蒼月の涙  - 降り頻る月たちの天空に 外伝 -

第7話 『新人導士の動揺』


「来たはいいけど、いったい何をしたらいいんだろう?」
 眼前に広がる穏やかな町並みに、ティアレイルは途方に暮れた呟きを漏らした。
 時間の流れがゆっくりに感じられる、とてものどかな光景。細い通りに並ぶ石造りの家からは、夕餉の仕度をしているのか、おいしそうな匂いと共に白い煙が上がっていた。
 レミュールの中心都市プランディールの華やかさ喧騒さとは明らかに無縁な、北大陸の最北西に位置するベセルの町。人が住む土地の中では最も結界に近い場所。人口僅か数百人程度の、田舎という言葉が良い意味で似合う、暖かな雰囲気を持つ場所だった。
 そんな優しいこの場所が、シホウの風鏡で見た惨い光景になる様を思い出して、ティアレイルはぎゅっと瞼を閉じた。
 今聞こえる楽しげな子供のはしゃぎ声や、さざめく幸福な談笑の渦。それらがすべて悲鳴に変わる瞬間。それを、自分はどうすれば防ぐことが出来るのだろう?
 いくら考えてみても、その良い方法が思い浮かばなかった。
「おや? その制服は魔術派の御方だね。こんな所でどうしたのですかな?」
 道端で佇む少年の姿に、杖をついた老人はしわがれた声で呼びかけた。
 どんなに辺鄙なところでもアカデミーの存在は深く知れ渡っている。ましてや、結界に最も近い場所に住んでいるこの町の人間にとって、アカデミーは常に身近な存在だ。
 ティアレイルは慌てて瞼を開き、声の方を見やる。
 杖をついてはいるが、しゃんと伸びた背筋が若々しい印象を与える小柄な老人が、自分を見上げるように立っていた。
「あ、いえ。別に、何でもありません」
 ティアレイルは僅かに微笑んでみせる。
「……さしずめこの町に起こる災禍を防ぐのに派遣されて来たというところですかな?」
 はははと、老人は笑った。
「!?」
 ぎくりと、ティアレイルは目を見張った。そんなに端から見てはっきり分かってしまう程、自分の表情は深刻なものだったのだろうか?
「今朝、海辺に行って気が付いたんだが、海から吹く風がいつもと違う。だからちょいと心配になっていましてね」
 老人は軽く首を振り、戸惑いがちの少年を見やる。
「あなたがた魔術士の予知とはまた違うが、一般人には虫の知らせってものがあるんですよ」
 得意げに瞳を細めると、老人はかつかつと身を仰け反らせるように笑った。
「…………」
 思わず目をしばたかせてティアレイルは絶句した。奇妙な老人だと思った。「災いが起きる」と言っているその口調には、まるで危機感がない。
「物事慌てても始まらんですからのう。ゆっくりと自分の為すべきことを考えていく。そうして初めて、良い結果が導き出されるもんでしょう」
 老人はティアレイルの心を悟ったように、ゆっくりとそう応える。
「それに、魔術研究所の方が来てくださったなら、もう安心だからのう」
 老人は朗らかに笑った。導士に対するその深い信頼は、今まで長い時をかけて魔術研究所が築き上げてきたものだ。
 優秀な魔術者不足で大昔に比べればその貢献度は低くなっていたものの、シホウが総帥となってからこの五年の間でだいぶその信頼は取り戻しはじめてもいる。
 そんな人々の大きな信頼を直に肌で感じて、ティアレイルは翡翠の瞳を穏やかに細めた。
「 ―― はい。ご安心ください」
 総帥が取り戻した魔術研究所に対する人々の信頼を、自分のせいで壊して良いはずがなかった。
 そしてまた ―― この町を救いたい。その想いが強くなる。今まで自分には何も出来ないと思いこんで迷っていたことを恥じるように、ティアレイルは深く呼吸をした。
 どうやっても自分が成し得ないような重い任務を、聡明なシホウがわざわざ指名依頼してくるわけがないのだとも思う。
 最も強大な魔導士であり、尊敬している総帥が『ティアレイルになら出来る』と、そう判断してくれたのだということが、大きな自信にもなった。
「この町に、災害は起こさせませんから」
 後に『魔術派の象徴』と謳われるようになるティアレイルの、柔らかく穏やかな笑みが端正な顔に浮かぶ。その、どこまでも人を安心させるような優しく力強い"気"に、老人は嬉しそうに笑った。
「よろしく頼みましたよ」
 老人は眩いものでも見るように目を細め、先程よりも信頼を込めた丁寧な口調でそう言うと、深々と頭を下げて離れて行った。


「 ―― ティアレイル、やっと見つけた!」
 ティアレイルが老人を見送ると、ふわりと空気を割るようにセファレットの姿が現れた。とつぜん転移して来た少女はティアレイルと目が合うと、どこかほっとしたようにそう叫ぶ。
「そんなに慌てて、どうしたのさ?」
 ティアレイルは思わず目を丸くした。その口ぶりから自分を探していたようだとは分かるのだが、どうして彼女がここにやって来たのかまったく見当も付かなかった。
 そんな暢気な反応を返してくる同僚に、セファレットは苛立たしげにすみれ色の瞳を怒らせた。
「シホウ総帥が……魔術研から追い出されちゃったの! だから ―― !!」
 強くその腕を掴みながら、セファレットはひとつ年下の同僚に大きな爆弾を投げつける。
 少年の頭の中で一瞬の間を置いて、それは爆発した。大きな大きな衝撃が、彼の心をゆっくりと、しかし激しく揺さ振った。
「 ―― え?」
 シホウ総帥を自分は心の底から尊敬し、そして信頼している。あれほど素晴らしい人はいない。
 それは純粋に魔力の強さだけではなく、人としての優しさや厳しさ。その生命の在り方。総帥のすべてがティアレイルにとって憧れだった。
 それが ―― 追いだされた? 彼女が何を言っているのか、理解できなかった。
「追い出されたって……どういうことさ?」
 息を呑むようにティアレイルは呟き、ゆっくりとひとつ瞬きをした。
「わかんないけど……総帥どこにもいないの。今まで魔術研全体わたしたちを守るようにおおっていた総帥の"気壁"が消えたから、変だなって思ってたら……そうしたら、ロナ導士が総帥になるって……」
 気が高ぶっているのか、それとも混乱しているのか、セファレットの話はなかなか要領を得ない。
 ただ分かるのは、シホウが魔術研究所から姿を消し、その守護も消えたということ。そしてロナが新しく総帥になるということ。詳しい状況など、わかったものではない。
「おかしいよ。そんなの。どうしてシホウ総帥が姿を消したくらいで、新総帥の噂が出る?」
 ティアレイルは彼女を落ち着かせるように静かにそう問い掛けながら、ふっと頭に浮かんだひとつの事実に息を呑んだ。
 もしかしてシホウの結界が弱まっていることが、『議会』の人間に知れてしまったのだろうか? だとすれば、自分たちの感情がどうあれ総帥の失脚は避けられないことだった。
 しかしたとえ理由がそれだとしても、今彼女がもたらした情報が真実ならば、不自然で奇妙であることには変わりがない。
 魔術研の総帥が辞任する時は、その旨をあらかじめ所員に報告し、同時に次代総帥を指名しなければならないのだ。
 指名された導士は総帥とともに結界の島に赴き、新たな結界を織り成すことで周囲に新総帥と認められる。そして旧総帥は自らの結界を消去して、ようやく引継ぎが完了するのである。
 その引継ぎをなくして、総帥の交代は有り得ない。それをしなくては、総帥を代替わりさせる意味がないのだから ―― 。
「嘘じゃないよ! ちゃんと通達だって来たんだから!」
 普段はおっとりとしたセファレットには珍しく激昂したように叫び、金色に縁取られた一枚の紙をティアレイルの鼻先に突き出した。
 恐る恐るティアレイルはその紙片を受け取った。
 ―― 魔術研究所総帥シホウ=イガラシ准大導士が急病により本日付けで辞職した為、異例なことながら、ロナ=ラスカードが本日より新総帥に就任する。なお、引継ぎに関しては現在検討中 ――
 そう、紙面には書かれていた。
 それは公式の発表ではなく、魔術研究所内で使われている『所内通達』という、いわば回覧版のようなものだった。だがしかし、いずれは公式に発表されることだというのは、文書の最後にしたためられた連署で分かった。
 ロナを含む魔術派最高幹部五人のサインが在るのは当然。しかしその最後に、惑星レミュール最高機関である『レミュール議会』の主席、マクティ=ザッツェのサインがしたためられていた。
 それは、既に議会がロナを総帥として認めたことに他ならない。
「シホウ総帥が長期休養を取っていた時、ロナ導士が総帥代理を勤めていたから、幹部の誰も異議は唱えなかったし、すぐに『議会』の許可も出たって、クラン導士が言ってたわ」
 最高幹部の中で最も親しい導士の名を出しながら、セファレットは愛らしいすみれ色の瞳を悔しげに歪めた。
「創世記念のセレモニーがもうすぐだから、総帥就任を延ばす訳にもいかないって……」
 確かにそれはそうだと納得も出来る。けれども ―― あまりに良く出来た話じゃないかと思うのだ。まるで最初から段取りが組まれていたかのように、すべての対処が迅速に過ぎる。こんなにも都合よく、物事が運ぶものなのだろうか?
「それに……私がお花を差し入れた時はいつもと変わりはなかったもの。それが急病で突然お辞めになるなんて信じられないわ……」
 あのあと急に体調を崩したのだとしても、以前のようにロナが総帥代理となれば良い。その上で、経過を見て復帰が無理そうならば引退すればいいのだから。
 今回のこの急な総帥の辞任を受け入れることなど、セファレットには出来なかった。
 セファレットが憤懣も顕にそう言うと、少年は神妙な表情でゆっくりと頷いた。
 ティアレイルが最後に総帥に会ったのだって、たかだか半日前でしかない。その時……確かに様子がおかしいところもあったけれど、普通に元気でいらっしゃったのだ。そう思う。
 それらを併せ考えると ―― 追い出された。セファレットが初めに言ったように、その言葉が一番しっくりするような気がした。
「ロナ導士には会えなかったし……絶対におかしいわよ。そうでしょう?」
 ぐっと同僚の少年の腕を掴んだまま、セファレットは唇を噛み締める。
 激しく揺れるすみれ色の瞳は、これがロナによる総帥乗っ取りのクーデターのようなものではないのかと訴えているように見えた。
「……落ち着いて、セファレット。そうかもしれない……でも、違うかもしれない」
 感情がどんどん激していく様子の少女に、ティアレイルはやんわりと声をかける。このまま放っておけばロナを『真犯人』と決め付けて暴走しそうな危険さえ、目の前の同僚からは感じ取れた。
 セファレットが先に激昂していた分、逆にティアレイルは少し冷静になれたのかもしれない。
「とりあえず、落ち着いて考えたほうが良い。今の僕たちは冷静さを失ってるよ」
「冷静じゃない? そんなのあたりまえじゃない! 関係ないよ。ティアレイル、あなただって総帥がいなくなったあの瞬間に研究所に居たら、そんなこと言えない。魔術研をおおっていた"気壁"が一瞬にして消失したんだから! 私……凄く怖かったんだよ!」
 やりきれないというように、セファレットは憎々しげにティアレイルを睨み付けた。
「……うん。そうかもしれないね」
 ティアレイルは哀しげに眉根を寄せた。こんなに激した彼女を見るのは初めてだったし、どう対処していいかも分からない。ただ……総帥の気配が消えたその瞬間、その場に居合わせていたら、確かに自分もこうだったかもしれないと思う。
 大きくて暖かなシホウの気壁によって、魔術研究所内のあらゆるものたちは常に護られてきた。その優しい守護が消えて失くなる。そんな喪失感に耐えられなかったに違いないのだ。
「でも、怒っているだけじゃ何も出来ないから……」
 そっと、ティアレイルは激昂する同僚の導士をその腕で包みこむ。少しでも、彼女の心細さや不安を消すことができればと思った。
 その優しい穏やかな気配に、セファレットはびくりと身を竦め、そうしてゆっくりと息を吐きだした。
「……ティアレイル……」
 年下の友人のなぐさめるようなその気配はとても暖かく、激していた心をゆるやかに冷ます。セファレットは静かに泣き笑いのような笑みをティアレイルに向け、ひとこと、ごめんねと小さく言った。
 悲しみや悔しさ、シホウに対する気持ちを共有できる相手に会ったことで、つい激発してしまったのだということを自分自身でようやく悟る。
 セファレットは心の中で痛む悲しみを呑み込むように微笑むと、ゆっくりと、けれどもしっかりと、ティアレイルを見上げるように顔を上げた。
「そ、だよね。怒ってるだけじゃ何も変わらないもの」
「うん。それじゃあ……どこかで落ち着いて今後のことを話し合おう、セファレット。……僕には任務があるけれど、まだ時間に余裕はあるはずだから」
 同僚のすみれ色の瞳にいつものように冷静な彩が戻ってきたことを確認して、にこりとティアレイルは笑った。
 総帥が最後に与えてくれた任務を放棄するつもりは毛頭ない。けれども、今回の総帥辞任騒動をこのまま静観するつもりも、ティアレイルにはなかった。
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