蒼き花 散りて星 |
〜 星生まれの咏 〜
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アスレインの家から十五分ほど東へ行くと、地平線の向こうまでもずっと見渡せてしまいそうなほど、とてもなだらかな草地が広がっている。 風が吹くたびにそよそよと揺れる丈の短い草花たちが、めずらしい来訪者を歓迎するように足許を撫でていくのがくすぐったかった。 「この辺でいいかな?」 ゆうるりと二人で草地を歩きながら、居心地のよさそうな場所を探してユライアは笑った。 ユライアが指し示したのは、草地の中心を流れる小川の傍だ。その川幅はわずか一メートルほどしかないけれど、澄んだ水の香りと柔らかな水音が静かにあたりを包み込み、涼やかだった。 「うん。ここにしよう」 嬉しそうにアスレインが頷くと、ユライアはにこりと笑みを返し、大きな布を敷いて朝食を広げる。 香ばしい匂いのマフィンやバターロールと、林檎ジャム。トマトのサラダにチーズ。そしてよく熟れた李や苺。次々と籠から出てくる食物に、アスレインはくすりと笑った。 「ユライアったら、いつそんなに籠に詰め込んだの?」 裾の長い空色のワンピースをふわりと風に遊ばせて、少女はユライアの敷いた布に座る。ユライアは藍紫の瞳を楽しげに細めると、左手の人差し指を唇にあてた。 「ないしょ」 「やっぱり、ユライアって不思議」 アスレインは苺を一粒口に放り込みながら、そう笑った。 「おーい、アスレイン! そこにいるの、アスレイン=リーヴだろ!?」 不意に、遠くからアスレインを呼ぶ声がした。 その大きな声に振り向くと、少年から大人になりかけという印象をもった闊達そうな少年が、小川の遥か向こうから大きく手を振っている。 「 ―― ファゼイオ!?」 蒼い瞳をきょとんとまるくして、アスレインは幼馴染みであるその少年を見た。 少しずつこちらへと近寄ってくる少年の周りには、たくさんの山羊が群がっているのである。 「親父と兄貴が風邪で寝こんじゃってさ、代わりに俺がこいつらを連れて来たんだ」 ファゼイオは照れたように左頬を掻き、今の状態を説明する。 普段は父であるマティスから好きなことをやるように言われており、めったに山羊の世話などしなかったけれど、父と兄が病気とあっては自分がやるしかない。 「アスレインはこんな所で何してるんだ?」 「朝食をとってるの。ユライアが今日は外で食べようって言ったから」 隣に座るユライアを見上げて、アスレインは楽しげに笑った。 「おはよう、ファゼイオ。久し振りだね」 ユライアは静かな笑みを浮かべた。 「……どーも」 ファゼイオは今までユライアの存在を故意に無視していたけれど、挨拶されては仕方がないというように、ペコリと頭を下げる。 彼は、いきなりこの町にやって来て、そのままアスレインの家に住み着いてしまったユライアが、あまり好きではなかった。 「なあ、アスレイン。午後から一緒に出掛けないか?」 ひょいっと小川を跳び越えて、ファゼイオはアスレインの前に立つ。 黒に見紛う濃い茄子色の髪を無造作にくしゃくしゃとかきながら、ファゼイオはどこか照れたようにアスレインの顔を覗き込んだ。 「神聖水伯の神殿で祭りがあるだろ。いっぱい出店とかも来るし、行こうぜ」 「あ……今日から降臨祭が始まるんだっけ。忘れてた」 アスレインはぺろっと舌を出し、笑った。 「今年は百周年だからな。きっと盛大だぜ」 ファゼイオは楽しみだというように焦茶の瞳に明るい笑みを浮かる。 そんな幼馴染みに、アスレインはすまなそうに両手を合わせた。 「ごめんね、ファゼイオ。いつも降臨祭はユライアと行ってるの」 「約束してるわけじゃないんだろ?」 ファゼイオは諦め切れないというように、そう尋いた。彼女は降臨祭のことを今まで忘れていたくらいなのだ。約束などしているわけがない。 アスレインは、困ったように、ユライアに視線を向けた。 幼馴染みのファゼイオは一緒にいて楽しいし、好意的な存在ではあるのだが、降臨祭には一緒に暮らし始めてからずっと、ユライアと行っていたのだ。だから ―― 。 「行っておいで、アスレイン。私は、この種を植える場所を探しに行くから」 ユライアは淡い笑みを浮かべ、浅葱の腰帯に提げた小さな包みを指す。 「……ユライア」 「じゃあ決まりな。あとで迎えに行くから!」 ファゼイオは闊達な笑みを満面に浮かべそう言うと、再び小川を跳び越えた。 「あーこらっ、そっちいくなバカヤロウ!」 無秩序に歩き回る山羊たちに辟易したように、ファゼイオは叫びながら走って行く。 山羊の統率に苦闘している様子のファゼイオを眺め、ユライアはいけないと思いながらも、おもいっきり吹き出していた。 「彼が慣れていないって、山羊たちには分かっているんだな」 クスクスと笑いながら、同意を求めるようにアスレインを見やる。 「……ユライアの馬鹿」 アスレインはふてくされたように、桜色の唇を尖らせた。 それに気付き、ユライアは微かに苦笑を浮かべた。彼女が降臨祭の件で拗ねているのはすぐに分かった。けれど……。 「ああ、ごめん。ミルクを貰わなかったね」 わざとピントのずれたことを言いながら、ユライアは少女の金の髪を優しく撫でる。 「代わりに、果実水を作ってあげるよ」 籠の中から蜜柑を取り出して、ユライアはにっこりと笑った。 「うん……」 その笑顔に毒気を抜かれたように、アスレインは溜息をついた。 ―― これだから時々分からなくなる。 そうアスレインは思う。ユライアと自分は一体なんなのだろう。ユライアにとって自分はどういう存在なのだろう? それを尋いてみたい気もする。 けれども今の心地好い状態が壊れてしまいそうな気がして、尋ねることも出来なかった。 それに……自分自身もユライアをどう思っているのか定かではないのである。ただ、ユライアと一緒にいると安心する。それだけ ―― 。 「ほら、出来たよ」 丁寧に搾った果汁をたっぷり注いだ木椀を、ユライアはアスレインに手渡した。 「ありがと……」 ユライアの顔を見上げながら、ひとくち、果実水に口をつける。 ほのかに甘酸っぱい香りが口の中で広がった。 「美味しい」 にっこりと、アスレインは笑顔になる。 ―― この穏やかな時間を壊すことはない。今、目の前にユライアがいるのは真実。夢のように不確かなものではなく、それが現実なのだ。それを大切にすればいい。そうアスレインは思った。 「ユライア」 「うん?」 名を呼ばれ、青年は静かな薄藍の瞳をアスレインに向ける。 アスレインはにっこり笑うと、林檎のジャムをつけたマフィンを一口大にちぎり、青年の顔の前にそっと差しだした。 「口開けて」 「……え…?」 きょとんと、ユライアの目が丸くなる。一瞬の間の後、その意味を理解して、彼はクスクスと笑いながら、ちょっと照れたように口を開いた。 その青年の口に、ぽんとマフィンを放り込むと、アスレインは楽しげな笑声をあげて、すっくと立ち上がった。 「それ、ユライアの大嫌いな胡桃マフィンだよ」 「 ―― !」 ユライアは口の中に広がる胡桃独特の甘苦い風味に、不味そうに顔をしかめると、口許を両手で押さえながら無理やりマフィンを飲み込んだ。 「やってくれたな、アスレイン」 藍紫の瞳を軽く細め、少女を睨む真似をする。 アスレインは軽く舌を出し、首を竦めて走り出した。 風に流れるように金の髪が目の前を通り過ぎ、ユライアは追いかけるように立ち上がった。 「 ―― !?」 刹那、鋭利な何かが体を突き抜けたような衝撃がユライアを襲い、彼は自分自身を抱き締めるように片膝をついた。 吐き気をともなう不快な感覚におそるおそる振り返り、遥か彼方へ視線を向ける。その瞳は、何かに怯えるように微かな震えを刻んでいた。 「見つかったのか……?」 ユライアは血の滴るほどに唇を噛んだ。三年ものあいだ同じ場所にいたのだ。自分の所在が他に知られるには十分な時間といえた。 「……いや。まだ正確な場所までは気付かれていないはず……だ。せめてあと半月。アスレインに咲夜の蒼い花を見せるまでは……このまま……ここに」 ユライアは祈るようにそう呟く。その藍紫の瞳に普段の穏やかさはなく、哀しい色が鮮やかに浮かび上がっていた。 「どうしたの、ユライア?」 不穏な気配を感じたように、アスレインはユライアを呼び掛ける。 どこか遠くを見ているようなユライアの眼差しが、何故か不安で仕方がなかった。 「ああ、ごめん。何でもないんだ。ちょっと、考え事をしてしまったんだよ。……アスレインが胡桃なんか食べさせるから、どうやって懲らしめてやろうかってね」 心配そうに自分を見つめてくる少女に、ユライアはくすりと笑うと、どこかからかうような表情でもう一度立ち上がった。 アスレインはぷんっと頬を膨らませた。はぐらかされたのだと、すぐに分かった。 「ユライアなんか、もう知らない」 怒ったようにそう言うと、少女は空色のスカートをひるがえし、朝はふたりで来た道を今度は一人で戻っていく。 彼の表情はただ事ではなかったのに、それを自分に言ってくれないことがなんだかとても淋しかった。 ユライアは軽く吐息を漏らすように、そんな少女の後ろ姿をじっと見つめた。 「ずっと、この町にいたかったな。アスレインの側に……」 苦しげに、けれどもどこか諦めたように響くユライアの呟きは、ふわりと風にかき消えて、前を歩くアスレインに届くことはなかった。 |
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