月に沈む闇
第二章 『湖底都市の攻防』
  




第二話

 数ヶ月ぶりの再会を果たした二人の様子に、ヒューイは笑むように目を細めた。
 王都陥落以来ずっと見る事が叶わなかったシリアの心からの笑顔が、今は何よりも嬉しい。
 敬愛していた上官の愛娘だ。その上官……アルシェ亡き今、家族をすべて失ってしまったシリアをどうにか元気付けて守り育てるのが自分の役目だとヒューイは思っていた。
 だからこそ。悲しみに沈んでいた彼女に再び希望と元気をもたらし、『守る』と言い切ったアリューシャが微笑ましく。そして頼もしくも感じられた。
「今日は自分で見回りに出て良かったよ。こうしてアリューシャに会って、連れてくることが出来たんだからな」
 ヒューイはゆったりと二人に歩み寄り、ぽんっと少年の背をたたく。
「俺も、ヒューイさんに会えて助かりました。リュバサがアリナスの方面にあるってことは避難してくる時にユールに聞いてたけど、詳しい場所は分からなかったから。怪我が治ってからずっと探してたんですよ」
 アリューシャはシリアを抱きしめていた腕をほどくと、ヒューイに向き直りながら照れたような笑顔になった。彼に出会えなかったなら、自分はまだアリナス山麓や湖の周りをうろうろしていた事だろう。
「どちらも助かったと言うわけだな。カスティナを守護する神々のお導きか。あるいは……」
 アルシェ様の、と口走りかけてヒューイは言葉を呑み込む。せっかく元気を取り戻したシリアに父親の死を思い起こさせるようなことを言うべきではないと思った。
 けれどもアリューシャはヒューイが呑み込んだ言葉を理解したように、力強い笑みを浮かべて頷いた。
「ええ。きっとアルシェ小父さんたちが俺にシリアを守れって。それでカスティナの役にも立てって言ってるんですよ」
 背後からシリアの両肩を抱くように、アリューシャは腕に力を込めて笑う。
「だろっ、シリア」
「……うんっ!」
 一瞬シリアの表情に走った暗い影が、アリューシャの腕の温かさと表情の明るさに霧散するように消えた。
 やはり長年一緒に過ごしている者にしか出来ないことがあるのだと、ヒューイはちょっと苦笑した。自分の下手な気遣いなど無用なほどに、彼らの間にはしっかりとした理解と絆があるのだろう。
「本当なら、このままゆっくり再会の喜びを味わわせてやりたいところだが、そうもいかない。アリューシャがもたらしてくれた情報があってね。今からジェラード将軍の所に報告に行かなければならないんだ。良いかな、シリア?」
「ジェラードさんに?」
 シリアはきょとんと空色の瞳をまるくした。
 ジェラードと言えば、兄の部下でもあった老練の騎士だ。いつのまにか将軍の一人へと格上げされていたらしい。ユーシスレイアが居なくなったために彼の軍をそのまま統率しているのかもしれない。
「お兄ちゃんの事で何か分かったの?」
「それなら真っ先にシリアに言うよ、俺は」
 心外だと言うようにちょっと頬をふくらませて見せて、アリューシャはシリアの金色の頭を小突く。
「じゃあ、なあに?」
 無邪気に、しかしひっしと尋ねてくるシリアに、アリューシャとヒューイは思わず顔を見合わせた。普段はわがままな娘ではないけれども、今のこの目は彼女が何かをねだる時のものだ。本当にその内容が聞きたいわけではなく、単にアリューシャがジェラードの所に行ってしまうまでの時間を少しでも長引かせたいに違いない。
 死んだと思っていた大切な"家族"に久しぶりに会えたのだから。その気持ちは分からないではなかった。アリューシャだって、もっともっとたくさんシリアと話をしていたいのだから。
 けれども、そんなにゆっくりしている場合ではないことも、ちゃんと分かっていた。だからアリューシャは軽く表情を改めると、なだめるようにシリアの目を見やる。
「俺がリュバサを探している時にさ、カエナの港街の辺りを何度か通ったんだ。……三日前には居なかったのに、今朝は多くの船が停泊してた。たぶん帝国の船だと思う。その船団の中で一際大きい船に旗が見えたから。……月と稲妻の紋章が刺繍された、碧い大軍旗」
「 ―― !! 炎彩五騎士……」
 以前兄から聞いた話を思い出し、シリアは呆然と呟いた。ラーカディアスト帝国で『月と稲妻ユエ・ダーレイ』の紋章を使うのは、皇帝と炎彩五騎士だけだと、兄は言っていた。旗が碧かったのだとすれば、意味するのは"碧炎の騎士"だろう。
 二年前に、ユーシスレイアが敗死させたはずの ―― 。
「おそらく新たな碧炎の騎士が立ったんだろうな。それがカスティナに上陸した。だからね、そのことを話し合わなければいけないんだよ、シリア。そのためにアリューシャを借りるが我慢してくれるね?」
 子供を諭す父親のように、ヒューイは優しくシリアに言葉をかける。
 王都陥落の際には三人の炎彩五騎士がこの地に来た。そして、王都シェスタを落としたあとはカスティナの多くの地を平らげてから、彼らは本国に戻って行った。
 現在は帝国軍のいくつかの部隊が残り、落とした街々の管理をしているということは、リュバサに避難しているカスティナ首脳部も把握し、もちろん奪回するための準備を着々と進めている。
 そんなときに、再び炎彩五騎士の一人が到着したというのだから、どのような目的でやって来たにしろ、早めに情報を得て対処するに越した事はない。
「…………はい」
 シリアは僅かに青褪め、こくりと頷いた。
 アリューシャに重傷を負わせ。そして、兄と戦っていた緋色の男。あれも……炎彩五騎士だ。その時の光景を思い出し、シリアは恐怖と悲しみの震えが足許から這い上がってくるのが分かった。
「このリュバサの所在が他に知られることは有り得ないから心配するな。これまで国土が蹂躙されるのを我慢に我慢を重ねて見てきたが、ようやく我らの準備も整ってきたところだ。帝国など、すぐに追い返すことが出来る」
「そうだよ、シリア。心配すんなって」
 不安そうな表情になってしまった少女を、アリューシャは再び優しく抱き寄せる。自分にとっても炎彩五騎士は恐ろしい存在であったけれど、それを彼女に見せるわけにはいかなかった。
「じゃあ、ちょっと行って来るよ。あとで、たっくさん話しようなっ」
 シリアの金色の髪をくしゃくしゃとかきまぜると、ひらりと身を離してアリューシャは笑う。
「うん……」
 今度ばかりはアリューシャの笑顔を見ても不安のすべてが消えることはなかったけれど、震えだけはおさまった。そのことで、少しだけ元気を取り戻す。
「そう、だね。あとでいっぱい話そうね!」
 兄が帰って来るまで自分を守ると、アリューシャはそう言ってくれた。それなのに、自分だけがこんなふうに甘えてばかりではいけないと思う。だから……くしゃりと。シリアも笑った。
 そうして二人を見送ろうとドアを開けたその刹那。和やかな空気を打ち砕くように慌しい足音が近付いて、シリアの目の前に立ち止まる。
 驚いてシリアが顔を上げるのと、そこに佇む若い男が、僅かに蒼白になった口を開くのはほぼ同時だった。
「ヒューイどの、ジェラード将軍の所へ早く! 帝国軍が……リュバサの湖岸に集まり始めていますっ!!」
「…………!?」
 若い男の叫ぶような報告に、そこにいた全員が言葉を失った。アリューシャがカエナの港町で見たという帝国軍のことを上に報告する間もなく、彼らはあろうことかこのリュバサに向かって来たと言うのだ。
 この街の存在を帝国軍が知るはずはない。だから心配する必要はないとも思う。けれども ―― それなら何故、このリュバサ湖岸に集結しているのか。不安はひしひしと押し寄せる。
 相手方に、自分たちが軍神と讃えていたユーシスレイアがいることなど知るよしもないカスティナの人間にとって、今の帝国の動きは予測もつかない不気味なものだった。
「どういうつもりなんだ、やつらは……」
 深く重い溜息を、ヒューイは思わず吐き出していた。


***


 朝日を浴びた湖面がきらめくように光彩を帯び、青い天空にあざやかな光を映し出す。
 湖をとりまくように広がる木々の緑も。水の碧さも。空の蒼も。すべてが自然の優美さをあますことなく結晶したように、その場所にただ存在していた。
 見る者すべてを祝福するかのようなその光景は、多くの者に感嘆の溜息を吐き出させる。それを見渡すように視線をめぐらせた若い男もまた、例外ではなかった。
「あの湖の底に……本当に都市が存在するのですね? カスティナはなかなか粋なことをするものです。とても……とても美しい。そう思われませんか?」
 健康的な褐色の肌をやや上気させながら、彼は先ほどから俯いたままの上官に声をかける。この神がかった美しい景色の下にカスティナ王国の隠された街があるのだということが、青年を興奮させていた。
 青年はラスティム=ヴァリエードという。編成されて間もない碧焔直属『氷鏡ひょうきょう』の主席幕僚を勤める男だった。
 ナファスの海上戦で壊滅した前碧炎の騎士直属の軍『蒼海』で、ただ一人の生き残りでもある。
 敗北を悟ったゼア=カリムが皇帝と親友の白炎に宛てた最期の書簡を、腹心だったラスティムは帝都に届けるようにと命じられ、その為に彼は死に場所を失った。
 以来、自暴自棄になって第一線から退いていたラスティムではあったが、今回、新たな碧焔の騎士から直々に指名されて再び軍に復帰することになったのである。
「粋なこと?」
 美しい景観を見ようともせず、幕舎の中央で考え事をするように地図を眺めていたユーシスレイアは、部下の言葉にふと顔を上げた。
「あれは生きることを強く望んだ古代の民が難を逃れる為に生み出した場所だ。しかも、一部の人間だけが助かるための……な。人の念が集まった場所ではあると思うが、粋とも優雅とも思えない」
 情緒も何もあったものではない言葉を返し、ユーシスレイアはテーブルに肘を突くようにラスティムを見やる。
 巻上げられた幕舎の入り口から僅かに覗く景観に目を向けて、そうしてわずかに眉を寄せる。
 リュバサの街。何もかもが揃う、不自由のない楽園のような街。けれどもそこに避難した者たちは、王族や王都シェスタの民だけだ。
 カスティナの各地では小さいとはいえ、まだ戦闘が行われているというのに。街の所在は他に知られず、ひっそりと一部の人間だけが安全な暮らしをしている。
 何故リュバサに集結しているはずのカスティナの軍が帝国軍に反撃しようとしないのか。国土を蹂躙されるがままにしているのか。それがユーシスレイアにはどうにも解せなかった。
「確かに、言われてみればそうですね。カスティナの国王は、カスティナ全土を諦めて湖底に小さな王国でも創るつもりでしょうか」
 他の町を見捨ててリュバサに逃げ込んでいる者たちは何を考えているのだろうか。ラスティムは興味深げに焦げ茶の瞳を上官に向けた。
 自分の上官がカスティナの出身であることを、ラスティムは知っていた。
 数ヶ月前に"碧焔の騎士"が新しく就任したとき、交わされる言葉の端々にカスティナ王国独特の語尾が流れるような発音が時折り混ざったのでラスティムは薄々気が付いてはいた。
 しかしその推測が事実の認知へと変わったのは、ほんのひと月前。幕僚にと請われた際にユーシスレイア自身から打ち明けられたからでもある。腹心と頼むからには嘘や誤魔化しはしないというユーシスレイアなりの誠意でもあった。
「……その点がおれにも理解できん。以前であれば、そんなことはしなかったと思うがな」
 ユーシスレイアは苦笑まじりに応えると、再び地図に視線を落とす。
 このあたりの地形が詳細に描かれた細やかな絵図と、何か不思議な形をした……巨大な獣がぱっくりと口を開けた様を思わせる一筆書きの簡素な絵がテーブルに並べておかれていた。
 ラスティムは入り口を離れて碧焔の隣に歩み寄ると、覗きこむように絵図を見やる。
「彼らもさすがに自分の尻に火がつけば戦いに出て来るでしょうけど……貴方の居ないカスティナ軍にどれほどのことが出来ますかね?」
「現在カスティナの軍を総括しているのはフォルテス……。実戦はジェラードというところだろう。しっかり機能してさえいれば、そうそう簡単な相手ではないさ」
 ぽつりと呟き、ユーシスレイアは軽く頭を振った。
 自分がカスティナに居た頃は軍を総括していたのは父アルシェだった。その父は今は亡い。そう考えると、次席のフォルテスが今はその任に就いているはずだった。そしてフォルテスの駒はその従兄弟のジェラードだろうということも、容易に想像がつく。
 ジェラードはかつて自分がカスティナの将であったとき、その腹心と頼んでいた老練な武将だ。
 まだ若輩の自分の下についたにもかかわらず、五十歳を超えた歴戦の将ジェラードは不平のひとつも言わずに補佐してくれたものだ。
「だが……カスティナの軍は機能させない」
 過去の記憶を振り切るようにユーシスレイアは白金の瞳を僅かに細め、地図を睨む。
 その頬には、鮮やかな戦意ともとれるあでやかな微笑が浮かび上がっていた。
「ところで碧焔様。三日でリュバサを落とすようにと皇帝陛下より仰せつかったのではありませんか?」
 ひとりごちた上官に、ラスティムは強い焦げ茶の瞳を向けた。ここに……リュバサの湖を圧すかのように陣を布いて、すでに一日経っている。期限はあと二日しかないのだ。早く仕掛けなくて良いのかと促すつもりだった。
「ラスティム=ヴァリエード……」
 碧焔は刃を生み出すようにラスティムを見やった。翡翠石をくりぬいて造られたリングで束ねた長い銀色の髪がゆらりと流れ、そして静かに止まる。一瞬おとずれたその静寂が、周囲の空気を鋭く張りつめた。
 いつものように愛称ではなく、自分の姓名を正確に呼んできた深い声音と強い眼差しに、思わずラスティムはぞくりと身震いする。
 ユーシスレイアは青年に視線を擬したまま、再びゆっくりと口を開いた。
「リュバサなど、半日で落とす。懸念は無用だ」
 すべての真実を見据えるような白金の瞳が、鮮烈な輝きを宿していた。それは、戦を前にした"炎彩五騎士"の名に相応しい、壮絶な眼光だった。
 やはり『碧焔の騎士』の称号を与えられるだけのことはある御方だ。ラスティムは心の中で歓喜した。
 半日で街を落とすという言葉が、単なる彼の妄言や大言壮語などではないと分かる。
 大きな自信とも違う。確信……だろうか。碧焔の騎士という存在が周囲に発する煌きは、決して幻ではないのだろうとラスティムは思った。
 旧主を失って以来、もう誰かに仕えることはないと思っていた自分を再び起ち上がらせたのは、この激しい白金の瞳だ。旧主の仇であると知ってからも、惹かれずにはおれなかった、壮絶な ―― 。
「出過ぎた事を申しました」
 ラスティムは高揚する己の心を抑えるように軽く頭を下げた。既にこの碧焔の騎士に対して、自分が心酔してしまっている事は自覚している。けれどもまだ……旧主の仇であるユーシスレイアに歓喜の表情を見せたくないと思う、相反した自分自身も居た。
「別に、出過ぎたことではないさ」
 ユーシスレイアはわずかに表情を和らげると、踵を返して幕舎の外に出る。さきほどラスティムが褒めた蒼穹の下に広がる湖を一瞥すると、さらりと髪をあそばせるように褐色の肌の青年を振り返る。
「ラス、おまえには夕刻までに氷鏡を率いて行ってもらう場所がある。準備をしておけ」
「は……。了解しました。それで、私が行く場所とは?」
「詳細は一時間後。次の軍議にて話す。それまでは秘密だ」
 笑い含みに言うと、ユーシスレイアはラスティムに背を向け、再びリュバサの湖を……否。湖の底に在る街を見据えるように、鋭い白金の目を細めた。


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2005.1.20 up