蒼月の涙  - 降り頻る月たちの天空に 外伝 -

第2話 『魔術研究所』


 レミュールの中心都市プランディールをぬけて四十分ほどの所に在る広大な緑地。魔術派のシンボルである風と天空をモチーフに創られたオブジェが佇むその先に、魔術研究所は建てられていた。
 魔術研究所は広大な自然公園のように豊富な緑に囲まれ、大きな湖も在る。その湖の中央には優雅な大鐘楼がひっそりと建ち、水を含んだ涼やかな風とともに見る者を落ち着いた気分にさせた。
 湖を通り過ぎて更に奥に進むと、導士たちの個人研究室がある南塔・北塔。図書館や合同研究室など公共施設の在る東塔・西塔。そしてそれに四方を囲まれる形で、重要な会議やすべての執務がとり決められる中央聖塔と呼ばれる建物が建っている。
 その魔術研究所の敷地内の湖を眺めるように水辺に置かれたベンチに腰掛けて、ティアレイルとセファレットは長い時間、己の所属するアカデミーの総帥について、いかにも楽しげに話をしていた。
 入所式の日から四ヶ月が過ぎ、新入所員たちにも『世界を構成する二大派閥のひとつである魔術研究所』の導士としての自覚が表情に現れ始める頃でもある。
 今年入所した導士は全部で七人いたが、その中で最も年齢の近かったティアレイルとセファレットは、互いの研究室が隣同士ということもあって自然と親しくなったようだった。
 何よりも共通した"憧れの人物"が居るという事実が、二人を親しくさせたのかもしれない。
「ほーんと、おまえらって顔を合わせるとシホウ総帥の話ばっかりしてるな」
 ふいにどこからか楽しそうな声が聞こえて、ティアレイルは翡翠の瞳をめぐらせる。
 少し離れた場所であざやかな笑顔を浮かべた青年が立っているのが見えた。
 ティアレイルよりも二歳年長の幼なじみ、アスカ=ハイウィンドだった。細身の長身に、海軍士官服のようなカッチリとした魔術研の制服が良く似合う。そしてまた、色素の薄い髪と、反対に意志の強い夜空のような紺碧の瞳とのコントラストが見るものに強い印象を与えた。
「あっちゃんかぁ」
 幼なじみの姿を見つけて明るい笑みを浮かべると、ティアレイルはアスカの座る場所をあけるように身体の位置をずらす。
「いっそ、シホウ総帥ファンクラブでも創ったらどうだ? おまえたちが会長と副会長でさ」
 楽しげに笑いながら、アスカは二人の座るベンチへと歩み寄った。
 幼馴染みであるティアレイルがシホウ総帥に心酔している事はよく知っていたし、その同期であるセファレットも総帥に憧れているのだということは以前、彼女から聞いて知っていた。
「もうっ。また変なこと言うんだから。アスカさんは」
「そうだよ、あっちゃん。そんなものを創らなくても、総帥はみんなに慕われてるから良いんだよ」
 翡翠のような緑の瞳に強い意志を宿して、ティアレイルは年長の幼馴染みをたしなめる。
「はいはい、さよですか。……ほんっと、おまえは可愛いよ」
 いかにも総帥を慕っていますというその表情と、いささか論点のずれたティアレイルの反論に、アスカは吹き出すように笑った。この年下の幼なじみの性格を昔から知り尽くしているアスカには、予想通りの反応が可笑しくて仕方なかった。
「そういえば、アスカさん。もう会議は終わったの?」
 セファレットはちらりと時計を見やってから、ティアレイルがあけてくれたスペースではなく手ごろな岩に腰を下ろしたアスカに、すみれ色の瞳を向ける。
 魔術研の所員は、上から与えられた任務に就いていない時などは月一回の定例研究会に出席すれば、あとは自由に好きな研究をしていれば良い。
 さすがに総帥は所員すべての状況や能力をしっかりと把握しているらしく、一人一人に見合った役割を与えてくるのでむやみにサボることはできなかったが、比較的自由な時間は多いのだ。
 しかし、この二年先輩の導士は、確か新たな任務を受けてその対策会議に招集されていたはずだった。この時間帯は会議の最中であることが多い。
 まだ新人である自分たちは任務など受けられるような段階ではないので、そのシステムや規則などの詳しいことは分からなかったけれど ―― 。
「まーったく。ハシモトは俺をなんだと思ってるんだかねえ。こう見えても、会議をさぼったりはしないって」
 苦笑するようにアスカは両手を広げて見せた。確かに自分は普段から、勤務時間の半分くらいは科技研に入り浸っていたり出掛けていることが多いので、決して真面目な導士とは言えないが、与えられた任務をさぼったことは、まだ一度もない。
「ふふ。そっか、ごめんね。疑っちゃって」
 心外だよなぁと拗ねるように口を曲げて、ひょいと肩をすくめてみせるアスカに、セファレットはくすりと笑った。
 外見だけで言えば、整ったアスカの顔立ちは鋭角的で冷たそうな人間にも見える。初めてティアレイルの研究室でアスカに会った時などは『お近付きになりたくないタイプ』だと、そう思ったほどだ。
 しかし実際に話をしてみるとその性格はかなりアバウトで明るく、親しみやすい。そのギャップが、セファレットには可笑しかった。
「いーえ。分かっていただければ、それでよし。……まあ、総帥は俺に合った任務しか回してこないから、楽しくてサボらないってのもあるけどな」
 導士たちそれぞれの個性を見極めて個々に見合った任務を回してくるというのはさすがだよと、軽く片目を閉じてアスカは笑った。
「……いいな。早く僕たちも任務を受けられれば良いんだけどね」
 ふうっと溜息をつきながら、ティアレイルは幼なじみの青年を見やる。何かの任務に就くということは、それだけ総帥の役に立てるということだ。何の任務にも就かずにこうして日々をただ研究のみで過ごしている今の自分が、途方もなく役立たずであるように思えた。
「馬っ鹿だなぁ、ティア。俺だって任務を受けるようになったのは入所して一年近くたってからだぞ。まだ四ヶ月しかたってない新人が気にすることじゃないだろ」
 どこか沈んでしまったティアレイルの、わずかに癖のある蒼銀の髪をぽんぽんと軽く叩いてやりながらアスカは笑う。まったくもって、この幼馴染みは生真面目すぎるのだ。
「そうだよ。君たちはまずは、ここに慣れることが先決だからね」
「 ―― えっ!?」
 背後から突然かけられた柔らかな声に、思わず三人は飛び上がるように振り向いた。心地よい低音で聞こえてきたその声は、彼らのよく聞き知ったものだった。
「シ、シホウ総帥!」
 湖を囲むようにめぐらされた林の中を散歩でもしていたのだろうか。にこにこと理知的な漆黒の双眸を笑むように細めて、総帥がひょっこりと木々の緑間から顔を出していた。
 青々とした葉の隙間からこぼれる木漏れ日に照らされるように、背中の真ん中でひとつに結ばれた漆黒の髪がゆるやかに煌いて見える。
「君たちの姿が向こうから見えたものだからね、ちょっと来てみたんだよ」
 にこりと笑って、長い髪を揺らすようにゆったりと歩み寄り、三人が座るその場所へと違和感なく入る。
「ティアレイル導士は、いまは何を研究しているのかな?」
「あ……はい、僕は聖雨が動植物に与える浄化や育成効果をもっと穏やかにゆるやかな力で高められたら良いと思ったので、それを ―― 」
 優しく問い掛けられたその言葉に、ティアレイルは少しはにかむように答えた。
 魔術研究所が月に一度レミュール全土に降らせる『聖雨』と呼ばれる雨がある。それは植物保護と成長促進の恵みの雨であり、また、すべてを浄化する清浄の雨でもある。
 しかしその聖雨に含まれる魔力の配分と質が、少し強すぎるのではないかと思ったのだ。だからそれをどうすれば良いのか、研究しているところだった。アカデミーに入所したばかりの自分が、聖雨の質に異を唱えるなど生意気すぎるかもしれないとは思ったけれど ―― 気になってしまったものは仕方がない。
「それは、とても素敵な研究だな」
 ぽんっと、総帥の大きな手がティアレイルをねぎらうように頭の上に乗せられた。驚いて総帥の顔を見上げると、黒真珠のようなその瞳が和やかに微笑んでいた。
「確かに今の聖雨は少し効果がきついからね。それが可能ならば植物はもっと喜ぶだろう。君のその研究の報告が聞けるのを楽しみに待っているよ」
「 ―― はい!」
 先ほど自分が役に立っていないと気に病んでいた若い導士の明るい笑顔に、シホウも優しく目を細める。
 やはり、この少年には計り知れない力が秘められているのだろう。今まで誰も気が付かなかった聖雨の魔力配分の偏りに、この少年が気が付いたのだということが嬉しかった。
「じゃあ、ハシモト導士は何を研究してるのかな?」
 やんわりと、同じ質問を今度はすみれ色の瞳の少女へと向ける。
「ティアレイルの真面目な答えのあとに言うのはちょっと恥ずかしいんですけど……」
 セファレットは大きな瞳に悪戯な笑みを宿して、気恥ずかしそうにぺろりと舌を出した。その表情があまりにも意外で、シホウは思わず「うん?」と首を傾げる。
 恥ずかしがるような研究内容といえば、ここに居るアスカという導士も新入当時は奇妙な魔術の研究をして周囲を沸かせたものだった。それを思い出して、シホウはくすりと笑う。
 発想豊かなアスカと生真面目なティアレイルを友人に持ったこの少女は、いったいどんな研究をしているのか興味深かった。
「木の葉をケーキにする術ですよ」
 ぷっと、隣でアスカが吹き出した。アスカ自身も変な魔術を考えるのであまり他人のことは言えないが、この仔犬のような愛らしい顔でそんなことを研究されたのでは、可笑しくて仕方がなかった。
「ハシモト……サイコー!」
 身を捩らせるように笑い転げるアスカの隣で、必死に笑いをこらえるように俯いて肩を揺らしているのはティアレイルだ。そして ―― 
「それはいい。出来たら是非、ごちそうして欲しいな」
 楽しくて仕方がないというように、シホウは大げさに手を広げてそう笑った。この少女は決して不真面目な導士ではないけれど、思考の系統はアスカ寄りなのかもしれない。顔がおとなしく愛らしい分、まるでびっくり箱のようで可笑しかった。
「ええ、いいですよ。ちょうど試食してくれる実験台が欲しかったんです。シホウ総帥、今から胃は丈夫にしておいてくださいね」
 セファレットは悪びれず、いたずらな子供のように笑ってぱちりとウィンクして見せる。
「うーん。老人はいたわるようにな」
 わざとらしく胃のあたりを押さえて見せて、シホウはくすりと笑った。
「誰が老人なんですか、誰が」
「まだ十代の君たちに比べれば、三十路にちかい私は十分にオジサンだ」
 可笑しそうに身を捩らせているアスカのツッコミに、シホウは軽くおどけた表情をしてみせる。
「この間も、ミザリー導士に年寄りと言われたばかりだしな」
 その時のことを思い出したように、シホウは深い溜息をついた。
 一般の導士たちが食事や休憩をとるのに利用しているカフェにひょっこっりと顔を出した総帥が、嬉しそうに熱い緑茶をもらって飲んでいるのを見て、新人のミザリーが『年寄りくさい』と笑ったのである。
 神秘的で素敵な総帥と噂され、また、気さくな人柄もあいまって女性導士に隠れファンの多いシホウが、新人に年寄り呼ばわりされたという話は翌日からアカデミー内で笑い話となっていた。
「あれは、価値観の問題ですよ」
「ハシモト導士はミザリー導士とも仲が良かったな。じゃあ今度、総帥は緑茶好きだけどオジサンじゃないって訂正しておいてくれるかい?」
 しみじみと、シホウは呟いた。わざと哀愁を背負って見せるあたり、総帥もたいがいお茶目な性格だと思う。
「わかりました」
 くすりと笑って、セファレットは頷いた。
「でも……シホウ総帥はどうして私のことハシモトって呼ぶんですか? 他の人はファーストネームで呼ぶのに」
 同僚であるミザリーのことはちゃんと『ミザリー導士』と呼んだのに、どうして自分はいつも姓の方で呼ぶのだろうか? 前々から少し気にはなっていたのだが尋ねる機会がなかったので、これは良い機会だと思った。
 魔術研究所ではファーストネームに称号をつけて呼ぶのが一般的だ。彼女の場合なら『セファレット導士』と呼ぶのが正しい形であるといえる。
 逆に、魔術派と相反する科学派の方では姓の方に博士だの女史だのを付けるのが普通らしい。そうなると、なんだか自分が魔術派の人間として認めてもらえていないようにも思えてしまうのだ。
 シホウは一瞬きょとんと目を丸くして、そして楽しげに微笑んだ。
「ああ、気にしていたか。それは悪かったな。深い意味はないんだ。ただ、なんだか懐かしい気がしてね」
「……懐かしい?」
 意味が分からなかった。
 シホウはやんわりと瞳を細め、ぐるりと三人の若い導士を見回した。興味深げに自分を見つめ返してくる色とりどりの眼差しに、くすりと小さく笑う。
「君たちは『地球』という惑星を知っているかな?」
「もちろん。私たちの先祖が大昔に住んでいた惑星、ですよね」
 かつて人類が住んでいたという地球。そこに人が住めなくなったのは、もう何百年も昔のことだ。
 地球滅亡の日に、当時地球の代表者であったカイルシア=ラスカードという大魔導士が自らの命を懸けて、この新天地レミュールに人々を転移させたのだと伝説では謳われていた。
 それを称える創世記念のセレモニーが毎年行われ、その時ばかりは科学派も魔術派も協力してカイルシアの偉大さを宣伝するのだから、そのことを知らない所員などはいない。
「は、は、は……」
 シホウはおかしな笑いかたをした。けれどもすぐにその表情を押し隠すように、穏やかな微笑をつくる。
「……そうだね。その、地球だ」
 一度深い呼吸をしてから、シホウは漆黒の瞳を僅かに細めて湖上に佇む大鐘楼へと視線を流す。
「まだ人間が魔術を扱うすべを知らず科学文明だけに頼っていた大昔にね、その地球には日本という国が在ったんだよ。私の先祖はそこに居た。シホウ=イガラシという私の名前だけれども、日本という国の文字で書くと、こうなるらしい」
 シホウはそう言って、宙空に見慣れない奇妙な文字を書いてみせた。
 ―― 五十嵐紫峰。
「あ、そんなふうに画数の多い文字、祖父の家で見たことあります!」
 セファレットは驚いたように声を上げた。
 幼い頃に彼女が引き取られた祖父の家には、珍しいものがたくさんあった。
 靴のままで入ってはいけない部屋や、優美ではあるけれどやたらと動きにくそうな"キモノ"という衣服。庭には"トリイ"という朱の柱が立っていて、その奥には小さな祠が建っていた。確か、その中にこれと似た雰囲気の文字があった気がする。
 セファレットがそう言うと、シホウは嬉しそうに笑った。
「ハシモト導士を日系と言うにはもう血が遠すぎるかもしれないけど、そのファミリーネームは『日本』のものなんだよ。たぶん君のおじい様のご先祖が日系だったのかな」
 既に世界から国という概念が失われて久しいこのレミュールにおいて、そんなことを知っている人間はほとんど居ないけれどね。そうシホウは笑いながら、魔力で宙に描いた文字を消す。
「いまどき珍しいと自分でも思うのだけれどね、私の家系はまだその民族の血を純粋に保っているらしい。だからなのかな。なんとなくだが『ハシモト』という方が親しみがある気がしてね。ついそう呼んでしまったんだよ。君を魔術派として認めていないわけじゃないよ」
 理知的な黒い瞳を細め、シホウはあざやかに笑った。
「へええ。総帥がハシモトって呼ぶのにはそんな理由があったんですか。俺はてっきり『ハシモト』って言った方が短くて呼びやすいからだと思ってました」
 楽しそうに笑いながら、アスカは総帥とセファレットを見やる。初めて聞いた、かつてあったという国の話はとても興味深いと思った。
「もしかして……アスカさんが私のことハシモトって呼ぶのは、短いからって理由なの?」
 幼馴染みのティアレイルのことも『ティア』と略して呼んでいる男だ。有り得ないことではない。
「ああ。だって、セファレットって言いにくいじゃん」
 けろりとした表情でそう言うと、アスカは大きく伸びをした。
「あっちゃんは、総帥がそう呼んでたから真似しただけだよ」
「余計なこと言うな、ティア」
 可笑しそうに笑うティアレイルの言葉が図星だったのか、アスカは苦笑を浮かべてぽかりとその蒼銀の頭を叩いてやる。その子供じみた攻撃が可笑しい。
 なんのかんのと言いながらも、この年長の幼なじみが自分たちと同様にシホウ総帥を慕っているのだということは、ティアレイルにもよく分かっていた。
「はは。まあ、何はともあれ……研究の成果をみんな楽しみにしているよ。じゃあ、そろそろ私は総帥室に戻ろうかな。ロナが決裁待ちの書類を抱えてヤキモキしていると困るからね」
 ちらりと時計を見やり、シホウは立ち上がる。
 なんとなく外の空気を浴びたくなって、書類の決裁中にふらりと総帥室を出て来たのである。今ごろ総帥補佐のロナは、なかなか戻ってこない総帥を苦笑しながら待っていることだろうと思った。
 サボっているわけではないが、シホウは時々そうして総帥室を離れて魔術研の敷地内を散歩してまわる癖があるので、親友のロナにとってはもう慣れたことではあろうけれど。
「あ、はい。お仕事頑張ってください!」
「ありがとう」
 ひらひらと手を振って立ち去っていく総帥のうしろ姿を、満面に笑みを浮かべたセファレットとティアレイルが送る。アスカもぺこりと頭を下げて見送ると、くすりと口許を緩めた。
「総帥がああいう気さくな性格だと、俺も安心して科技研にいけるってものだよな」
 自分も研究室にいないことが多いので、総帥室にいないことの多いシホウの行動はアスカにとっては良い口実ともいえる。
「アスカさん、それってかなり図々しいよ」
「あっちゃんみたいに不真面目じゃないよ、シホウ総帥は」
 笑い含みに口々にそう言われて、アスカは参ったとばかりに肩をすくめて見せる。
 そうしている間にもシホウの姿はだんだんと三人から遠ざかり、総帥室のある中央聖塔に向かう林の中へとゆっくりと消えていった。
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