蒼月の涙  - 降り頻る月たちの天空に 外伝 -

第6話 『消えた守護』


 レミュールの中心都市プランディールを離れ、海路を西南におよそ三千kmほど進むと小さな島の集まりが見えて来る。
 この島々には時の流れが無いのかもしれない。そう思えるほど、常に天空の色彩が同じだった。
 夜も昼もない。ただただ淡い薄紅の色をした空の色。
 一年のうちの限られた或る時期には、遥か海の遠くに眩いばかりの朱金の輝きが見えるけれど、それがいったいなんなのかを知る者は居なかった。
 カイルシアという魔導士の魔力によって、滅んだ『地球』からこの惑星レミュールに人々が転移してきたのは、まだたった三百年前のことなのだ。この惑星で知られていないことは多い。
 しかもレミュールという惑星はその半分以上は人の住めない『D・E』と呼ばれる大地だった。
 デンジャラス・エンパイロメント。人々が住むには危険な環境だと二つのアカデミーが判断し、それぞれが結界をはって完全に隔離している場所である。
 そしてその結界の発生場所がこの島にあり、結界を保護するためにもちろん島に人は住んでいない。その場所を今、ティアレイルは一人で訪れていた。
「やっぱりだいぶ弱くなってる。……でも、どうして?」
 僅かな灯りの下で、ティアレイルは愕然と呟いた。
 あざやかな紅に染まった砂浜から続く長い岩窟の奥に、人為的に造られただろうと思われる空間が大きく広がっていた。
 その空洞の岩肌はまるで白い炎を含んでいるように僅かに輝き、少年の姿をそっと照らし出している。けれどもその白炎の灯りよりも、少年の蒼みがかった銀色の髪の方が、よりいっそう鮮やかに輝いているような気がした。
「シホウ総帥……どこか具合でも悪いんだろうか?」
 ティアレイルは不安そうに、翡翠の瞳に濃い影を落とした。
 目の前に在るのは"D・Eの危険"からこちらを守るはずの結界。
 科学派がコンピューターで造っている『光壁』と呼ばれる結界とは違い、魔術派のそれは総帥が自らの魔力を結晶して造り出しているものだった。結界はこの発生元の島を中心として同緯度を一周するように惑星全体に張り巡らされている。
 それほどの魔術を、休むことなく行使し続けるのが魔術研総帥の最も重要な責務でもあった。だからこそ総帥にはそれを造り出す強大な術力と精神力。そして維持力が要求され、どれか一つでも衰退すれば世代交代を余儀なくされる。
 そのシホウの結界が、事もあろうか弱っているのである。
 ティアレイルは総帥の風鏡に描かれた惨事の映像を見た時、それがどのように起こるものなのかその過程を断片的にではあったが視ていた。
 その理由のひとつとしてぼんやりと視えたのが……総帥の結界だった。
 それが信じられなくて、ティアレイルはここまで確かめに来たのである。アカデミーの所員でさえ無断での立ち入りを禁じられている、この結界の島に。
「ベセルの町に行ってみよう……」
 惑星の首都プランディールが在る北大陸の最北西にある、D・Eに最も近い街。総帥はその街をひとりで救えと自分にそう言ったのだ。否、そう言っているような気がした。
 それに総帥の結界が弱まっているなどと、ティアレイルは他の誰にも言いたくなかった。結界の弱化。それは総帥の失脚を意味することなのだ。だからこそ、誰に相談するわけにもいかない。
 しかし ―― まだ魔術研究所に入ったばかりの自分がどうやって災いから町を救うというのか。ティアレイルはそう考えて暗然とした。
 その方法が思い付かないのだ。結界を強化する? そんなのは無理だ。それはシホウ総帥にしか出来ない。結界に他者の魔力が介入すれば結界創者に……シホウ本人に悪影響が及んでしまう。
 それに、自分に彼の結界を強化できるほどの力があるとも思えなかった。
「……シホウ総帥、なんで結界を強化しにいらっしゃらないんだろう? 僕にあの光景を見せたということは、ご自分でも気が付かれているはずなのに」
 ふと湧き上がる疑問。総帥から溢れるその魔力に、いささかの衰えも感じられなかった。ここに来て再び結界を強化すれば、すぐにでも結界の不安定さはなくなるのに……。
 けれどもティアレイルは、すぐにその疑問を頭の隅に追いやった。何故か、それは考えてはいけないことのような気がした。
 この疑問はまた後で考えよう。結界弱化以外にも災害の起こる理由はあったのだから、そちらを優先させて食い止めれば良いのだと、ティアレイルはひとつ身震いをしてからそう思う。
「……総帥は僕に『守れ』と仰った。それを……遂行するしかない」
 ティアレイルは不安な気持ち振り払うように頭を強く振ると、災害が起こると予知された町に向かって今度こそ転移をした。


「シホウ、その花は?」
 総帥室の窓際いっぱいに置かれた紫色の花に、ロナは目を丸くした。
 殺風景だったシホウの部屋に花があった。それも、ただ飾ってあるだけではない。三十cmほどのプランターがいくつも置かれ、まるで花壇ごとそこに持って来たようなのだ。驚くのも無理はない。
「シオン、だそうだよ」
 シホウは今にも吹き出しそうな表情でそう応えた。
「それは、まあ見れば分かるが……」
 困惑したようにロナは友人を見る。
「おかしな娘だな、ハシモト導士は。さっき彼女が持ってきたんだよ」
 シホウはとても楽しそうに、声を出して笑った。
 花を飾りに来たと、プランターを持って来た人間をシホウは初めて見た。花束や小さな鉢植えを貰ったことならあるが ―― 。
 そのうえ彼女はひとつだけだとまだ寂しいと言って、合計五つも持って来て窓際いっぱいに飾っていったのだ。本当におかしな子だ。もう一度、シホウはくすくすと笑った。
「そうか。あの娘か」
 ロナは納得したように頷いた。あの少女ならやりそうだ。そう思った。おとなしそうな外見の割に、その行動には驚かされることがある。
「それよりもロナ、私に用があって来たのだろう? 遠慮せず言ってくれて構わないよ」
 楽しげに笑って紫色の花を眺めているロナに、シホウは穏やかにそう問いかけた。
 総帥室に入って来た時のロナの表情が、いつもより少し硬かった。以前自分に休養を勧めた時のロナも、こんな表情だったことを思いだす。
「…………」
 笑顔だったロナの眼光が、ふと強張るように上げられた。独特な風合いを持つその白色の眼差しが、シホウの透明感のある黒瞳をじっと覗き込む。
「鋭いな、さすがに」
 ロナは深い溜息を吐いた。この友人に誤魔化しは効かないのだ。そう思い、哀しげに微笑んだ。あまり好んで言いたいようなことではなかった。だが、言わなければならないと心を決めて、ロナはゆっくりとシホウの前に立つ。
「はっきり言おう、シホウ。……総帥を、下りろ。もうおまえに総帥は勤まらない」
 ロナの低い声音に、シホウの肩がぴくと揺れた。そっと睫毛を伏せる僅かな沈黙のあと、魔術研の総帥は静かに微笑った。
「誰が次の総帥になる? 私が後継者に選んだ彼はまだ無理だ。彼が落ち着いて、総帥として耐え得るようになるまではおりられないな」
「……私が、総帥になろう」
 ロナはシホウの闇夜の瞳を見つめたまま、目を逸らさずに静かに告げる。
「…………」
 ロナは、例の結界が弱って来ていることに気がついてしまったのだ。このシホウの存在からあふれる魔力にいささかの陰りも衰えも感じられない。となれば、行き着く答えはひとつ。
 シホウに結界を維持する意志が無い ―― ということ。
 そんな者を総帥として戴いていられるほど、D・Eとこちらを隔てる結界の存在は軽いものではない。苦しい決断だが、ロナはそういう現実的な解答を出さざるを得なかった。
 しかし、それは立て前でもあった。友人の肩から"総帥"という重荷を下ろしてやれば、シホウはもとに戻るかもしれない。精神の不安定さも、時折見せる狂気も、なにもかもが元通りに治るかもしれない。そんな気持ちが根底には流れていた。
 この友人が他人からの同情めいた気遣いを厭う性格だと知っているので、口に出したのは厳しい言葉だけではあったが ―― 。
「おまえが……総帥に?」
 ふと、ロナを見るシホウの頬に苦い笑みが浮かんだ。
「……二代前の旧総帥が、再び復活か?」
 皮肉るように、シホウはそう言った。
 シホウに総帥職を譲った先代総帥はリアスという女性だった。そして ―― リアスの前に総帥だったのは、ロナという名の人物。
 一般的には二代前の総帥は現在魔術研に居るこのロナの祖父ということになっている。しかしそれが、自分の友人ロナと同一人物ではないかと、シホウは時々そう感じることがあった。今まで確かめられなかったその懐疑を、この時初めて口端にのせた。
 もちろん二代前の総帥ならば、既にかなりの高齢になっているはずである。
 確かにロナは若いようにも年老いたようにも見える不思議な印象を持ってはいたが、どう見ても外見は三十代半ばだ。本人の訳がない。
 ただ ―― 先々代の総帥は"不老"の秘術を開発したとの噂もあった。
「……そういう、ことになるかな」
 ロナは穏やかな笑みを浮かべた。自分が"二代前の総帥"であるということを、否定しなかった。
「……不老の秘術を開発したという噂は、本当だったのか?」
「いいや。強いて言えば遅老術かな。老いないわけじゃないからね」
 可笑しそうに笑い、ロナは応える。
 当時、幹部たちが彼に不老の秘術を教えろとうるさく詰め寄ったので、ロナは面倒くさくなって総帥を辞めて一時姿を隠したのだと笑う。
 自分の能力に蔭りが見え始めて辞めた代々の総帥とは、その経緯からが違うのだ。
「だから安心しておりろ、と言うつもりはない。私にはおまえほど強大な魔力はないから。……だがね、シホウ。私にはまだ結界を維持するだけの術力はある」
 シホウの滑らかな黒髪に触れるように、ロナはそっと手を伸ばした。
「あの少年 ―― おまえの後継者が一人前になるまでくらいの時間なら、まだもつよ。さすがにもう十年はもたないだろうが」
 白い瞳をやんわりと細めて、ロナは友人を包みこもうとするかのように笑う。
 それが、自分に対する思いやりから生まれた決意であるということはシホウにも分かった。
 けれども ―― ひどく癇に障った。
「そうか……わかった」
 感情をあらわさずにそう言うと、自分の髪に触れるロナの手を振り払う。
「シホウ……」
「もう用は済んだな? なら、さっさと出て行ってもらいたいな」
 まだ何か自分に言おうとするロナに、シホウは静かに告げた。今、何を言われても自分の気分が逆撫でられるだけだという気がした。
 何故こんなにも苛立たしいのか? 親友であるはずのロナの存在自体がこんなにも煩わしい。蜘蛛の巣のようにねっとりとした何かが心の中を埋めつくしているような、体中を取り巻いているような……ひどく嫌な気がした。
「…………」
 そんな拒絶の背中を見せる友人に、ロナは言うべき言葉を失った。
 一瞬、自分がシホウに投げた言葉をすべて取り消したい。無かったことにしたい。ロナはそんな後悔にとらわれた。何故か分からない。自分はシホウにとって最良と思えることを考え、そして総帥から下ろすという結論を出したはずだった。
 けれども魔術者としての『予感』なのか、それとも友人としての『情』なのか、自分のしたことが間違いだったような気がした。
「……少し考えておいてほしい、シホウ」
 思わず前言を撤回しそうになる言葉を呑み込んで、ロナは軽く頭を振るように言った。今更取り消せる類の言葉ではない。だから、そうとしか言えなかった。そして嘆くような悔やむような複雑な息を吐き出してから、ロナはそっと部屋を離れていった。
「もう少し……早く知りたかったよ。おまえが総帥だったことがあるのだということを……」
 友人の立ち去る気配を背中に感じながら、シホウはぼんやりと呟く。
 彼が二代前に総帥を務めていたならば、アカデミー総帥のみに伝わる『古月の伝承』をロナは既に知っていたことになる。それならば ―― 言えることもあっただろうに。
「いや……それでもきっと、私は言わなかったのだろうな……けっきょく何も変わらない」
 不意に浮かんだ感傷を葬り去るように言い捨てて、シホウはぐるりと、自分以外は誰もいなくなった総帥室を見廻す。
 視界に映るのは淡い紫色の花ばかり。片付けるものなど何も無い。この日が来ることを知っていて、何かあればすぐにでも出て行かれるように準備していたのではないだろうか?
 そう思えるほど、何もない ―― 部屋。
「花……か。ハシモト導士には似合うが、私には似合わないな」
 唯一この部屋を飾る可愛らしく咲き誇る紫苑の花々に、ぽつりと呟く。
「せっかく持って来てくれたが……無駄になってしまったな。もうハシモト導士に会うことは無いだろうが、悪いことをした」
 にっこりと明るい笑顔で花を置いて行った少女の姿を思い出し、シホウは瞼を閉じた。
 仔犬のように元気で愛らしいセファレットを見ていると、とても優しい気持ちになれたのは確かだった。ティアレイルの発する気とはまた違う、優しい気を彼女も持っていた。
「……今さら……どうでも良いことだ」
 ふっと軽く息を吐き出して、シホウは頬を歪めるように微笑んだ。
「 ―― 急に引き継ぎもせずに私がいなくなれば、魔術研は混乱するだろうな」
 ひんやりと醒めた闇夜のような漆黒の瞳に更に濃い影を落とし、微かに震えるように俯くと、その口許に鋭い微笑を佩く。
「すればいい。こんなもの……壊れてしまえばいい……」
 くつくつと含み笑いをするようにそう呟く総帥の、漆黒の瞳に宿る理知的な意志はひび割れたように鈍く煌いて見えた。
 そうして、左肩から襟元にかけて華麗にあしらわれた紫紺や朱金の組紐をするりとほどき、身を包んでいた白い制服を無造作に脱ぎ捨てる。
「すべては壊れる。偽りは闇に。夢は醒める。この……季節の中で」
 窓を開け放ち、たった今まで自分が治めていた魔術研究所を虚ろな瞳で見下ろすシホウは、どこか楽しげに……しかしひどく冷たく。口許だけが笑っていた。
 そうしてふっと、宙の中へと消え入るように、その身を溶け込ませる。
 刹那、魔術研究所を守護するように穏やかに優しい気を織り成していたシホウの気配も、すべてが瞬時に掻き消えた。
「 ―― シホウっ!?」
 後悔を抱えたように重い足取りで廊下を歩いていたロナは、ふいに襲いかかったその激しい喪失感に胸を突かれたように顔を上げた。
 慌てて総帥室に駆け戻ったロナが見たものは、誰も居ない冷ややかな部屋。
 そして ―― 無造作に床に脱ぎ捨てられた白い……シホウの総帥服だけだった。
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