降り頻る月たちの天空に-------第4章 <1>-------
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 木々の彩を映しこんで深い碧色に染まった湖に、焼けて崩れ落ちた聖殿がひそやかに沈み込んでいた。
 そのせいか、優しく穏やかな雰囲気を持っていたはずのこの場所が、ひどく寂しく感じられる。
 けれども、やはりここは自分の居場所なのだろう。
 ふわりと自分を取り巻いてくる穏やかな空気が、ほんの数日はなれていただけなのに何故だかとても懐かしく思えて、イディアはそっと笑んだ。
 湖の底にゆらゆらと影を落とす聖殿の残骸をそうして眺めながら、太い木の幹に寄り掛かるようにゆったりと腰を下ろす。その隣では、こてんと木に身体を預けたリューヤが小さな寝息をたてて眠っていた。
 いろいろなことが一時にあって疲れたのだろうか。それともイディアが隣にいてくれるから安心しているのか。リューヤはぐっすりと寝込み、目を覚ます気配はない。
「リュー。おまえは私を許すだろうか」
 少年の額にうっすらと浮かぶ古い痣を、イディアはそっと指でなぞった。
 その口許にふうっと哀しげな微笑が浮かびあがり、自嘲するように目を閉じる。この痣は、かつて自分がつけたものだった。そのことを、リューヤは知らない。
 元気に自分を慕ってくれるこの子供に、それを言うことが出来ない己の臆病さ卑怯さが苦しくて、イディアはきりっと唇を噛んだ。
「いつかは、言わなければいけなかったことだ……」
 揺らいでしまいそうな意志を固めるように一人ごちる。けれどもその笑みから哀しさが消えることはなかった。
 不意に木々がざわめいた。誰かがこちらへやって来ることを告げるように、風が頬を掠めて流れていく。イディアは、風の示す方向に顔を向けた。
 そこに自分と同じ感覚を持った青年が現れるのを見て、イディアはふと笑った。
「ティアレイル、か。リューに何か用か?」
「いや。貴方に話があって来た」
 ティアレイルは僅かに緊張した面持ちで、イディアを見詰め返した。何かを思いつめたように、ふだん穏やかな笑みを刻むその表情がこわばって見える。
 イディアはそんなティアレイルをじっと見やり、背でひとつに結ばれた白銀の髪をゆらめかせるようにゆっくり立ち上がった。
「それなら、話は向こうで聞こう。リューを起こしては可哀相だ」
 かさりと、イディアは木々の間を歩いていく。
 すべてが穏やかな眠りに落ち、静けさに抱かれた湖の岸辺に、小枝や落葉を踏みしめる二人の足音だけが微かに響いていた。
 ゆったりと前を歩くイディアの長い髪に木洩れ日がきらきらとまとわりつき、さらりと風がそれをさらっていく。
 ティアレイルはどうしようもなく胸が痛くなった。
「……明日、蒼月を緋月にぶつける。流月の塔も破壊する」
 静寂がもたらす痛みに耐えられなくなったように、ティアレイルはイディアの背中に声を掛けた。
 ぴた、とイディアの足が止まり、ゆうるりとティアレイルを振り返る。
「そうか。明日か……」
 感慨深げに静かな吐息が漏れた。しかし、それ以上の言葉はない。
 ティアレイルは思い切ったようにイディアに近づいてその両腕を掴むと、怒ったように……痛々しげに眉根を寄せた。
「惑星は再び自転を開始する。そうすれば、貴方のこのアルファーダは今までどおりではいられない」
「…………」
 そう言うティアレイルの声は、微かに上擦っていた。
 自分が彼にどんな言葉を求めているのか。それはティアレイル自身にも分からなかった。けれども、どうしても言わずにはいられなかった。
 何故こんなにも自分が動揺しているのか。何故こんなにも心が痛いのか……。そのこたえは、考えずとも分かりすぎる程に分かった。
 イディアがあまりにも、このアルファーダを愛おしそうにしているからだ。そして、この地に息づく生命や自然たちが、あまりに彼を愛しているからだ ―― 。
「確かに地球の自転が再開すれば、私の築いたアルファーダは失われるだろう。だが、それはいい。魔力に頼った再生ではなく、本当の意味でこの西側世界が甦るのなら……。そうすれば『彼ら』も本当に静かな眠りにつける。カイルシアの魔力がもたらす死滅とは違う、再生をもたらす優しい消失ねむりだから」
 イディアは嘘のように穏やかな瞳をティアレイルに向け、静かに微笑った。
 カイルシアの全魔力発動によって滅び、そして流月の塔の力となるべく世に繋ぎ止められたアルファーダのものたちは、眠ることが出来なかった。
 魂に刻み込まれた閃光の……死への恐怖は、アルファーダに生きるすべてのものに決して安なる眠りを与えることがなかったのだ。
 だから、イディアは風に祈った。ほんの僅かな時間でもいい。すべての生命たちに優しい眠りが訪れるようにと。
 イディアの鎮魂歌がもたらす『眠りの夜』だけが、アルファーダがすべてのしがらみから解き放たれ、心の底からゆうるりと休息できる時間だった。
 けれども。そんな彼らが本当にやすめる時が来るのなら、その方が良い。イディアはそう言った。
「…………」
 静かに笑うイディアの眼差しから顔をそむけるように、ティアレイルは俯いた。
 イディアは優しすぎて、そして……哀しすぎる。そう思った。
 この世に生まれ落ちたその日に、守るべき生命の滅びを見せられた神の御子。そして今、アルファーダの眠りと再生のために、みずからが築き上げた穏やかな世界の消失を見ようとしている。
 自分達レミュールの人間は、イディアにとっては災厄でしかない。そんな気がして、ティアレイルはやりきれなかった。
「哀れみなど、必要ない。ここがどのような姿に変わろうとも、アルファーダは私の唯一の居場所だということには変わりがないのだから」
 ふわりと空を仰ぎながら、イディアはもう一度笑った。
「貴方が……神の御子だからですか?」
 ティアレイルは数日前に夢で見たイディアの過去を思い出すように、青年を見た。
 彼のこのアルファーダに対する想いはどこから来るものなのか。自分が神の御子だと知ってのことか。それとも ―― 。
 イディアは軽く目を見張り、そして寂しそうに頭を振った。
「私は、神の御子などではないよ。少し、他の者よりも自然の言葉がわかるに過ぎない。ただ、それだけだ」
 姿は見えなくとも、常に自分のそばにいる風伯に触れるように両手を前に出す。その手の内で、ふうわりと風が揺れた。
「……私はこのアルファーダに育てられた。すべてが死滅したあのときも私の周りの自然だけは必死に生き永らえ、そして私を育んでくれた。最初は何もわからず、ただそれらが愛おしかった」
 イディアの静かな翡翠の瞳に様々な感情が浮かんでは消え、そしてやわらかな表情をかたちづくる。
「いまは……私に多くを与えてくれたアルファーダの自然たちをやすませたい」
 とても静かな、穏やかな口調で放たれたイディアの言葉は、しかしティアレイルの心にずしりと重く響いた。
 それが強がりや誤魔化しではなく、イディアの本心なのだとわかる。
 目の前にいるこの青年のアルファーダに対する想いの深さを改めて認識させられたようで、ティアレイルは辛かった。
「ひとつ、頼んでもいいか?」
 不意にイディアの視線が熱を帯びた。どこか思い詰めたような真っ直ぐな瞳が、ティアレイルを貫くように注がれる。
 その瞳に、否と拒める人間などいやしない。
 ティアレイルがゆったりと頷くのを見て、イディアはほっと吐息をついた。
「君たちが東側に帰る時……リューも連れて行って欲しい」
 そこまで言うと、ティアレイルから目を逸らし、足元に咲く紫色の小さな花を見るように睫毛を伏せる。
「あの子は、他の者たちのように眠りにつくことはない。この西側世界でただ一人、魂の宿る肉体を持った、本当に『生きている』人間だから」
 伏せられていた瞳が、ティアレイルの反応を確かめるようにすいっと上がった。
「 ―― 貴方だって、生きているじゃないですか」
 ティアレイルは、凛とした眼光をイディアに返した。
 魂だけが存在している町の人間たちとは違い、イディア自身は本当に『生きている』のだと、ティアレイルにはわかった。
 イディアは三百年も昔に生まれた人間である。けれども確かに生きている。
 森林が何百年もその枝や葉を伸ばすように。風が途切れることなく天地を翔けるように。川の水が悠久の時を流れるように。
 彼もまた、永きの時間を生きているのだと ―― 。
「町の人間がいなくなっても、貴方さえいればリューヤは淋しがらないだろう。それを、わざわざレミュールに連れていかなくても……」
 問い掛けるようなその言葉に、イディアは軽く頭を振った。
「リューは、東側の人間だ」
 ぽつりとイディアは呟いた。
 聖殿の湖でレミュールの様子を遠視していたイディアが、リューヤを見付けたのは十年ほど前だったろうか。
 その時リューヤは魔術研究所の湖に落ち、溺れていた。周囲に人はなく、そのままでいれば幼子は水の中で命を落すのが目に見えて分かった。
 だからイディアはすぐに、「その子供を殺めず岸に返せ」と湖水に命じた。
 湖水はもちろんそれに従ったけれど、何かの弾みで『聖殿』と『大鐘楼』の湖に施されたルーカスの封鎖結界が歪み、リューヤは魔術研究所の湖岸ではなく、アルファーダに打ち上げられてしまったのだ。
 そして ―― イディアはリューヤをそのまま手元に、このアルファーダに置いた。
 東側に帰す方法もなかった。けれども、真実の命を持った子供に惹かれ、手放せなかったのも確かだった。
 レミュールの人間すべてが持つカイルシアの守護を無理やり拭い取り、アルファーダで生きてゆけるように自分の守護を掛けた。
 リューヤの額にうっすらと残る痣は、その時についたものなのである。まだ幼かったリューヤは、そのことをまったく記憶おぼえてはいないけれど ―― 。
 他の者たちが決して目覚めることのない『眠りの夜』も、だからリューヤだけは起きていることが出来た。彼だけは歳を重ね……成長を続けた。
 最初はそれを訝しがったリューヤにたくさんの嘘をついて、レミュールの人間であったことを思い出させないようにしたのは、自分の弱さだった。
「…………」
 風が、淋しげなイディアを元気づけるように、ふわりとまとわり付いてくる。白銀に輝くイディアの髪が、月の雫で咲いた花のように風に舞った。
 ―― この人は死ぬつもりかもしれない。
 ティアレイルはそう思った。魔力に依った予知ではなく、それは本能的な勘だった。
 驚愕したように目を見開いたティアレイルに、イディアは軽く微笑った。
「おまえもわかっているのだろう? カイルシアが命懸けでつくった黒水晶を、そう簡単に止められやしないと」
「……だが、貴方がやることはない。これは、私たちレミュールの人間の問題だ」
 自分の勘が正しかったことに暗然としながら、ティアレイルは翻意を促すようにイディアの腕を強く掴む。
 イディアは瞬間、翡翠の瞳に炎を立ち上がらせた。
「これは私の問題だ。アルファーダを死滅させ、私を牽制し続けてきたカイルシアの黒水晶は、私がこの手で破壊する」
 静かに、しかし厳しい口調でイディアは言う。流月の塔の前で見た、あの憎悪にも似た感情。それが今、イディアの瞳の中にあった。
 その憎悪がふと、深い悲しみに結晶されて翡翠の瞳に沈む。
「私は生まれるのが遅すぎた。……遅すぎて、誰も救えなかった。だからせめてアルファーダを眠りに就かせるのは私でありたい」
 そう言うイディアの声は、僅かに震えていた。どれ程の哀しみが彼の心に在るのだろうか。
 その、血を吐くようなイディアの願いに、ティアレイルは心が潰される思いがした。
「命を落とすかもしれないから……だからリューヤを連れて行けと?」
「…………」
 イディアは応えなかった。ただ、じっとティアレイルを見つめた。射竦めるように、しかし、どこか優しい不思議な眼光。
「リューは、私にとって希望なんだよ」
 遠くなった湖をそっと振り返り、イディアは目を細める。
 ティアレイルはもう、イディアの願いを否定することができなくなった。
 自転が再開して、すぐにアルファーダが緑豊かな大地に戻るわけではない。再生するまでの長い時間、ここは瀕死の土地であることには変わりがないのだ。
 もし逆の立場であれば、自分もそういう結論を出したに違いなかった。
「……貴方の頼みはわかった。だがリューヤ自身が拒否すれば、強制はしないよ」
 ティアレイルはひとつ呼吸をすると、そう言った。
「だいじょうぶだ。アルディスが説得すれば、きっと行く気になる」
 ほっとしたような笑みを浮かべ、イディアは天空を眺めやる。リューヤがショーレンを兄のように慕っていることを、イディアはよく知っていた。
 ふと、イディアは空に浮かぶ白い月を見つけ、ティアレイルに視線を戻す。
「そろそろ帰った方がいいのではないか? 月が東側に戻ろうとしている」
「……ああ、本当だ。気が付かなかった」
 地平線近くにゆうるりと浮かぶ蒼月に、ティアレイルは吐息を漏らした。そんなにも長い時間をここで過ごしていたとは思わなかった。
 急いで塔に転移しようとして、ティアレイルはふと、イディアに顔を向けた。
「貴方は?」
 先程イディアが「自分が黒水晶を破壊する」と言っていたのを思い出したからだ。
 もし本当にそうするのであれば、イディアも一緒に流月の塔に行った方がいいのではないだろうか?
「私は湖にいる。私は私なりのやり方で、けりをつけるつもりだ」
 イディアは静かな笑みを浮かべ、ティアレイルを送り出す。
「…………」
 ティアレイルは何か言いかけ、しかしけっきょく何も言わずに、すべての感情を飲み込むように瞳を閉じると、イディアの前から姿を消した。




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