蒼月の涙  - 降り頻る月たちの天空に 外伝 -

第10話 『黒翼の天使』


 どこからか雅な笛の音が聞こえる。白と緋の衣装を身にまとった黒髪の少女の静かな舞が見える。子供たちのさざめく笑い声。人々の明るい談笑の渦。穏やかで暖かな自然たち。
 青年はそのやさしい光景に触れようと、そっと手を差し伸べた。
 その刹那、すべての音が不意に掻き消え、人々の笑顔が凍る。光の中に、溶ける。消えてゆく。
「ああ……あああ……っ」
 伸ばした指の先を掠めるように、ひとつ。またひとつと消えていく優しい光景に、青年は絞りだすような嘆きの叫びを上げた。目の前で失われるものを救うことの出来ない自分自身が、憎かった。
 黒真珠のように静かに煌くその瞳には、深い絶望の色が浮かび上がる。
「…………」
 嘆くように。祈るように。青年は深い吐息を吐き出した。
 しゅんしゅう……しゅんしゅうと、誰もいなくなった無人の家屋から湯が沸き立ち蒸気の吹き出す音が聞こえてきて、青年はゆうるりと視線を流す。
 乾燥しきった大気に蒸気はまたたくまに吸い込まれ、潤う間もなくその存在を失っていた。
 ふと気が付くと、そこに在るすべてのものが干乾びてしまいそうな、まるで生気の無い乾燥した大気が辺りを包みこんでいた。
 草木は瞬く間に枯れ果て、縦に横に、大地にひびが割れていく ―― 。
「……すべての悪夢を……終わらせなければ。……永遠に醒めないこの季節ときも……残酷な無知に生きるレミュールも……」
 紫紺の紐でゆったりと結ばれた漆黒の髪が、流れる風を無視して静止画のように微動だにもしない。それが、不意にほどけて激しく舞い上がる。
「風が……」
 少女は息を詰めるようにそんな青年の姿を見つめていた。
 あれは、人間ひとだろうか? それとも黒翼の天使? それとも……あの人? 彼女には分からなかった。いや、分かっていたのかもしれない。けれども、分からないと思った。
 だから名前を呼ぼうと思った。それで応えてくれたなら、"あれ"はあの人に違いない ―― 。
「 ―― シ……」
 呼びかけようと顔を上げて、少女は突然激しい目眩を覚えた。
 ぐらりと視界が歪む。ぐるぐると天上が回る。サイレンのように耳障りな音が高く強く鳴り響く。
 意識という意識を破壊されそうな状況の中で、しかし少女はもう一度その人の名前を呼ぼうと華奢な腕を前に差し出した。
 けれども伸ばしかけた手はだらりと地に落ちて、出しかけた声は大気に溶ける。最後までその名を呼べぬまま……少女は意識を失った。

*****

「大丈夫か、ハシモト?」
 ふと気が付くと、ティアレイルとアスカの二人が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
 ベセルの町に在る公民館の一室を借りて、今までのことを三人で話し合っていたのに、いつの間にか自分はぼんやりとしてしまったのだ。そして白昼夢を視た。
 さっき意識を失ったのは夢幻の世界にいた自分であり、そして今、こうして現実へと舞い戻ってきたのだろう。セファレットはそう思った。
「うん、大丈……」
 部屋の奥の方で職員がお湯でも沸かしているのか、先ほど夢の中で聞いたのと同じ、蒸気の湧き出る音がしている。夢の中とこの現実が重なっていたのかもしれない。
 その音に ―― 何故だかセファレットは涙がとまらなくなった。とめどなく流れ落ちる涙の、何とあついことか。目の奥が、じりじりと焼けるようだ。
「……セファレット」
 同僚の名を呼ぶ翡翠の瞳が切なげに少女に向けられていた。そっとティアレイルが差し出したハンカチを受け取りながらも、彼女のすみれ色の瞳からこぼれる涙は止まらない。
「僕たちも……視たよ」
 ハッと、セファレットは目を見開いた。真っ赤になった瞳をゆうるりとめぐらせると、彼らは静かに頷いた。先ほど自分が見た光景を他の二人も見たのだと言う。それではあれは ―― 。
「シホウ総帥……行ってしまったの? ……私たちの手が……届かないところに」
 先ほど見た光景が、それを示唆しているようで辛かった。
「まだだよ」
 ティアレイルは僅かに癖のある髪を揺らすようにゆっくりと頭を振った。その翡翠の瞳には、静かな意志が浮かんでいる。
 その強い表情に、彼はとうにこのことを知っていたのだったとセファレットは思い出した。
 きっとこの年下の同僚は、自分が視たようなあんな抽象的なものではなく、もっとハッキリとした"映像"を今朝から視ていたに違いなかった。
 そう考えると涙が止まった。ここで自分が泣くのはずるいことだ。そうセファレットは思った。
「ごめん。もう大丈夫」
 ひとつ瞬きをして、セファレットは心を落ち着けたように目を上げる。そのすみれ色の瞳は穏やかさを取り戻していた。
「私やアスカさんまで視たということは、もう確実よね。早く……総帥の居場所を探しましょう」
「それなら……さっき、みんなが"あの光景"を視たときに、ベセルから西の方角にシホウ総帥の気配を感じたんだ。たぶんそちらにいらっしゃるのだと思う」
 ティアレイルは窓の外に目を向けてそう呟く。傾きかけた茜色の陽光が、斜めに窓から差し込んできていた。
「ティアレイル……あなた、本当にここ数日間で魔力がかなり強くなったんじゃない?」
 否、もともと在ったものが目醒め始めただけなのか ―― 思わずセファレットは目を丸くする。
 確かに彼のあざやかな転移などから強い魔力を持っているのだろうとは思っていたが、ここ数日の変化は著しい。他人よりも一歩も二歩も先に多くのことを、しかも正確に鮮明に理解してしまうのだ。
「……どうだろう? 僕には分からないけど、確かに"モノ"がよく視えるようになった気はするな」
 不思議そうに首を傾げて、ティアレイルは少し笑った。
「おい、ここから西には無人の小さな島があるそうだぞ。地図で確かめたが、それは ―― 結界の島と同緯度に在る」
 さっきのティアレイルの言葉を聞いて職員に確かめてきたのだろう。ふと姿が見えなくなっていたアスカが部屋の中に戻って来てそう告げた。
「 ―― 決まりだね」
 ゆっくりと息を吐きだして、ティアレイルは椅子から立ち上がる。
 結界の島ではすぐに魔術研に捕縛されてしまう恐れもあるため、総帥は己の計画実行の場に同緯度にある他の島を選んだのだろう。
「その島にシホウ総帥はいらっしゃる。ベセルと……総帥を守らないとね」
 翡翠の瞳に強い意志を宿して笑うその表情は、十七歳とは思えない、ひどく大人びた……穏やかな笑顔だった。


 結界の島よりもかなり北に在る……けれども同緯度にあるその島からは、両アカデミーがD・Eとこちら側を二分するように張った結界がよく見えた。
 科技研の放つ光壁。そしてシホウが張り巡らせたゆるやかな淡い魔力の層が、ゆらゆらと空を流れるようにおおっていた。まるでそれはオーロラのように美しく、煌いて見える。
「……科学派の光壁が少し厄介だな」
 漆黒の瞳をどこか楽しそうに細めて青年は天を仰いだ。
 今までに結界に近い場所に建つ科学派の支局の機器をいくつか機能停止させて来た。それは、光壁を魔力で打ち消す際に他の機器からの干渉や影響があると厄介だったからだ。しかし ―― そのすべては素早く修繕されてしまった。さすがに科学派も馬鹿ではない。そう、青年は小さく笑う。
「ちょっと魔力を余分に使うけれど……仕方ないな。光壁は魔力の嵐に取り込んでしまおう」
 まるで楽しい計画でも立てているかのように、青年は明るい笑顔を浮かべていた。その ―― 漆黒の瞳だけが深淵の闇を覗き込んだかのようにひび割れて見えることを除いては。
 この結界をなくしてしまえばレミュールと『D・E』を隔てるものは何もなくなる。あの"狂暴な月"は抑えが効かず、このレミュールの生命をも呑み込まずにはいられないだろう ―― 。
「そう、するべきなんだよ」
 ふわりと空に両の手を伸ばし、青年はその瞳に冷笑を佩く。
「この身が紡ぎし魔力の帯。其に我が名を与えよう。……その名の如く紫紺に染まる峰より出ずる嵐となりて、世界を隔てる壁を打ち崩せ」
 詠うように青年がそう言うと、シホウの結界が大きく揺らめいた。
 ふいに強い風が起きて、周囲の木々をなぎ倒すように吹きすさぶ。その風にさらわれるように青年の長い髪が宙を舞い、まるで漆黒の翼を広げたように見えた。
「 ―― シホウ総帥!!」
 先ほど見た白昼夢の中では呼べなかったその名を、セファレットは必死に叫んだ。
 この西の島に転移して来た瞬間、とつぜん起きた暴風にさらわれそうになった。しかし、なんとか自分たちの周りに結界を張りそれを防ぎ、彼らはシホウの近くにまで辿り着いていた。
「…………」
 誰もいるはずのない島から他人の声が聞こえてきて、青年は不思議そうに振り返る。誰かの名を呼んでいたようだが、ここには自分しかいないはずだった。
「……何を、されているんですか?」
 震える声を必死に抑えるように、ティアレイルは低くそう問うた。
 目の前に居る青年は、まるで知らない者たちを見る目でこちらを眺めていた。いつも自分たちに向けられていた穏やかで包みこむような優しい眼差しではない。それが、ティアレイルは痛かった。
「全部、壊してしまおうと思ってね」
 にっこりと、青年は笑った。笑顔とは裏腹に、ぞっとするほど冷たい目をして ―― 。
「今なお続く"月"の悪夢も……嘘で固められたレミュールも……こんな世界は、消えてしまったほうがいいんだよ。"コチラ"の人間には穏やかに生きる資格なんかないのだから」
 じっと、深淵の闇を宿した瞳がティアレイルを見やる。
 自分を見つめてくるあまりにも深い闇に、ふらりと気が遠くなる。その肩を抱くように受け止めたのは、アスカだった。
「引き摺られるな、ティア。ベセルも、総帥も。両方を守るんだろ」
 真剣に見据える紺碧の眼差しは、大きな力となってティアレイルの心に余裕を取り戻す。こくんと、強く頷いてから、ティアレイルは嵐の中に浮かぶ総帥の姿をしっかりと見つめた。
 ―― 守りなさい。
 そう自分に言った総帥の低い声が耳の奥で甦る。あの時の総帥の言葉に嘘はなかったと思う。心からの願いであり、依頼だった。それならば、『すべてを壊す』ことではなく『守る』ことの方こそが、シホウの本心なのだとティアレイルは思う。
「僕は、魔術研究所の導士として任務を遂行しなければいけません。あなたを ―― 」
 ぎりっと、固く唇を噛みしめ、そうして再び翡翠の瞳を青年に向ける。
「あなたを止めることが……僕に与えられた、シホウ総帥からの任務なのだと思うから……あなたのその言葉を、認めるわけにはいかない」
 彼の言う『嘘で固められた世界』が何を指しているのかは分からなかった。
 けれども ―― 自分が心から敬愛し、信じた総帥は「守れ」と言ったのだ。それならば、いま目の前に居る"同じ顔をした青年"の言葉は"シホウ"の言葉ではない。そう思った。
「…………」
 ふっと、青年は白い制服を身にまとった三人の若い導士たちに目を向けた。
 哀しげに、しかし意志の強い眼差しを向ける翡翠の瞳。切なげな光を浮かべながらも睨むように見つめてくる紺碧の瞳。そして、祈るように自分を見やるすみれ色の瞳。
 あの三人を、自分は知らないと思った。けれども ―― それならば、どうしてこんなにも胸が痛いのだろう? 胸の奥でうごめく、この愛しさはなんなのだろうか?
「……君たちが認めようが認めまいが、もうこの結界の氾濫は止められない。私自身にもね。自らの名を与えて氾濫させたものだから」
 ごうごうと、すべてを呑み込むような音をたてながら暴風が吹き荒れる。身を守るための結界を紡いでいなければ、あっというまに吹き飛ばされているに違いなかった。
「それでも ―― 僕らは止めるためにここへ来たんです。……シホウ総帥!」
 自分たちの知っている"総帥"を取り戻そうとするかのように、ティアレイルはその名を叫ぶ。
 長い黒髪を暴風にはためかせながら、青年はくすりと笑った。その表情は笑っているというのに、どこか哀しんでいるようにも見えた。
( ―― シホウっ!!)
 不意に、自分の名前を呼ぶ懐かしい声が聞こえたような気がして、青年はハッと空を仰ぐ。
 仰いだその先から、真っ白な小さな鳥が一直線に降りてくるのが見えた。辺りを吹きすさぶ暴風から身を守る防御結界のない鳥は引き千切られそうに、しかしまるで引き寄せられるように青年のもとへと飛んでくる。
 その白い小鳥の背後うしろには……柔らかに窓際を彩る淡紫に染まる花々が見える。あれは ―― "自分"が最後に見た、魔術研究所の総帥室だ。
「ロ、ナ……か……」
 体当たりをするかのように懐に飛び込んできた小鳥から、ふわりと流れ込んでくる温かな魔力の感覚に青年は目を細める。
 ―― ああ、そうだったのか。
 青年はゆうるりと笑った。微笑わらって……自分をとりまいている三人の顔を見やる。
 どうして忘れていたのだろう。彼らは ―― 自分にとって大切な導士たちだったのに。
「ティアレイル導士……辛い任務を与えてしまったね」
 静かに、理知的な黒い瞳が哀しげにティアレイルの前で止まる。
「でも、君たちが止めるのは私ではないよ。これから起こる、高波のほうだ」
 シホウはゆっくりと瞬きをしながら深い呼吸を吐きだした。そうしてアスカと、セファレットと、ゆっくりと視線を巡らせる。
 この導士たちに"自分"を止めさせるような、そんな残酷なことをしてはいけない。そう思った。
「私が……氾濫し始めた結界を消そう。だがね、おそらくその消滅の衝撃で高波が起こる。ベセルは、そのままいけばティアレイル導士にみせた風鏡の予知どおりの光景となる。だから ―― 君たちは、それを防ぎなさい」
 先程までの青年とは違う、おだやかな、いつもの総帥の眼差しで、シホウは三人の目をしっかりと見詰めるように言った。
「……でもさっきもう結界は誰にも抑えられないって……」
 不安そうにセファレットが総帥を見やる。何故だか、嫌な予感がして仕方がなかった。
「大丈夫。私が創り出した結界だからね」
 にこりと。いつもの気さくな優しい笑顔でシホウは答える。
「さあ、早く行きなさい。君たちが、ベセルの町に転移をしたら、結界を消滅させるから。急がなければ、結界の生み出す嵐の方が世界中に災害を巻き起こす」
「 ―― はい」
 嫌な予感は止むことがなかったけれど、三人はそれぞれ頷くしかなかった。確かに、このままではあの嵐が大きな被害をもたらすことは目に見えて分かるのだ。
「それではシホウ総帥……後ほど、ベセルの公民館でお会いしましょう」
「ああ……そうだね」
 確かな約束を得るように向けられたティアレイルの言葉に、シホウはにこやかに頷いた。
 あざやかに転移していく三人の導士たちの姿を眺めながら、ふと、愛おしむように目を細める。そうして、何かを振り切るようにひとつ、深い瞬きをした。
「最後に……僅かな時間でも正気に戻れたこと……感謝するよ、ロナ」
 手の中に包み込む白い小鳥に、シホウは静かに言葉をかける。この鳥は、ロナが自分を心配して寄越したものだというのは魔力の気配で分かった。
「この身が紡ぎし魔力の帯……名を与えられし唯一の結界。すべては我が内に戻り、五十嵐紫峰の名と共にその力を消し去ろう……」
 ふわりと、漆黒の長い髪がたなびくように空を舞う。
 巨大な否妻が走るように空が眩い閃光に包まれ、西の島全体が太陽のごとく燃えた。
 そうしてその光がゆるやかに空に溶けていく頃 ―― その場所には、ただ、海だけが存在していた。
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