Misty Night 番外編 ショートショート3 |
すやすやと。まるで赤子のように安らかな寝息をたてて、青年はソファで眠っていた。 立ち上がれば腰下にまで届くだろうしなやかな黒髪が、僅かなうねりをつくるようにソファから床へと静かに流れている。 きっと心地よい手触りなのだろうな。眺めているうちにシエナはふとそう思い、そっと彼の髪に触れた。思ったとおり手に触れる髪は柔らかく、そしてしなやかだった。 「ふふっ。ちょっといじっちゃおうかしら」 熟睡しているのか、一向に目を覚まさない青年の寝顔に少女はいたずらな瞳で呟いた。 何かを思いついたように笑い含むと、戸棚の引き出しから赤いリボンを持ち出して来る。そうして楽しそうに、彼の長い髪をゆるく一房に編んでいった。 青年の闇色の長い髪には深紅の色が良く映える。その思った以上の仕上がりに、シエナは嬉しそうに手を叩いて喜んだ。 「やっぱり、レイって深紅が似合うわよねぇ」 今は眠っているから隠れているけれども、彼のまぶたが開けば深い深い紅の珠玉が硬質な輝きを放つように姿を表すだろう。 赤い瞳は魔の証。しかも、とてつもなく強力な ―― 。 事実、ここで静かに眠っている青年が人間ではなくヴァンパイアと呼ばれる魔族なのだということはシエナも知っていた。魔族と呼ばれる者たちの中でも破格の力を持っているらしいということも、兄から聞いて知っている。 しかし ―― だからなんだというのだろうか? 他の人々が魔の証だと恐れる深紅の瞳が、シエナは大好きだった。 「…………」 「……だれっ!?」 ふいに、背後から人の気配がした気がして、シエナはびっくりしたように振り返った。 今この家にいるのは、目の前で眠っている青年と自分だけだ。今ごろ兄は教会で町の子供たちに神の物語を聞かせている頃で、お昼過ぎまで戻らないはずなのだから。 けれどもそこには、黒い革張りの本を胸元に抱え、居間のドアをくぐるように入ってきた兄センリの姿があった。 今日は早めに終わったのか、屋敷に隣接された礼拝堂から戻ってきたところのようだ。 「なんだ、兄さんかぁ。お帰りなさい。でも、黙って入ってくるから誰かと思ったわ」 「ああ、驚かせましたか? 悪かったね。窓からレイフォードが眠っているのが見えたので、起こさないよう声をかけずに入って来たんですよ。そこに貴女が居るのに気付きませんでした」 にこりと笑って、センリは持っていた本を壁際の棚に置いた。背の真ん中でひとつにまとめられた焦茶の髪をひるがえすように妹へ向き直り、ソファの方へと歩み寄る。 「……おやおや。これはまた、ずいぶんと可愛くしましたね」 くすくすと笑いながら、センリはまだ眠っている三つ編みの青年と妹の顔を交互に見やる。人々に怖れられる天下のヴァンパイアも、妹の手にかかれば形無しだ。 「だって、レイぜんぜん起きないんだもん。つい悪戯したくなっちゃって」 「まったく貴女という娘は……」 軽くたしなめるように言いながらも、センリは可笑しそうに目を細める。 彼が"ヴァンパイア"だということを考えれば、太陽が高い位置にあるこの時間に熟睡しているのは当然のことかもしれないけれど、棺や地下室はでなく陽の光が燦々と降りそそぐ居間のソファで眠っているのだから、おかしい事この上ない。 もちろん、このヴァンパイアにそんな通説が当てはまらない事もちゃんと知ってはいたけれど。こうして枕元で人が会話しているのに身じろぎひとつもしないのだから、それはそれで寝すぎの感はある。 それだけ"この場所"に安心してくれているというのが嬉しくもあるが、あまりにも無防備な寝顔に、思わずいたずらしたくなってしまった妹の気持ちも分かってしまって、センリは軽く苦笑した。 「レイフォードは昨夜あまり寝ていないんですよ。帰ってきたのは明け方でしたからね」 「そういえば昨夜はレイ居なかったわよね。もしかして"ゴハン"……だったりする?」 シエナはちろりと上目遣いに兄を見やり、そうして眠っている青年を拗ねたように睨む。"ヴァンパイアのゴハン"が何なのかくらい、シエナだって知っていた。ただ、いつも同じ食卓に着いて、三人一緒に食事をしてもいたので、普段はあまり気にしたことがなかったのだけれど。 「さて……どうでしょう。昨日は月がとても綺麗でしたからね。夜の散歩じゃないですか?」 「ふうん? アヤシイなぁ」 疑うような、笑うような不可思議な眼差しで、シエナは兄を見やる。そんな妹にやんわり微笑むと、センリはぽんぽんっと軽く頭をはたいた。 「考えすぎですよ」 魔族である青年と自分たちの奇妙な同居生活が始まって、もう半年ばかり過ぎたろうか。 その中で、彼女はレイフォードの魔族としての一面をまだ見たことがないのである。言葉としては知っていても実感していないはずだ。だからこそ、こうも彼に懐こくまとわりつくことも出来るのかもしれないと思う。 いや……自分がそうであったようにシエナも魔である事実を受け入れ、すべてを愛することが出来るかもしれないとも思う。けれども兄として。そして彼の友として、もうしばらくの間、シエナにレイフォードの魔的な一面を感じさせないで済むならばその方が良いとも思うのだ。 なんといっても彼女はまだ十四歳の少女であり、すべてを受け止めるには幼さ過ぎるだろう。それがセンリの判断だった。 だから ―― 妹が次に発した言葉に、センリは大いに目をまるくした。 「ヴァンパイアにとって血液を摂るのは、私たちがミルクを飲むようなものでしょ。隠すことないわよ。だから、レイもそっちの"食事"をしたいなら他所じゃなくて、うちですればいいのにね。ここにはれっきとした"美少女"が居るんだから」 悪びれずにそう笑うシエナに、センリは思わず絶句する。 自分のことを"美少女"と称したことをからかえばいいのか、それともバカなことを言うなとたしなめるべきなのか。一瞬、判断に迷ってしまう。なにせ、今の彼女の言葉は己の血液を吸えばいいという意味以外には取りようがなかったのだから。 「シエナ、貴女は本当に突拍子のないことを言いますね」 「そうかしら?」 「ええ。まあ、貴女がそれで良いというのなら、私は反対はしませんけれど……」 不思議そうに首を傾げるシエナの横で、思わずセンリは苦笑する。 同居人のヴァンパイア。今では友と思うレイフォードが標的を殺すことはないと確信しているので、とりあえず反対はしないけれど、我が妹ながらとんでもない思考の持ち主だと思った。 「……馬鹿か、おまえら」 今までぐっすりと眠っていた青年の目が、ふと開いた。シエナの大好きな深紅の瞳が、ゆうるりと彷徨うように宙を流れ、そうして二人の兄妹に焦点が合う。 「ああ、起こしてしまいましたか。すみませんでしたね、騒がしくして」 「でもね、もうすぐ正午だよっ。ねぼすけさん」 「……そうか。だいぶ寝過ごしたな」 まだ完全には覚醒しきっていないのか、いささかぼんやりとした応えを返し、レイフォードは眉を寄せるように軽く頭を振って、むくりと身体を起こした。 けれどもすぐに、そういうことが言いたかった訳ではないと思い出す。 「……ていうか、今そういう話をしていたんじゃないんだろうが」 深い溜息をつきながら、のどかな表情の兄妹を見据えるようにぴんと眉を上げる。 「あ。そうだったねぇ。私たちが馬鹿ってどうしてよお?」 すかさずシエナはソファの肘掛に頬杖をついて、ずずいとレイフォードの顔を見やる。その幼い仕草がとても愛らしいと、不覚にもレイフォードは思った。 「あのなあ、誰が好きこのんで自分から魔族の食糧になりますって言う馬鹿がいるんだよ。妹の暴言に反対しないおまえもおまえだ、馬鹿センリ」 いったい何が楽しくて、ヴァンパイアである自分がそんなことを人間に懇々と諭さなければならないのか。思わず、ぐったりと肩を落とす。 「ふふ。おまえが、そういう性格だからですよ」 いかにも可笑しいというように、センリは肩をゆすっておおいに笑った。それを見て、シエナもくすくすと笑い出す。 「そうそう。そういうレイだから、私もいいなって思うんだよ。それに、レイが私の知らないところで"食事"をするなんて、一緒に住んでる女としてはむかつくしねえっ」 「…………まったく……」 困惑したように。そして呆れたように。レイフォードは天を仰ぐ。 「ほんっと変な奴らだよ、おまえたちは」 そう言う口許には、どこか楽しげな笑みが浮んでいた。 刹那。ぱらりと長い黒髪が肩からすべり落ちた。そこに決して在るはずのない"紅いリボンの三つ編み"を見つけて、一瞬レイフォードの動きが止まった。 「………………」 たっぷりと沈黙を数えること約三十秒。 どういう状況なのかを理解して、レイフォードは諦めたように深く息をついた。そうしてにやりと、どこか偽悪的な笑みを浮かべてみせる。 「あいにく俺は子供は趣味じゃないんでな。おまえたちのその気持ちだけ受け取っておくよ」 「むー。私は子供じゃないのにっ」 「ふふん。こんな事をするのはガキの証拠だ。……まあ、あと十年もしたら考えてやってもいいが」 レイフォードは少女がやったのだろう三つ編みを軽くつまんで見せ、深紅の瞳を意地悪く細める。シエナはぷくりと頬を膨らませた。 「見てらっしゃい? レイが驚くような淑女になるんだから」 「なれるものならな」 「おや。では十年後はレイフォードは義理の弟になる可能性もありですね。親友が義弟になるのも良いものですし、協力するにやぶさかではありませんよ、シエナ」 にーっこりと。センリは顔いっぱいに微笑んで、レイフォードと妹の肩を叩く。 「あのなぁ……」 やっぱりこの二人にはかなわない。ふと、レイフォードは苦笑にも似た笑みを浮かべた。 シエナはともかく、この若い神官……センリがただ甘いだけの男ではないことはよく知っている。出会った経緯が経緯だ。 けれども現在のこの馬鹿げた会話や生活が、なんとなく楽しいとさえ思う。 この"場所"でセンリに出会い『ここに居ても良い』のだといわれた時には驚いたけれど。実際に三人で暮らし始めてなお、まったくの違和感も疎外感も圧迫感もなく、普通にお互いが過ごせていることは、彼らののどかな性質によるものだと思う。 人間や魔族といった隔たりも関係なく、個と個のつながりを感じられるからこそ、自分はこうもこの場所に安心していられるのだろう ―― 。 レイフォードはひとつに結ばれた自分の三つ編みを眺め、そうして二人を見やった。 「まあ、せっかくだから十年後を楽しみにしてみるか……な」 ふと。切れ上がるような鮮やかな笑みを浮かべてレイフォードはソファから立ち上がる。なんとなく気恥ずかしさを隠すようにゆうるりと窓際に向かい、その窓を大きく開け放った。 ふわりと。陽の光をたくさん含んだ暖かな風が白いカーテンとともに舞い込んで来る。 「十年後は……友人ではなく"家族"になっているかもしれませんね。レイフォード」 センリもシエナも明るく微笑んだ。三人に十年後が来ないなどということを思いもせずに。優しいひとときの夢を見る。 現実にあるはずもない ―― 白日の夢を ―― 。 .........Misty Night番外編『白日の夢』 完 |
Misty Nightの番外編ショートショート第3弾です。 レイフォードとセンリとシエナの三人で暮らし始めたばかりの頃です。なので、まだ上辺の付き合いのような感もあります。彼らが深く信頼しあうようになるのは、これからです。 ちなみにシエナの性格は某小動物の誰かさんに似ています。けっきょくレイは、ああいう性格に弱いのでしょうね(笑) |
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