デスクワークで重く疲れた肩を大きくを伸び上がらせながら、ロナは総帥室のバルコニーに出た。今日中にやるべき書類の決裁を終えて、ようやく息抜きというところだった。 「……ティアレイル大導士?」 ふと、今まで魔術研内に存在していたティアレイルの気配がとつぜん掻き消えたように感じられて、ロナは独特の白い瞳を細めるように首を傾ける。 どこかに出掛けたというよりも、存在そのものが消え失せてしまったように思えて不思議だった。 「何か、起きたか?」 様子を見に行こうと考え、ロナはくるりと身を翻した。さらりと。流れるような金糸の髪が風におどる。その瞬間、ぽてっと。何かが頭に乗っかったような気がした。 「うん? ……ぽて……って?」 僅かな加重と温もりに、ロナは驚いたように頭に手をやった。 その形から想像するに、どうやら鳥か何かのようだと考えて、そっと掴んで目の前に持ってくる。 「……こうもりだ。こんな昼間に珍しいな」 手のひらに横たわる黒い小さな生き物に、ロナはくすりと笑った。 何があったのかは知らないが、そのコウモリは目を回して気絶しているのである。それで、翼があるにもかかわらず空から落ちてきたのだろう。 「外傷は、ないな。大丈夫」 そっとコウモリの身体を見やり、ほっとしたように頷く。そうして総帥室の中に戻ると、目が覚めるのを待つようにソファに寝かせてやった。 先ほど感じたティアレイルのことも気になったけれど、感覚を研ぎ澄ませてみても不穏な感覚はどこにも感じられない。だからとりあえず大丈夫だろうと判断した。なによりあの大導士は、自分などより遥かに強い魔力を持っているのだ。危ないこともないだろう。 「……うーん」 しばらくして、コウモリが身じろぎするように声を上げた。その黒い目が、ぱちりと開く。 「あっ!! レイフォード様の上着っっ!!!」 はっと、何かを思い出したように、はっきりと言葉をしゃべりながら起き上がるコウモリは、その瞬間、十二・三歳ほどの少年の姿になっていた。 「 ―― !?」 思いもかけないその出来事に、ロナの白い瞳がきょとんとまるくなる。彼のそんな表情は滅多に見られない珍しいものであることを、間近で見たコウモリ少年……ダストは知る由もなかったが。 「あ……あれ? ここ、どこでしょう?」 見たことのない部屋の装飾におおいに慌て、ダストはきょろきょろと辺りを見回すように頭を動かした。 「ここは魔術研の総帥室。私の部屋だが……驚いたな。コウモリが人間になるとは」 ロナは可笑しそうに、おろおろと慌てる少年に声をかける。思わず聴き入ってしまうような穏やかに成熟したその声音に、ダストは少しだけほっとしたように振り返った。 「あなたの部屋……なんですか? 僕は、何でここに居るのでしょう? レイフォード様の上着が風にとばされて、取りに行ったはずだったのですけれど」 そのときのことを思い出しながら、ダストは不思議そうに首を傾げた。確か、自分は礼拝堂の屋根に引っかかっていたレイフォードの上着を取ろうとして、足を踏み外したのだ。地面に落ちそうになったから慌てて本性に立ち戻ったのだけれども。そのあと気が付くと、ここに居たのである。 「君は気を失って、空から落ちてきたんだよ」 ロナはそのときの状況を説明する。 「す、すみませんでした。ご迷惑をおかけして。……それでは僕は、帰ります。レイフォード様が心配するといけないので」 ぺこりと頭を下げてから、ダストは屋敷に帰ろうと、自分が落ちてきたという総帥室のバルコニーへと向かった。刹那、その瞳がこぼれんばかりに見開かれる。 窓の外には、まったく見たこともないような景色が遠くどこまでも広がっていた。 「…………ここは、ザレードの街じゃないんですか?」 今にも泣き出しそうにへにょんと表情を歪めて、ダストはロナを振り返る。 「ここはプランディールという街だが……」 答えながら、ロナはザレードという知らない街の名前に軽く首を傾げた。このレミュールに、魔術研総帥である自分の知らない街があるはずもなかった。 「詳しい話を聞かせてもらったほうが良さそうだな」 ロナは、必死に不安をこらえているようなダストの肩にぽんっと手を置いて、静かに笑う。その手がとても暖かいと、ダストはそう思った。 「どうやら、世界さえも違うみたいだな」 魔族だのヴァンパイアだの聖獣だのと。この世界ではありえない話がダストの口から次々と語られて、ロナは感慨深げにそう言った。 異世界というものがあるらしいという話は聞いたことがある。それが本当に、こうして目の前に実在のものとして現れるというのは驚きだった。 「……僕は、レイフォード様のところに帰れるのでしょうか?」 世界が違うと聞かされて、ダストは心細げにうつむいた。大好きなご主人様にもう会えないのかもしれないと思うと、哀しくなってくる。 「うーん。そうだなぁ。とりあえず君の世界を視てみるとするか。遠視することが出来たなら、たぶん君を送り返すことも出来ると思うがね」 ロナは考えるように軽くこめかみを押さえ、そうして大らかに笑った。 「じゃあ、私の右手を掴んでザレードという街を思い浮かべなさい。私は知らないのだからね。君の感覚からその"世界"を遠視するから」 「は、はいっ!」 ダストは気負うように返事して、ひっしとザレードの街を。そして敬愛するレイフォードの姿を思い出す。 ロナはくすりと目を細め、ダストに触れる反対側の左手をデスクに置かれていたグラスの水に浸した。 「……あっ。レイフォード様のお屋敷だ!」 水鏡に映るその光景に、ダストは飛び上がらんばかりに喜んだ。レイフォードの姿は見えなかったけれど、見知った景色が嬉しかった。 「おや? この感覚は、ティアレイル大導士か?」 自分の魔力と同調するように水鏡に流れ込むその魔力に、ロナは目を見張る。 ややして、これがどういう状況なのか。ロナには理解できたような気がした。おそらくダストと同じように、ティアレイルが向こうに行ってしまっていたのだろう。それならば、さっきの消失の感覚も納得がいく。 「となると、君だけを送り返すわけにはいかないようだな」 軽く苦笑を浮かべ、ロナは独特な白い瞳を穏やかに細めた。 本来あるべきはずの世界とは違う場所に、それぞれの生命が入れ替わって在るからこそ、互いが"起点"となって異世界がつながっているのだとロナは思った。 これでもし、ダストだけを元の世界に送り返したならば、レミュールからは"起点"が失われ、道は閉ざされることになるだろう。今のように自分とティアレイルの魔力が同調することも出来ないかもしれない。 「つながっている今、同時に転移するのが良いと思うんだがね。どうやって大導士に伝えるかが問題だな」 困ったように、ロナは眉根を寄せた。いまティアレイルがどのような状況にあるのかも、ロナには分からないのだからお手上げといってもいい。 そのとき不意に、黒い影のような何かがロナの視界をおおうように現れた。その影はふうわりと、舞い降りるように静かに床に着地する。 それは、黒い外套に身を包み、深紅の瞳が強くあざやかな印象を与える青年だった。 「レイフォード様あっ!!」 ダストは泣き出さんばかりに駆け寄って、レイフォードに抱きついた。"世界の壁"を越えて、自分を迎えに来てくれたのだと言うことが、何よりも嬉しかった。 「……ったく。本当に、リュカもおまえも俺に手間をかけさせるんだからな」 ぽんぽんと頭を軽く叩いてやりながら、レイフォードは苦笑する。なんだか自分はいつも誰かを迎えに行く役割が多いような気がした。 「うちの使い魔が邪魔をしたな。いろいろと世話にもなったようだし、礼を言う」 ダストのために彼がザレードを遠視をしていたからこそ、ティアレイルとロナの魔力が同調して道がつながったのだ。でなければ、迎えには来れなかったかもしれない。 レイフォードはロナに謝意を示すように軽く目礼する。その口調はどこか不遜なものではあったけれど、破格な力を持った魔族だとダストが言っていた割には礼儀正しい青年だと、ロナは思った。 「ほら、ダスト。すぐに帰るぞ。早く戻ってやらないと、ティアレイルが帰れなくなる」 レイフォードは使い魔の少年を促すように腕を掴む。二つの世界をつなぐ魔力の道が、世界を隔てる壁の力の増大で狭まっていることにレイフォードは気が付いていた。 けれどもその言葉に反応したのはダストではなく、ロナだった。 「待ちなさい。いま君たちに帰られては困るんだよ」 再び跳ぼうとしたレイフォードの肩を掴み、ロナは穏やかにそう言った。 急いでいるところを邪魔されて、ぴくりと、レイフォードの眉が一瞬不快げに跳ね上がる。 「こちらとしても、大導士を返してもらわないと困るのでね」 「……ふん。その言い草だと、いま俺たちが帰ればティアレイルはこちらに戻れないというふうに聞こえるな?」 切れ上がるような眼光をロナに突き立て、レイフォードは問い返す。 若いのか歳をとっているのか分からないこの魔術研総帥が自分たちを止めたのは、それなりの理由あってのことだろう。それを聞いてみようと思った。 「そうだろうね。おそらくは」 鋭く閃く深紅の双眸に臆したふうもなく、ロナはにこりと微笑むと、先ほど自分が思い至った"起点"という考えをレイフォードに話す。それは、レイフォードが納得するに十分な説得力を持った話だった。 「ティアレイル! 遠視の水に波紋が広がったら、その瞬間にレミュールに転移しろ」 ロナとしばし話し合い、そうしてレイフォードは水鏡に向かって言った。 声が届くかどうかは賭けだったけれど、おそらくティアレイルはあちらでずっとレイフォードの気配に集中しているだろう。それならば、察知出来るはずだ。 「同時に戻らなければ、君が帰って来れなくなるからね」 ロナも己の魔力に声を載せて、そう告げる。それは難しい指示であるに違いない。けれどもその口調はいたって気軽なものだ。 指示を出す相手が魔術派の象徴と謳われる強大な魔力を持ったティアレイルだからこそ、ロナは何の懸念も持ってはいなかった。 『分かりました。それを合図に転移すればいいんですね?』 ふと。穏やかな風の流れにも似た、いつものティアレイルの声音が聞こえてくる。その声に気負いはない。 「そうだ」 ロナはにこやかに応え、そうしてレイフォードとダストに目を向けた。あとは、彼らが転移をするときに、ティアレイルにそれを伝えれば自分の役目は終わりである。 「どーもご迷惑をおかけしました。でも、ちょっと楽しかったです」 ダストはにこりと笑った。最初こそ慌てたけれど、異世界などという滅多に来れないような場所にやってきたのだということに、なんだかとても心が浮き立った。 もちろん、いまは隣にレイフォードが居て、そしてすぐに帰れるからこそ、そう思えたのだろうけれど ―― 。 「私はコウモリのペットが欲しくなったよ」 ばさりと外套を翻すように宙に溶け込んでいく二人を見やりながら、くすくすと、ロナは笑った。 「すみませんでした、レイフォード様」 無事に屋敷に戻ってきたダストは、ぺこりと頭を下げた。こんなことでレイフォードが怒ったりしないと分かってはいたが、ご主人様に迷惑をかけたのは確かである。使い魔としては失格だ。 「別に謝るような事じゃない。おかげで貴重な経験もできたしな。……だが、まあリュカにはちゃんと挨拶しておけ。心配してたみたいだからな。たぶんまだ、居間で水鏡を覗いているんじゃないか?」 にやりと、レイフォードは笑う。ロナとティアレイルの魔力も消えて、既にもう何も映ってはいないだろう水鏡に焦っているリュカの姿が目に浮かぶようだ。 「あのバ……リュカが? わ、わかりました」 一瞬バカ聖獣と呼ぼうとして、言い換える。普段は小憎らしい聖獣だけれども、自分を心配してくれたとあっては心も動く。ダストは慌ててレイフォードの部屋から飛び出して、リュカのもとへと走っていった。 とたんにリュカの、大きな声が屋敷中に響き渡る。 「……ったく。本当に騒がしい」 苦笑を浮かべ、レイフォードは溜息混じりに窓の外へと目を向けた。 またいつもどおりの穏やかな、ザレードでの日常が始まる ―― 。
『異邦人 in レミュール』 おわり |
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