カランと。軽やかな音をたてる店の扉をくぐって通りへ出てきた青年は、何とはなしに空を見上げた。 「……すごい夕焼けだな」 艶やかに濃い朱の色に染まった大きな夕陽が西の空に燃え立つように広がる光景に、思わず感嘆してユーシスレイアは一人ごちた。目に鮮やかに。とても美しく……しかしどこか毒々しい。そんな夕焼け空を見たのは久しぶりだった。 しかしふと気が付いたように視線を手元におろし、その瞳が笑むように細められる。今しがた宝飾店で買ったばかりの、赤いリボンで飾られた小さな包みがその手の内にあった。 「のんびりと空など見ている場合ではなかったな」 ユーシスレイアはもういちど軽く笑むと、道を急ぐように歩き出した。 いったい誰へのプレゼントなのだろうか? 道行く青年の姿をちらりちらりと眺めながら、口さがない街の女たちは口々に……或る者は悔しげに。或る者は興味深げに。噂話の花を咲かせた。 武人らしく引き締まった長身にカスティナ王国軍将の大きな紺碧の うしろでひとつに結ばれた銀色の長い髪と、すべての真実を見据えるような白金の瞳が端正な容貌に溶け込み、見る者に強烈な印象を与えた。 そのうえ二十七歳という若さで、ユーシスレイアはこのカスティナ王国が誇る随一の将なのである。今まで彼が率いた軍が敗れたことは一度とてなく、兵たちからはカスティナの軍神と讃えられる。 名将ユーシスレイアの名は羨望と畏敬を込めて、近隣諸国にも語られているほどだ。そんな彼が世の婦人達の注目を浴びるのも致し方がないというものだった。 このカスティナ王国の名将という存在が他国からも『脅威』として警戒されるでもなく、敬意を持って見られているのには二つの理由があった。 ひとつはカスティナ王国が自他共に認める平和主義国家であり、軍役を発動するのは防衛のみで他国に侵略することはないと信頼されているということ。……これは誰もがそう信じているわけではなく、他国がもうひとつの理由を信じたいがための、事実よりも願望を多く含んだ理由ではあるのだが ―― 。 そしてもうひとつ。最大の要因としては、現在世界を構成する国々の中で、東のダーレイ大陸全土を治める巨大な国家ラーカディアスト帝国に国力・軍事力などで対抗出来得るのは、西のシューム大陸の大半を治めるカスティナ王国だけだということだった。 全世界統一をもくろむラーカディアストの皇帝エルレアの侵略に対抗する小国たちの盟主として、否が応にもカスティナ王国が立たなければならなかったのである。 そして他国の望みどおり、カスティナの将ユーシスレイアは西側諸国に侵入してきた帝国軍を何度となく撃破してきた。 特に二年前、東西の両大陸間の中心にある海上国家ナファスにおいて起きた『ナファスの海上戦』と呼ばれる攻防戦での彼の活躍は、まさに軍神と謳われるに相応しいものだった。 ラーカディアストが最強と誇る『 その彼を『脅威』と見なす者は、今はいない。どこも、自国にラーカディアストが攻めてきた際には呼び付け、盟主カスティナ王国ともども利用する腹づもりでいたのだから ―― 。 「ユール。今帰りかい?」 ふいに楽しそうな明るい声が通りに響いた。その大きな声に、今までユーシスレイアを見ていた人々の視線が声の方へと向けられる。 それまでは人々の視線を気にもせずに帰路を急いでいた青年は、『ユール』という愛称で呼ばれてようやく立ち止まった。 さらりと髪を風に遊ばせるように振り返り、声の主へと視線を向ける。 通りに並ぶ多くの店のひとつから、体格のよすぎる男が窓から楽しげに顔を出しているのが見えた。彼がよく利用する刀剣商の主人リレスだ。 「新しい剣が入荷したんだ。寄って行きな。凄い名剣だぜ」 自信ありげに笑うと、リレスは店に入って来いと親指で入り口を指し示す。 「ああ、リレスか。悪いな。今日は急いでいるんだ」 「デートかい?」 リレスは青年が手に持った包みを見やり、今度は小指を軽く立て、からかうように笑ってみせた。 女たちの思慕を集めてやまないこの青年は、その端正な容貌とは裏腹に今までほとんど浮いた噂のない男だった。そのユーシスレイアが女にプレゼントをするとあっては、相手の娘に対して興味津々にもなる。 その心を射止めた女性というのは、いったいどんな娘なのだろうか? リレスは青年の答えを好奇に満ちた表情で待った。 「……いや、妹の誕生日なんだ」 ユーシスレイアは軽く肩をすくめると、微かに苦笑を浮かべた。 その返答に、刀剣商の主人はおかしそうに声を上げて笑った。デートじゃないというのには拍子抜けだったけれど、この青年が歳の離れた妹にはたいそう甘いという話をこの街で知らない者はいなかった。 普段の引き締まった怜悧な表情と、妹のことを言われたときに浮かぶ何ともいえない優しい表情とのギャップがまた素敵なのだと。彼を落とすならまず妹からだと。婦人たちがまことしやかに囁きあうほどだ。 「そうかい、それなら仕方ないなあ。まあ、今度ゆっくりおいで。おまえさんの為にとっておいてやるよ」 「ありがとう」 白金の瞳にあざやかな笑みを浮かべ、ユーシスレイアはリレスの顔を見やる。何かと便宜をはかってくれるこの刀剣商の主人には、いつも世話になっていたし感謝していた。 「なあに、この長剣を扱える奴なんざカスティナ王国きっての名将、ユール以外にゃいないからなあ」 主人は逞しい体を揺すって豪快に笑った。 王都シェスタの中でも王城から離れた閑静な街の一画にユーシスレイアの家は建っていた。 カーデュ家は今の国王が即位し、王太子時代からその武道の師であった父アルシェが宮廷内で要職を得てはいたけれど、もともとは一般騎士の出身であり、住んでいるのはごく当たり前の家だ。 母セリカと妹のシリアが趣味でたくさんの花を植えているので目に楽しい花々が庭には多く咲き乱れ、緑のアーチが訪れる者を優しく出迎える。 ユーシスレイアはゆったりと緑のアーチをくぐり、そんな庭の花々を眺めながら玄関へと歩み寄った。 「お帰りなさい、お兄ちゃん」 ユーシスレイアが帰ってくるのをどこかで見ていたのか、彼が開けるよりも早くドアが開き、中から明るい空色の瞳がにっこりと笑い掛けてきた。 「ああ。ただいま。時間には間に合ったか?」 彼は滅多に他人には見せないような優しい眼差しで妹に笑いかける。 「うん。お兄ちゃんを待ってたのよ。だから、早く」 満面の笑顔でシリアは家の中に導くように兄の腕を引いた。 甘えたように自分の腕にしがみつく妹に白金の瞳を細めると、ユーシスレイアは可笑しそうに、赤いリボンのかかった小さな包みをポンっと彼女の頭の上に置いた。 「シリア、誕生日おめでとう。ほら、プレゼントだ」 「え? あっ。わーい、ありがとう!」 雪華の如く白い肌を紅潮させて、シリアは頭の上に置かれた包みを両手で押さえた。そのまま手のひらで包み込むようにして、そっと顔の前へと持ってくる。 「なにかしら?」 わくわくと楽しそうな笑顔を兄に向け、待ちきれないとばかりにその場で包装を開けていく。最後の包みを破かないようにそおっと開くと、雫型の小さなピアスが誇らしげにシリアの手の上で輝いた。 夕暮れ時の淡い光を結晶したかのようなそれは、まさに『呼吸が止まる程に美しい』という言葉が似つかわしい。シリアは一瞬ぼうっとそれに見惚れた。ゆるゆると、空色の瞳に歓喜の彩が浮かんでくる。 「ふわあ……こんなに綺麗な石、初めて見た。お兄ちゃん、つけてきてもいい?」 「ああ、もちろん」 世界一の宝物をもらったかのような妹の笑顔に、ユーシスレイアはにこりと頷いた。 嬉しそうにはしゃいで鏡のある部屋へと走っていく妹の姿を眺めながら、目許にふわりと柔らかな笑みを宿す。歳の離れた妹の無邪気さが微笑ましくて、見ているのが楽しかった。 「ユール、帰ったの? それなら早くいらっしゃい。シリアのお祝いをしましょう。あなたを待っていたのよ」 ふと、居間の方から明るい母の声が息子を呼びかけた。 今にも歌いだすのではないかと思うほど楽しげな母の声に、思わず微笑を誘われる。 「すぐに行くよ」 ユーシスレイアはくすりと笑いながら服に付いた埃を軽く玄関先で払い、ゆったりと居間に足を向けた。 こうしていると、周囲の慌ただしさが他人事のように思えてくる。シリアの誕生日を祝うために華やかに飾り付けられた壁やテーブルが、この日の幸福を象徴しているようでとても和やかな気分になった。 「お帰りユール。帝国の動きはどうだって? ユールが呼ばれたくらいだ。何かあったんだろう?」 椅子に座っていた亜麻色の髪の少年が入ってきたユーシスレイアにそう声を掛ける。十年前に両親を亡くし、この家に引き取られたアリューシャ=ラーンという騎士見習いの少年だった。 カスティナ王国では騎士の資格を有するのは十八歳からと定められているため、彼が正式に騎士として認められるまであと一年ちょっとかかる。だがアリューシャは有望視されており、正式に騎士となった暁には近衛隊への編入が既に内定していた。そのせいか軍事のことは何にでも興味を示す。 「……ああ。最北の島サレア侯国が攻められて、サレアの侯家は滅亡したそうだ。あまりに迅速すぎる攻撃に、連盟への救援要請が間に合わなかったようだな」 ユーシスレイアは僅かに顔をしかめ、そう応えた。 二年前の『ナファスの海上戦』での敗戦以来、あまり大きな動きを見せていなかった帝国が再び活発に動き始めたということ。そして大きな戦が起こりそうだという話を先ほど王宮で聞いてきたのだ。 もうすぐ自分に出陣準備の命も下るだろう、そう彼は思っていた。だからこそ、できれば妹の誕生日くらいは殺伐とした話は避けたかった。 その話はまた今度だと言うように軽く右手を動かし、少年から視線を外して窓の外を見る。アリューシャにもその心情が理解できたのか、それ以上話をせがみはしなかった。 「どう似合う? お兄ちゃん」 はしゃいだ声と共に、ピアスを着けたシリアが居間に戻ってきた。ピアスは美しく柔らかな光を耳元で放ち、彼女の愛らしさをいっそう引き立てるようだった。 「よく似合ってる。な、アリューシャ」 ユーシスレイアは満足そうに白金の瞳を微笑ませた。妹へのプレゼントをどうしようかと悩んでいた時に、ちょうど宝飾店の店先に飾ってあったこのピアスを見つけた。見た瞬間に、もう自分は店に入っていたのだ。妹にはきっとこれが似合うだろうと。そう思ったから。 「うん、すごい似合ってるよ」 アリューシャは楽しそうに仲の良い兄妹を交互に見やった。 「でも、ユールがそれを買いに行った光景って想像できないよな」 クスクスと笑い、アリューシャは言う。婦人達の視線を独占するも可能なくせに浮いた噂の全くない堅物なこの男が、どんな顔で女物の装飾具を買いに行ったのだろうか? そう思うとおかしかった。 「……別に、特別なことではないだろう」 確かに店の人間の好奇の目はあったが必要なものを買うのに気にしてはいられない。しかしどうして、たかだか自分がピアスを買うだけであんな好奇の目を向けられるのか。ユーシスレイアは僅かに苦笑しながら溜息をついた。 「ふふ。じゃあそろそろ、始めましょう」 母セリカはそんな子供たちを楽しそうに見回しながら、そう声を掛ける。 「早くしないと、せっかくの御馳走が冷めてしまうわ」 「あ、お父様は?」 「お父様は、やっぱり今日はお仕事で欠席よ」 「えーー!?」 母の言葉に、シリアは駄々っ子のように溜息をついた。 彼らの父アルシェは、カスティナの軍を統括する長として任に就いていた。王の信任も厚く、側に召し上げられることも多いと聞く。帝国が動き始めたこの不穏な時期、何かと対策を講じるのに忙しく娘の誕生日にも帰って来れないでいたのである。 「仕方がないだろう、シリア。おれが父さんの分も祝ってやるから我慢しな」 ユーシスレイアは軽く笑って、妹の金色の髪を軽くぽんとたたく。シリアはちょっと残念そうに口を尖らせ。しかしすぐに気を取り直したように、にこりと笑った。 「うん、分かった。じゃあ、お兄ちゃんがシャンパンを開けてね」 テーブルの上に置かれた綺麗な色をした瓶を指して、シリアは明るい笑顔を兄に向ける。ユーシスレイアはくすりと笑ってテーブルのそれを取り上げた。 「 ―― !?」 刹那、コルクを抜く勢いのよい音に、激しい爆音が重なった。 それを追うかのように腹の底に響いてくる低い地鳴りが起こり、家屋が悲鳴をあげておおきく震える。その大きな揺れは、座っていた椅子から人間が放り出されそうになるほどだ。 棚や高所に置かれていた物たちも、安定を欠いて次々と飛ぶように落ちてくる。 「アリューシャ、物陰に隠れろっ!」 椅子から転げ落ちたアリューシャに向かって叫びながら、ユーシスレイアはすばやく母と妹を引き寄せ、落下物から二人を守るように自分も物陰へと移動した。 月の光を思わせる銀色の髪をかすめて、シリアのためにつくられた御馳走が、食器が、床に落ちては激しく飛び散る。硝子の割れる甲高い音や、石のぶつかるような鈍い衝撃の中で、彼らは息を潜めて時がすぎるのを待つことしか出来なかった。 しばらくして揺れがおさまると、シリアは恐る恐る瞼を開けて周囲の様子を見回した。 飛び散ったサラダやスープが床いっぱいに広がり、食器棚やテーブルも竜巻にでもあったかのように無造作に散らばっている。所々では屋根が崩れ落ち、夕暮れ時の赤い空が顔を覗かせていた。 「お兄ちゃん!!」 シリアは悲鳴を上げた。 自分と母を守るように伏せていた兄の左足に、崩れ落ちた屋根の一部が重石のように圧し掛かっているのが見えたからだ。顔を見上げてみれば、額にわずかな汗が滲んでいる。決して自分や母には言わないだろうけれども。兄は苦痛をこらえているのだと、シリアには分かった。 慌てて兄の下から這い出ると、瓦礫をどかそうと懸命に持ち上げる。母やアリューシャも必死に手伝ってようやく隙間がうまれ、ユーシスレイアは足を引き抜くことができた。 「大丈夫? お兄ちゃん、立てる?」 「……ああ。大丈夫だよ」 急いで救急道具を用意して応急手当てをしてくれた母と、心配そうに泣きべそ顔できいてくる妹に、ユーシスレイアは軽く笑んで見せる。 地についた左足に重く鈍い痛みと痺れはあったが、折れてはいないようだ。ひびくらいは入っているかもしれないが ―― それを言って家族を心配させるのは彼の本意ではなかった。 「それより今の揺れは?」 恐らくただの地震ではない。その予感が、ユーシスレイアの瞳を曇らせた。地面の揺れよりも、何かが弾け飛ぶような大きな爆音が気になる。音がしたのは王城の方だった。 「あ、あれは!?」 アリューシャの叫び声に、皆の視線が一斉に窓の外に向けられる。 振動で割れた窓ガラスの向こうに、捩れたようぽっかりと口を開ける奇妙な空があった。空の歪みは城の真上を覆うように広がって、そこから異形の者たちが次々と姿を現していた。 「な……魔物、だと!?」 「遥か昔に封じられたはずの魔物たちが何故!?」 ユーシスレイアとアリューシャは驚きに顔を見合わせた。 だが、ユーシスレイアはその答えがひとつしかないことを悟っていた。 「まさかラーカディアストの皇帝が……封印を解いたのか!?」 唾棄するようにそう言うと、彼は固く唇を噛み締める。魔などを呼び出して、ラーカディアストの皇帝は先のことを考えているのだろうか? 魔は人の命をなんとも思わない。流血と殺戮を好む残酷な種族だと言われている。それを ―― 。 「愚かな……」 この先訪れるであろう『地獄』を思い、ユーシスレイアはその白金の瞳に鋭い眼光をたたえ、じっと外の光景を見やっていた。 |
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