蒼月の涙  - 降り頻る月たちの天空に 外伝 -

最終話 『古木が紡ぎし幻花』


 もう秋も近いというのに。魔術研の奥深くに植えられたタキザクラの古木が、狂い咲きするようにその枝に花をつけていた。
 しかし ―― 通常に咲く薄紅の艶やかな花ではなかった。まるで水墨画に描かれた桜花のように哀しげな花。
 まるで、自分をここに移植し育んでくれた人の存在が消失したことを悼むように。嘆くように。影のようにその花を咲かせていた。
「……シホウ……」
 ロナは季節外れに狂い咲いたタキザクラの花を見上げながら、静かに友の名を呼んだ。
 つい今しがた ―― この世界から彼の気配が消えた。それを、ロナは感じ取っていた。
 総帥の激務と、重い責務をその肩から下ろしてやりたかった。けれども ―― シホウをなんとか正気に保たせていたのが、その総帥としての責任感だけだったと気が付いたときは、もう遅かった。
 自分のあの決断が、ぎりぎりの淵に踏み留まっていた彼の背を押し、狂気の底へと突き落としたのだ。
 それは、はっきりと自分の判断ミスだったのだと思う。
「後悔することは許されない、な」
 薄い影のように咲き乱れる枝垂れ桜を仰ぐ瞳を静かに閉じ、ロナは固く手を握りこむ。その瞳から涙は出ていなかった。しかし ―― 瞼は小刻みに震えるように揺れていた。
「ロナ……大丈夫?」
 ふと涼やかな女性の声が聞こえ、ロナはその独特な白い瞳をやんわりと開く。そこには明日から科技研の総統となる女性が立っていた。
「ルナか、珍しいな。君が魔術研に来るなんて」
 やんわりと笑みを浮かべ、ロナは女性を出迎える。その表情からは既に哀しさは消え失せ、いつもの大らかな笑みが宿っていた。
「笑わなくて、良いのに」
 哀しいくせに笑うことしか出来ないロナの心の在りようが切なくて、ルナはくしゃりと表情を歪めた。この男は、普段は大らかで細かいことは一切に気にしない楽天的な性格をしているくせに、こういうところは不器用なのだと思う。
「おまえがそんな表情をすることはない」
 にこりとロナは笑い、ルナを軽く抱き寄せるようにその頭を撫でる。
「 ―― ねえ、あの人のこと……『古月の伝承』のせいなのかしら?」
 つい昨日、総統になる準備としてルナが知ったばかりのその"伝承"。両アカデミーのトップのみが知る事実。それが ―― ロナの親友だった前総帥シホウの心を壊したのだろうか? ルナは自分自身もそうなることが怖ろしいのだと言うように、碧い瞳をロナに向ける。
「たぶん、シホウが知っていたのは……それだけではなかったのだろうね」
 独特な白色の瞳を細めて、ロナは穏やかに言った。前総帥シホウの強大な魔力は、自分などが知る由もない真実を彼に知らしめていたのかもしれない。
 この古い花木は『ふるさとから持ってきた』のだと、あのとき"彼"は言っていた。その時はシホウの実家のことだと思ったけれど……今なら分かる。
 その"故郷"というのが彼の血脈の源流。遥か昔に失われた"世界"のことなのだろうと。
 自然の持つ歳月きおくを感じることができると言っていたシホウがこの古木から何を知ったのか……。自分たちが知る『古月之伝承』以上の"何か"。シホウの心を壊していった"それ"がいったい何だったのか。今となっては、もう知ることもかなわないけれど ―― 。
「だからねルナ。……私たちは『古月の伝承』だけでなく……多くの真実から目を逸らさずにいなければいけない。それが私たち……ラスカード家の人間の、最低限の義務だと思うんだ。二人で持つ責任ならば、大丈夫だろう?」
 にこりと、ロナは笑う。
 親友の背負っていた"何か"を、共に支えることの出来なかった自分が悔しい。だからこそ、ルナとは支え合いたいと思った。
「……そうね。ロナと私が同時に両アカデミーのトップに立ったのも、偶然ではないかもしれないわね」
 ルナはゆっくりとひとつ瞬きをして、意志の強い決意をその碧い瞳に宿して笑った。
 二人の周囲に美しく哀しげに狂い咲いたタキザクラの花がはらはらと。静かに涙を零すように。悼むように。その花弁を散らせていくのを眺めながら ―― 。


「……シホウ……総帥?」
 茫然と、ティアレイルは呟いた。閃光が走ったあと、西の島が消えた。それと同時に、シホウの気配までもが跡形もなく消え失せていた。
「そう、いうことかよっ!」
 アスカは腹立たしげに地面を蹴った。「止められる」と言ったのは、結界創者である自身ごと消滅させるということだったのかと思うと許せなかった。
 それ以外に解決方法はなかったのかという悔しさが、紺碧の瞳を波立たせる。己の身を犠牲にしての救いなど、誰も喜びはしないというのに ―― 。
「総……帥……」
 ぺたりと座りこんで、セファレットは閃光の消えた西の空を眺めやった。あのとき嫌な予感はしたのだ。それでも、大丈夫だと総帥が笑ったから。自分たちはあの島を離れたのだ。
 それなのに ―― 。
 ベセルの町に転移して自分たちが見た光景は、一生忘れられないだろうと思った。
「 ―― 海がっ!?」
 ハッと、ティアレイルは顔を上げて叫んだ。大いなる災いの気配が、痛みをともない脳裏に浮かんでくる。
 結界消滅の衝撃で高波が来ると、シホウはそう言っていたではないか。自分達には、こんなふうに愕然としている暇などなかったのだと思いだす。
「ちっ、かなりでかいな」
 意識を集中させて迫り来る高波の質を捉え、アスカは唇を噛むように吐き捨てた。
 ベセルの住人を避難させるべきか。それとも波を止めるべきか。自分たちの実力と、自然の猛威を天秤にかけて即座に判断しなければならない。多くの猶予はなかった。
「あの波を止めるのは無理だわ。避難させましょう!」
 セファレットが叫ぶ。確かに、遠雷のごとく鳴り響いている波音と、迫り来る猛威の気配はただ事ではない。並みの導士が束になってかかっても止めるのは無理だと思われた。
「あっちゃん、港の周辺に気壁を張って! セファレットは海岸部に結界を!」
 ふと、ティアレイルが鋭く言い放つ。その翡翠の瞳は揺らめくように煌いている。
「住人の避難は間に合わない。……だから、僕が波を鎮める!」
「ティア!?」
 驚きに、アスカは目を見開いた。ティアレイルはまだ魔術研究所に入ったばかりの導士だ。そんな大きな仕事が出来るわけないと思った。
 しかし ―― 目の前に居た幼馴染みから溢れる魔力は今までアスカが知っていたものではない。シホウに対して感じていたものに匹敵する、大きな魔力が感じられた。それは、信じるに値する強大な力だ。
「……分かった。俺たちは援護に回ろう、ハシモト」
「う、うんっ!」
 進むべく方向性が決まれば行動は早い。
 アスカは港から町にかけて。セファレットは海岸部を、それぞれ防御するように魔力を張り巡らせる。
 その中心で、ティアレイルは心を鎮めるように翡翠の瞳をゆっくりと閉じ、己の気を内にある魔力に集中させた。
 本当に自分に止められるのか、それは分からなかった。そんなことをやったことはないし、鎮める方法さえ知らない。ただ ―― 自分には止められるのだと、そうシホウが認めてくれた事だけが大きな自信となって、少年を突き動かしていた。
 それでも、やはり体に走る震えを止めることは出来ず、思うように集中が出来ない。迫り来る高波との焦りに追い立てられるような気さえする。
 そんなティアレイルを嘲笑うように、高波の気配はひしひしと迫り来て強大な姿を人の目にはっきりと映しだすまでに近付いていた。
 不穏な気配に気付いたベセルの町の人間たちが悲鳴混じりにその光景を遠巻きに眺めている。それでも恐慌状態に陥って取り乱す者がいないのは、その場で"信頼すべき魔術研"の導士たちが対策にあたっているからだ。
 その期待に応えなければという気持ちが逆に焦りとなって、若い導士の集中を更に乱す。刻一刻と迫り来る脅威に、ティアレイルは唇を噛み締めた。
(大丈夫。君なら、止められる。自分の内に在る魔力を信じなさい)
 ふと、穏やかな低音の優しい声が聞こえたような気がして、ティアレイルはハッと目を開いた。
 そこには誰もいなかった。しかし ―― 確かに感じる。温かく穏やかな、シホウの魔力。
 ゆっくりと、ティアレイルの唇に微笑みが浮かびあがり、小さく頷いてみせる。
 そうして深く呼吸を整えて、もう一度瞳を閉じた。ぱちぱちと、放電するような音がする。その音が収まると同時にゆるやかな風が溢れるように流れ出し、ティアレイルを中心として内から外へと波紋を描くように、魔力の磁場がそこに生まれた。
「……あいつ、あんな魔力の使い方をいつ覚えたんだ?」
 思わずアスカが呟くほどに、それはあざやかな魔力の行使。既に陽も落ちて暗くなった海岸に、柔らかな蒼い光が満ちてゆく。
「もう臨界に達するわっ!」
 セファレットが海岸線に盛り上がる、白い壁の片鱗を指し示した。その高さは数百メートルは在りそうだった。あれに呑まれればこんな町の一つや二つ、ひとたまりも無い。
 その言葉にゆっくりと翡翠の目を見開いて、ティアレイルはその高波を眺めやる。もう、身体に震えはなかった。
 すっと静かに手を動かすと、その動きに沿うように魔力の磁場がふわりと揺れる。僅かに目を細めて、ティアレイルは両の手をゆっくりと波の方へと向けた。
 流れるような魔力の帯が、高波に向かってゆるやかに放射する。それは優しく周辺の海をおおう風のように空を流れ、猛り狂う高波の猛威をなだめるように静かに静かに降りていく。
「綺麗……」
 無理やり抑え込むのではなく、静かに撫でるように高波を鎮めていくその魔力の煌きに、思わず感嘆の声が出る。ここまで圧倒的な魔力の行使を見るのは、生まれて初めてのことだった。
「二人とも、たぶん全部は抑えきれないから、まだ結界はとかないで」
 ふと、どこか慌てたような声がして、アスカもセファレットもあっと顔を見合わせる。思わずティアレイルの術に見惚れて、自分たちの結界が疎かになっていたのだ。
 慌てて二人が術を強化した瞬間、威力の弱まった波が結界に弾けて波飛沫をつくる。そのあとは、何もない。ただ穏やかな海が目の前には広がった。
「……ごめん。もう少し、魔力の使い方を覚えないといけないな」
 やはりすべては抑えきれなかったという事実に、ティアレイルは溜息をつく。
「ばーか。あれだけ独りで抑えられたら十分だって」
 にやりと、アスカは笑って幼馴染みの背中を叩いた。普通の導士では、独りであそこまで強大な高波を無害なレベルにまで抑えることなんか出来やしなかっただろう。
「本当。すごかったね、ティアレイル」
 心から感嘆したようにセファレットは笑った。
 海はもう静かに凪いで、どんな危険の予感も伺わせない。ベセルの町を襲う災害は、防がれたのだというのが嬉しかった。
「……あれは僕だけの力じゃない。シホウ総帥が……お力を貸してくださったから……」
 先ほど感じた穏やかな優しい気配を思い出すように、ティアレイルは微笑んだ。その翡翠の瞳が、ふと痛々しげに大きく揺れる。
 シホウの気配は ―― もう、どこにも感じることが出来なかった。
「…………」
 誰もが言葉を発することが出来なかった。ただ、お互いに顔を見合わせ、そうしてつい先ほどまでは西の島が在った場所へと目を向ける。
 高波への対応に集中していたために消えていた哀しみが再び胸の奥から甦り、三人はひどく辛そうに表情を歪めた。
 いくら待ってみたところで、ここにシホウの姿が現れることも、その気配を感じることも、もう二度とないのだということが分かってしまう。
 認めたくなどなかったけれど ―― それが覆しようのない現実だった。
「シホウ総帥……」
 震えるように呟く若い導士の頬に、不意にぽたりと冷たい滴が当たった。ぽたり。ぽたりとそれは数を増やし、三人の頭上にとめどなく降りかかる。
「雨だ……」
 ゆうるりと天を仰ぎ、アスカが呟いた。
 さああっと静かな音をたてながら、天から銀色に輝く雨の糸が流れ落ちてきていた。
「不思議……雨が降っているのに、月が出てる」
 セファレットはすみれ色の瞳を驚くように見開いて、やんわりと天を仰いだ。
 古月も緋月も雲に隠れてその姿を見ることは出来なかった。しかし ―― かつての魔導士たちの魔力を結晶した蒼い月。それがどこか寂しげに。けれどもひどく優しく。雨の中で輝いている。
 入所式の日、太陽が出ているのに降りそそいでいたあの雨のように。今もまた、蒼い月が出たまま、静かに雨が落ちてきていた。
 月明かりに照らされて降り頻る銀色の雨は、どこか暖かくて優しい。まるでそこにシホウがいるような気がして……セファレットはゆっくりと目を閉じた。
 閉じた瞳のその奥に映るのは、最後にあの西の島で見た、総帥の優しい笑顔。
 手に白い小鳥を抱きながら微笑んだ、穏やかな青年の姿 ―― 。
「 ―― あ……」
 ふと、セファレットは何かに気が付いたように目を見開き、震えるように両手で口許をおおった。
「私……思い出したよ……。わたし……魔術研に入るずうっと前から……子供の頃から……シホウ総帥を知っていたの。思い出したの……」
 セファレットは微笑むように。けれども泣き出すように。突然そんなことを呟く。アスカもティアレイルも、ゆっくりと彼女に視線を向けた。
「シホウ総帥はここからは消えてしまったかもしれないけれど……きっと今もレミュールのどこかにいらっしゃるのよ。だって総帥は ―― 五歳だった私に、会いに来てくれたもの。……さっき総帥がその手に抱いていた白い小鳥……あれを私にくれたもの」
 まだ幼かった少女の頃の思い出。両親が離婚すると聞かされたあの日に。一人ぼっちで居た自分に白い鳥をくれた、優しい黒髪のお兄さん。あれは ―― 総帥だったのだと思う。
 十年以上も昔。幼かったあの日に出逢った青年は、この世界から消えてしまった"現在いまのシホウ"だったに違いない……そう思うのだ。
 もちろん確かな証などはない。青年の顔をハッキリと覚えているわけでもない。しかし ―― それでも。あれは自分たちの敬愛してやまない総帥。シホウなのだとセファレットは思いたかった。
 魔力に溶け込むように消滅したシホウは確かに『人』としての生は終えてしまったのかもしれない。
 けれども ―― すべてのしがらみから解放されて、そのいのち現在いまも過去も……そして未来も。そんな時間の壁さえも超えて。このレミュールを自由に羽ばたいているのだと。そう、思うのだ。
「うん。きっと……そうだね」
 ふわりと、ティアレイルは微笑んだ。
 そう思うことで己の胸に刻まれた痛みが癒える訳ではなかったけれど、敬愛する総帥が哀しみと共に消えていったのだと思うよりも、その方が断然素敵だと思った。
「それなら ―― 総帥がいらっしゃるこのレミュールを守っていかないとね。僕の魔力ちからの及ぶ限り……。もっと経験を積んで、総帥がそうされていたように」
 己の内に眠っていた大きな魔力の存在をシホウが教えてくれた。その力を惜しむことなく使うことがレミュールを守り、シホウの優しさに報いることにもなるだろう ―― 。
 そう呟きながら天を仰ぐ翡翠の瞳には、雨の雫とは違うひと筋の流れが静かに溢れていた。
「……おれ"たち"、だろ。一人でやろうとすんなよ、馬鹿が」
 ぽんっとティアレイルの蒼銀の頭を叩いて、アスカは軽く笑う。
 あの強大な魔力を持った総帥が何に心を壊したのかは分からない。けれども、同じく強大な魔力を持っているだろうこの幼馴染みには、同じ轍だけは踏ませるつもりはなかった。
「じゃあ、そろそろ魔術研に帰りますかね。あまり雨に濡れてると、風邪引くしな」
 沈みがちな空気を明るくするように、アスカはパンッと手を叩く。くすりと、ティアレイルもセファレットも泣き笑うように頷いた。
 そうしてふと、誰からともなく三人はもう一度だけ西の島があった海を眺め、ゆっくりと天を見上げた。
 雨の中に仄かに輝く蒼い月が、やんわりと穏やかな光を雨の夜空に投げかける。
 その蒼い月灯りの中で、すべての哀しみを洗い流すように。さらさらと優しい雨が、静かに静かに降り続いていた ―― 。


 - 降り頻る月たちの天空に 外伝 - 『蒼月の涙』 完
2006.11.12連載開始〜2007.3.18連載終了


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