Misty Night |
さわさわと。葉擦れの音につつまれて、リュカはぱちりと目を開いた。 いつもと違う目覚めの景色に一瞬びっくりした。 好い香りのする籐かごも、ふかふか毛布も、見慣れた天井もない。優しい木漏れ日をとおす新緑が、そよそよと流れる風とともに目の前いっぱいに広がっていた。 「……あれ? どこだっけ?」 寝ぼけ眼をこすりながら、リュカは今の状況を把握しようと試みる。すぐに、ここが屋敷近くの森だったことを思い出して深い溜息をついた。太陽の位置からすると、もうお昼をとうに過ぎているだろう。かなり寝過ごしてしまったらしい。 「ちぇ。レイのばかやろう」 昨日の夜はレイフォードと些細な事で喧嘩になった。いや、喧嘩というよりも、ただリュカがひとりでわめき通しで、レイフォードは聞いているのか聞いていないのか。ソファでごろんと横になって本を読んでいた。 その他人事のような態度があまりに頭にきたものだから、リュカは最後に『レイなんて、そのままソファで腐っちゃえばいいんだ!』と暴言を吐きだして屋敷を飛び出したのだった。そうして結局、近所の森の木枝で寝たのである。 最近なぜか喧嘩をすることが多いなと、リュカは小さな口を尖らせながら思う。しかも、いつだって一方的なのだ。リュカの言葉を、レイフォードはまったく聞きいれようとしないのだから ―― 。 「レイの、大ばかやろー!!!」 もう一度、不満をぶちまけるように大きな声を出す。その途端ぐるるるとおなかが鳴って、リュカは純白の顔を赤くした。 「お腹すいたなぁ。でも、屋敷に自分から帰るのはシャクだしなぁ。……ていうか、まだ怒ってるんだからな、おれは!」 怒る相手もいないというのに小さな拳を振り上げて、大きな声で叫んでみせる。もしかしたら、反省したレイフォードが自分の事を探しに来ているのではないか。そう思った。 「…………」 けれども。一向にレイフォードが姿を見せることはなかった。 がっくりと頭をたれて、リュカは深い溜息をついた。危ない目に遭っているわけでもないのに、そうそうレイフォードが自分を探しに来てくれることなど有り得ないだろう。 「いいや。街を散歩してこようっと。夜になったら、きっと迎えに来るだろうしさ」 ダストなどに聞かれたら『ご主人様に迷惑をかけるな!』と殴られるような言葉を吐きだしてから、リュカはするすると木枝から滑り降りた。 「……あれ? この森からあんな建物が見えたっけなぁ?」 森を抜けて広い草地に出たリュカは、きょとんと目をまるくした。遠くに大きな石造りの建物が建っている。古いお城のようにも見えるそれは、リュカが見たことのないものだった。 抜ける道を間違えたかと思った。 いつもならば、この森を抜ければすぐにレイフォードの屋敷の離れにある礼拝堂の屋根が望める。その天窓に嵌められた美しい玻璃が陽光を浴びている様が大好きで、リュカはよくこの場所を通るのだけれども……。 「いつもどおりの道を通ったはずなんだけどなぁ」 小さな首を傾げて、今度は確かめるように木の天辺まで登りつめて周囲の景色を見やる。そうすれば、自分がどの道を間違えて森の外に出たのか分かるはずだった。 「ええっ!!??」 あまりに信じられない光景に、それでなくてもまんまるの大きな瞳が更に大きく見開かれる。 一番高い木の天辺から眺めた周囲の景色。そこにはリュカがまったく見覚えのない、見ず知らずの風景が広がっていた。 森から南を見ると、レイフォードの屋敷の周りには在るのはずのない大きな大きな湖が視界の半分近くに広がり、静かな湖面に陽光がきらきらと反射している。そしてその湖に対面するように、先ほど見えた石造りの建物が遥かとおくまで広がっているのがはっきりと見えた。 「ありえない。ありえないよ!!」 リュカは慌てたように叫んだ。これは何かの間違い。幻だ。それともまだ自分は寝ぼけているのか。そう思って目を閉じる。次に目を開けた時には、きっといつもの景色に戻っているに違いない。そう思った。 「…………いち。に。さん!」 掛け声つきでおそるおそる目を開けて、リュカは泣き出したくなった。あたりまえのように目の前に広がる景色が、変わる事はなかったからだ。 自分が眠っているあいだに、誰かの悪戯でこんな見も知らぬ遠くまで運んで来られたのかもしれない。そう思うと一気に心細くなった。 ザレードの町から近い場所ならば自分にも分かる。けれども。大きな湖や石造りの巨大な建造物など、ザレードの近辺では見たことも聞いた事もなかった。 見も知らぬ場所に独りで来たことなどないリュカにとっては、もう頭がパニック寸前だった。 *** 「レイフォード様。どうかされたんですか? 最近どこかお元気がないように思えますけれども……」 淹れたての紅茶をテーブルに置きながら、ダストは心配そうに主人の顔を見つめた。ほわりほわりとたちのぼる紅茶の湯気に、微かな花の甘い香りが混じる。近ごろ機嫌の悪い主人の心を癒すように、ダストがハーブを混ぜたのだろう。 そう気がついて、レイフォードは横になっていたソファから身体を起こすと軽く笑んでみせた。 「おまえの思い過ごしだろう」 手にしていた厚い本をテーブルに伏せて置くと、ぽんぽんと、軽くたたくようにダストの黒い髪を撫でてやる。 昨夜リュカにも同じようなことを言われた気がするが、特に自分では機嫌が悪いとは思っていなかった。近ごろ自分の心境に起きた変化といえば、外に出るのが億劫になったことくらいか。 だから最近は屋敷で本を読んで過ごす時間が増えた。 そのせいで散歩に連れて行く機会が激減したからか、リュカの方が怒りっぽくなってるとレイフォードは思った。昨夜もリュカはワアワア独りで喚いて、最後に捨て台詞を残して飛び出していったのだから。 「そういえば、あのバカ聖獣はお昼ご飯にも帰ってきませんでしたね。もう半日以上たちますし、お腹すかしてるかもしれませんねぇ。……ま、まあ自業自得ですけどっ」 ダストはわずかに浮びかけた心配顔を振り払うように、ぷくりと頬をふくらませてみせる。 「心配なら探しに行ったらどうだ、ダスト?」 くっくっと楽しそうに笑って、レイフォードは深紅の瞳を細めた。顔を合わせると喧嘩ばかりのリュカとダストだが、相手がいないとつまらなそうにしているのをレイフォードはもちろん知っていた。 「まあ、俺は行かないけどな」 かるく苦笑してみせてから、ソファの背もたれに身体を預けながらダストの淹れた紅茶を口にする。 「僕も探しになんて行きませんよ。あのバカ聖獣も子供じゃないんですし、お腹がすいてどうしようもなくなったら自分で帰ってきます。いつものことですから」 空になったカップに新しい紅茶をそそぎながら、ダストは言った。 勝手に飛び出して行ったリュカなんかよりも、どこか様子のおかしい主人の方が気がかりだ。 近ごろ何かに苛々していると思えば、気だるげにソファに横になっている。本を読んでいる時はまだいいのだが、何もせずにただ座ったままどこか一点を見つめていることもある。 闇夜を統べる王とでも言うべきこの主人が、夜の散歩をしなくなってもう十日にもなるのだ。昨夜のようにリュカが無理矢理にでも外に連れ出そうとした気持ちも、分からないではなかった。 だからといってリュカがレイフォードに吐いた暴言は許せなかったけれど。 「レイフォード様。何かありましたら、すぐに呼んでくださいね。僕は隣の部屋にいますから」 「ああ。分かった」 軽く頷きはするものの、やはり本に目を向けてしまった主人を見やり、ダストは寂しそうにレイフォードの部屋から出る。 今のご主人様からは、いつものような覇気を感じられない。何よりダストが一目ぼれした、他者を威圧するかのように鮮烈であでやかな存在感も影をひそめている。 もちろん、その圧倒的な力に蔭りは感じられないけれども ―― どこか無気力なのだ。 そんな様子はいつものレイフォード様ではない。そう思う。しかしどうすれば良いのかも分からず、ただ見ていることしか出来ない自分の無能さがもどかしく悔しいダストだった。 *** とてとてと、リュカは小さな足を必死で走らせて町に向かっていた。 このまま途方にくれていても仕方がない。なにせ今いる場所がどこかも分からないのだ。とにかく誰かをとっ捕まえて今居る場所の把握をしなくちゃいけない。 あわよくば、その人物にザレードまでの道のりを聞くか、連れて行ってもらおうとリュカは気楽に考えた。もともとが能天気な性格の持ち主である。知らない場所に来た不安感が、そう長く続くものではなかった。 「にしても、お腹すいたなぁ……」 昨日の夜からほぼ半日。まったく何も食べていない。空腹になりすぎて、リュカの走る体力はそろそろ限界に近かった。 仕方なく途中の川辺で水を飲んでみると、少しおなかが膨れたような気もするけれども、たぷんたぷんとお腹が鳴るだけで空腹は治まらない。 「あーあ。疲れたなぁ。お腹すいたよぉ。たぷたぷだよぉ。レイのばかー! 町までこんなに遠いなんて反則だぁ……」 訳の分からない抗議を口にして、リュカは子供のように手足を投げ出して転がった。森を出てもうだいぶ経つのに、自分の小さな足ではまだしばらく町まではかかりそうなのだ。 「聖獣が餓死なんてしたら、前代未聞だよなぁ……」 たった半日ごはんを食べて居ないだけだというのに、かなり大げさなことをリュカは思う。このまま自分がここで動けなくなったら、レイフォードは助けに来てくれるだろうか? そんなことを考えながらぼんやりと空を見上げた。 流れる白い雲が美味しそうなパンに見えて、リュカは溜息をついて目を閉じた。お腹がすいたと騒いで暴れてみても、空腹がひどくなるだけだった。 「おなかすいてるの?」 しばらくそうして転がっていると、ふいに頭上で子供の声がした。 驚いて目を開けると、十歳くらいの少年がリュカの顔を覗きこむようにかがんでいた。 「うん。おなかがすき過ぎて、もうダメ……」 久しぶりに聞いた人の声に目を潤ませて、リュカは情けなさそうに訴えた。その言葉に、少年の綺麗な黒い瞳が好奇心旺盛に輝いた。彼にして見れば、白いリス(に見える動物)が人間の言葉を話したのだから驚きもするだろう。 「やっぱり、さっきのは空耳じゃなかったんだなぁ。リスがしゃべってる」 少年はやんわりと目を細めるように笑った。先ほどリスが川岸で「空腹だ」とわめいているのを聞いた気がして、それが空耳かどうか確かめるために近付いてきたものらしい。 「おれはリスじゃないよ。聖獣のリュカだからね!」 いつものように、リュカはぴょんと飛び上がって自己主張をする。その刹那、お腹が盛大な音を立てて空腹を主張した。 「あはは。本当にお腹がすいてるんだね。これ、食べる?」 少年は斜め掛けにしていた鞄からパンの包みをとりだして、リュカに差し出した。 「僕のお昼ご飯の残りで悪いけど。……残して帰ると体調でも悪いのかって心配されるし。ちょうど良かった」 だから遠慮なんかしないで食べなよと少年は笑う。 「うん、食べる!! ありがとう!!」 リュカは泣きださんばかりに受け取ると、バターの香りがする美味しそうなロールパンを抱えるように小さな口いっぱいに頬張った。少年は可笑しそうにそんなリュカの様子を見やると、竹の筒からミルクを注いでくれた。 「はー。美味しかった。ほんと助かったよぉ。おれ、餓死するかと思ったもん」 ようやく人心地ついて、リュカは嬉しそうに少年の顔を見上げた。彼が来てくれなければ本当にどうなっていたか分からないと、リュカは大げさではなく本気でそう思う。何故だか知らないけれど、そのくらい自分の体力がなくなっていたのだ。 「どういたしまして。死ななくてよかったね」 さらさらと揺れる漆黒の髪に彩られて、端正な少年の顔がにこりと笑う。黒真珠のような漆黒の瞳を細めて笑むその表情がどこか懐かしい気がして、リュカは小首を傾げた。 どこかで会ったことあるのかなと不思議に思ってまじまじと少年の顔を見てみると、思わず見惚れそうになる。ずいぶんと綺麗な子供だなぁとリュカは感心した。こんな綺麗な子供に会ったことがあれば、忘れるはずもない。 懐かしく思えたのはやっぱり気のせいか ―― 。 「助けてくれてありがとね。おれは聖獣のリュカだよ。君は?」 改めて自己紹介をして、リュカは小さな手を少年に差し出した。少年はその小さな手を軽くつかむと、あざやかな笑みを浮かべた。 「僕はセレア。セルで良いよ」 「うん。セルだね! よろしく!」 リュカは楽しそうに笑った。セレアという名前にもやっぱり聞き覚えがあるような気がする。けれども、それがどこで聞いたものだったのか思い出すことは出来なかった。 「ねえセル。ここって、いったいなんていう町なの? おれ、迷子になっちゃったみたいなんだ」 少年の肩に乗って彼の家に向かう途中、リュカは一番肝心なことを思い出したように、そう訊ねた。お腹がいっぱいになってみれば、すっかりそのことを忘れていたのだから脳天気にもほどがある。 セレアは聖獣の問いにきょとんと目をまるくした。 「聖獣が迷子になるんだ? なんか想像と違うな」 くすくすと笑ってリュカを見やる。そうして、楽しそうに辺りを見回した。 「ここはルートニクスの町だよ。リュカはどこから来たの?」 「……ザレード。知っている?」 リュカはすがるように少年を見つめた。ルートニクスなんていう地名をリュカは聞いたことがない。そのことで、心細さが復活したようだった。 「ザレード? 聞いたことないなぁ」 不思議そうにセレアは頭を振った。学校でも地理の勉強はしていたけれども、ザレードなどという名前の町は聞いた事がない。 「あーん。どんな遠くに連れて来られちゃったんだよお」 眠っていた自分がこんな所に知らず知らずに来るはずもないのだから、誰かに連れて来られたに違いないのだ。もしかすると、アデルフィオとかいうあの天人の仕業かもしれないと、根拠もないのに疑ってしまうリュカだった。 「そんな顔しなくていいよ。たぶん、祭司様なら知っていらっしゃるから」 落ち込んでしまったふうの聖獣をなぐさめるように、少年は優しくその背を撫でてやる。自分が知らなくても、きっと彼なら知っていると思った。自分の知識の何万倍もの知識を彼は持っているのだから。 「祭司様? その人に会える? ザレードの帰り道、教えてもらえるかな」 「うん。きっと教えてもらえる。もうすぐ会えるよ。僕は祭司様の家に住んでいるんだから」 くすりと、少年は笑った。 「おかえり、セル。いつもより遅いから、おまえに何かあったのではないかと心配したよ」 二人が町外れの小さなくぐり門を抜けると、初老の男性がゆったりと家の中から顔を出した。心配したと言いながらも、その顔が穏やかに笑っているのはこの少年を信頼しているからなのだろう。 「すみません。迷子の聖獣を拾ってしまって」 ぺろりと舌を出して、セレアは子供らしい笑みを浮かべた。 ちょこんと少年の肩に腰をおろしている聖獣を見やり、祭司は『これはこれは……』と珍しそうに呟いた。六十数年間生きてきた中で、こんなにも珍しい生き物に遭遇するのはこれで 「迷子とは大変でしたなぁ。聖獣どの」 穏やかに目を細め、慇懃な口調で祭司はリュカに話しかける。そんなふうにていねいに扱われるのは初めてで、リュカはこそばゆげに頭をかいた。 「リュカでいいよぉ。そんなふうに言われると、なんかおしりがむずむずしちゃうよ」 なにせ、いつもはうるさいペットだのバカ聖獣だの、散々な言われようなのだ。とつぜんそんなふうに慇懃に接されると逆に落ち着かない。 「そう、ですか? ……では、リュカくん。とりあえず部屋に入りましょうかね」 くすくすと笑って、祭司は照れる聖獣と可笑しそうにそれを見ている少年を家の中へと導いた。 広くはないがとても綺麗に片付けられた小さな部屋に招き入れられて、リュカはほっと一息ついた。木の枠組みそのままが見える高い天井が、どこか暖かい。 「大きな湖とお城が見えた時はどうなることかと思ったけど、良い人に出会えてよかったあ」 ちょこんとテーブルに腰掛けて、祭司が温めてくれたミルクに口をつける。木の椀に入ったそれはほんのり甘くて美味しかった。 「リュカくんは迷子だったね。家はどこなのかな?」 慇懃な対応を嫌がるリュカの要望どおりに、祭司は少年に話すのと同じ口調でそう訊ねた。 リュカが『湖』と言ったアレは海である。普段は波がほとんど立たず静かな水面なので知らない者が見れば湖と思うかもしれないが、この地方ではあたりまえの常識だ。そして石の建物は城などではなく、数十年に一度。ほぼ定期的にこの地方を襲う高潮を防ぐための防波堰だった。それを知らないというのだから、いったいどこから来たのかと訝しくもなる。 「……ザレードだよ。祭司さんは知ってる?」 ミルクを飲むのをやめて、リュカは上目遣いに男を見やる。もし、ここで知らないと言われたら困ってしまうのだ。 「ザレード!?」 祭司は目をまるくして、まじまじとリュカを見つめた。軽く溜息をつきながら参ったというように苦笑する。 「これはまた……ずいぶん遠くからの迷子だね」 「知ってるんだー。良かったぁ」 どうやら彼はザレードを知っているらしい。その困ったような表情は少し気にはなったけれど、彼がザレードを知ってくれていたことにリュカは心から安堵した。 「そんなに遠い場所なんですか?」 両手で温かい紅茶の入ったカップを包みながら、二人の話を聞いていたセレアは軽く小首を傾げた。『ザレード』と言ったときの祭司様の反応があまりに大きかったのが不思議だった。 「ああ。かなり遠いよ」 祭司は大きく頷いた。指をぴんと二本立ててリュカとセレアに示して見せる。 「地続きではないから歩いて行くのは無理だ。ここから船でふた月はかかるだろう。わたしがこの町に来る前に住んでいた場所でもあるのでね、ちょっと懐かしい気もするが」 「ええーーーーーーーーーっっ!!!」 安堵したのも束の間。リュカはあまりのことに、大きな声で叫んでいた。船でふた月とは、リュカの想像を遥かに超えていた。あまりにも遠すぎる。 自分が鳥に転変して飛んで帰ればいいのかもしれないとも思ったが、あの泉で鳥になったのが最後。それ以来一度も転変出来なかったのだから無理だ。……まあ、するつもりもなくて学ばなかった自分が悪いのだろうけれども。 「どうしよぉ。帰れないかも……」 レイフォードが迎えに来るかと考えてはみるものの、こんな遠くに自分がいるとはさすがに気付いてくれないかもしれない。リュカはまんまるの瞳に涙を浮かべた。 「リュカはどうやってこの町に来たのさ?」 ぽんぽんと軽く背中をたたいてやりながら、少年はリュカの顔を覗きこんだ。ザレードからここまで来たからには、二ヶ月くらいかかると分かっているはずではないか? 「昨日の夜はザレードに居たもん。目が覚めたらここ……あそこの森にいたんだよぉ」 しょんぼりと肩を落としてリュカは呟いた。 こうなれば、もう確実に誰かの仕業としか思えない。船で二ヶ月の距離を簡単に運んでしまう。そんなことが出来るのは、自分の周りでは天人のアデルフィオかレイフォードくらいのものだとリュカは思った。 「森? リュカくんはあの森にいたのかい? ……じゃあ、セルもかな?」 初老の祭司はやんわりと、しかし厳しい眼差しで少年を見やる。彼は町の学校に行っていたはずであり、森とは方向が正反対だった。普通であれば、森で迷子になっていたリュカを拾ってこれるはずはない。 優しくなぐさめるようにリュカの背を撫でていたセレアの表情が、はっと強張った。じっと自分の目を見つめてくる祭司の茶色い瞳に嘘はつけないように、彼は深く項垂れた。 「ごめんなさい。森に入ってました。今日は……どうしても 「……また例のあれだね? そういうときはちゃんと私には教えなさいと言ったのに。まったく仕方のない子だ」 ふうっと溜息をついて、初老の祭司は苦笑する。そうして少し乱暴に、悲しそうに俯いている少年の頭を撫でてやった。 「今日はもうおまえは部屋で寝みなさい。リュカくんのことは私が世話をするから」 まだ日が落ちる前だというのに、もう寝むようにと祭司は促す。嘘をついたことを怒っているというよりは、どこか少年を気遣っているようにも思えた。それが分かっているからなのかセレアは素直にこくんと頷いて、少しだけリュカに笑顔を見せて手を振ると、ゆっくり奥の部屋へと入って行った。 「あ、あのね。セルが居てくれたから、おれは餓死せずにすんだんだよ。だから、あんまり怒らないであげて」 リュカは必死に少年を庇おうと、小さな体をめいっぱい大きく伸ばすように跳びはねて祭司に叫ぶ。 彼が嘘をついて森に行ったというのは確かに悪いことだろうけれども、そのおかげで自分は助かったのだ。なんとかセレアが受けるだろう罰を軽くしてあげたかった。 「大丈夫。怒ったりしないから」 苦笑しながら祭司は跳びはねるリュカを抱きとめて、軽く肩をすくめて見せる。 「時々あるんだよ。あの子が……人との接触を避けたがることは。そのたびにあの子は自分の心を持て余して苦しんでいる。彼をそうやって苦しめているのは……たぶん私だからね。罰など与えられないよ」 「えっ? 苦しめてるって……なんで? あなたがそんなことをするようには思えないんだけど……」 リュカは不思議な言葉を聞いたようにちょこんと首を傾げた。まんまるの黒い瞳がじっと祭司を見つめ、そうして少年が入って行った部屋の扉を見やる。 さっき近くに居た時もセレアからはそんな気配は感じ取れなかったし、この祭司がセレアを苦しめるとも思えない。聖獣である自分は他人の持つそういう負の気配や感情には敏感なはずだった。 「もちろん、好んで苦しめてるというわけじゃないけれど……あの子に人としての生活を強いるのは、やはり無理があるのかもしれないからね」 初老の男性は少し辛そうに微笑んだ。 「???」 さらにリュカの頭には大きな?が飛び交った。人間が人間の生活をするのはあたりまえのことだ。なんでそこに無理が生じるのだろう? 小さな頭で一生懸命に考えて、思い至ったのは彼が人ではないのかも……ということ。 人間ではないとすると、自分と同じ神の眷属か魔族ということになる。最初に会った時に彼の笑顔が懐かしく思えたのは同族だったからなのかしらと考えてはみたけれど、やっぱり違う気もする。以前天使の子供であるミルティに会った時にも気付かなかった自分の勘は、あまり当てにはならないけれど……。 リュカは結局さっぱり分からないというように、もう一度首をひねった。 「よくわかんないけど……"無理があるかもしれない"ってことはセルがそう言ったわけじゃなくて、祭司さんの考えだよねえ? 勝手な想像でそんな悲しそうな顔するくらいなら、本人に聞いてみればいいのに」 えっへんと威張るように胸を反らして、リュカは優しそうな祭司の顔を見上げる。 「相手に対していいたいことを我慢するのって、腹の中では思っているのに欺き隠して、自分にも相手にも嘘をついてるのと同じでしょ? 本当に大好きな人に嘘吐くのはイヤだもん。おれはだから、いっつもレイには言いたいこと言っちゃうんだぁ。……うるさい邪魔なペットって文句言われるけどさ。おれ、負けないもん」 にこにこにこと、リュカは笑った。 もしここにレイフォードが居たならば、この祭司と能天気なリュカでは状況も立場も違い過ぎるだろうと呆れたように言ってげんこつを貰ったかもしれないが、幸い(?)ここにいるのは奔放な聖獣のリュカだけだった。 「そのレイさんっていう方が、ザレードにいるのかな? それじゃあ、早く帰りたいだろうね」 恥ずかしげもなく『大好きなレイ』と宣言する聖獣を楽しそうに見やると、祭司はくすりと笑った。聖獣をペット呼ばわりするのはすごいと思うけれども、友人と言うからには、同じ神の眷属なのだろうと思った。 「うん。……今は喧嘩中だけどねぇ」 ぽりぽりと鼻のあたまを掻いて、照れくさそうに舌を出す。 「そういえば祭司さん昔はザレードに住んでいたって言ったよね? じゃあ、レイのこと知ってるはずだよ。丘の上の屋敷に住むヴァンパイア。ザレードで知らない人はいないもんなぁ。でも、町のみんなが言うような悪い魔族じゃないんだよ。もし、まだ知り合いがザレードにいるなら誤解といておいてね」 いつもザレードの町の人間に『悪しきヴァンパイア』と言われてしまう友人の名誉を守ろうと、リュカは真面目な顔で力説する。けれども、祭司は不思議そうな顔をしただけだった。 「ヴァンパイア? そんな話は聞いたことがないな。丘の上というと、私の住んでいた屋敷と教会しか思いつかない。最近住みついたのかい?」 「え? ちがうよ。もう何百年も前から住んでるよぉ」 500年以上はあの屋敷に住んでいるとダストが言っていたし、ザレードの教会も街中にはあるけれど丘の上には建っていない。いったいどこと勘違いしてるのだろう? リュカはふるふると頭を振った。 「……そうなのかい? じゃあ、私が勘違いしているのかな。でもヴァンパイアの話は聞いたことがなかったねぇ」 ザレードの町を懐かしむように僅かに目を細めて祭司は笑う。なんだか愛しいものでも思い出したような表情だと、リュカは思った。 「あの町でレイのこと知らない人もいたんだぁ。ちょっとびっくりかも。でも、なんで祭司さんはザレードを出たの?」 どこか愛しそうなその表情が気になって訊いてみる。そんな遠慮のない質問に、祭司は思わず苦笑した。けれども特に秘密というわけではないのか、軽く頷くとゆったりと笑顔になった。 「町を出たのはもう二十年以上も前のことだよ。私はザレードの聖職者だったのだけれどもね。あるとき違う神への信仰を抱いてしまって改宗したんだ。だから居られなくなった。それだけのことだよ。弟たちはまだ、ザレードで神官をやっていると思うけどね」 「……そっかぁ。祭司さんも大変なんだねえ」 それ以外にかける言葉が見つからなくて、リュカはちょっぴり肩を落とした。きっと、さっき愛しそうに思い出していたのはその家族のことなのだろう。 不意に、リュカはユラやフィーアとの一件の際にレイフォードが言っていた言葉を思い出した。 ―― 人が今までの信仰を捨て新しい神に縋る時、それには大きな理由があるはずだ ―― という言葉を。きっとこの祭司にもいろいろなことがあったのだろう。それを無神経に聞いた自分が腹立たしかった。 「ルートニクスに来たことでセレアにも会えたからね。ザレードを出たことは後悔してないし、悲しい思い出ではないよ」 しょんぼりとしてしまった聖獣をなぐさめるように、祭司はにっこりと笑った。その表情がとても明るかったので、ほっとリュカは力を抜いた。 「えへへ。祭司さんはセルが大好きなんだね」 「ああ。もちろんだよ。あの子がほんの小さな頃から一緒だ。自分の子供のように思っているよ」 その答えになんだかとても嬉しくなって、リュカは祭司の腕にぴょんと抱きついた。 「ほら、じゃあやっぱりちゃんと言いたいことは言わないと! セルだってきっと祭司さんのこと大好きだよ。今の生活がイヤなんて思ってないと思うな」 小さな身体でぐいぐいと祭司の腕をひくように、リュカは奥の部屋へと向かおうとする。自分の子供に遠慮する親なんていないと思うのだ。 「……ひとつ訊いてもいいかい? リュカくんの大切な友達はヴァンパイアだと言ったね? ……聖獣と魔が、なんの不都合もなく一緒に暮らせるものなのかい?」 そう訊ねてくる祭司の眼差しは、どこか真剣だった。 「うん。まあ、何も不都合がないと言ったら嘘になるかもしれないけど、もう百年以上一緒にいるよ」 身体に蓄積された魔の気で先日は体調を崩したけれど、もう大丈夫だしねとリュカは笑顔で答える。実際は体調を崩したどころの騒ぎではなかったのだが、既にリュカに取ってはその程度の出来事になっているようだ。 「魔の気が聖獣に蓄積されて? じゃあ逆に魔族側にも聖気が蓄積されて体調を崩したりすることもあるかな」 「えー? 聞いたことないよ。レイはいつも強いレイだよぉ?」 「……そうか。じゃあ、人間と魔が一緒に暮らすこともたいした弊害はないのかな……」 ぽつりと、祭司は呟いた。その言葉がよく聞き取れなくて、リュカは問い返そうとしたけれど、その前に祭司はリュカをテーブルの上に座らせた。 「ありがとう。ちょっと安心したよ。私はこれから出掛けてくるから。リュカくんはセルの部屋で待ってなさい」 「ええ? どこにいくの??」 「ザレードに近いエルナの都とルートニクスは交易があるんだ。そこまで行く船に乗れるように頼んできてあげるよ。船長とは親しいからね」 言うが早いが、祭司は近くにあった外套を引っ掛けると足早に家を出て行く。一番早いエルナ行きの船の出立が、明朝だと聞いた覚えがあったからだった。できるだけ早く、この小さな聖獣を"大好きなレイ"の元に返してあげたかった。 「あーあ。行っちゃったぁ。なんだかうまく逃げられた気分だなぁ」 そうとは知らないリュカは、セルの答えを聞くのが怖いのかなぁとちょっぴり複雑な心境になる。 「よし。おれが先に聞いちゃおうっと。そうしたら、安心して祭司さんに言えるもんな」 名案だというようにリュカは指を鳴らして、とてとてと少年の部屋に向かって行った。 |
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