『ヒスイと翡翠』
柔らかな毛布が底に敷かれたバスケットの中から、みゃあと。微かな声がした。その甘えたような、けれども少し拗ねたような鳴き声に、思わずルフィアの顔はほころんだ。
狭いところに閉じ込められた悪戯ボウズが、退屈すぎて我慢出来なくなったのだろう。
「ヒスイ、もうちょっとだけ我慢しててね」
こんなバスの中では出してあげるわけにもいかず、ルフィアはトントンと軽くあやすようにバスケットを叩く。
中で拗ねているのは愛猫のヒスイ。その瞳が翡翠のように綺麗な緑色をした、とてもやんちゃな猫だ。彼がルフィアの家の一員になったのは、もうずいぶんと昔……そう。四年前の雨の日だった。
家庭の事情でどうしても猫を飼うことが出来なくなってしまったサナという少年からヒスイを譲り受けたのだが、それはルフィアにとって大きな思い出でもある。
元の飼い主であったサナとはあれから何度も互いに連絡を取り合っているし、まるで弟や親戚の子供のような錯覚をおぼえることもあるくらいだ。
それに何よりも……彼女がヒスイと出会ったその日は、もうひとつの"翡翠"に出会った日でもある。ルフィアにとって、その時のことは忘れようがない。
「ヒスイ〜。もうちょっとなのになあ」
更に甘えたように鳴いてくる愛猫を、ルフィアは困ったような可笑しいような複雑な表情で見やった。どうしても、今バスケットから出して欲しいのだろう。普段はやんちゃではあるけれど聞き分けのいい、そして頭の良い猫だった。しかし時々こうやって甘えっ子全開になることもある。そこがまた、可愛いのだけれども。
「まあ、ここから歩いて行けばいいだけだしね」
仕方なさそうに苦笑して、ルフィアはちょうど停留所に停まったバスから降りた。目的地はまだバス停4つほど先ではあったのだが、確かに狭いバスケットに押し込められたヒスイの気持ちも分からないではない。
「良い天気だね。確かに散歩日和かも」
雲ひとつなく晴れ渡った青空を見上げてにこりと笑い、ルフィアはヒスイをバスケットから出してやる。
愛猫はようやく広いところに出られて嬉しそうに伸びをしながら、ふわあと大きなあくびをした。そうして思う存分身体を自由に伸ばすと、ちらりと上目遣いにご主人様の顔を見る。
そのアーモンド型の大きな翠色の瞳がどこかやんちゃな笑みを浮かべているようで可笑しい。
「君は、何を考えてるのかなっ?」
この悪戯ボウズは、こんどは何を思いついたのだろう? ルフィアは左右色違いの瞳を細め、愛猫の身体を優しく抱き上げた。
「え……?」
いつもなら大人しく腕に抱かれるヒスイが、何故か身を捩るようにしてルフィアの腕をすり抜け再び地面に着地する。そして一度ルフィアの顔を見上げると、ふいっと身を翻して走り出していた。
「こら、待ちなさい。ヒスイ!!」
慌ててルフィアはヒスイのあとを追いかけた。今までほとんどそんなふうに自分を困らせるような勝手な行動をしたことがなかったのに。今日はいつもと違う行動を起こすヒスイに驚かされてばかりだ。
何よりも、こんな車と人の多いバス通りを小さな猫が走って、事故にでも遭ったら目も当てられない。
そんなご主人様の困惑を知ってか知らずか、ヒスイはをどんどんバス通りから離れ、郊外へ向かって駆けていく。それでも時々立ち止まり、ルフィアが来るのを待っているようなそぶりを見せるのは、ヒスイなりに何か考えがあるようにしか思えなかった。
そのヒスイが、交差点を曲がろうとしたところでふわりと宙に浮かんだ。一瞬、車に跳ねられたのかと思った。けれども、それにしては緩やかな浮かび方だったから、すぐに違うと気が付いた。
ちらりと人影が見えたので、右折した道の向こうにいる誰かが、自分の方に突進してきたヒスイを抱き止めたのだろう。そう思い、ルフィアはほっと胸をなでおろした。
「まったく、心配させるんだから……」
ヒスイを止めてくれた人にまずは心で感謝しながら、急いでそちらへと向かう。そして ―― 右折してヒスイを抱いている人物の姿がしっかり見えると、彼女はぴたりと固まったように立ち尽くした。
「…………!?」
「あれ? ルフィアさんか」
自分の前で立ち竦む見知った女性に、猫を抱いた青年は穏やかに声をかける。彼女の愛猫と同じ、翡翠のような瞳が少し驚いたように、けれどもにこりと微笑んでいた。
「ティ……ティアレイルくん?」
この青年に街中で会うと思っていなかったルフィアは、突然の出来事に心臓が飛び出るかと思った。必死に動揺を隠すように気持ちを落ち着けて、気付かれないように深呼吸をする。
そんなご主人様にはお構いもなく、ティアレイルの腕の中で、ヒスイはにゃあと明るい声を上げた。
「あの……その子、止めてくれてありがとう」
深呼吸のおかげか、それともヒスイの暢気な鳴声のおかげか。平静に近い口調で話すことが出来た。なんとか顔も赤くはなっていないはずだ。……たぶん。
先日ショーレンやアスカの世話焼きでティアレイルと二人きりになったとき、自分の顔が赤かったことで熱があると誤解したのだ、この青年は。それを思い出し、ルフィアはなんとなく溜息をついた。
「この子、ルフィアさんの猫なんだ?」
ティアレイルは優しく猫の毛並みを撫でてやりながらルフィアの顔を見る。どちらかといえば、彼女も猫に似ているかもしれない。左右色の違う、凛とした瞳がそう思わせるのかもしれないが ―― 。
「私は家では動物が飼えないからね。羨ましいな」
くすりと、蒼銀の髪を揺らしてティアレイルは笑った。彼が自宅として長年住んでいるのはホテルだ。つい最近まで『魔術派の象徴』と謳われていたティアレイルは、相も変わらずホテル側から特別に優遇されてはいたけれども、さすがに動物を一緒に住まわせるのは無理というものである。
「ティアレイルくん、猫が好きなの?」
「ああ。アスカは犬が好きらしいけど、私は猫の方が好きだな」
基本的に動物は何でも好きだった。ただ小さい頃に家で猫を飼っていたことがあるので、馴染みがあって好きなのかもしれない。
「それより、ルフィアさんはこんなところで何をしていたんだ?」
さっき『止めてくれてありがとう』と言っていたからには、この猫を追いかけていたのだろうとは予想がつくけれど。確か、彼女の家はこの辺りではなかったはずだ。
「ヒスイを友人の獣医さんのところに連れて行く途中だったんだ。定期健診にね。……あ、ヒスイってその子のことだよ」
「それがイヤで逃げ出したのか、おまえ?」
可笑しそうにくすくすと笑いながら、ティアレイルはヒスイの前脚の付け根から腹を抱えるように目の高さまで掲げた。にゃあと、まるで抗議でもするように鳴いて、ヒスイは脚をじたばたと宙で泳がせた。
「違うみたいだ。聞いても理由は教えてくれないみたいだけどね」
穏やかに目を細めて、ティアレイルはヒスイをルフィアに返す。
「やっぱりティアレイルくんって、この子と会話が出来るんだねえ」
初めて会ったとき……四年前も確かにこの青年はヒスイの言葉が分かっていたようだった。それを思い出しながらルフィアは懐かしげに笑い、やんわりとヒスイを受け取った。
あの時も、自分はこうやってティアレイルからヒスイを受け取ったのだ。彼は、おそらく憶えてはいないだろうけれど ―― 。
「やっぱり?」
「あ……えっと、実はティアレイルくん、この子に会うの初めてじゃないんだよ」
ルフィアはまたもや気恥ずかしさと緊張で飛び跳ねそうになる心を必死で抑えながら、努めて平静に青年の顔を見やった。けれども、問い掛けてくるように自分を見つめるティアレイルの翡翠の瞳と目が合うと、否応なく鼓動は跳ね上がってくる。
「四年前に海浜公園で……えと、やっぱり今日みたいにヒスイを捕まえてくれたんだ。それで、この子が元の飼い主の船を見送りたいって言ってるって、そう私に教えてくれたの」
「海浜公園? ああ……あの雨の日か。なんとなくだけど憶えてる」
少し考えるように目を伏せて、そうして思い出したように顔を上げる。
「あの女性がルフィアさんだったのか。けっこう以前からの知り合いだったんだな、私たちは」
ティアレイルはくすりと笑った。まさか自分の記憶にはないところで彼女と知り合っていたとは、人と人との関わりには面白いこともあるのだと思う。
とはいっても、今まで忘れていたのではあまり意味はないし、もし憶えていたとしても、つい最近までティアレイルは科学派の人間が何よりも大嫌いだったのだから、意味があったとは思えないけれど。
「そ、そうだね。話をするようになったのはつい最近だけどね」
まさか、自分はあれからずっと想っていましたなんてことが言えるわけもなく、ルフィアは一生懸命に凛とした口調を作ろうとする。
ティアレイルはそんなルフィアをじっと見やり、軽く首を傾げた。
最近ときどき思うのだけれども、自分と二人きりでいる時のルフィアは普段と雰囲気が違う。アスカやショーレンと話すときのような気さくさが無いのは当然だ。彼女が今言ったとおり自分たちが会話をするようになったのはつい半年ほど前のことなのだから。
しかし付き合いの長短などではなく、自分と二人で居るときのルフィアはどこかそわそわしているような、落ち着かないような雰囲気があるのだ。特にここ最近、その傾向が強くなっているように思う。アルファーダで一緒に行動していたときは、己をしっかりと持った凛とした女性という印象だったのだが ―― 。
「ルフィアさん、変なことを訊いても良いか?」
「え?」
平静を保とうとするように腕に抱いた愛猫を軽く撫でていたルフィアは、不意にそう問い掛けられて驚いたように顔を上げた。
自分を見つめてくる青年の翡翠の眼差しが、困惑したような、そして苦笑するような、どこか微妙な眼光で彩られているのを見て、更にルフィアの緊張も増してくる。
こんな表情をして、いったい何を訊いてくるというのだろうか?
「もしかして、ルフィアさんは私のことが……」
ティアレイルはそこで一瞬ためらったように言葉を切った。思わずルフィアはその瞳をまじまじと見返した。そうして……はっと頬を紅潮させた。とうとう自分の気持ちにティアレイルが気付いてしまったのだろうか? もしそうなのだとしたら、彼の今の表情を見れば自分の失恋は火を見るよりも明らかだと思う。
その先に続く言葉を思い、ルフィアの鼓動がどくんと跳ね上がった。ヒスイを抱く腕にも、きゅっと力がこもる。
「苦手なのか?」
しかしそのあとに続いたのは、アスカなどがこの場にいれば「馬鹿かおまえはっ」と突っ込みを入れたくなるような台詞だった。
思わずルフィアもがっくりと息をついた。腕の中ではヒスイまでもが呆れたように「ふみゃあ」と気の抜けた声を出してくる。
彼の苦笑が、自分の好意に対する困惑ではないことを喜んでいいものか。それとも、今更まだそんなことを言うティアレイルの超鈍感ぶりを嘆いた方がいいのか。ルフィアは一瞬、自分の気持ちを持っていく方向に迷ってしまったほどだ。
「そんなことないよ」
とりあえず、精一杯の笑顔でそう答えながら、思わず深い溜息が出た。
おそらく彼にとって、自分は恋愛対象ではないのだろうと改めて思う。そうでなければ、あんな誤解はありえない。そう思うと、やはり少し落ち込んだ。
しかし、その誤解っぷりがあまりにティアレイルらしい気がして、なんだか可笑しくもなる。
「もしティアレイルくんのことが苦手だったら、こんなふうに話したりしないで、挨拶だけしたらすぐにヒスイを連れて退散しているところだよ」
琥珀の右目をぱちりと閉じて、悪戯っぽくルフィアは笑ってみせた。
「そうか? それなら良かった。私といると、いつも落ち着かないようだから、気になっていたんだ」
穏やかな口調でそう言うと、ティアレイルは彼女の抱くヒスイの頭を軽く撫でた。
「やはり自分が好きな相手に嫌われていると思うのは、哀しいものだからね」
さらりと、ティアレイルは翡翠の瞳を微笑ませる。
「 ―― !?」
今なにか、とんでもない言葉をさらりと聞いたような気がして、ルフィアの琥珀と藍灰の瞳が最大限に見開かれた。あまりのことに、思考能力は停止してしまう。
「ああ。私がこんなことを言うと可笑しいかな。でも本当に、ルフィアさんは尊敬できる友人だと思う」
にこりと、ティアレイルはもう一度笑った。どうやら、友人としての『好き』だったようだと理解して、ルフィアはふっと身体の力を抜いた。
「ありがと。そんなふうに言ってもらえると、なんだか照れちゃうね」
彼の言葉は自分が想う『好き』とは違ったけれど。尊敬できる友人。そんな言葉がひどく嬉しい。
ルフィアはあざやかな笑みを満面に浮かべ、ティアレイルを見やる。蒼銀の髪を風に遊ばせ微笑むその表情は、けっして以前のような『つくりもの』ではなく、真に穏やかな笑みだ。
そんなティアレイルの素の表情を見られるのは、彼女がその他大勢ではなく、特別な"友人"だという証なのだろう。おそらくセファレットにでさえ、素の表情はあまり見せてはいないはずだ。
その自覚が、ティアレイル自身あるのか無いのかは微妙なところであったが ―― 。
「そういえば、ティアレイルくんはここで何をしていたの? 立ち話してて大丈夫?」
まだ一緒に話をしていたい気もするけれど、ふと疑問に思ってルフィアはそう訊ねる。
ティアレイルはきょとんと一瞬目をまるくして、そうして遥か前方に立てられた街の時計を見た。時計はもうすぐ正午になろうとしているところだった。
「ああ、そろそろ行かないとな。アスカと、この先の森林公園で待ち合わせているんだ。聖雨を廃止してもうずいぶんと経つから、その影響を調べようと思って」
少しだけ名残惜しそうに翡翠の瞳を細めると、ティアレイルはもう一度ヒスイの頭を軽く撫で、そしてルフィアを見やった。
「ルフィアさんもこれから獣医だったな。気を付けて」
にこやかに別れを告げて、ゆうるりとアスカとの待ち合わせ場所に向かって歩き出す。何歩か足を進めたところで、ふとティアレイルは振り返った。
「今度ゆっくり、ヒスイと遊ばせてもらっても良いかな」
そう訊いてくるティアレイルの翡翠のような瞳が、どこかやんちゃなヒスイの眼差しに似ているようで、ルフィアはくすりと笑った。
「うん。ヒスイも喜ぶよ」
偶然こうして街中で会ったり、皆で集まるのではなく、約束をして二人で会おうとするのはもちろん初めてである。嬉しいのは自分じゃなくてご主人様の方だよなと、まるでそう言いたげにルフィアを見上げ、しかしどこか満足げにヒスイは「みゅあ」と声を上げた。
「……もしかしてヒスイ、ここにティアレイルくんがいるって分かってた?」
どこか誇らしげに鳴く愛猫に、ルフィアはきょとんと目を丸くする。
「ふふ。そんなわけないか。さてと、定期健診に行くよ、ヒスイ」
小さくなったティアレイルの後ろ姿をもう一度だけ見やり、そうしてルフィアはさっき愛猫を追いかけて来た道を、今度はその腕に抱いてゆったりと戻る。
ヒスイはもう一度、そんなルフィアの腕の中で「みゃあ」と甘えたような声を出した。ご主人様の長かった想いに、もうすぐ春が訪れるかもしれない ―― そう嬉しく思う、ヒスイだった。
『ヒスイと翡翠』 おわり
|