※ 5万HIT感謝企画アンケート2位コンビ/ティアレイル&レイフォード



『異邦人 in ザレード』



 魔術研究所の図書館から自分の研究室へと向かう、広い渡り廊下を歩いていたティアレイルは、ふと、子供の叫ぶ声が聞こえたような気がして振り返った。
 そこにはただ、いつも通りの殺風景な廊下が続いているだけで何もなかった。しかし悲鳴とも驚愕ともつかない叫びは確かに心の中に、微かな違和感として残っている。
「……なんだろう?」
 その感覚の残滓が消えないように己の心に引き寄せて、問うように瞳を閉じる。ふわりと、流れ込んでくるようにひとつの光景が脳裏に浮かびあがった。
 魔術研の中央聖塔の上空から、黒い髪をした十二・三歳くらいの少年が落ちて ―― 。
「えっ!?」
 慌てて窓に駆け寄って空を見上げたが、どこにもそんな人間の姿はなかった。しかし、いつものように未来予知をしたという感覚でもない。
 どこか捉えようのない不思議な感覚に、ティアレイルは軽く首を傾けた。
 気のせいだと、そのまま無視して研究室に帰っても良かった。けれども心に浮かんだその光景を、見なかったことに出来るような横着さを彼が持っているはずもない。
「聖塔の屋上に行ってみるか……」
 軽くうつむくように呟くと、翡翠の瞳をすっと細め、中央聖塔の屋上へと意識を集中させる。心に視えたその場所にいけば、今の不思議な感覚の原因も分かるだろうと思った。
 僅かに癖のある蒼銀の髪が、ふわりと風をはらんで小さく揺れた。その風に溶け込むように、ティアレイルは転移する。それはいつにも増してあざやかな……いや。あざやか過ぎる消失だった。


「 ―― !?」
 すとんと、転移を終えて地に足を着いたティアレイルは思わず自分の目を疑った。中央聖塔の屋上へと転移したはずだったのに、目の前に見たことのない建物がたっていた。
 入口らしき白壁の中央に十字をモチーフとした美しいレリーフが刻まれ、天窓に玻璃ステンドグラスが優麗にはめこまれたその建物は、どこか清冽な空気を内包しているように感じられる。
「これ、礼拝堂……だったかな」
 以前アスカに見せてもらった『宗教建築』の本に、これとよく似た雰囲気の建物が載っていたことを思い出し、ティアレイルは驚いたように翡翠の瞳を瞬いた。
 宗教を持たなくなって何世紀も経つレミュールでは、その姿を実際に見ることは少なかったけれど、地方に行けばまだいくつか名残が見られると、そのときアスカに教わった気がする。
 とすると、ここはどこかの地方都市なのだろうか? ティアレイルは考えるように目を伏せた。
 自分は何故こんな所に転移してきたのか。それが分からない。今までに、転移を失敗したことなど一度もなかったというのに ―― 。
 先ほど感じた誰かの"叫び声"と、この場所が何か関係あるのかもしれない。そう思い周囲の気配を探ってみても、まったく何も掴めない。それどころか心に、肌に、魔力を通して伝わるすべての感覚が、今までに感じたことのない、未知の力を宿しているように思われた。
「……ますます、分からないな」
 天を仰ぐように遠くを見回してみても、見慣れた高層の建物などは見当たらず、空は高く蒼く、すべてを優しく抱くように頭上に広がっている。
 自然の息吹が強い力としてたゆたうこの場所が、今まで自分が居た魔術研究所の敷地内ではなく、まして高層ビルの立ち並ぶプランディール近郊でないことだけは確かだった。
 いつもなら意識を風に解き放つことで周囲の状況や様子を網羅することが出来るのに、それさえも叶わなくて、ティアレイルは溜息をつくように蒼銀の髪を揺らした。こんなことは、はじめてだった。
「ここは、どこなんだろうか?」
 手入れの行き届いた美しい芝と木々の立ち並ぶその場所は誰かの家の中庭のようでもある。それを証明するように、礼拝堂らしき建物から少し離れた場所には大きな屋敷が建っていた。
「……とりあえず、さっきの声をもう一度みつけるしかないか」
 軽く息をついて、ティアレイルは再び転移をしようと魔術の行使を試みる。
「そこで、何をしているんだ?」
 不意に、よくとおる凛とした声音が辺りの空気を震わせた。決して大きな声ではないのに耳奥に、否、心奥に響くようなその声に、はっと翡翠の瞳が見開かれる。
 今にも術者を転移させようとしていた魔力は行使されることなく霧散して、ティアレイルは声のした方へと目を向けた。
「あ……!?」
 優しい木陰をつくる木々の葉を揺らすようにこちらへと歩み寄って来るのは、あざやかな深紅の瞳がひどく印象的な青年だった。静かな闇にも似た漆黒の髪が不揃いに揺れるその耳元に、小さな十字のピアスが覗いている。その青年は、どこか人とは思えない不思議な空気をまとっているようにも感じられた。
「無断で入る形になってしまって申し訳ありません。転移に失敗して、迷い込んでしまったようです」
 彼がこの屋敷の主人なのだろうというのは、すぐに分かった。この敷地内のすべてのものから、この深紅の瞳の青年を慕うような気配がする。
 だからティアレイルは青年と目が合うと、ぺこりと頭を下げた。どんな理由があろうとも、今の自分は不法侵入には違いない。
「転移?」
 訝しげに呟きながら、レイフォードは僅かに片方の眉をあげた。転移という単語の意味が一瞬わからなかったけれど、すぐに空間移動のことだと思い当たる。
 空間移動なんていうことが出来るのは、かなり強い力を持った魔族だけのはずだ。 ―― 目の前に居る、この穏やかそうな顔をした"侵入者"はどう見ても同族には思えなかったけれど。
「……混血というわけでもなさそうだしな。たぶん人間なんだろうとは思うが、それにしては強い力を持ってるみたいだな、おまえ」
 人間からこんなにも強い魔力を感じたのは、何百年も生きてきた中で初めてのことだ。都の神官などは、魔を調伏するのに何がしかの神力を使うようだが、それとも違う。
 可笑しいような、それでいて苦笑するように、レイフォードは口端を吊り上げた。
「は……混血?」
 思わずティアレイルはきょとんと目をまるくした。言葉自体の意味は分かるが、それが実際に使われることがあるとは思ってもみなかった。
 レミュールでその言葉が死語となって久しい。なにせレミュールの人間で混血でない者はほとんど居らず、純粋な旧民族としての血統を保っている方が稀少だったのだから。
 ましてや『人間だろうとは思うが』などと言われても、反応のしようがない。この青年の口ぶりでは、まるで人間ではない者が他に存在するように思えるではないか。
「私はティアレイル=ミューア。魔術研究所の導士です。あなたが何を思われているのかよく分からないが、私は人間以外のものになったつもりはないですよ」
 にこりと、穏やかな笑みを浮かべてそう名乗る。とりあえず身分を明かしておくほうが警戒されないだろうと思った。
「アカデミー? ……知らないな。魔族の調伏でも研究する組織か?」
 あざやかすぎるほどの笑みを深紅の瞳に宿し、レイフォードはティアレイルをじっと眺めやる。
 聞いた事もない組織の名前に驚きはしたけれども、それよりもこれだけ尋常でない"気"を発しながら、自分は人間だと言い切るこの青年がとても面白いと思った。
 ティアレイルにしてみれば、本当のことを言ったに過ぎないのだけれど ―― 。
 あくまでもかみ合わない二人の会話は当然のことではあったのだが、当人たちはまだそのことに気付いてはいなかった。
「まあいいか。俺はレイフォード……レイフォード=セレア=ディファレナだ。その魔術アカデミーってところにでも依頼されて、ヴァンパイア退治に来たのか?」
 にやりと。切れ上がるような笑みを口元に佩いて、レイフォードはからかうように名乗りを返す。相手が魔の調伏を手掛ける者ならば、この名乗りに何らかの反応を示すだろうと思った。
 強大な魔族を調伏するには正式な名を呼ぶ必要があるのだから。それでフルネームを教えてしまうあたりは、意地悪以外のなにものでもないのだが。
「……ヴァン……パイア!?」
 聞きなれない言葉に、ティアレイルは目をまるくした。
 そんなものは、子供の頃に読んだ物語の中にだけ出て来ていた存在だ。それをさらりと当然のように口にする紅い瞳の青年に、思わずティアレイルは動揺を隠せなかった。
 妄想や冗談と笑い捨ててもいいようなその言葉が、どうしても嘘だと思えなかったからだ。
 確かに、あざやかな深紅の瞳をしたこの青年からは、人とは思えない強い気を感じる。まるで、彼の存在そのものが"力"であるように思えるほどだ。こんな圧倒的な存在に、今まで出逢ったことはなかった。
 それに ―― アカデミーを知らないレミュールの人間が居るはずもない。ましてや魔術派の象徴といわれるティアレイルの名を知らない者など、もっと居ないだろう。
「…………」
 ふと、ティアレイルは自分はとんでもないところに来たのではないかという、漠然とした不安にとらわれた。
 ―― 転移は、ふとしたはずみで空間だけではなく、時間や次元。そして世界さえも飛び越えてしまうことがあるんだよ。滅多に起こらない事だけれどね。 ―― 
 昔、そう自分に教えてくれた前総帥の言葉を思い出し、ティアレイルは軽く身震いした。もしかすると、その滅多に起こらないことが自分の身に降りかかったのではないだろうか ―― ?
 もしそうだとしても、慌てたからどうにかなるというものではないだろう。そう考え、ティアレイルは動揺しかけた心を落ち着かせるように、ひとつ深い呼吸を吐き出した。
 そうして心を静めると、いつものように穏やかな。レミュールの人間の多くが魅せられる優しい笑みを翡翠の瞳に宿らせる。自らをヴァンパイアだと言った青年の、魔術研に対する認識の誤解だけは解いておいたほうがいいだろうと思った。
「調伏とか……退治とか、レイフォードさんは何か誤解されているようですね。私は別に、あなたを害するために来たわけではない。本当に転移の失敗で迷い込んだだけだから」
「……ふん。そうみたいだな」
 あっさりと、レイフォードは頷いた。
 自分に対する敵意もないし、害意も感じられない。この蒼みがかった銀色の髪の青年から感じられるのは、強い魔力。そして……どこかこの世界にそぐわないような異質な感覚だけだった。
「ダストの叫び声が聞こえたと思って見に来てみれば、おかしな奴がいたもんだ」
 ひょいと肩をすくめて、レイフォードは笑う。
「 ―― 叫び声! そう。私はその声を聞いて転移したんだ」
 はっと、ティアレイルは真剣な面持ちでレイフォードを見やる。自分が心眼で視たのは、子供が上空から落ちてくる光景だったのだ。あれは予知をしたという感覚ではなかったけれど、もしそれが実際に起きることなのであれば、防ぎたいと思ったから。
「ダストが落下するのを見たのか? ……まあ、実際にそうだとしても本性に戻ればいいだけだからな。心配はないが」
「……本性?」
「ああ。コウモリなんだから、どんなに高いところから落ちたって地面に激突する前には自分の翼で飛ぶさ。馬鹿じゃないんだからな」
 可笑しそうに、レイフォードは空を仰ぐ。ダストが初めて自分と会ったときのように腰を抜かしてさえいなければ、何の問題もないだろう。
「こうもり……本性……」
 またもや訳の分からない言葉だ。むくむくと、先ほど心に浮かんだ不安がさらに大きくなる。ここは、自分の知っている常識が通じない場所だというのは確かであるようだった。
「どうなってるんだか……」
 ティアレイルには珍しくポーカーフェイスが崩れ、どこか困ったように眉根を寄せる。
「レーーーイーーーー!!! ここに居たんだね。探したんだからなっ!」
 そのティアレイルの考えに追い討ちをかけるように、低い位置から大きな声が聞こえた。
 小さな純白のリスにも似た動物が、とたとたとこちらに向かって走ってくる。 ―― 大きな声で人間の言葉を口にしながら。
「リス……!?」
 ティアレイルは驚いたように一瞬目を見張り、そうしてどこか諦めたように苦笑した。
 自分も動物と会話をすることなら出来た。けれどもそれは動物と言葉を交わすわけではなく、互いに相手の気持ちを感じ取るということで成されていたに過ぎない。
 しっかり人語を話しているリスが存在すること。そして今までのレイフォードとの会話すべてを顧みても、やはりここはレミュールではないのだと確信せざるを得なかった。
 未知の場所への不安は尽きなかったが、とりあえず自分のおかれたその状況を認めただけでも、少し気が軽くなるような気がした。
「あれえ、お客さんだ?」
 レイフォード以外に人がいることに気が付いて、黒いまんまるな瞳を笑ませてティアレイルを見上げる。
「いらっしゃいー。でも、おれはリスじゃないからね。聖獣のリュカだよっ」
 にこにこと笑って、威張るように小さな手を胸の前で組む。相変わらず、自分が聖獣だと自己主張することは忘れないリュカだった。
「聖獣……ですか。私はティアレイルと言います」
 軽くかがんで、リュカの頭をふわふわと撫でる。同じように自分は『人間だ』と自己紹介したほうがいいのかと一瞬考え、けれども馬鹿馬鹿しくなってすぐにその考えを捨てた。
「レイにお客さんが来るなんて、珍しいよねー」
 頭を撫でてもらって嬉しかったのか、リュカは満面の笑顔でティアレイルの肩に駆けのぼる。ぽてぽてと踏まれるその感触がくすぐったかった。
「俺の客ってわけじゃない。ったく、誰彼かまわず人の身体にのぼるな。この馬鹿が」
 その小さな身体をひょいっと摘み上げながら、レイフォードは呆れたように漆黒の髪を揺らした。まったくもって、この聖獣は礼儀というものを知らないのだ。
「それよりも、俺を探してたんだろ。何の用だ?」
 いきなり首根っこを引っつかまれたことを抗議するように、じたばたと足を泳がせているリュカをちょこんと手のひらに座らせて、レイフォードは話を促す。
 あっと、リュカは何かを思い出しようにバタ足をやめた。レイフォードの顔をひっしと見つめ、力むようにふさふさとした尾を立てる。
「そーだった! レイ、大変なんだよ。ダストが、どーんって落ちてびゅーんと居なくなったんだっっ!!」
「……はあ? もっと人に分かるように言えないのか、おまえは」
 慌てているのだろうがまったく要領の得ないその言葉に、レイフォードは苦笑した。とりあえず、ダストがどこからか落ちて消えたらしいということは理解できたけれど ―― 。
「ティアレイル、だったか? どうやらおまえの視たことは実際にあったらしいな」
 ふっと笑むように深紅の瞳を細め、レイフォードはティアレイルを見やる。
「……そのようですね。消えたというからには、やはり中央聖塔の上空から落ちてきたというのは、私の見間違いではなかったということか」
 よくは分からないけれど、自分がここに転移して来たように、ダストはもしかするとレミュールに……中央聖塔の上空へと跳んでしまったのではないだろうか?
 あのとき感じた不可思議な感覚は、予知ではなく実際に異空間で起きていたことだからこそ、捉えどころのない感覚となって自分はそれを視たのかもしれない。そうティアレイルは思った。
「ふ……ん。この馬鹿リュカにもう少し落ち着いた話をさせて、おまえの話と突き合わせてみる必要がありそうだな。……レミュールというのがどこかは知らないが、ダストを放っておくわけにもいかないからな」
 仕方なさげに溜息をついて、レイフォードは軽く肩をすくめて見せる。どういうわけかリュカもダストも。何かしら面倒ばかり引き起こしてくれるのだから困ったものである。
「ええ。確かに話をしたほうがいいでしょうね」
 ゆうるりと、ティアレイルは頷いた。ここがどういう場所なのかも知りたかったし、ダストという少年の身も心配だった。それを解消するためにも、お互いにいろいろと話すことは必要だと思う。
「…………」
 穏やかに言葉を紡ぐ青年の、僅かに癖のある蒼銀の髪がその動きにあわせるようにふわりと風に遊ぶのを、レイフォードはなんとはなしに眺めていた。
 そうして視線が合うと微かに笑んで、深紅の瞳を細めるように「付いて来い」と告げる。そのままくるりとティアレイルに背を向けて、屋敷のほうへと歩き出した。


「異世界なんてものが、本当にあるんだねーー!!」
 興奮したように、リュカは握りこぶしを作りながらそう叫んだ。目の前に居るこの青年が、自分たちの知っているこの世界ではない、他の場所の人間なのだということを聞けば、落ち着いてなどいられない。
「うるさいぞ、リュカ。そんなに騒ぐほどのことじゃないだろうが」
 レイフォードはふんと顎を上げた。住む世界がどこであろうとも、人間は人間だし魔族は魔族だ。そんなに大騒ぎすることもあるまいと、レイフォードなどは醒めたものである。
 どうりで話がかみ合わないとは思ったが、ここには魔族も人間も天人も。一緒くたになって存在しているのだ。それ以外にも違う『世界』があると知ったところで、さして驚きもしない。
「私は魔族や聖獣という存在が実在している、この世界に驚いたけれどね」
 くすりと、ティアレイルはリュカに加勢するように笑った。レミュールでは、それらは架空の……御伽噺の中でだけ存在する生き物なのだから。
「……ふん。紛れ込んで来た方の驚きが大きいのは当然だろう。逆に俺がそっちのレミュールに行ったんだったら、さすがに文化の違いに驚くかもしれないしな。でもまあ、リュカみたいに馬鹿騒ぎはしないが」
「ああ。あなたなら、きっとそうだろうな」
 最初のうちは丁寧な口調だったティアレイルだが、まわりの砕けた雰囲気とそぐわないからなのか、いつのまにか普段どおりの口調に戻っていた。
「ちえー。おれは素直に驚いただけなのになぁ。でも、レミュールって所にも行ってみたいよなぁ。夜でもぴかぴか明るいんだよね。面白そうだねえ」
 こちらでは夜の暗闇を照らすのは月星の明かりと、ほのかな光をともす瓦斯灯が僅かにあるくらいなのだ。星が見えにくくなるくらいの明かりというのは想像もつかない。
 リュカは黒いまんまるの瞳をわくわくと好奇心に輝かせて、レイフォードとティアレイルを交互に見やる。
「いろんな世界を簡単に行き来できるんなら楽しいのにねー」
「バカ聖獣」
 そんな聖獣の頭に軽くげんこつをくれてやってから、レイフォードはそっと耳元に触れるように漆黒の髪をかきあげ、ほんの少し苦笑した。
「ダストが本当にそこに行ってるなら、だいぶ参っているかもしれないな。あいつは意外と繊細だからな。どこかの能天気な聖獣と違って」
「うっそだあ」
 いつも自分をいじめるあの使い魔が繊細なわけもない。そう主張するリュカの言葉を無視するように、レイフォードはティアレイルに目を向けた。
「そういえば、おまえはここに"転移"という術を使ってここに来たんだったな。その術でまた帰れそうなのか?」
「……どうだろう。私はここに来ようと思って来たわけではないからな」
 考え込むようにティアレイルは俯いた。絶対に出来ないということはないだろう。けれども、もういちど世界という壁を越えることが、そう簡単に出来るとも思えなかった。
「でもやってみるしかないか。もし私が帰れたのなら、ダストくんをこっちに戻すこともできるだろうしね」
 にこりと、相手に不安を悟られないよう穏やかな笑みを形づくる。それは、魔術派の象徴として存在するティアレイルの無意識の擬態でもある。
「そうだな。……じゃあ俺も一緒にそっちに飛んでみるか。自分の使い魔を迎えに行ってやらないわけにもいかないしな」
 レイフォードは切れ上がるような笑みを浮かべ、ふと深紅の瞳を細めた。
「おまえの使う"転移"とは種類が違うかもしれないが、空間移動は俺も得意だからな」
「あ、ああ。そうなんだ? ……ありがと」
 口ではそうは言わないけれど、レイフォードは自分を助けてくれるつもりなのかもしれない。もちろん、ダストを迎えに行くというのも本心なのだろうけれど。そう思い、ティアレイルはふわりと笑った。
「ちぇー。空間移動ならおれは留守番かなぁ」
 どこか打ち解けたように話をしている二人を見て、リュカは少しむくれたように呟いた。普段よりも柔らかな気をまとうヴァンパイアの青年に、やっぱりレイは人間が好きなんだろうなと、改めて思う。
 ザレードの町の人間も、このティアレイルのように普通にレイフォードと接すればきっと仲良くなれるのにと、思わず考えてしまうリュカだった。そうなればなったで、寂しいのは自分なのだけれども。
「ちゃんと映るみたいだな。これなら、行けるかもしれない」
 ふと、ティアレイルの静かな声が聞こえ、はっと我に返ってリュカはそちらに目を向ける。
 テーブルに置かれた硝子の器に満たされた水に、ティアレイルが指先を浸していた。そこに何やら大きな建物が映っているのが見える。水を使った遠視術なのだと、柔らかな笑顔でティアレイルは教えてくれた。
 遠視でレミュールを見ることが出来るのであれば、転移で飛ぶことも可能だろう。静かな自信をうかがわせる翡翠の瞳が凛と閃く。
 どうやらリュカがぼんやりと考え事をしている間に、二人で準備を進めていたらしい。
「これが中央聖塔。……ダストくんの気配は感じるか?」
「……居るな」
 レイフォードは軽く目を細め、そう応えた。
 この重厚な博物館めいた建物の最上部あたりから、ダストの気配がひしひしと感じられた。その気配はとくに切羽詰ったものではないので、おそらく何の心配もないだろうと思う。
「……うん? ダストのすぐ側に誰か他の、強い魔力も感じるな」
「最上階ということは総帥室……ロナ総帥か!?」
 ティアレイルは驚いたように目を見張る。確かに、ロナの魔力がゆるゆるとこの遠視の水に流れ込んできているような気がした。まるで、自分の魔力に同調するかのように ―― 。
「そうか……。だから視えるのか」
 ふっと。ティアレイルは苦笑した。世界の壁を挟みながら遠視が可能だったのは、おそらく向こうからもこちらを見ようとしている者が居たからなのだろう。お互いの世界を視ようとする、ティアレイルとロナの強い魔力が同調して、レミュールとザレードの間に"道"がつながったのだ。
 ただ、いつものように細部まで遠視することが出来ないのは、互いの世界を隔てる壁の持つ力があるためだとも思う。その隔壁が自分やロナの同調を打ち消そうとしないとは言い切れなかった。
「ロナ総帥と私の魔力が同調しているうちに、転移した方が良いかもしれない。となると、レイフォードがダストくんを連れてこちらに戻ってくるのが先だ。私はあなた方が戻って来てから、レミュールに帰る」
 こちらで自分が魔力を注ぎ込み続けていなければ、おそらく道は閉ざされ、向こうに行ったレイフォードたちがこちらに帰ってくることが出来ないだろう。
 ティアレイルは穏やかな口調でレイフォードを促す。
「わかった。俺じゃあ"道"を維持できないだろうからな。さっさと行って帰って来よう」
 向こうに自分と同調できる力がない以上、レイフォードには道をつなげておくことが出来ない。……ダストでは自分の強大すぎる魔力を受け止めるには力不足だった。
 ばさりと漆黒の外套を翻し、ふわりとレイフォードの姿が宙に掻き消える。彼が無事にレミュールに転移することが出来たのかどうかは、隔壁の力に妨害された遠視の水には映ってはいなかった。

 ふうっと、ティアレイルは翡翠の瞳を細めて遠視の水鏡を見やった。
 レイフォードが転移をしてから、およそ十五分が過ぎようとしていた。それでもいっこうに戻ってくる気配はなく、転移がうまくいかなかったのだろうかと心配になる。
「レイ、だいじょーぶかなあ」
「道はつながっているはずだからね。大丈夫」
 心配そうに水鏡を見つめていた小さな聖獣に、ティアレイルは笑う。ただ、これ以上彼らが戻ってくるのに時間がかかるとなると、自分がレミュールに戻るまで"道"を維持できるかは難しいところだったけれど。
 この"世界の意思"が、己の内部で行使されている"異質で強大な魔力"を排除しようと、ゆうるりと動き始めたような気がしていた。
「ティアレイル! 遠視の水に波紋が広がったら、その瞬間にレミュールに転移しろ」
 不意に、どこからかレイフォードの声がした。
「……えっ!?」
「同時に戻らなければ、君が帰って来れなくなるからね」
 聞き慣れたロナの、落ち着いた静かな声も聞こえた。
 どうやらレイフォードは無事にレミュールに着いていたらしい。ティアレイルはほっとしたように翡翠の瞳に穏やかな笑みを宿した。おそらく向こうで何か話し合いがあったのだろう。レイフォードが帰ってくるのを待ってから転移するのではなく、同時に戻って来いと言う。
 確かに隔壁の力が増してきているように感じられる今、それが最善であるようにティアレイルも思った。
「分かりました。それを合図に転移すればいいんですね?」
 レミュールに伝わることを信じ、言葉を返す。「そうだ」というロナの応えが返って来たのと、水鏡にゆらりと波紋が広がるのは、ほぼ同時だった。
「じゃあ、私は戻るから。レイフォードによろしく伝えておいて」
 もうレイフォードと顔を合わせることはないだろうと思い、ティアレイルはリュカのふかふかとした頭を軽く撫で、別れを告げる。
「うんっ。ティアさんも気を付けてねっ。また会えると良いんだけどねえ」
 ティアレイルと話しているときに、どこか楽しげだったレイフォードの様子を思い出して、これでお別れなのがすこし残念だとリュカは思った。
「そうだね」
 にこりと、ティアレイルは笑った。
 その蒼みがかった銀色の髪が、ふわりと風を孕んで大きく揺れる。そうして、涼やかになびく風の中に溶け込むように、ゆるやかに消えていった。


 すとんと転移を終えて、ティアレイルは周囲を見やる。そこは見慣れた魔術研の、自分の研究室だった。
「あっちも、無事に帰れたみたいだな」
 ふうっと翡翠の瞳を細めて笑う。己の魔術に包まれて空間移動していたほんの一瞬。レイフォードとすれ違ったような、そんな気がした。
「あれ、ティア? おかえり。本を返しに行っただけの割にはずいぶん遅かったな?」
 研究室のソファに座ってコーヒーを飲んでいたアスカは軽く伸びをしながら、目の前に現れた幼なじみに笑いかけた。彼が借りた本を図書室に帰してくると出て行ってから、もう何時間も経っていた。
 そのティアレイルがどこか楽しそうな表情をしているのを見て、アスカも可笑しくなる。
「なんか、楽しい事でもあったみたいだな」
「そうだね。……普通では出来ないような、とても貴重な体験をしたと思うよ」
 闊達な紺碧の瞳に浮かぶアスカの強い笑みを見やり、自分が本当に戻ってきたのだと実感して、くすりとティアレイルは笑った。
「あとでロナ総帥にも挨拶にいっておかないといけないけどね」
「なんだ、それ?」
「ひみつだよ」
 ティアレイルには珍しく、悪戯な表情でアスカを見やる。
 たまにはこんな、不思議な出来事に身を任せるのも良い。そう思うティアレイルだった。


『異邦人 in ザレ−ド』 おわり




ティアレイル&レイフォードに6票頂きました。違う世界の主人公2人へのご投票ありがとうございます(^-^)
実はアンケート結果を見て一番最初にネタが思いついたのは、このコンビだったりします。そのくせ更新が最後から2番目という……すみません(^_^;)
みんな性格がかなり違うかもと思いつつ、そこはまあパラレルワールド?ということでお許しくださいませ(汗)
最後のほうは企画4位の同じく異世界コンビのロナ&ダストの掌編とリンクしたような形になっていますので、対で読んでいただけると嬉しいです♪

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2004.4.26 up