「アルシェ様、駄目です。もうすぐ城門が突破されます!」 カスティナ王国近衛隊長の報告を受け、アルシェは沈痛な視線を国王に向けた。 人間相手であれば、こうも簡単に崩れるはずはなかった。しかし相手は『人にあらざる者』たちだ。とつぜん空から現れた異形の敵に、城内に待機していた僅かな守備兵で戦ったのでは劣勢は覆しようがなかった。 今から軍を召集して間に合うようなものでもなく、まして追い討ちをかけるようにラーカディアストの大軍が王都に迫ってきているのだという報告も先ほど受けた。 そんな大軍がこうも都に近付くまで気付かなかったのも、そんな『人にあらざる者』の仕業に違いなかった。 アルシェはひとつ瞬きをすると、決意したように王の前にひざまづいた。 「陛下、どうかリュバサに撤退してください。あそこならば帝国軍も追うことは、かないますまい」 落ち着いた口調で、アルシェはそう告げる。ユーシスレイアが年を重ねればこうなるのであろう。凛々しさと重厚さを兼ねた表情が王の瞳をじっと見やっていた。 五十代も半ばに差し掛かろうという年齢には見えない、頼もしい武将だった。 「何を言うか、アルシェ。王が逃げるわけにはゆかぬ。そなたらと一緒に戦うぞ」 国王フィスカは魔物の姿に悔しげな表情を見せ、一矢報いんと剣を握る。 アルシェの言うリュバサとは、このカスティナ王国に伝わる隠された町の名だった。知らぬ者が入れば出てくることは不可能であろうと言われる鍾乳洞を越えた先にある、大きな湖の地下にある湖底都市である。 いくら『撤退』という言葉で繕おうが、それが示す事実は紛れもない『敗走』だった。 「陛下!!」 まだまだ若い国王の血気を抑えるように、アルシェは必死にその手を押さえ込んだ。 「ラーカディアストの狙いは、おそらく陛下のお命でしょう。城に直接魔物を送り込んできたことでもそれは明白。その狙い通りにことを運ばせてはカスティナの名折れでございます。それに ―― 陛下が行かねば民も避難することが出来ませぬ。どうか、無為に命の灯を消しませぬよう……」 静かに、軍を統括する武将はそう告げる。 「アルシェ……」 フィスカは沈痛な面持ちをアルシェに向けた。彼の静かだが意志の強い口調に、いつも自分は反論出来ないのだ。何と言ってもアルシェは自分が王太子であった頃から尊敬し、心から慕ってきた師でもあるのだから。 「陛下。アルシェ殿の言うとおりです。陛下がリュバサにてご健在であられるならば、一度はカスティナが敗れたとしても反撃の機会は残されます。ここで無意味に死に急ぎませんよう、私からもお願い致します」 王の隣に控えていた宰相のリファラスは藍色の瞳に静かな眼光を宿し、王を説得するよう言葉を紡ぐ。ここで王を失えば、一気にカスティナは瓦解していくだろう。それだけは避けたかった。 「だが……」 最も信頼する二人の臣にそう言われて、フィスカは呻くように床を見つめた。二人の言うことは分かる。しかし、ただ逃げるのも屈辱だった。 「フィスカ様。……目先の名誉などにとらわれず、国王としての……多くの民の命を預かるものとしての責務をお考えください」 ほんの少しの時間さえも惜しい。アルシェは非礼を承知で王太子時代に武道を教えていたときのように名で呼び、その腕を掴んで立ち上がらせる。 「リファラス殿。陛下のこと……あとは頼みます」 「分かりました。アルシェ殿のご武運をお祈りしています」 フィスカ同様にまだ若い、けれども冷静な表情のリファラスに軽くアルシェは笑んだ。彼がついていれば、国王は大丈夫だろう。 「ヒューイ、おまえも陛下をお護りしろ!」 意志の強さを内包した眼光を己の腹心に向け、その行動を促す。ヒューイはアルシェの放った命令に一瞬唇を噛み、けれども苦しさを呑みこむように頷いた。ここに残って一緒に戦うことが出来ないのは悔しかったが、アルシェの気持ちを考えると拒否することは出来なかった。 それは王に対する絶対的な忠誠と、そして……自分の家族を含む『民』への配慮でもあった。リュバサへの道を知るのは王族と、宮廷内のごく限られた僅かな人間だけだ。しかもリュバサの町は、王族以外の要請では決してその門戸を開いてはくれないのだから ―― 。 アルシェは国王を城外へ送り出すと、城の守備兵たちが必死に戦っている城門へと向かった。その門を突破されれば敵に王が逃げたことが知れる。隠し通路の存在もすぐに明らかになるだろう。そうなっては、あとはない。どうあってもここを死守し、王たちがリュバサにいく時間を。いや、せめて魔物や帝国の軍が追いつけなくなるくらいの時間を稼がなければならなかった。 「ユール、せめておまえがここにいてくれれば……」 魔物の侵攻を防ぎつつ、アルシェはふと、息子の名を呟いた。軍を率いる名将としてだけではなく、個人でも一騎当千と謳われる息子がいればもっと違う戦い方が出来たであろうにと思う。 「……いや、いなくて幸いだったか。ユールなら家族を守ってくれるだろう」 息子に対する信頼を心の中で噛み締め、アルシェは深い呼吸をついた。息子が家族を守ってくれる。そう信じればこそ、何の心配もせずに自分はここで魔物と戦うことができる。そう、思った。 もうどれだけの時間を戦っているのか、それすらも分からない。だが、とにかく少しでも長く、ここを守らなければならなかった。 アルシェは必死に戦う兵たちを励ましながら、執拗に襲い来る敵に対峙する。 ひとり。またひとりと。その数を死によって減らしながらも、兵たちは自分たちが心より敬愛する勇将アルシェがここにいる限り、この場所を撤退することなど誰ひとりも考えてはいなかった。 「アルシェ様っ!?」 不意に、近くにいた兵士の絶叫がアルシェの耳朶を打った。 刹那、アルシェは自分の身体を汚らわしい魔物の爪が突き通すのを感じた。灼けるような痛みとともに、自分の重心がぐらりと傾いていくのが分かる。 目を上げると、巨大なコウモリのような生き物が、空からアルシェに向かって長い爪を突き出していた。 「くっ……しくじった……か……」 悔しげに、魔物の顔を睨みつける。胸部から背中までも抉った魔物の爪が、ズブズブという異様な音を立てながらゆっくりと抜かれていく感覚を、アルシェはどこか他人事のように感じていた。 自分を貫いていた魔物の腕が離れると、支えを失ったようにアルシェは真紅の花を周囲に咲かせつつ、冷たい床へと倒れ込んだ。 かすむ目に、彼の血肉がこびりついた爪を舐める、いやらしい魔物の顔が映る。アルシェは最後の……渾身の力込めて、自分の剣をその魔物の眉間へと投げつけた。 それは寸分のずれもなく魔物に命中し、巨大なコウモリは絶叫しながら地に落ちた。痛みのために醜悪な体をのたうちまわらせ、そして、ぴくりとも動かなくなる。 「…………」 アルシェの瞳はしかし、そんな穢らわしいものを映し出すのを放棄し、彼の家族の暖かい表情を思い描いたままに、その機能を永遠に停止した。 |
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