降り頻る月たちの天空に-------第3章 <3>-------
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 ふと、誰かの視線を感じたような気がしてティアレイルは流月の塔を見上げた。
 光を浴びて白く輝く塔の最上部に、無機質な感じのする白い双眸がぼんやりと浮かび上がっているように思えて、小さく息を呑む。
「今のは……?」
 塔の先端にかかるように浮かぶ太陽の光が眩しくて、ひとつ瞬きをしてから、ティアレイルは手をかざしながら更に塔を見た。
 もうそこに双眸などは見えなかったけれど、塔の最上部の外壁に太陽光を反射して煌くようなものが嵌め込まれているのに気づき、軽く首を傾ける。
 ティアレイルたちのいる地上から塔の天辺まではかなりの距離があるので、それが何なのかはっきりと見極めることは出来なかった。
 一見すると円形の硝子板にも思えるが、少しふくらみがあるような気もするので、実際には球形なのかもしれない。
「……誰かに見張られているみたいで、イヤな感じだな」
 ティアレイルは眉をひそめた。
 貪欲にアルファーダの生命力を奪おうとするこの塔の気は、自分たちレミュールの人間でさえ気分が悪くなるものだった。けれど、この気分の悪さはそのせいだけではないのだろう。
 まるで自分たちをじっと見つめているような印象を与えるこの塔が、ティアレイルはどこか不気味だと思った。
 あの外壁に嵌め込まれている物に反射した陽光を、人の視線と勘違いしたのかもしれない。そう思おうとしたけれど、やはりどこか気分がざらつくような感触は、なかなか自分の中から消えてはくれなかった。
「塔の中に入ってみようぜ」
 ふいに誰かの声がした。その声に引き寄せられるようにティアレイルが視線を地上に戻すと、ショーレンがひょいっとオブジェを跳び超えて、カイルシアの魔力に満たされた領域に踏み込むのが見えた。
 一瞬、先ほど左京が塔に吸い込まれていった光景を思い出して、皆はあっと小さく声をあげた。
 しかしショーレンの姿が消えることはなく、そこに確固とした意志を示したまま、挑むように塔を見上げ、そして友人たちへと力強い笑みを見せる。
「やっぱり俺たちは塔の領域に入っても、左京みたいにいきなり生命力を奪われるなんてことはないんだな」
 何事もなかったから良かったようなものの、もし塔にその生命を吸い込まれでもしたらどうするつもりだったのだろうか? けれども、そんなことになるとは露ほども思っていなかったのか、ショーレンはけろりとした表情で笑っていた。
「おまえたちは……きちんと肉体を持った人間として存在している。魂という存在しか持たぬアルファーダの民とは違う」
 イディアは静かなまなざしをショーレンに向けた。
「しかし ―― 長くそこ居れば徐々に生命力を奪われるだろう」
「……まあ、そうなんだろうな」
 ショーレンは軽く頭を振ると、深く息を吐きだした。
 けれどもすぐに、深い海底のような藍い瞳に凛とした意志が立ち上がる。
「でも、俺たちレミュールの人間には、生命力が奪われるまでには少し時間があるってことだよな。この塔とカイルシアの魔力について調べないことには、さっきの月を壊す計画はどうにも進まないわけだし、危険を承知で入るしかないさ」
 ショーレンは大仰に手を広げて笑ってみせた。
 一番近くにいたセファレットは、見上げるほど長身の青年をまじまじと見やると、すみれ色の大きな瞳をにこりと笑わせた。
「そうね。カイルシアの魔力を止めなければいけないんだもの。実際に彼の魔力の結晶だっていう水晶球を見てみないと、対策も練れないよね」
 ただ魔力を止めるといっても、その相手は伝承当時もっとも強大な術者とされたカイルシアが命を賭して創った魔力の結晶だ。そう簡単なものではないのだろう。
 いきなり塔の領域に飛び込んだショーレンの思い切った行動には驚かされたけれど、彼の言うことはもっともだとセファレットは思った。
 ショーレンは大きく頷きながら、何かに気付いたように口をきゅっと引き結んだ。
「対策って言っても、俺たち科学派に出来ることがあれば良いんだけどな」
「……そっか。そうだよね。魔術研のみんなにばっかり負担かけちゃうんだ」
 ルフィアはやるせなさそうに魔術研究所の三人を見やった。
 自分やショーレンには、魔力というものはほとんど理解が出来ないのだ。
 カイルシアの魔力を止めるのに……レミュールを救うための行動をとるのに、科技研の所員である自分たちが役に立つとは思えなかった。
「そんなことは、ない。科学派も必要だから、ショーレンやイス……ルフィアさんも、こうしてここに居るのだと思う」
 とても穏やかな、そして聴きなれた声がルフィアたちの言葉を遮ぎった。その言葉を発したのがティアレイルであると知り、ショーレンは大きく目を見開いた。
「……ティアレイル?」
 どこか不思議な光を宿し、翡翠の瞳がじっとショーレンたちを見つめていた。
 ティアレイルは確信していた。少年の頃に一度だけ風鏡の中で見た、あの機械仕掛けの塔。自分が徹底的に科学派を蔑視し、そして嫌悪するきっかけとなったあの光景は、やはり目の前にそびえ建つこの流月の塔のことなのだと。
 多くの生命を奪ったものとして、ティアレイルは科学を嫌悪してきた。相対する魔術を正と信じた。だからこそ、己の魔力ちからを惜しみなく発揮して魔術派の正しさを人々に知らしめ、そして魔術派の象徴と人々に敬われもしたのだ。
 この流月の塔があの風鏡で見た光景だと認めることは、今まで自分が信じてきたものすべてを否定することになりかねない。そうして己の心の拠り所をなくすこと。それはひどく怖ろしいことであるようにも思えた。
 けれども、ティアレイルは自分自身の葛藤などは、今この場では意味をなさないことを知っていた。
 いま自分たちにとって意味のあることは、目の前にある現実。そして、それを打破するための確かな意志だけなのだから ―― 。
「科学派の知識がなければ、おそらくカイルシアの魔力は止められない」
「……ありがと。ティアレイルくん」
 科学派嫌いで知られるティアレイルが、自分たちを認めるような発言をしたことに、ルフィアもショーレンも目をまるくした。その驚きが嬉しさに変わると、科学者と技師の二人は、大導士の翡翠の瞳に向けてあざやかに笑った。
「お礼を言われるようなことじゃない。事実を言っただけだ」
 その二人の笑みを受けて、ティアレイルはいささか慌てたように目を泳がせ、ふいっとそっぽを向いた。今まで自分が科学派に対して取ってきた態度を考えると、気恥ずかしくなったのかもしれない。
「じゃあ、塔に入りますかね」
 大のおとな三人の、まるで子供のようなやり取りが可笑しかったのか、アスカはくすくすと笑いながらみんなを促した。
 あまり、のんびりしているわけにもいかなかった。
「ああ悪い。ちょっと待って」
 ショーレンは皆が塔に向かおうとしたのを軽く押しとどめると、再びオブジェを越えてこちら側へと戻ってくる。そして、リューヤの前に歩み寄った。
「リューヤはイディアと一緒に湖の町に帰れよ。おまえが塔に入ったら、たぶん左京みたいに吸い込まれちゃうからな」
 少年の目線の高さに腰をおろし、ショーレンはにこりと笑った。
「……うん」
 リューヤはゆっくりと頷いた。
 本当は一緒に行きたいと思ったけれど、そう言われてしまえば諦めるよりない。それに、今は大好きなイディア様の傍にいたいというのも確かだった。
 むくれたように唇をとがらせたまま、リューヤはきゅっとショーレンの腕に抱きつき、そしてすぐに離れる。
「アルディス。まだ、レミュールの話で聞きたいことがあるんだからなっ」
 大好きだった小夜や左京が塔に生命を奪われて消えてしまったように、この長身の青年が居なくなってしまうのはいやだった。
 だからリューヤは思いっきり顔をあげて、まるで威張るようにそう言った。
「はは。分かってるって。今度また話してやるよ」
 くすくすと笑いながら、ショーレンはリューヤの頭をぽんぽんと叩いてやった。そうして、すっくと立ち上がり、今度はイディアにその藍い瞳を向ける。
「俺がこんなことを言うのは変かもしれないけど、リューヤのこと頼みますね」
 アルファーダの民であるリューヤにとって、カイルシアの魔力に満たされたこの場所は最も危険な場所であるはずだ。その命が奪われないよう、この塔の魔力からリューヤを守れるのは、イディアでしかありえない。
 この優しい青年ならば、自分が言うまでもないだろうけれど ―― 。
「へへん。そんなの、おれはイディア様のお傍にいるだけで平気だよっ」
 にこにことリューヤはイディアの隣で笑う。
 イディアは、レミュールの人間からリューヤを頼むと言われるとは思ってもみなかったというように、まじまじとショーレンを見つめ、そしてふうわりと笑った。
「この子も、アルファーダも、私にとっては大切な存在だ」
 穏やかな声音が、そう断言する。
 ショーレンは意志の強い笑みを口許に佩き、軽く頭を下げるとアスカたちの待つほうへと走っていった。
 それを見送りながら、イディアは何かを躊躇するようにうつむいた。けれどすぐに心を決め、ゆうるりと顔をあげた。
「……待ちなさい」
 イディアはゆっくりと、塔と砂漠を隔てるように建てられたオブジェの向こう側に佇む『レミュールの人間たち』に歩み寄る。
「なにか?」
 自分の言葉を待つように立ち止まった五人に、イディアはそっと笑んだ。
 穏やかに結ばれたイディアの口許が小さく「風伯」と呟くと、ゆうらりと風が揺らめいて、青年に寄り添うように美しい純白の鳥が現れる。
 いつでも風にまぎれてイディアの傍にいるのだと、リューヤがショーレンにそう教えた、あの風を司る長。風伯と呼ばれる神鳥だった。
 そっと自分の頬にすりよせてくる白く暖かな頚を優しく撫でてやりながら、イディアは凛と翡翠の瞳を閃かせ、五人を眺めやった。
「この塔に……おまえたちの生命が奪われないよう、守護をかける」
 その言葉に、純白の鳥は静かに空へと舞い上がった。
 水辺をすぎる涼やかな風のように、優しい風が五人の頬を撫で、そっと流れてゆく。しばらくそうして五人の上空を舞っていた風伯が、役目を果たしたといわんばかりにイディアの肩に舞い降りる。
 ふうわりと、自分のすべてが何か暖かなものに包みこまれたような気がして、ショーレンたちは目を見張った。
「それは応急処置みたいなものだ。おまえたちはアルファーダの民ではないから、私の力がどれほど及ぶものかも分からない。そう長くは持たないかもしれない」
 イディアはついっと視線を流し、ティアレイルを見つめた。
「もしその術がついえたら、今度はティアレイルが皆に守護をかけるといい」
「……守護を?」
 不思議そうに瞬きをしたティアレイルに、イディアはこくりと頷いた。
「同じレミュールの人間がかけた守護のほうが強力なはずだ。どんな結界を紡げばいいのか、わかるだろう?」
 自分とまったく同じ波長の魔力を持った彼ならば、いま己に掛けられている守護という名の結界がどのようなものなのか、ほんの少し感覚を研ぎ澄ませてみれば分かるはずだ。そうして、同じ効果のものを自分なりに紡げるに違いない ―― 。
 ティアレイルは一瞬考えるように瞳を閉じ、そしてゆっくりと開いた。
「ああ、わかる」
 まっすぐにイディアの目を見返して、ティアレイルは頷いた。その瞳には今までにないほど強く、けれどもとても穏やかな笑みが広がっていた。
 イディアが塔の魔力から人々を守るために紡ぐ魔力。その暖かく強い意志を心から感じて、ティアレイルはひとつ理解したことがあった。それを ―― 自分がようやく導き出すことの出来た"こたえ"を、どうしても彼に伝えたいと思った。
「アルファーダを守っている貴方が、こうして私たちレミュールの人間のことを考えてくれたように、私はアルファーダの生命を想いながらレミュールを守ろうと思う。……片方だけではない。西も東も関係なく。互いを想いあい、守る者が共に在れば、きっとどちらも滅びずに済む」
 ティアレイルの蒼銀の髪がふわりと風を孕んで揺れる。
 イディアは一瞬大きく目を見開き、そして深い呼吸ととも静かに瞳を閉じた。
「その言葉を……昔カイルシアから聞きたかった……」
 誰にも聴こえないくらい小さな呟きが、イディアの口からこぼれおちた。
 数百年前。自分とカイルシアが手を携えることで回避することが可能なはずだった自転停止と自然たちの叛乱。それは、カイルシアの……東側の裏切りで、アルファーダを犠牲として偽りの回避がなされた。
 しかし偽りの回避はやはり偽りでしかない。レミュールもアルファーダも、あの自転停止のとき以来、その存在自体がどこか歪んでいるのだ。
 その歪みが、ようやく正されようとしているのだろうか ―― 。
 イディアは痛みをこらえるように顔を上げ、穏やかにティアレイルに笑い返す。けれども、それは今にも泣き出しそうな微笑だった。
「すべてが良い方向へ動くことを信じよう。……お互いのために」
 塔の中へと入っていくティアレイルたちの背中に、イディアはそっと呟いた。



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