蒼月の涙  - 降り頻る月たちの天空に 外伝 -

第1話 『入所式の雨』


 とつぜん降ってきた豪雨に、外を歩いていた人間たちは慌てて近くのビルや店に駆け込んだ。今朝の天気予報では雨など降らないはずだったのにと、ぼやく声があちこちで漏れる。
 この朝の忙しい時に、悠長に雨宿りなどしてはいられない。
 確かに、さっきまでは青空が広がっていた。
 それに今だって太陽は出ている。けれども、確実にこの空から降ってきているものは、雨なのだ。
 ―― 変な天気。誰もがそう思った。天気雨にしても、このどしゃ降りは無しだ。罪なく広がる青空にそう抗議したいくらいだった。
「あーあ、やっぱり自分の勘を信じればよかったな」
 すみれ色の瞳を悔しそうに空に向け、少女はそうぼやいた。朝から雨が降るような気がしたのだが天気予報では0パーセント。空は快晴。だから、荷物になるのも嫌で彼女は傘を持って来なかったのだ。
「これって、どっちの管轄なのかねえ?」
 そんな声が周囲から聞こえて、少女……セファレットは眉をひそめた。
 どちらの管轄。その言葉があらわすのは、この惑星レミュールを支える二つの巨大組織のことだ。
 ひとつは『科学技術研究所テクノアカデミー』と呼ばれ、最先端の科学力を駆使し人々の生活を向上させ、便利かつ高度なライフスタイルを推進している組織、科学派。
 そしてもうひとつは『魔術研究所アカデミー』と呼ばれ、魔術を駆使して自然を保護し、緑豊かな、かつ精神的に安定したライフスタイルを推進している組織、魔術派。
 このふたつの組織がなければ生活することさえままならないと、人々には強くそう信じられ、両アカデミーは支持されていた。
 どっちの管轄なのか。周囲の人間たちがそう話をしはじめたのには、そういう理由があった。
 実際には天気予報などを行うのはすべて科学派の仕事であり、天候による災害などを予知した場合に限って魔術研が警報を出している。しかし、一般の人間たちにはそういう事情は分からないのだろう。
「……魔術研のせいじゃないのになあ」
 セファレットは、周囲でわきあがる人々の噂話に溜息を吐きながら頭を振った。
 天気予報が外れたことを憤る人々の中で、今日のあれは『魔術研究所』の方の予測だと主張する声が高まっていたのである。
 昔はかなり支持率の高かった魔術研究所だが、今では科学の便利さに押され、支持率は低下してきているのだという。
 今の総帥に代替わりしてからここ数年でだいぶ上昇して来ているとも言われるが、支持率が低下しその影響力も下がるというのは何と惨めなものか。魔術派を弁護する声の少なさに、セファレットはそう思わずにはいられなかった。
「みんな、言いたいこと言ってるもんなぁ」
 ぽんぽんと、小さなブローチを手の上で弾ませながら肩を竦める。
 そのブローチは『風と天空』をモチーフにした紋章が彫り込まれた、魔術研究所の所員に与えられる身分証明のようなものだ。
 それを彼女が持っているのはもちろん拾ったからというわけではなく、今日から魔術研究所に入所する事が決まっているからだった。一般に知られる魔術研の白い制服は入所式のあとに支給されることになっており、今はこれが唯一、彼女が魔術研究所の人間だと示すものでもあった。
「どうしようかな……」
 ふと、セファレットは時計を見た。せっかく余裕を見て三十分も早く出てきたのに、このままでは入所式に遅刻してしまう。
 そう考えて、彼女は天気予報の問題などは頭の隅に追いやった。今は、一刻も早く研究所に行くことを考えなければならなかった。
 魔術を駆使して『転移』という術を使えば、一瞬で目的地に着くことは出来る。けれどもセファレットは、人目の多い公の場所で魔術を用いることには抵抗があった。出来ればそれは最終手段にしたい。
 だが、街道を走るタクシーも、この雨で皆利用していて空車がひとつも見当たらない。自動運転機能が搭載された無人タクシーを呼ぶターミナルにも、既に長い行列が出来ていた。
 あれに並んでも、三十分以上待つことになるだろう。そう思い、溜息が出た。
「その紋章ブローチ、魔術研のだね」
 ふと、背後から静かに響く低い声がした。
 振り向いてみると、見上げるほどに背の高い男が大きな傘を開こうとしているところだった。セファレットが店先を拝借していた喫茶店から、出てきたばかりのようだ。
 ばさりと微かな音をたてて藍色の傘が開かれると、その人はちらと、セファレットに視線を向けた。
「……私もこれから魔術研究所に行くところだよ。入るかい?」
 にこりと。長身の青年は笑った。
 言われたセファレットが驚いてしまうくらいに、人懐こい笑顔だった。
「あ……ありがとうございます」
 普段なら、そんな見ず知らずの男性の傘などにはそのまま素直に入らなかったかもしれない。けれどもセファレットは魅入られたように、青年がさしだしてくれたその藍色の傘に入っていた。
 あまりにも、その表情が優しかったからかもしれない。
 腰まで届く流れるような漆黒の髪と、理知的に微笑む同色の瞳がとても穏やかで。不思議な安堵感があった。
「とつぜん降りだしてしまったね」
 ゆっくりと歩き出しながら、にこやかに青年は話しかけてくる。
 低く艶やかなその声は心地よく彼女の耳に流れ込んできて、警戒する気持ちさえ浮かんではこない。
 そしてまた、この青年の顔や声を自分は知っているような気もしていた。いったい誰だったろうかと考えてはみたものの、すぐには思いだすことが出来なかったけれど。
「ええ。天気予報よりも自分の勘を信じればよかったなって、そう後悔してたところです。でも、せっかくの入所式なのに雨が降るなんて……天気予報には当たって欲しかったなぁ」
 セファレットはぺろりと舌を出した。
 おそらく魔術研の所員であろうこの青年は、自分の勘に従って傘を持って来ていたのだろう。そう思うと、自分の判断の甘さが少し気恥ずかしかった。
「はは。私は天気予報は見ないからね」
 くすりと、青年はどこか子供のように悪戯な笑みをうかべ、傘越しに空を見やる。
「起きた時にはもう、知っているから。……このにわか雨もじきに止むと思うよ。入所式が始まるころには、たぶん大丈夫だ」
「お天気を予知してるんですか?」
 セファレットは目をまるくした。わざわざ魔術を使って天気を予知しているというのは意外だった。そんなことをしなくとも、今日のような例外はあるが科学派の天気予報は基本的には当たるのだ。
「いや。予知するつもりはないんだが自然とね、分かってしまうんだよ。……たまには天気予報を見て、外れたあ! って怒ってみたいものだ」
 青年は軽くおどけるように肩をすくめると、くすくすと笑った。
「すごいなあ。自然と予知してしまっているなんて」
 セファレットはすみれ色の瞳を輝かせた。
 自分は何かを"感じる"ことはあっても、はっきりと"知る"ためには、予知しようという確固たる意志を持って臨まなければ知ることが出来ない。
 そうする意志がなくとも自然にすべて予知できてしまう魔導士というのは、かなり魔力が強い人間だけだと聞いた事があった。
「とても強い魔力をお持ちなんですね」
 たかだが天気のことで ―― とは思わない。知らず天候を予知してしまうのであれば、その他の災害等も早い段階で、知ろうとはせずとも自然に感知できてしまうに違いないのだから。
「創世主のカイルシアも、そうだったって言いますよね。知ろうとしなくても、何でも分かっちゃったって。あなたも、とても優秀な導士なんですね」
 にこにこと。セファレットは楽しそうに笑う。彼女にしてみれば、最大級の賛辞のつもりだった。多くの魔術者にとって、創世主であるカイルシアは憧憬の対象だったのだから。
 けれども青年から、先ほどのような明るい笑顔は返ってこなかった。
「…………」
 ゆっくりと歩いていた足を止めて、彼は何か痛みを堪えるように眉根を寄せて強く目を閉じる。額を押さえるように持ち上げられた左手が、微かに震えているようにセファレットには見えた。
「ど、どうかしたんですか? 体調が悪いとか……?」
 心なしか顔色も悪いように思えて、セファレットは慌てて黒髪の青年の顔を覗きこんだ。何か重い持病でもあったら……そう思うと心配だった。
「いや……大丈夫だ。すまない」
 自分自身を落ち着かせるように何度か深い呼吸を繰り返し、青年はゆっくりと顔を上げる。
「少し立ち眩みがしただけだから、心配しなくていい」
「本当に大丈夫です? 少し休みますか?」
 このまま歩いていて倒れでもしたら大変だ。研究所に着いてから休むと言うには、魔術研究所までの距離はまだ少し遠かった。
「あ、でも雨の中で休むのもなんですよね……」
 強い勢いで落ちてくる雨に、困ったようにセファレットは眉根を寄せる。どうするのが彼の身体にとって一番良いのか、必死に考えているようだった。
「確かに……このまま歩くのはちょっと辛いかな」
 苦笑するように青年は漆黒の瞳を細め、少女を見やる。体調が悪いわけではなかった。しかし何故だか心が急いて……一刻も早く魔術研究所の敷地内に入りたいと思った。
「だから、転移しちゃおうか」
 その端正な顔に浮んでいたどこか苦しげな色が僅かにやわらぎ、ゆるやかな笑みを宿す。
「えっ!?」
 ふわりと、身体が一瞬軽くなったような気がした。それが転移の前兆だとセファレットにも分かる。
 案の定、周囲の景色が抽象画の中に入り込んだような煩雑な景色に変わり、次の瞬間、彼女は静かな緑におおわれた厳格な美術館めいた建物の前に立っていた。
 それは本当に一瞬のことで ―― あまりに鮮やか過ぎる軽やかな転移。それは、計らずもこの青年の魔力の強さをまざまざと彼女に証明することとなった。
「あ、雨も止んだみたいだ。よかったね。入所式は快晴の下で出来るよ」
 今まで地面を叩いていた雨の雫が途切れているのに気がついて、彼はふわりと髪をなびかせるように空を仰ぐ。そうして何事もなかったようににっこり笑って、一緒に転移してきた少女の手を放した。
「あの……もしかして ―― 貴方は総帥……ですか?」
 自分以外の人間を連れてここまで気軽に、しかも鮮やかに転移することが出来る存在など、そうそう居るものではない。セファレットは思い当たった人物の名前を思い浮かべながら、ぼんやりと目の前に居る青年の顔を見上げた。
「うん?」
 突然そんなことを訊いてくる少女を可笑しそうに眺め、青年はくすくすと笑った。
「まあ、そうだね。いちおう准大導士の称号を得て、総帥職を拝命しているよ」
 自分を知らない所員がこの魔術研究所に居るとは思いも寄らなかったのだろう。青年はさも楽しげに、そう名乗った。
「……やっぱり! シホウ=イガラシ准大導士……シホウ総帥……」
 魔術を扱う者は、その能力によってそれぞれ称号を持っている。
 上から順に、大導士・導士・術士・術使いというものであり、魔術研究所に入所できるのは導士以上と決められ、術士・術使いにおいては魔術研の統制下にある各施設で活躍の場が与えられていた。
 昨今、優秀な魔術者の不足が問題となってきている魔術派には、ここ何十年も最上位の『大導士』称号を持つ者は現れてはいない。
 しかし大導士に最も近い能力を持つ導士として、人々に慕われている者は一人だけいた。その人物に『准大導士』の称号が贈られたということは、魔術を嗜む人間ならば誰もが知っている。
 この気さくな青年が、ここ数十年の間で最も魔力が強い総帥と噂される人物なのだ。そんな人物とこんなにも気軽に会話をしている自分というものに、セファレットは思わず息を呑んだ。
「ああ、そうか。君は新入所員だったよね? それなら私の顔を知らなくても仕方ないか。今年は面接をしたのは私ではないからな」
 シホウと名乗った青年は、自分自身が納得したようにゆっくりと呟く。
 通常の入所試験は総帥が面接をして魔導士としての素質を見極めるというのが決まりなのだが、今年は都合によって総帥代理のロナ=ラスカードという人物が面接を行ったのである。
 だから彼女は総帥の顔を間近で見たことがなかった。もちろん写真やテレビなどでは見たことがあったけれど……。そう思ってよく見てみれば、確かに写真で見た総帥と同じ人物だ。最初に会った時に見たことがある顔だと思った理由も、今更ながら理解できた。
「ああーもう。気付かなくてごめんなさい。雑誌やニュースでよく総帥の顔は見てたはずなのに……」
 セファレットは自分の迂闊さが恨めしいというように、深々と頭を下げた。これまでの彼に対する応対が、新入所員が総帥に対して取るような態度ではなかったのではないかと思うと、溜息もつきたくなる。
「気にすることはない。写真やなんかと実物はやっぱり違うからね。……ということは、まず今年の新入所員には私の顔を覚えてもらう事から始めないといけないんだな」
 シホウは漆黒の瞳をやんわりと細め、くすりと笑った。
「シホウ!」
 不意に建物の方から声がきこえ、金髪の男がこちらに駆け寄って来る。それはセファレットも見知った人物で、彼女を面接した総帥代理のロナ=ラスカードだった。
「もう出て来ても大丈夫なのかい、シホウ?」
 これで見えているのかと不思議に思う白色の瞳を心配そうに細め、ロナは穏やかにそう尋いた。
 シホウより年上のようではあるのだが、正確には年齢がつかめない。まだ若いようにも、年老いているようにも見える、不思議な印象をロナは持っていた。
「ああ、ロナか。総帥がいつまでも休んでいるわけにはいかないだろう? 面接に続き入所式まで欠席しては示しが付かない。何より顔も覚えてもらえないしな」
 流れるような黒髪をさらりと後ろに払いのけて、シホウは微笑んでみせる。
「それもそうだな。でも、本当に出て来られて良かった」
 その漆黒の瞳に宿る理知的な眼差しに安堵したようにロナは軽く頷いた。そうしてどこか楽しげに、シホウの肩を叩く。
「それに、シホウ。今日はあのティアレイルという少年も入ってくる。まだ十七歳という若さだが、良い素質なのだろう? 入所式が楽しみだ」
「……十七歳か。まだ普学に行ってる年代だな。卒業を待たずに入所か? そこまでロナが惚れ込んだ人材なら、本当に楽しみだな」
 くすくすとシホウは可笑しそうに笑った。
「 ―― え?」
 思わず、ロナは親友の顔をマジマジと見やった。その十七歳の新入所員にロナはまだ一度も会ったことがない。
 一昨年に入所した導士の一人にくっついて、魔術研究所に遊びに来ていた少年。ひと目で分かったのだと。途方もなく強い魔力を持っているとすぐに感じたのだと、シホウ自身がそう言っていたのだ。
 まだ学生である少年の卒業を待つようにと。急ぐ必要はないとロナが忠言したにも関わらず、口説き落として今年の入所にこぎつけたのも、シホウの方だった。
 それを ―― 覚えていないというのだろうか?
「シホウ?」
「……いや、違うか。何を馬鹿なことを言っているのだろうな、私は。彼……ティアレイルくんは私が招いた導士だったね」
 愕然と自分を見やるロナの眼差しに、ハッとシホウの表情が一瞬だけ凍る。そうしてゆっくり思い出すように瞳を閉じて、シホウは自嘲するように微笑んだ。
「もう少し……休んでいた方が良かったのではないか?」
 シホウの肩にそっと手を置いて、ロナはどこか痛ましげに息を吐く。この総帥の様子がどこかおかしいことを、ロナはだいぶ以前から気がついていた。
 稀に起こる記憶障害や情緒の不安定。記憶はすぐに元に戻るようでそんなに実害はなかったが、今までならば決して有り得ないことだった。
 シホウは総帥の激務に疲れている ―― 。そう思ったからこそ、魔術研の総帥であり自分の親友でもあるシホウに少し休養を取るようにと勧め、ロナは総帥代理をしばらく勤めたのだ。それなのに、こうして復帰してきた友人から感じる違和感は、以前よりも更に強い。
(……壊れかけて……いるのか? まさかな……)
 心の内でそう呟いて、ロナはシホウから視線を外した。それは認めたくはないことだった。
「いや、大丈夫だ。これ以上休んでいては、身体が鈍ってしまうよ」
 にこりと笑ってシホウはロナと、そしてまだ近くに佇んでいる少女を見やる。
「もうじき入所式が始まる。そろそろ準備の手伝いに行こう、ロナ。えっと君……」
「あ……セファレットです。セファレット=ヴィルトーア=ハシモトです」
 自分がまだ名乗っていなかったことを思いだし、セファレットは慌てて名前を告げる。
「じゃあ、ハシモト導士。私たちはもう行くが、君はこの先の東塔の控え室で待っていなさい。もう新所員が幾人か集まっているだろうからね」
 やんわりと東塔の方を指し示して教えてくれる総帥に、セファレットは笑顔で頷いた。
「はい。ありがとうございます。では、失礼します!」
 その控え室には先ほど彼らの噂にのぼっていた"優秀な少年"というのも居るのだろう。ティアレイル、という名前だったか。
 先程から少し様子のおかしい総帥は気にかかったけれど、その少年に会うのがなんだかとても楽しみに思えて、セファレットは軽やかに東塔へと向かって行った。
「……ロナ、すまない。また少し……ぼうっとしていたな、私は」
 彼女がいなくなるとシホウは素直に先程の失態を友人に謝罪する。若い新入導士の前では言えるはずもなかったが、この金髪白瞳の友人が自分のこの記憶混濁を最も懸念しているのだということを、シホウはもちろん知っていた。
「休みボケ、かもしれないな。さあ、のんびりしていないで早く総帥服に着替えて来いシホウ。もうすぐ入所式の最終打ち合わせが始まってしまうからね」
 ロナはその白い瞳にほんの少し笑みを浮かべ、気を取りなおすようにぽんっと青年の背を叩いた。
 先程にわかに降りだした雨の匂いはもう跡形もなく、晴れやかな青い空が魔術研究所の上に高く青く広がっている。その陽射しを気持ち良さそうに受けながら、シホウもゆるやかに笑った。
「雨も上がったことだし……良い入所式になる」
 新たな導士を迎える入所式の日に、にわかに降りそそいだあの雨は、きっとこの不安を洗い流すためのものだったのだろう。そう、自分に言い聞かせるようにシホウは黒い双眸を閉じる。
 そうして再び静かな笑みを浮かべると、総帥室のある中央の建物へと入って行った。
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