蒼月の涙  - 降り頻る月たちの天空に 外伝 -

第5話 『動き出す世界』


「シホウ総帥、ティアレイルです」
 大きな椅子にその身を沈め、まどろむように瞼を閉じていたシホウは、ふと聞こえてきた柔らかな声に瞳を開けた。
 総帥室の扉を隔てた廊下にティアレイルの気配を認め、シホウはゆっくりと扉に施しておいた封印をとく。そうすると音もなく扉が開いて、その向こうに明るい蒼銀の髪が見えた。
「失礼します」
 少し癖のある髪をふわりふわりと揺らしながら、若い導士は総帥の座るデスクの前へと辿り着く。その翡翠のような緑の瞳が、僅かに緊張したようにシホウに注がれていた。
「総帥が僕……わたしにお話があると、ロナ導士から伺って参りました」
「ああ。急に呼びだして、すまなかったね」
 外で話すことはあっても総帥室に入るのは初めてなので緊張しているのだろう。いつもよりも口調の固いティアレイルに、シホウは優しく微笑んだ。
「そこに座って、楽にして構わないよ」
 自分も今まで座っていたデスクから離れ、応接用のソファに身を沈める。その総帥の言葉に、ティアレイルはほっとはにかむように総帥の向かい側のソファに腰を下ろした。
 三日前にシホウが魔力によって粉砕した窓の硝子はすべて元通りに修復され、すでにその時の惨状を思わせるものは何もない。それどころか、この総帥室にはほとんど物が置かれていなかった。
 デスクと、書棚と、大きな惑星儀がひとつ。接客用のソファとテーブル。めぼしい物はそれくらい。飾るようなものは何一つ無い、とても殺風景な部屋に変わっていた。
「聖雨の研究は、進んでいるかい?」
 にこやかな総帥の問い掛けに、ティアレイルは嬉しそうに翡翠の瞳を輝かせる。
「はい。まだ思うような結果は出ていませんが、近いうちに報告書を提出できると思います」
 あのとき総帥が楽しみにしていると言ってくれたことで、ティアレイルは時間が許す限りその研究に取り組むことが出来た。早く良い報告がしたいという気持ちは強い。
「そうか……その報告を私も見ることが出来れば良いのだが……」
 明るい笑みを宿した少年の言葉に、シホウは僅かに目を伏せる。静かに浮かぶ微笑みの中、長い睫毛が落とす濃い影が深遠の闇のように漆黒の瞳を彩っていた。
「どうかされたんですか?」
 総帥の顔に浮かぶどこか哀しい微笑に、ティアレイルは目を丸くした。心配そうに、その漆黒の瞳を覗きこむ。こんなにも哀しげな総帥の顔を見るのは初めてだった。
「いや……大丈夫だよ。なんでもない」
 やはりこの少年から溢れる魔力には他人を安心させる何かが備わっているのだろう。今こうして自分を暖かくつつみこんでくる魔力の気配はひどく心地よい。それは、決して彼が意識してやっていることではなく、天性のものなのだとシホウには分かった。
 このティアレイルの穏やかで、しかし途方もなく強大な魔力がゆっくりと、どんなふうに開花していくのか。それを見守っていたかったと心からシホウは思う。
 けれども ―― そんな感傷をシホウは強いて心の中から追い払った。
 自分はいまから、この少年にとって酷いことをしようとしているのだと。その、自覚があった。
「ティアレイル導士。……実は君に、やってもらいたいことがある」
 いまだ心配そうに自分を見つめている若い導士に、シホウは穏やかに笑って見せる。総帥のその言葉に、ティアレイルの翡翠の瞳が驚いたように見開かれた。
「え……と、それは任務を与えていただけるということですか?」
「そう。任務、だね」
 にこりと微笑んで、シホウはティアレイルの顔をじっと見つめた。
 その返答に、ティアレイルは表情を改める。総帥があんな表情をするくらいだから、きっと難しい任務なのだろうと思った。しかし、それを厭う気持ちはない。自分が総帥の役に立てるのならば、それは喜ばしいことだった。
「 ―― まずは、これを見てもらおうかな」
 シホウは僅かに目を細めてそう言うと、静かに宙を撫でるように両手を左右に動かした。
 ふわりとその手の間に風が起き、スクリーンのような薄い膜が現れる。それは『風鏡』と呼ばれる遠視術だった。風を通してこの世のすべてを映し出すことが出来るといわれている術で、扱う術者の能力の高低によって、その限界は決まってくる。
 現存しないが"大導士"称号を持つ程の者になると、コツさえ掴めば人の心の中やどんなに遠い過去未来までも、その風鏡に映し出せると云われていた。
 准大導士であるシホウが創ったそれを、ティアレイルはそっと覗き込む。
 風鏡には、かつては街であっただろうと思われる瓦礫の山が、遥か遠くにまで広がっている光景が映し出されていた。そして、瓦礫の山のあちこちに押し潰された血染めの人らしきものも映っている。
 余りに惨いその光景に、ティアレイルは息を呑んで思わず目を背けた。
「……これは?」
「ティアレイル導士、分からないか?」
 そう問い掛けるシホウの口調は、まるでティアレイルの能力を試すかのように響く。
 ティアレイルはそう言われてもう一度、風鏡に映し出される光景を見た。総帥が何を自分に示したいのか、それを考えながら精神を研ぎ澄ませる。
 そんな若い導士の肩にそっと手を置くと、シホウは少年の眠れる魔力を誘導するように己の魔力を流し込んだ。
「 ―― っ!?」
 刹那、少年は蒼銀の髪を乱すようにソファから崩れ、がくんと床に片膝をついた。
 突如として己の内を満たした魔力と共に、風鏡に映る瓦礫の山が……そうなる過程をも交えティアレイルの脳裏に鮮明な映像として流れ込んで来る。まるで自分の目の前で、現在本当に起きていることのように。あまりにも鮮やかに、人々の悲鳴や恐怖の喘ぎさえも聞こえてくるのだ。
 怒涛のように自分の内に押し寄せて来る膨大な人々の感情とその映像に、ティアレイルは一瞬、身体を支えられなくなった。
 身体が……心が破裂してしまいそうだった。
 怖れと驚愕に翡翠の瞳が小刻みに揺れる。今までにも何度か予知はしたことがある。けれども、ここまで圧倒的で鮮明な予知は初めてだった。
「どうやら、分かったみたいだね」
 シホウはティアレイルを助け起こしながら、静かな微笑を頬に刻んだ。
 正直、現段階でこの若い導士にここまで激しい反応があるとは思っていなかった。
 自分自身が求めたことであるとはいえ、無理やり少年の魔力を呼び覚ましてしまったのだというその事実は、シホウにとっては哀しくもあった。
「……は……い」
 ティアレイルは朦朧とする意識を取り戻すように深い呼吸をしながら、ゆっくりと立ち上がった。そして、真摯な眼差しを総帥に向ける。
「視え、ました……」
「 ―― 守りなさい」
 自分を見つめる翡翠の瞳に、シホウはただひとこと、そう告げる。他に言うべき言葉などはない。ただそれだけが、彼に対する望みだった。
「すぐに……向かいます」
 ふらつく足元を必死に踏みしめて、ティアレイルはそう言った。
 いつも見せていた幼いような明るい笑顔とは違う。十七歳とは思えぬ気丈な眼差しを浮かべ総帥室から出て行くティアレイルは、しかしひどく青ざめて見えた。
「あんなやり方、らしくないな」
 ふと、静かな声がした。
 いつからそこにいたのか。ロナが総帥室の扉横の壁によりかかるように立ったまま、不信な眼差しをシホウに向けていた。
「何を指して私らしくないと言ってるのか、分からないな」
 シホウは軽く唇を歪めると、醒めた黒い瞳を友人に向けた。
「ティアレイル導士を……おまえは、彼を潰したいのか?」
 白色の瞳が真剣な光を帯びて、総帥である親友を見やる。確かにあの歳若い導士には途方もなく強大な魔力が秘められている。だが、そのすべてを支えるだけの精神がまだ出来ていない。
 これから徐々に精神の成長とともに魔力の扱い方を覚えていくべきなのに、それをあんなふうに急激に荒療治で目醒めさせるような真似をするなど、自分が知っているシホウでは有り得ないことだった。
 ましてやシホウ自身がほんの数日前に、焦らずにゆっくりと経験をつむようにと。彼にそう言ったばかりだというのに ―― 。
 入所してからこの数ヶ月間。穏やかに見守ってきたはずの導士を、何故いまになって無理やり魔力の覚醒を求めるのか、それが理解できなかった。
 シホウはかすかに微笑むと、ふとロナに背を向けて窓の外を眺めるように天を仰ぐ。
「待って……いたかったよ。でも……待っていられない。私には……もう時間がない……」
 ぞっとするほど無感情な声で、シホウはそう呟いた。
 途切れ途切れに友人の口から零れ落ちたその言葉に、ロナは息を呑んだ。何の時間がないと言うのか。どんな意味が在るのかも分からない。しかし ―― とても嫌な予感がした。
「……シホウ!?」
 まるで心を閉ざしたかのように背を向けて佇むその姿と声音に、ロナはわきあがってくる絶望的な表情を隠すことは出来なかった。


「ティアレイル、どうかしたの?」
 総帥室から帰ってきた友人の顔色が普段よりも心なし青褪めて見えて、セファレットは声をかけた。いつもであれば、敬愛する総帥と話せたことでもっと明るい表情をしているはずだろうにと思うのだ。
「なんでもないよ。……そうだ。僕はこれから行かなければならないところがあるんだ。だからセファレット、あっちゃんに会ったら、今日は家に帰れないかもって言っておいてもらえる?」
 ティアレイルは強いて笑顔を見せると、幼馴染みへの伝言を頼む。
「うん、分かった。でも珍しいね、家に戻らないなんて。アスカさんきっと心配するよ」
 ティアレイルに関しては意外なほどに過保護なアスカの性格を思い出して、セファレットはくすくすと笑った。
 アスカとティアレイルは現在一緒に住んでいる。
 科学派の幹部である両親に魔術研究所への入所を反対されたティアレイルが、両親と絶縁して自ら実家を出ていた為、既に一人暮らしをしていたアスカが、馴れるまでは自分のところに来いと幼馴染みを呼び寄せたのだ。
 いつまでも一緒に住むつもりはなかったが、確かにまだ不慣れなことが多く、ティアレイルも今はその厚意に甘えさせてもらっていた。
「……うん。任務だから心配ないって言っておいて」
「あ、そうなの? 任務を受けられて良かったね。貴方なら大丈夫よ、頑張ってね」
 にこにこと、セファレットは笑った。初めて受けた任務に緊張しているから顔色が悪いのかもしれない。そう思うと、ちょっと微笑ましいような気がして可笑しかった。
「ありがとう。……そうだ、セファレット。確か花を育てていたよね?」
「え? うん、何種類か育ててるけど、それがどうかしたの?」
 とつぜん振られた話題に驚いて、すみれ色の瞳を思わず丸くする。ティアレイルは僅かに考え事をするように俯いてから、にこりと微笑んでみせた。
「総帥の部屋に始めて入ったんだけど、すごく殺風景だったんだ。だから花でも在ったらもっと穏やかな気が総帥を守ってくれるんじゃないかと思って……」
「ふふ。そういうことなら任せてもらって大丈夫よ。お花の差し入れしとくね」
 確かに花は人の気を休める効果がある。忙しい総帥にはそういうものも必要かもしれない。本当に彼はそういうことによく気が回るのだ。
 セファレットはくすくすと笑った。
「うん、じゃあ、よろしくね」
 ふわりと端正な顔に笑みを浮かべて、ティアレイルは軽く手を上げた。そうして彼女の返答も待たずに宙に溶け込むように消えていく。それは、鮮やかな転移術。
「やっぱりティアレイルの転移って綺麗よね……。総帥と同じくらいあざやかだもんなぁ」
 底知れぬ魔力を感じさせる友人の魔力の行使に、思わず感心してしまうセファレットだった。
「あれ? 今ティアそこに居なかったか?」
 不意に声が聞こえて振り返ると、アスカがのんびりとした足取りで廊下をこちらに向かって歩いて来ていた。
「うん。居たけど転移しちゃったから。そういえば、今日は家に帰れないかもって言っていたよ」
「ふーん。相変わらずあいつの転移は尋常じゃないな。……って、それより家に帰ってこないって?」
 意外な言葉にアスカは目を丸くする。自分ならともかく、あの生真面目な幼なじみが夜遊びするとも思えないが……。思い当たらない理由にわずかに紺碧の瞳が心配そうに細められる。
「何か任務を受けたって言っていたから、それでだと思うよ」
「はあ? ……新人に何の任務を言いつけたんだか。シホウ総帥も、ほんっと変わった人だよな」
 心配げだったアスカの表情が、ふっと笑顔に変わる。総帥からの任務なら心配はない。そう思った。あんなにもティアレイルの入所を熱望した総帥だ。そんな人間に危険をおかさせるような真似はしないだろう。
「変わった人って……アスカさん。それ、アスカさんに言われたんじゃ、総帥が可哀相よ」
 くすくすとセファレットは笑った。彼女が知る限りでは、このアスカこそ変わり者だ。ゴーイングマイウェイを地でいくこのアスカという導士は、魔術研究所の所員であるにもかかわらず、その勤務時間の半分近くを科学技術研究所テクノアカデミーで過ごしているのだから。
 それを真っ向から非難されないあたりは、彼の人徳かとも思うのだが ―― 。
「ん? 言うねえ、ハシモト。顔に似合わず、きっぱりと」
 おっとりした可愛らしい顔のセファレットの指摘に、アスカは可笑しそうに瞳を細めて笑った。
「さってと。じゃあ俺はまた科技研にでも行くか。ティアがいないんじゃ、今日は俺も家に帰らなくていいしな。ショーレンと久々にどっか遊びにでも行くかな」
 魔術派と相反するはずの科技研の友人の名をさも楽しげに呟くと、アスカは軽く手を振りながらセファレットから遠ざかって行く。その飄々とした態度がいっそ爽やかに思えてしまうから不思議だった。
「……ふふ。アスカさんて、やっぱり変な人」
 くすくすと笑ってアスカを見送り、セファレットは自分の研究室に入る。
 まっしろな鷺草が飾られた南向きの出窓から眩い陽光が入り込み、彼女はすみれ色の瞳を軽く細めた。
「シホウ総帥に鷺草は可愛すぎるかしら」
 多くの白サギが舞うように咲く鷺草の一片を手のひらに乗せて見て、セファレットはぺろっと舌を出す。ティアレイルに頼まれたからと言うのもあったけれど、セファレットも総帥の部屋は安らげるものであって欲しいと思う。
「キキョウやリンドウも良いし……でもシオンやオミナエシも良いかなぁ」
 あまりに殺風景だったという総帥の部屋にはいったい何が似合うのだろうか? 総帥の姿を思い浮かべてみれば、凛とした花が似合う気もする。しかし気さくな性格を考えてみれば、鷺草のように可愛らしい花でも良いかもしれない。
 そんなふうにあれこれと考えるうちに、なんだか楽しくなった。
「善は急げ……だけど、何にしようかな?」
 研究室だけでなく自分の家でも育てている草花を思いだし、ちょっとだけ考る。
「うん。総帥とお名前も似ているし……シオンにしよう」
 楽しそうにすみれ色の目を細めて笑うと、ふわりと、セファレットは宙に溶け込むように消えていた。
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