ……ん。別におまえが悪いわけじゃないだろう。あいつは他人の迷惑を考えないからな」
 吐き捨てるようにそう言って、レイフォードはダストの肩を軽く叩く。災難だったのは、苦手なはずの聖気をここに来るまでずっと近くに感じなければならなかったこの使い魔だろう。
「ダスト、帰ったばかりで悪いが、落ち着いたらリュカに薬湯を作ってやれ。熱を出して寝込んでる」
「えっ? 馬鹿が風邪をひいたんですか!?」
 思わず目をまるくして、ダストは叫んだ。あの小憎らしい聖獣が熱を出すなどと想像したこともなかったが、驚くこともあるものだと思う。
「まあ、そういうことだな。馬鹿の風邪はしつこいとも言うから、少し看ていてやれ」
 使い魔のその様子が可笑しくて、レイフォードは深紅の瞳をゆうるりと細め、くっくっと肩を揺らした。
「レイフォード様は……」
「ああ、俺はあいつと話す。おまえは近付かなくていいぞ。あんな奴には茶を出す価値もないからな」
 眼光鋭く、レイフォードは勝手に客間に入って寛いでいる亜麻色の髪の青年を睨み据える。
 ダストはこくんと頷いた。頷きながらも、やはりと思う。以前もそうだった。あの天の者を見るレイフォードの眼差しは鋭く厳しいが、その口調はどこか気安いのである。
 だからダストはいつも迷うのだ。レイフォードはあのアデルフィオという男を嫌悪しているのか。それとも親しいゆえの酷評なのか ―― 。
 心底この主人が彼を嫌っていると分かっていれば、何があろうと絶対に連れて来たりはしないのだが。
「分かりました。僕は、あの馬鹿聖獣を看病してきますね。レイフォード様も、ご無理はなさいませんよう」
 ぺこりと頭を下げてから、ダストは薬湯を作りに台所へと駆けて行く。それを見送ってから、レイフォードは大きな溜息をついた。
 そうして客間に入ろうとして、ふと立ち止まる。
 いつの間にか、目の前にアデルフィオが立っていた。
「相変わらずひどいことを言うね、ヴァンパイアくん。私だってお茶くらいは飲みたいんだけどな」
 にこにこと、亜麻色の髪の青年は笑っていた。
 彼はけっして自分の名を呼ばない。それは人間のように"魔"を怖れているからではなく、単に自分をからかっているに過ぎないということをレイフォードは知っていた。
 それで怒るほど、レイフォードは子供ではない。けれども歓迎するいわれもないので、つと口唇に冷笑を佩き、妖しやかな眼光を深紅の瞳に立ち上がらせる。
「そんなふうに俺に近付いて良いのか? ちょうど喉が渇いているところでな。また"尊い御身"の血液で渇きを癒してもらうことになるぞ」
 他者が今のレイフォードを見れば、ぞっと背筋が凍ったかもしれない。気の弱いものが見たらその眼差しだけで卒倒したに違いない。リュカなどが見たことのない、否、ダストでさえ見たことがないだろう、艶やかにも恐ろしい魔の表情。いつもは静かな深紅の瞳が、まるで血の色に見える。
「うん。そうかもしれないね」
 アデルフィオはしかし、怖れる様子はなかった。くすりと、どこか聖なる存在とは思えない人の悪い笑みを浮かべ、じっとレイフォードの目を覗き込む。
 天人の血液はそれ自体が聖気だ。並大抵のヴァンパイアに喰せるような代物ではない。けれども『また』と言うからには、レイフォードは以前にも彼の血を飲んだことがあるのだろう。
「でも、今の君に出来るのかな? すぐ近くにリュカが居るよ」
「ふん。馬鹿らしい」
 にやりと唇を吊り上げて、レイフォードは青年の胸倉を掴む。そのまま、だんっとアデルフィオを乱暴に客間の壁に押し付けた。
「俺は自分がやりたいように生きている。誰のことも関係ないんだよ」
 唇が耳に触れそうな程に、レイフォードは天の青年に顔を近づける。僅かに顔を傾ければ、そこはすぐにアデルフィオの首筋だ。
「またそうやって。君は本当に偽悪趣味だよね。リュカがここに来てから百年余り、血を摂ってはいないんだろう? あの子にその"気"は毒だから」
 今にも己の首筋に襲い掛からんという体勢のヴァンパイアに向かって、アデルフィオは可笑しそうに言う。
「……あほか」
 レイフォードは呆れたように深く息をついた。襲い掛かる気力もなくなったようにげんなりと身を離し、壁に押さえつけていたその手も放す。
「何を根拠に言ってるのかは知らないが、俺はべつに我慢などしていない。血が欲しくなれば好きにやってる。好んで提供してくる馬鹿もいるからな」
 不愉快そうに大きな音を立てながら手近な椅子に座り、レイフォードは苦笑する。その瞳からは既に邪気も冷気も消え失せ、いつもの静かな深紅に戻っていた。
「まあ、昔から俺は喉の渇きを覚えることも少ないがな」
「おや。今は渇いているんじゃなかったのかい? さっきそう言っていたよね」
 くすくすと、アデルフィオはからかうように笑った。
「……ったく。おまえを見ると喉が渇くんだよ。そのへらへら笑ってる顔を引き裂いてやりたくなる」
「私は君に嫌われているからねぇ。こわいこわい」
 実際には怖がっている様子もなく、アデルフィオは少し肩をすくめた。そうしてゆっくりと壁から身体を起こし、レイフォードの向かいの椅子に腰を下ろす。
「……一度は死ぬほどボロボロにやられた相手に、よくもまあそんなふうに笑って近付いて来れるもんだ。ある意味尊敬するよ、おまえのこと」
 レイフォードは呆れたように、しかしどこか可笑しそうに口端を上げた。
 リュカも大概能天気だが、この男もそれに負けてはいない能天気さだ。神の眷属というのはみんな思考回路が幸せに"おめでたく"出来ているのかと、勘繰りたくもなってくる。
「だって君は面白いからねえ」
 アデルフィオは琥珀の瞳を面白そうに細め、既に和んでいるレイフォードの顔を見やる。
 確かに一度はこの魔族の青年に殺されるような目に遭わされた。しかしそれは自分が悪かったのだと、今アデルフィオは知っている。それ以来、顔を合わせれば今回のように脅かしてくるこのヴァンパイアは、それでも以後一度も本当に襲い掛かってきたことはなかった。
 最初のうちはさすがに、己の身に降りかかった惨状を思い出して内心怯えはしたけれども、理由あって何度か顔を合わせた。そのうちに、怖くなくなった。それどころか、何故だかときどき無性にこのヴァンパイアに会いたくなる自分が居て、アデルフィオは可笑しかった。
 この、魔族としての力は破格の存在であるくせに、まるで闇の禍々しさを持たないヴァンパイアは非常に興味深い。しかも、聖獣がこの青年を『友』と呼び懐いているとあっては尚更だ。
 その聖獣は当のヴァンパイアからは友人と認められてはいないようだけれども ―― 。
「面白いと言われても嬉しくないな」
 レイフォードは不本意そうに頭を振った。肩の上で不揃いに揺れる漆黒の髪が、その動きにあわせて軽くおどる。隙間から、小さな十字のピアスがちらりと覗いた。
「それにしても、百年以上も顔を見せなかった奴が何の用で来た?」
 すっと深紅の瞳を細め、レイフォードは亜麻色の髪の青年を睨み据える。聖獣のリュカが熱を出したこの時期に、同族の天人が現れたということが偶然とは思えない。
「君に会いに来たんだよ」
「ふざけるな」
 冷ややかに、レイフォードは相手の戯言を中断させる。その凛とした眼光を放つ深紅の瞳に、アデルフィオはひどいなぁと小さく溜息をつくと、ふうっと微笑んだ。
「君の思っているとおりだよ。私の力が必要なんじゃないかと思ってね」
「……ふん。ということは、やはり風邪じゃないんだな」
 軽く舌打ちをして、レイフォードは呟いた。ただの風邪ならば、あんな斑点が現れるはずもない。聖獣の病気など自分に分かるわけがないので、確かに同族である天の者の助けが要るのかもしれない。
 ―― もちろん、こんな"いけ好かないヤツ"の助けを借りるのは大いに不本意ではあったが。
「で、何が原因なんだ?」
 そう訊いて来るレイフォードの様子は真に聖獣の身を案じているようで、アデルフィオは更に可笑しくなる。
 これが本当に破格的に強い魔族だとは ―― かつて自分がその力を目の当たりに……身をもって知っていなければ、きっと信じられなかったに違いない。
「レイフォード様!! 大変です。リュカが……!」
 ばんっと扉を乱暴に開け、突然ダストが客間に飛び込んで来た。
「どうした、ダスト?」
 レイフォードは深紅の瞳をすっと細め、乱入してきた使い魔を見据えた。
 主人であるレイフォードがいる部屋には、普段は決して許可を得ずには入って来ないダストが、ドアを壊すような勢いで入ってきたことも。今までずっと故意的に呼ぼうとしなかった聖獣の名を呼んだことも。ただ事ではない何かがリュカに起こっているのだと、悪い想像をさせる。
 ダストは息を切らせるように肩を上下させながら、じっと主人の目を見つめ返した。
「薬湯を持っていったらリュカのヤツおかしなことになってて……」
 驚きのあまり、思わず薬湯を床にぶちまけて、慌ててレイフォードを呼びに来たのだと言う。
「……本当にあいつは世話が焼ける」
 レイフォードは軽く舌を打つと椅子から立ち上がり、ちらりとアデルフィオを一瞥する。そうしてひとつ溜息をつくと、仕方がなさそうに客間を出て行った。



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