蒼月の涙  - 降り頻る月たちの天空に 外伝 -

第3話 『枷となる想い』


「とくに急ぎのものはない……か」
 総帥室に戻ったシホウは、デスクに置かれた決裁待ちの書類にざっと目を通しながら、ゆったりと大きな椅子に身を沈める。
 待っているかと思ったロナの姿は見当たらなかったが、部屋にはゆるやかな涼風が流れていた。
 外気の暑さを和らげるために魔力で創られた水の珠がふわりふわりと天井近くに浮かび、部屋の中に流れ込む風を過ごしやすいものへと変化させている。
 窓も大きく開いたままなので、おそらくロナはつい今し方までこの部屋に居たのだろうと判断できた。何か用事でも出来て少し席を外しただけに違いない。
「あとひと月もすれば ―― 創世記念セレモニーなんだな。今年は……大丈夫だろうか」
 手元にあった書類に書かれた創世記念の文字を見やり、シホウは目を細めるように呟いた。そのまま背もたれを倒すように窓外に広がる空を見上げると、どこかやるせなさそうに溜息をつく。
 気が遠くなるような、まっさらな青い空。ずっとこうして見ていると、引き込まれてしまいそうだった。
「私はまだ……保てるだろうか……」
 それまで明るい笑みを宿していた総帥の端正な容貌が僅かに蔭り、穏やかな黒い瞳がどこか苦しげに、震えるように閉ざされる。
「……自分のことは、やはりみえないな」
 シホウは苦笑するように溜息をついた。
 これまでに多くのことを予知し、対策をたててきた准大導士であるというのに。自分自身の未来は、何度試みても予見することは出来なかった。自分に未来がないからなのか。それとも他に何か要因があるのか。それさえも分からなかったけれど ―― 。
 日々強くなる胸の奥底から疼く言い知れぬ感情。そしてそのあとに訪れる意識の混濁。己の中にあるその負の感情が、日々育っていくのだけは分かってしまう。それが、怖ろしかった。
「誰に……言うことも出来ない。こんなことは ―― 」
 魔術研究所の総帥として多くの責務を抱える自分が、抱いて良い感情ではなかった。
 固く目を閉じているにも関わらず瞼の裏から差し込んでくる太陽の強烈な光に、びくりと身を震わせる。言えないことが更に自分を追いつめているのだということに、シホウはまだ気が付いていなかった。
「ああ、シホウ。戻っていたのだね」
 軽く扉を叩く音に続いて、ロナの穏やかな声がした。金髪白瞳の友人が軽やかな足取りで総帥室に入ってきたのを感じて、シホウはゆっくりと目を開けた。
「ああ、ついさっきね」
 革張りの椅子の背もたれから身体を起こすように友人に目を向けると、気だるげに微笑んでみせる。
 その総帥の顔色の蒼白しろさに、思わずロナは息を呑んだ。
 総帥としての重責と激務は激しい消耗をその人間に強いる。だからこそ外の空気を浴びることで自然から"力"を分けてもらい、心身ともにリフレッシュして落ち着かせるのだ。その為に、シホウが時々ふらりと総帥室を抜けだして散歩に出ているのだということを、ロナは知っていた。
 いつもであれば散歩のあとは活力を取り戻し、穏やかな空気を織り成しているはずだった。
「何かあったのかい、シホウ?」
「……いや。なんでもないよ。それよりコレ。決裁が終わったものだよ」
 心配そうに近付いてくる友人に軽い口調でそう言うと、無造作に書類の束を渡す。それを受け取りながら、ロナの白瞳が驚いたように見開かれた。
「創世記念のセレモニーは、本当にこれでいいのか?」
 ロナは白色の瞳を友人に向けて、思わずそう訊ねる。
 総帥の手元には今年のセレモニーで魔術研が行う"祝福"の内容を提案した書類が何種類か置かれているはずだった。そのうちの一つに承認の印を捺して、彼はロナに渡してよこしたのだ。
 それは別に構わないのだが、あまりにシホウが適当に選んだような気がしてロナは驚いていたのである。以前のシホウならば不愉快そうに却下したに違いない提案内容だった。
「いいよ。それなら会場も喜ぶだろう」
 大きな椅子の背もたれに身体を預けるように、再びシホウは笑った。
「そうか……。じゃあ、私はこれを実行委員に渡してこよう」
 本来なら委員を呼び付ければ良いだけのことではあるのだが、なんとなくシホウが一人になりたがっているような気がして、ロナは総帥室から出て行こうとする。
「……ほんとうに、くだらない」
「うん?」
 開きかけていた扉を戻し、ロナは振り返った。
 シホウはこちらを見てはいなかった。理知的な黒い瞳を細め、どこか冷ややかにも思える微笑を口許に佩いて、窓の外に広がる空を見ているようだった。
「ふふ。創世記念のことだよ、ロナ。あんなにくだらないセレモニーに、何をやろうが変わらない」
 自分を見るロナの視線に気が付いたのか、ゆったりと椅子ごと振り返る。その漆黒の眼差しは、凍えるように冷たい笑みを宿していた。
「シホウ?」
「 ―― !?」
 ハッとシホウは目を見開いた。自分自身の口からこぼれた言葉が信じられないというように、口許を押さえるその手が僅かに震えていた。
「……いや。すまない。なんでもないよ、ロナ。その書類を、頼む」
 まるで正気を取り戻そうとするかのように一度強く頭を振ってから、シホウは顔に降りかかる黒髪をかきあげながらデスクに両の肘を付く。
「……わかった。行って来よう」
 静かに、ロナは頷いた。ここしばらくの間で友人の不安定さは増してきているように思う。それなのに何も出来ない自分自身がもどかしく、そして悔しかった。


「ロナ導士!」
 創世記念の企画実行を担当している導士のもとへ向かうために廊下を歩いていると、ふいに呼び止められてロナは足を止めた。
 長く伸びた金色の髪を翻すように声のした方を振り向くと、そこには見知った壮年の男が立っていた。
 この惑星の政治を行う最高機関レミュール議会の主席を務めるマクティ=ザッツェが、にこやかに軽く手を上げている。チャコールグレーのスーツが良く似合う、穏やかそうな紳士だった。
「どうされました? 主席が急にこちらにいらっしゃるとは」
 ロナは軽く首を傾げ、壮年の紳士に歩み寄る。
 実質的な支配力・影響力は別として、形式的には魔術研究所も科学技術研究所もレミュール議会の下にある組織ではある。議会の主席がアカデミーを訪れるとなればそれ相応の接待をするのが常だが、いきなり来られたのではその準備もままならない。
「いや、気にせんでくれたまえ。今日は公務ではなくプライベートで来たのでな」
 人好きのする笑顔を浮かべながら、マクティはロナと握手を交わす。
「ところで、ロナ導士。シホウ総帥はご壮健かな?」
「は……ええ、おかげさまで」
 突然の問い掛けに一瞬虚をつかれはしたものの、ロナは無難にそう答える。まさか魔術研の総帥が不安定だなどと、この議会の主席に言えるわけもない。
「そうかね。それは良かった。もうじき創世記念のセレモニーだし、皆はシホウ総帥に会えるのを楽しみにしているんだよ。また以前のように体調が優れなかったら困るからねぇ」
 にこにこと嬉しそうに笑って、マクティは何度も頷いた。
 シホウは、人材不足をささやかれる魔術研究所にあって数十年ぶりに現れた強力な魔導士であり、最上位の大導士ほどの魔力はないにしても、現存する導士の中では最上級である。
 だからこそ今までなかった『准大導士』という称号をわざわざつくり、彼らはシホウに贈ったのだ。魔術を支持する人間たちにとって、シホウは大きな期待を寄せるべき存在だった。
「ここ数年は彼のおかげで魔術派の勢いが盛り上がって来ているとはいえ、まだまだ昔には程遠いからね。君たちには頑張って欲しいのだよ」
 議会の主席という立場上あまり公けに言うことは出来なかったが、このマクティ=ザッツェが魔術研究所をおおいに支持している魔術派だということは公然の事実でもあった。
「ありがとうございます。総帥にも伝えておきましょう」
 その大きな期待が重いのだと思いつつ、にこやかにロナは笑って頷いた。呼び止められたのがシホウではなく自分で良かったと、心から思う。もちろん、シホウに伝言などするつもりはさらさらなかった。
「うむ。そうしてくれたまえ。……それで、あの噂の少年はどうなのだね?」
 楽しげに表情を華やがせ、マクティはロナの顔を見やる。
「……主席。廊下で立ち話も何ですので、応接室の方へどうぞ」
 ロナは静かに笑って、壮年の紳士を応接室へと促した。
 先ほどのマクティの質問に即答することが躊躇われ、さりげなく時間を稼いだのだ。応接室へと移動する間に、どう答えるべきか考えるつもりだった。
 十七歳の若い導士のことが、魔術を支持する者たちの間で大きな噂となっていることは知っていた。ひと月ほど前に発刊されたサージュという魔術専門誌では、最近頭角を現している若き導士として取り上げられたのも知っている。
 実際にはまだティアレイルは任務に就いたことはないのだが、優秀な魔導士を求める者たちにとっては、そうあってほしいのだろう。
 しかし ―― まだ若い導士に求めすぎだ。
 ロナはマクティには分からぬように苦笑した。総帥であるシホウに寄り掛かるだけでは飽き足らず、他にも拠り所を求めようとする人々には少々うんざりもする。
 それがアカデミーの役割だと分かってはいるが、どうにかしてティアレイル導士に対する"彼ら"の視線だけは逸らせたいと思った。
 シホウが見立てたとおり、あの少年には途方もない魔力が秘められているとロナも感じていた。彼がその魔力を自在に操れるようになれば、否応なしに人々の期待は集まってしまうだろう。だからこそ、今はそっとしておいてやりたいというのが本音だった。
「確か……ティアレイル導士、だったな、その少年は。噂によればシホウ総帥みずから、アカデミーに招いたというじゃないか。本当のところ、実力はどうなんだね?」
 ソファに座ると、マクティは嬉しい報せを待つような顔をして再び口を開く。ロナは、完璧な微笑を口許に浮かべ、白い瞳をゆるやかに細めた。
「彼の実力は未だ未知である、と申し上げておきましょうか。まだ若いので、揺らぎが大きいのですよ。実際まだ彼には任務を与えてもおりません。この先、長い目でみる必要があるでしょうね」
 若いようにも歳を取っているように見えるロナの、不思議な口調が人を惹きつける。マクティはその言葉を聞き入るように身を乗り出していたが、ふうっと落胆したように深く息を吐きだした。
「そうなのかね。まだ任務もこなしてない……か。では、もうしばらくは様子見だなぁ」
 自分自身を納得させるように何度も頷くと、主席の紳士はソファに身体を預けるように天井を仰いだ。
「科学派の方では人事に動きがあってなあ、セレモニーでそれを発表するんだよ。だから魔術派にも何か目玉があればと思ったのだがなぁ」
 残念そうに呟く主席の言葉に、思わずロナは目を細める。そんなことでティアレイルを人身御供にされてはたまらない。内心でそう毒づきはしたものの、口にしたのは別のことだった。
「人事に動き、ですか?」
「ああ、まだ魔術研には情報が届いていなかったかね? 昨日とり行われた会議で科技研の新しい総統が承認されたのだよ。任期はセレモニーの後からだがね、ルナ=ラスカードという女性だったかな」
「 ―― !?」
 ぐらりと、思わずロナの身体が揺れた。科技研の総統が体調を壊して引退すると言う話は聞いていたが、まさかその跡を継ぐのが彼女だとは ―― 。
「どうかしたのかね?」
 あまりに驚いた様子のロナに、マクティは不思議そうに目を向ける。
「いや……科技研が女性の総統を迎えるのは久しぶりですからね」
 すぐに平静を取り戻し、ロナは笑った。
「その通りだ。だから創世記念が過ぎれば更に科学派が注目を浴びることになる」
 それがいかにも悔しいというように、マクティ=ザッツェは大きな溜息をついた。
 それに同調する義理もなく、ロナはただ静かに視線を返す。
 しかし ―― 新しく科技研の総統になるのがルナ=ラスカードであるのならば、このさき魔術研・科技研の両アカデミーには少し変化が起こるかもしれないとも思う。
「……ルナなら、大丈夫だな」
 心の中でそう呟くと、今後の自分自身が為すべきことを考えて、マクティとは裏腹に思わず口許がほころぶロナだった。
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