蒼き花 散りて星 |
〜 星生まれの咏 〜
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「……ユライア。何故町を出ない? もう彼らはそこまで来ている。それに気付かないおまえではないだろうに何故……」 水の神殿の中に拵えられたに噴水を覗き込み、水伯はそう呟いた。 長く綺麗な浅葱色の髪が噴水の水に濡れるのも厭わずに、食い入るように水面を見やる。 水面には、薄い藍色の瞳と髪を有する穏やかな青年が、昼間自分が神殿の広場で話をした少女と一緒に歩いている姿が映し出されていた。 あの少女が、自分の言葉をユライアに伝えなかったことが哀しいと思う。 「こんなところで、死なせたくはないというのに……」 水伯は震えるように瞳を閉じ、そして噴水から顔を背けた。 そんな嘆きに反応したように、彼女の背後にふわりと、蜃気楼のような淡い光影が立ち上る。 人の姿を形どった淡い夢幻のように見えるその光影は、年老いた女性のようにも、また、美しい水伯の影であるようにも見えた。 「……おまえか。おまえにとっては我が子も同然。私よりも嘆く権利があろうな……」 水伯はゆうるりと顔を上げ、その影のような老女を見つめた。 「未だ花は咲かぬか……。いろいろ教えた。神力を使うすべも。咲夜蒼花を咲かせるために必要な知識も。私があの子に教えられることはすべて教えた。……そんな特別な力でもなければ、幼かったあれが独りで生きていくことは不可能だった。そして追手から逃げ続けることも……な」 その光影は静かに、そしてどこか寂しげに水伯に向かって言葉をなげかける。その姿は、ユライアを八つの歳まで養育した老神官によく似ていた。 「太陽王が手ずからお創りになられた尊き みずからを嘲るように口元を歪め、水伯は老女の腕をつかもうと手を伸ばす。 けれども、その手は虚しく空を切り、だらりと床に落ちた。目の前に居る光影のような老女に、実体などあろうはずがなかった。 「……己の半身であるおまえを闇に捕らえられ、私はもう、ユライアに何かしてやることは出来ない。何をするにも…… 水伯は唇を噛み締め、悔しげに吐き捨てる。 己の有する神力のほとんどを預けた……この半身である老女を闇に捕らわれた今の自分には、ほとんど力は残っていない。 ユライアを救ってやりたいと思っても、そんな自分には闇王に対抗するすべがなかった。こうして眺めていることしか、忠告することしか出来ないのだ。 「何故……あの蒼い花は咲かない! 何が足りないというのだ!?」 まるで八つ当たりでもするように、水伯は己の半身へと強い感情を投げつける。 ユライアが『闇王』の手から離れることができるかもしれない、唯一の希望。その花が咲かないことが水伯にはもどかしく、そしてやるせなかった。 「ここね? ユライア」 暗くて周りがよくは見えないが、それでも綺麗な場所なのだろうと、アスレインはそう思った。 とてもいい香りがする。そして、とても優しい匂いがする。ここはユライアの場所だ。そう思った。だからこの場所なのだと教えられるよりも早く、アスレインはユライアがここに種を蒔いたのだと分かった。 「森の奥にこんな場所があったなんて知らなかったな」 アスレインは小さな泉に近づくと、はしゃいだようにユライアを振り返った。そして、仄かに輝く花灯りでそっと足元を照らし、咲夜蒼花の存在を確かめる。 「まだ咲いてないかあ。やっぱり気が早すぎたのかしら」 「そうだね」 がっかりと肩を落とした少女をちらと見やり、ユライアはくすりと笑った。 「でもまだ月が出ているから。可能性がないわけじゃないよ」 ゆるやかに目を細め、ユライアは空を仰ぐ。 月以外は何も存在しない深淵の暗闇。だが闇夜が怖いと、そう思ったことはない。 皆が「禍を生む恐ろしい闇」なのだと言う夜中に外出することも、咲夜蒼花を探しているうちに当たり前になったし、平気だった。 けれども……今日は何故かとてもいやな気がした。幼い頃闇王に見付かったあの日のように、夜の闇が自分をがっちりと抱き竦めているような気さえする。 「ユライア、寒い? 水の傍だから、夜はちょっと涼しいもんね」 裾の長い真っ白なワンピースを膝の上に束ね、アスレインはちょこんとユライアのとなりに座った。彼が一瞬からだを震わせたことが風の動きで感じられた。 「……寒くないよ」 穏やかな笑みをアスレインに返し、ユライアは心を落ち着かせるようにそっと泉の水に触れた。 水はゆらりゆらりといくつもの円を描き、そしてまた静かな鏡面に戻っていく。 「静かだねえ。森も夜は眠るのかな」 「たぶんね。寝ていないのは私とアスレインくらいなものだ」 ふと湧き上がった悪寒を振り払おうと、ユライアはわざと明るく答えてころんと仰向けに寝転がった。 その瞬間、二人の間の地面が、いきなりむくりと盛り上がったように見えた。 「きゃっ!? な、なに?」 盛り上がった地面は柔らかく二人の足元をくすぐるようにもそもそと動く。 アスレインは驚いて花灯りをかざした。 「お……おかみ?」 ほのかな明かりに照らされたその影は、純白の毛並みを持つ美しい狼だった。昼間、ユライアの種を泉の周りに蒔いてくれた、あの白狼。 アスレインはきょとんと目をまるくした。狼を間近で見たのは初めてだったし、こんなにも人懐こく、それも隣りに眠っていたとは信じがたかった。 「大丈夫だよアスレイン。優しい子だ。咲夜の種を見ていてくれたんだ」 そうだろう? と穏やかに微笑んで、ユライアはそっと手を伸ばし白狼の頚を撫でてやった。 闇夜に光る鋭い瞳がすいっと誇らしげに細められ、ユライアに向けられる。そして、彼の袖口を軽く噛むと、くいっと引っ張るように顎を下げた。 ここを見ろ。まるでそう言っているように思え、ユライアは不思議そうに明かりを向けた。 「 ―― あっ!」 アスレインが小さな声を上げた。 ユライアは言葉を失ったように目を見開き、僅かな灯りに照らされたその場所を見やる。 そこには ―― 小さな小さな緑色の芽がちんまりと、しかし毅然と伸び上がるように、天に向かって二つの葉を開いていた。 「芽が出てる。これ、咲夜蒼花の芽かなあ? きっと、そうだよね」 明るい空色の瞳を嬉しそうに輝かせ、アスレインはユライアの腕を取った。 茫然と、ユライアはそれを見つめていた。 今までどれだけ願っても、その芽すら見ることが叶わなかった蒼い花……。小さく開いた双葉のその姿は、優しく差し伸べられた手のようだ。 「……ああ、きっと」 穏やかな穏やかな薄藍色の瞳が、にっこりと笑う。これ以上はないというほど嬉しそうなその表情が、まるで幼い子供のようだとアスレインは思った。 「芽って、こんなに小さいんだね」 大切な大切な宝物に触れるように、アスレインは小さな双葉をそっと手のひらで包みこむ。 あでやかに咲き誇っている花ばかり見てきた。植物が華やかに育つ前の、こんなにいじらしい姿を見たのは初めてだった。 「花が咲き誇っている姿も綺麗だけど、花を結ぶまでの小さな緑も素敵だね、ユライア?」 「うん」 ころんと寝転がるように頬杖を突き、ユライアは双葉に顔を近づける。双葉の向こうにアスレインの明るい笑顔が見えるのも、なんだかとても嬉しかった。 この幸せな時間が、ずっと続くかもしれない。こうして咲夜蒼花が咲いてくれるのならば……何も心配することなく、追っ手に怯えることもなく、アスレインと一緒にいつまでも居られるのかもしれない。 今こうして在る時間がとても大切だと。幸せだと。ユライアは心から思った。 ぴくりと、双葉と二人を見守るように寝そべっていた白狼の耳が、微かに動いた。更に何かの音を聞きつけたのか、今度はぴんと耳が立てられる。 「どうしたの?」 アスレインの問いに重なるように、白狼は低い唸りを上げた。 がさがさっと、すぐ近くに木々の擦れる音がする。 はっと、ユライアの瞳が険しくなった。辺りの気配をうかがうように体を起こし、穏やかだった瞳が何かを警戒するような光を帯びる。 再び、がさっと葉擦れの音がした。 それと同時に、この穏やかな場所にはおよそ似合わぬ三つの影がぬうっと姿を現していた。その中には、夕刻ファゼイオたちの話を盗み聞いていた老人の姿があった。 重なり合った木々の隙間をぬうようにして現れた三つの影は、泉の傍に座る青年の姿を認め、獲物を見付けた狩人のような表情になる。 「ようやく見つけた。禍神め」 執念の固まりのような眼差しが、ユライアをじっとりと撫で回す。どんなに長い間会っていなくとも、この薄い藍色の髪と瞳にそれがユライアであると分かるのだ。 「もう逃げられんぞ。今日こそおまえを滅して、この世界から災禍をなくしてやる」 自分たちを襲うすべての災禍は、この男が居るために起こること。その元凶さえいなければ、神聖五伯によって創られたこの世界に禍いが起こるはずがない。そう信じた妄執の視線。 「…………」 ユライアは、ゆっくりと立ち上がった。その横で白狼が威嚇するような唸り声を上げ、アスレインはしっかりとユライアの腕を握る。 彼らに出会ったのは……何年ぶりだろうか? 最後に会ったのは、まだ自分がほんの少年の頃だ。 今までは出会わないよう避けてきた。出会う前に、逃げていた。けれど、それでは何も変わらない。今のまま……逃げ続けるだけ。 闇王に繋がれたこの鎖が自然と解けるのを待つのではなく、自分自身で断ち切らなければ何も変わりはしないのだ。そうユライアに思わせたのは、アスレインの一途な想い。 そして、一緒にいたいという、ユライア自身の強い思い。 「私は禍神の化身などではない。あなた方と少しも変わらない……普通の人間だ」 ユライアは自分の手をしっかりと掴むアスレインの手を握りかえし、強い眼差しを男たちに向ける。 そんな言葉を聞く耳を彼らが持っていないことをユライアは知っていた。けれども、言わなければならないことだった。 「おまえに関わった人間がどれだか不幸になったか、それを考えろ!」 男たちは怒気もあらわにそう叫び、じりじりとユライアに近付いてくる。 ユライアを追い始めたとき、仲間は十人以上いた。けれども今はたったの三人だ。事故や病気でどんどん減っていった。それもすべてこの禍神が吐き出す災禍の気のせいなのだ。 その暴言に、アスレインは腹がたった。 「あなたたちみたいなのが居るから、不幸になるんじゃない! 禍いをもたらしているのはユライアじゃないわ。あなたたちなのよっ!」 『人』が『人』を禍神だと言う。そうやって追いかけて、滅そうとする。その行為自体が多くの不幸を呼んでいるということが……なぜ分からないのか!? 禍神なんて、本当はどこにもいやしない。『人』の妄想が『人』を禍神に仕立て上げるだけなのだ。 アスレインはユライアにしっかりとしがみついたまま、男たちを睨み付けた。誰にもユライアを傷つけさせたりしない! そう蒼い瞳が言っていた。 「……何も知らないガキがっ!」 男は地面に落ちていたこぶし大の石を拾い、生意気なことを言う小娘に投げつけた。 本気でぶつけるつもりはなかった。憎いのは、あの青年だけだ。だからただ、脅かしてやるつもりだった。けれど……夜目だったせいか、少し手元が狂っていた。 「 ――― !」 ぶつかる。瞬間ユライアはそう直感した。ばっと身を捩り、無防備だったアスレインを胸の中に抱き竦める。それと同時に、白狼が男たちに飛び掛かっていた。 がつっと、鈍い嫌な音がした。寒気のするその音に、アスレインは顔を上げた。そうして自分を包み込むように抱きしめた青年を恐る恐る見やる。 つうっと生温い液体がユライアのこめかみから流れ、彼女の頬に落ちた。ぼんやりとほのかな花灯に照らされたそれは、紅い……ひどく紅く流れるもの。 「ユライアっ!?」 「……アスレイン、大丈夫か?」 「怪我してるのはユライアだよ!」 こんなに血が出て、ユライアが死んじゃう。アスレインは絶叫した。どくんと、心臓が鳴った。このまま彼が死んでしまう、そう考えて、心が震えた。怖かった。止まらないユライアの血が……。 「大丈夫。ちょっと切れただけだよ」 ユライアは彼女に怪我がないことを確認すると、ほっとしたように笑った。 傷口から這うように流れ落ちる血を袖でぬぐい、腰に巻いていた浅葱色の布を頭に巻きつける。それは見る見る赤く染まっていったけれど、溢れ出た血の割に傷は深いものではなった。 けれども ―― ユライアは許せなかった。 自分ではなくアスレインを狙って石を投げた男の行為が。何の関係も無い彼女自身を狙ったというその事実が、静かだったユライアの心にひとつ、石を投げ打ったように波紋を広げた。 「どうして……そう簡単に人を傷付けることが出来る……」 かたく唇を噛み締め、ユライアは淡い藍色の瞳に怒りを込めて男たちを睨み据えた。 |
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