さらさらと。風が木の葉を揺らす響きが心地好かった。 目を開けて見なくとも、その木々の碧々とした彩りを想像することができる。それは美しく豊かな自然であるのだろう。小鳥たちの賑やかな歌声が絶え間なく聞こえていた。 ―― こんな朝は久し振りだ。 目を閉じたまま、青年はそう思った。ゆるゆるとまだるい眠気から覚醒していくのを自覚しながらも、その心地よさを手放すのが惜しい気がして、進んで瞼を開こうとは思わなかった。 「 ふと、雛鳥のように元気な声が聞こえ、青年はゆっくりと目を開けた。 美人ではないけれど、野に咲く花のように元気で闊達そうな少女が楽しげに笑いながら眠っている青年の顔を覗き込むように眺めていた。その両腕に抱え込むように、真っ白なシーツと大きな籐の籠を持った姿がどこか微笑ましい。 「それに、早く起きてくださらないと、私の仕事もはかどらないんですよ」 ようやく目覚めた青年と目が合うと、少女はいたずらっ子のようにぱちりと空色の瞳を片方だけ閉じてみせる。彼女の仕事は毎朝多くの部屋を掃除することなのだと思いだし、青年はゆうるりと体を起こした。 「ああ……そうか。すまない」 目の醒めるような銀色の髪を風に靡かせ、青年は寝台から床へと降り立った。風に誘われるままに窓外へ視線を移し、穏やかな景色を眺めやる。目覚める前に見た風景とは違う、しかしとても優しい自然たちが、そこにはゆうるりと穏やかに広がっていた。 「ふふ。珍しいですね。碧焔さまが寝坊するなんて」 ころころと笑いながら、少女は首を傾けた。いつもの颯爽とした雰囲気とは違う、どこか遠い目をしたような碧焔の様子が不思議だった。 「夢を見た。……楽しい夢だったような気がする」 碧焔の騎士と呼ばれた青年はふっと表情を和ませ、少女のふわふわとした栗色の頭を軽く撫でた。 「……どちらも、夢のようではあるけれどな」 相手には聴こえないよう心の中で一人ごちると、彼は少女の持ってきてくれた冷水で顔を洗い、ゆっくりと身支度を始める。『碧焔の騎士』の名の通り、碧い焔を思わせる色彩で飾られた服に着替えると、いっそう彼の姿は颯爽とした美丈夫になる。それが、少女は大好きだった。 「はい、碧焔さま。朝食はとらないと駄目ですよ」 続きの隣室で身支度を終え、こちらに戻ってきた青年の姿を嬉しそうに見つめながら、少女は大きなりんごを差し出した。部屋のテーブルに置かれていた果物かごから出したものだ。 いつもよりも時間が遅いので朝ごはんを食べている時間はないだろうと思った。それでも朝食を抜くのは身体に良くないと、少女は真顔である。 だからといって、りんごを剥くでもなく丸ごとそのまま手渡すというのが彼女らしかった。 「おまえにかかると、天下の『 まったく物怖じしない少女の元気さが可笑しくて、くすくす笑いながら青年はりんごを受け取る。ひと口かじると、甘酸っぱい芳香とひんやりとした果汁が口内を満たし、心地よい酸味が体中に行き渡るような気がした。 「朝食を一回抜いたくらいで参るほど、おれはヤワに見えるのか?」 「そ、そういうわけじゃないんですよー」 少女は顔を真っ赤にしながら、ふるふると大きく頭を振って否定する。その慌てぶりが可笑しくて、碧焔の騎士は笑むように白金の双眸をわずかに細めた。 「おまえは、本当に面白いな」 「面白いって言われても嬉しくないですよお!」 ぷくっと頬をふくらませる少女をなだめるように、青年は再び彼女の髪を軽く撫でた。この少女と話をしていると心が和んだ。 「ああ……そろそろ行かないと会議に遅れてしまうな」 ふと、青年は気付いたように苦笑した。あまりここでのんびりしているわけにはいかない。ひとつ小さな溜息をつくと気を取り直したように笑んで、食べかけのりんごを少女の手の上に、ぽんっと置く。 「悪いが片付けを頼む」 そういうと、彼は少女の応えも待たず、碧い衣をひるがえすように部屋を出て行った。 「……碧焔の騎士さま、いつになったら名前を呼んでくださるのかしら。いーっつも『おまえ』なんだから。私にはちゃんとセリカって名前があるのにな。すぐ子供扱いするんだもの」 むくれたように呟きながら、手の上に置かれた赤い果物を見やる。先程まで彼が持っていたりんごに自分の口を軽く重ね、その頬がぱっと気恥ずかしそうに赤らんだ。 初めて会ったときから、セリカは『碧焔の騎士』が好きだった。 自分は十六歳になったばかり。そして彼は、尋いたことはないがおそらく二十代の半ばなのだろうとセリカは思っていた。その年齢にはかなりの差がある。 身分からいっても、このラーカディアスト帝国で皇帝に次ぐ地位の『炎彩五騎士』である青年と『下働き』の自分では雲泥の差があった。 けれども、そんなことはまったく気にしていなかった。好きなものは好きなのである。結ばれることなど最初から望んでいない。ただ、こうして近くで見ていられるだけで幸せだった。 「……何か『セリカ』という名前に、哀しい思い出でもあるのかしら?」 初めてセリカと名乗った時、青年はほんの一瞬、とても辛そうに表情を歪めたのだ。白金の瞳がひどく深い悲しみを宿していた。それを思いだし、セリカは不思議そうに首を傾けた。 けれども、いくら考えてみても彼の心の中のことなどが自分に分かるはずもない。 「今度、聞いてみようかな」 そう結論付けて、彼女は窓の外を見る。ふと、窓から見える花時計にセリカは慌てたような声を上げた。 「いっけない。早く掃除しなくちゃ。まだまだ他の部屋もあるんだったわ」 りんごを大切そうに布に包んで懐に入れると、彼女は大好きな碧焔の騎士の部屋を綺麗にしようと、小鳥のように軽やかに掃除を始めた。 よく磨き込まれた鏡のように黒光りする床に軍靴の硬い音を響かせて、碧い衣に身を包んだ青年はいつものように部屋に入る。 趣味の良い落ち着いた装飾に統一された部屋の中央には、大きな円卓が置かれていた。そこに備えられた五つの椅子のうち既に四つが埋まり、それぞれ思い思いの行動を取っている。 炎彩五騎士と呼ばれる、帝国が誇る最強の騎士たちだった。 "騎士"という名称がついてはいるものの、彼らの権限は普通の騎士たちとは違う。炎彩五騎士には皇帝の次位に位置する絶対的な地位と権力が与えられ、あらゆる政務に対して関与できる特権を持っていた。 宮廷内において公的な役職・官職に就いているわけではない。けれども『炎彩五騎士』という、皇帝を除いた最高の権力を持つ彼らは完全に独立し、無任所であるがゆえに、すべての省庁・機関に対して何の遠慮も手心も加えることなく、己の特権をいかんなく行使した。 だからといって干渉しすぎるわけではなく、ましてや弛めすぎもせず。厳しすぎず、甘すぎず。そんな微妙な力の配分で、彼らは完璧に近い支配体制を敷き、国の政が円滑に推し進められるよう多くの面で働きかけていたのである。 その炎彩五騎士は皆まだ若い。最年長者の緋炎でさえ三十一歳という若さだ。普通ならば、そんな彼らが皇帝にも似た権限を持つ事に不安・不満を抱く者が出て来てもおかしくはない。 しかし五騎士は想像を絶するような強さを誇っているとも言われ、その為に魔がラーカディアストに従っているのだというのが、この国に住む人々の間に信じられている噂だった。 その圧倒的な強さと存在に憧れ、多くの兵士が強固に彼らの支持をする。それによって帝国の治安はどの国よりも清廉なほどに整い、人々は戸締まりなどしなくても平気で家を空けられるような安心した生活を送ることもできるようになっていた。 皇帝エルレアによって炎彩五騎士が編成され、現在の支配体制が確立して以来、この国での犯罪率は激減していた。そんなことから、炎彩五騎士は民衆レベルにおいても非常に人気は高かったのである。 しかしその五騎士も、二年前の『ナファスの海上戦』において碧炎の騎士ゼア=カリムが敗死して以来、ずっと四人のみで構成されていた。 己の権を分け与える存在として、皇帝エルレアが認めるほどの者が今までいなかったからだ。五騎士はその特異な性質上から、人選が遥かに難しい。 けれども数ヶ月前、緋炎の騎士がひとりの男を推挙した。それが皇帝の眼鏡にかない二年振りに『碧炎の騎士』が復活したのである。 皇帝に次ぐ地位と権力を有した五騎士の本名を呼ぶことは不敬とされ、彼らは『緋炎』や『白炎』といった称号で呼ばれるのが習わしだった。もちろん公文書などもそれで通る。 そのため昔の碧炎の騎士と混同しないよう『炎』を『焔』に変え、新しく『碧焔』という称号があてられた。 というのは表向きで、ゼア=カリムの親友だった白炎の騎士が、亡き親友の称号をそのまま他人に使われるのは絶対に嫌だと強硬に訴え、皇帝がそれを快諾したからだとも言われているが ―― 。 「碧焔、遅かったな」 無言のまま席に着いた同僚を見やり、白い衣をまとった青年が笑うように声をかけた。 白炎の騎士、クォーレス=ジゼルだ。彼は衣服だけではなく長く伸びた頭髪までもが『白炎』の名の通りに白く輝き、印象的な容貌をしていた。 弓矢の名手として知られるこの男は、目には見えないほど遠く離れた獲物でさえも逃したことがないという神技のような弓さばきを有する若干二十一歳の青年である。 「遅れてはいない」 チラリとクォーレスを見やり、碧焔の騎士は短く応えた。セリカと対しているのとはまるで別人のように、どこか冷徹な声音だった。そうして無造作にテーブルに頬杖を突いたきり無言になる。 表情を隠すように頬に置かれた腕に紺碧の薄布がゆるやかに波を打つのを見て、白炎はひょいっと肩をすくめた。 確かに彼の言うとおり時を示す鐘はまだ鳴っておらず、遅刻したわけではない。しかし、なんとも可愛げのない男だ。白炎はそう思った。 比べるつもりはないのだが、親友だった碧炎の騎士ゼア=カリムと、この名前さえも知らない現在の『碧焔』の差はあまりに激しい。ゼアならば、もっと楽しい会話ができただろうに ―― 。亡き友と同じ碧衣を身にまとっているだけに、どうしてもそう思ってしまうのだ。 別に仲良くなりたいわけではなかったけれど、こうもあからさまに無視をされると腹も立つ。 くすくすくすと、楽しげな笑声がクォーレスの耳に入ってきた。 「……何がおかしいんだよ、橙炎」 窓際に悠々と腰を下ろし、周りを見渡すように視線を遊ばせていた青年に、白炎はさらにむっとしたような銀灰の瞳を向けた。 「いや、まるで子供のケンカみたいだなと思ってね」 品のある深い翠の瞳に穏やかな笑みを浮かべ、橙炎はそう応えた。優雅なまでのその口調と所作に、彼の本性を知らない者は温和な貴公子だと噂する。 確かに橙炎、ミレザ=ロード=マセルはラーカディアスト帝国で王家の次に家柄の良いマセル公爵家の嫡子であり、貴公子というのは嘘ではない。また、優麗な容貌も誰もが認める青年だった。 一見すると将軍というよりは人の好い芸術家とでもいった方が似合う気もする。その、虫も殺せないような優しげな表情が楽しそうに白炎を見つめていた。 「悪かったな」 この穏やかな仮面の下に隠された本性を知りすぎるほどに知っている白炎は、貴公子めいた笑みを浮かべる橙炎に呆れたような眼差しを向けた。無駄に爽やかな笑顔が、逆に腹立たしい。 「悪いとは言ってないさ。私は誉めたつもりだけどね、シロ」 「……その呼び方はやめろって何度も言ってるだろ。 辟易したように、クォーレスは髪を揺らした。いくら"様"と敬称をつけられても、『シロ』と『白炎』では受ける印象があまりに違いすぎる。 「おや。私は親愛をこめて呼んでいるんだけどな。おまえは私が名を呼ぶことを許してはくれないから」 くすくすくすと再び笑い、橙炎ミレザはテーブルの上に置かれたグラスをとった。僅かにタレ気味の優しそうな深翠の瞳が、白炎をからかうのは楽しいと雄弁に語っている。 「まあ、それもイヤなら気をつけるけどね」 にこやかに笑んでそう言うと、橙炎は葡萄酒の芳香な匂りを楽しむようにグラスを軽く傾け、ゆうるりと揺らす。子供のように拗ねた表情でじっと自分を睨んでいる白炎に柔らかな視線を返しながら、くいっとそれをあおった。 「朝から酒なんて飲むんじゃないよ」 「うん? 葡萄酒はね、水みたいなものだよ。白炎」 公子様らしいことを呟きながら微笑すると、ミレザは優雅にグラスを円卓に戻す。別に白炎に言われたからではなく、朝の会議の定刻を告げる鐘が繊細な響きを周囲に紡がせたからだった。 その鐘の音と同時に『五騎士会議』と呼ばれる話し合いが毎朝行われているのである。ここで戦のことや宮廷の各機関や各庁についての評議をする。現在はもっぱら戦の話が多かったが。 「ミーティングを始める」 今まで他人の会話に見向きもせず愛剣の手入れをしていた男は鐘の音を耳にすると顔を上げ、集まった五騎士を眺めやった。 カスティナの王都シェスタを攻めたとき先陣にいた男。炎彩五騎士の主座である緋炎の騎士ルーヴェスタ=カイセードだ。戦場に在れば酷薄なその瞳も、しかし今は楽しげな光を帯び、同僚である他の四人に向けられていた。 「今日はどこを攻略する話です? カスティナ関係でしたら、次は僕も出陣させていただきたいところです」 ルーヴェスタの右隣に座した紫炎の騎士ラディカ=ローセアは、アメシストのような瞳に静かな、けれどもどこか鋭い戦意を宿した笑み浮かべてそう言った。 前回カスティナを攻めたとき、紫炎は帝都守備に残されていたのである。緋炎・白炎・橙炎の三人が出陣するのを羨ましく見送った。カスティナには強い武将が多いと聞く。そんな相手と闘うことができた彼らが、非常に羨ましかった。 本来、炎彩五騎士が揃って戦に出陣することなどほとんど無い。彼らが相手にしたいと思うほどの強い敵は、そういるものではない。 だがカスティナ王国は二年前に帝国の軍、それも五騎士の一人であった碧炎の騎士ゼア=カリムが指揮した精鋭『蒼海』の軍を壊滅させた国だ。それを指揮した将が自分たちと同様にまだ二十代だったのだと聞いて、いつか戦いたいと思っていた。 そこに、二年経ってようやく舞い込んできたカスティナ王都襲撃の知らせ。その絶好の機会を逃すまいと、五騎士自ら出陣を希望したのである。 しかし一人は帝都に残れという条件が皇帝から出され、その結果、カードゲームで負けた紫炎が残ることになったのだった。 「紫炎。この間の戦いはそんなに楽しめる戦でもなかったよ」 「よく言いますね、橙炎」 呆れたようにラディカは橙炎を見やる。 王都シェスタを落としたあと、先に緋炎だけは本国に戻ってきていた。けれどもあとの二人……白炎も橙炎もいっこうに戻っては来ず、そのあと三ヶ月間でカスティナの地方都市の多くを平定していたのだから。 ひと月前に新たな碧焔が立つという知らせを受けて、ようやく彼らはラーカディアストの帝都ザリアに戻ってきたのだ。次は自分が出ても良いだろうという気持ちが紫炎は強かった。 「本当のことだよ。邪魔くさい魔物たちがいたからね。思うように戦えなかった」 橙炎はつややかな紅茶色の髪を軽く揺らすように溜息をついた。 魔物を呼び出したのはラーカディアストではあるのだが、五騎士にはそれが邪魔だった。 今回は軍としての戦はほとんど起こらず、起きても地方都市の守備隊のみで思ったほどに強くはなかった。しかも好き放題に戦えたはずの場面でも必ず魔物が邪魔をするのだ。それで、こころゆくまで戦うことが出来なかったのだから。 「それに、カスティナの国王も国軍本隊も。ようとして行方が知れないわけだしね。早く見つけてあげないと可哀相だ」 穏やかに笑んで、ミレザはラディカを見やる。 まるで行方不明になった者の安否を気遣ってでもいるかのような優しげなその口調に、紫炎は再び呆れたように息を吐いた。けっきょくは、次も自分が出たいとミレザはそう言いたいだけなのだろう。 「でもホント、あれだけ自分の国土が"敵に蹂躙"されているっていうのに、国軍本隊が姿を現さないんだから驚きだよな。おかげで、ゼアを殺した奴には結局会えなかったからな。俺だってカスティナ攻略なら次の作戦にも出たいぞ」 親友のゼア=カリムを殺した『ユーシスレイア=カーデュ』という将軍を見つけたら、速攻に弓で射殺してやるのに。白炎は悔しげに呟き、弓を射る真似をする。 その言葉に、今まで黙っていたルーヴェスタは僅かに苦笑した。ちらりと向かいに座る碧焔の騎士を見やり、軽く口端を吊り上げる。 「…………」 碧い衣に身を包んだ青年は思わず深く息を吐いた。ルーヴェスタの言いたいことは分かった。白炎の願いが叶うことは、決して有り得ない。ここにこうして座っている自分こそが、二年前に碧炎の騎士を敗死させた張本人。ユーシスレイア=カーデュなのだから。 軍神と讃えられ、西側諸国の連合軍を指揮していたカスティナ王国の将。今は ―― こうしてラーカディアストの軍装に身を包んでいる裏切り者。 それを知っているのは本人である自分と、緋炎の騎士ルーヴェスタ。そしてラーカディアストの皇帝エルレア=シーイ=フュションとその腹心カレンの四人だけだった。 公表するに今は時期ではないと、皇帝が言った。ずっと隠しとおさせるつもりはない。いつか最も効果的な場面でそのことを全世界に公表させる。それはカスティナ王国、ひいては西側諸国にとって非常に大きな激震となるだろう。そう、皇帝の腹心カレンも言った。 だから、本名は他の五騎士にも名乗ってはいない。もともと自分が許した者以外には決して本名を呼ばせない『炎彩五騎士』である。名を名乗らないことは、特に不都合なことでもなかったのである。 「次に出るのは碧焔だ。カスティナの王が逃げ込んだ『リュバサ』を攻略する」 ルーヴェスタはすべての者の思惑を無視するように、淡々とそう告げた。 |
Copyright(c) Maki Kazahara all rights reserved. |