蒼き花 散りて星
〜 星生まれの咏 〜

 【闇王の息吹−02】

 薄暗い部屋の中に、一人きりで少年は佇んでいた。
 部屋の中央には繊細に優美に織り上げられた御簾が静かにおろされ、その向こうからは幽かな女性の声が聞こえている。
 何を言っているのか分からないほど幽かな声であったけれども、それが凛と冴え渡るような美しい響きを持っていることだけは分かった。
 あれは、神の声だろうか? それとも人の声なのか。まるで自分をいざなうように幽かに響くその声に、少年は戸惑うように薄い藍色の瞳を上げた。
「……あの中に、何があるのだろう?」
 御簾を上げてその声の正体を確かめたいという好奇心もあったけれど、そうすることが何故かひどく怖ろしいような気もする。
 それを開けてはいけないのだと、頻りに警告してくるような強い声が頭の中でずっと響いてもいた。
 そんな二つの異なる思いに、そこから立ち去ることも、ましてや一歩を踏み出すことも出来ないまま、少年はただそこに佇んでいた。
 何も変わることがないまま、時間だけがゆるゆると流れていく。
 刹那、ひとすじの陣風が少年と部屋とを揺るがすように吹きすさび、静かに下ろされていた御簾を大きくうねらせた。
 風を避けるように手をかざしてうつむいた少年は、しかしふと、今までにないほど強くその名を呼ばれたような気がして、驚いたように目を上げる。
 目を上げてみると、既に、風はやんでいた。
 そして……部屋におろされていたはずの御簾は綺麗に巻き上げられ、その向こうに毅然と座す、信じられないほど美しい女性の姿がはっきりと見えた。
「ようやっと会えたのう。我が皇子みこ
 緋を基調に幾重にも重ねられた闇服をまとった美麗な女性は婉然と微笑んで、ゆうらりと音もなく立ち上がる。
 そして、床まで届く漆黒の髪をゆるやかに波立たせながら、彼女はその珠玉のような白い手を、茫然とたたずむ少年に向かってそっと差し伸べた。
「そなたが生まれし時から……いや、その生命の灯火が神の手で育まれし瞬間から、そなたはわらわのものじゃ」
 美しく咲き誇る氷花のような美貌の中に濃く引かれた口唇の紅が、凄絶な笑みを宿す。
「その、美しい薄藍の髪と瞳が何よりの証拠。それは、わらわが生涯の伴侶と決めた皇子みこに付けた印じゃ。愛おしくも憎らしい……太陽王の寵愛を一身に注がれて創られたそなたの魂に、この真闇の王たるわらわが付けた、な。のう。ユライア」
 すべての光も色をも打ち消す強烈な闇。
 そんな真闇の瞳が、驚愕に見開かれた薄藍色の瞳を呑み込むように、大きく広がってくる。そのあまりに深い闇に恐怖を覚え、彼は激しく闇王の手を振り払った。
 そして、遠く向こうに僅かに差し込む微かな光をめざし、必死になって駆け出していた。


 はっと、ユライアは目を覚ました。服が、冷や汗でしっとりと濡れていた。
 溺れかけた子供がようやく岸にあがってきたように何度も荒い呼吸を繰り返し、虚ろな瞳を宙にむけて自分自身を抱きしめる。
 体が、震えて止まらなかった。
「……またこの夢か。このところ見ていなかったのに……」
 いつのころからだったろうか。この夢を見るようになったのは。
 物心が付いたころには、もう見ていた。
 けれども、初めのうちは部屋に下ろされた御簾が開くことはなかった。いつも、自分はその御簾の前で佇んでいるだけの夢だったのだ。
 それが……初めて御簾が開き、あの凄絶な美貌を有する女性が姿をあらわしたのは、夢を見るようになって数年が経ってから。彼が八つになったばかりの頃だったろうか。
 そしてその直後から、この夢を見ると数日以内に必ず、追手がやってくるようになった。
「もう……行かなければならないのか」
 ぐっと唇を結び、ユライアは悔しげに空を見つめた。
「どこに行くの?」
「 ―― !」  
 突然かけられた問いに、ユライアはぎょっと振り返った。
 わずかに開いた扉の向こうに、心細げに自分を見詰めるアスレインの蒼い瞳が見えた。
「アスレイン……」
 自分の述懐を聞かれたのかも知れないという思いがユライアを動揺させた。けれども、ひとつ深い呼吸をついて、自分自身を落ち着かせる。
「こんな夜中に、どうしたの? アスレイン」
「ユライアがうなされてるみたいだったから、心配で……」
 アスレインは、何故か部屋の中に入ろうとはせず、扉の向こうでそう応えた。
「ありがとう。でも、大丈夫だよ」
 にこりと微笑み、ゆっくり寝台から起き上がると、ユライアは少女の傍に歩み寄る。
「ねえ、どこに行ってしまうの?」
 アスレインは、ユライアの瞳を見上げるように、必死に顔を上げた。
 うなされているユライアが心配で、扉を開けた瞬間に飛び込んできた苦しげな言葉。その言葉に、アスレインは一気に氷水を浴びせられたような気がした。
 不安。不安。不安。
 水伯に同じようなことを言われたときでも、ここまでの恐怖は感じなかった。
 けれども、ユライア自身の口から『出て行く』という言葉が漏れたのだ!
「……アスレイン」
 ユライアは悲しげに彼女を見おろした。
 アスレインは、そんなに悲しい目をしたユライアを見るのは初めてだった。そして直感した。本当に、ユライアは自分から離れていってしまうのだ……と。
「や……だよ。ユライア。わたしを置いて行かないで……」
 一気に、彼女の蒼い瞳に涙が膨れ上がった。なんで出て行くのか、それを問い質すよりも先に、そんな言葉がこぼれていた。 しかし ―― 。
「ごめん。アスレイン」
 ユライアはそっと少女の金の髪を撫でながら、薄藍色の瞳を伏せた。
「もう私はこの町にいることができない。ここを、出て行かなければならないんだ……」
 血を吐くように、少女に告げる。そんなユライアの表情は穏やかすぎて、ひどく悲しい。
「……ど……して?」 
 アスレインはユライアの寝着の端をしっかと掴み、泣くのをこらえるようにぐっと口を結んだ。
 その理由を聞くまで、自分が納得するまでは、この手を決して放さない。絶対に、離れない。まるで全身でそう訴えているようだ。
「……私を禍神の化身だと、そう信じる人間が、この町に私がいることに気付いてしまった。すぐに彼らはここにやってくる。その時私がここにいれば、アスレインが巻添えになる」
 彼らは私を滅するためなら手段は選ばないから……。ユライアは深い呼吸をしながら、そう言った。
 そうして巻き添えをくって傷ついた人間が何人いたことか。その度に思う。本当に自分は禍を呼ぶものなのかもしれない。人世にいてはいけない存在なのかもしれないと。
 それでも彼がこうして生き続けているのは、自らが持つ『夢』のためだ。
 幻の花。本当は存在しないかもしれない、夜にだけ咲くという、蒼く美しい花。
 その花を咲かせるという夢。それだけを胸に抱き、彼は幼いころよりずっと、もう何年も逃亡生活を繰り返してきたのだ。
 咲夜蒼花は人の希望。それをもし、咲かせることができたなら、『闇』は禍いの源ではなく、安らぎの源になる。そうユライアに教えたのは、誰だったろうか?
 ―― そうだ。あの人だ。
 忘れかけていた古い記憶が、ひたひたと浸水するように彼の心を支配する。
 もう、顔も覚えていないけれど自分を八つの歳まで育ててくれた、優しく暖かだったあの人 ―― 。
「……アスレイン、君にはきちんと話をするべきだね」
 ユライアは僅かに笑みを浮かべると、優しくアスレインを椅子に座らせ、自分はゆっくりと窓辺に寄りかかるように腕を組んだ。そうして、多くのことを思い出すように、そっと瞳を閉じた。


 神聖太陽王に仕える五人の神伯。神聖五伯が神世からそれぞれ現世に降り立ち、人々のために創造した五つの大陸。その中で、水伯が降り立ち育んだ最も優しい環境のリンシュに生まれながら、彼は両親を知らぬ孤児だった。
 彼が生まれたのは、『色』に対する観念が強い地域、西海地方と呼ばれるこの大陸の最西端。
 だからこそ、薄藍の髪と瞳の色を持って生まれたが故に異端であると両親にさえ怖れられ、捨てられたのだ。それを拾い上げ育ててくれたのが、その町の神殿の年老いた女神官だった。
 今思えば、老神官はこの不可思議な髪と瞳の色の由来を知っていたのかもしれない。禍を生むと言われる真闇の王が押した烙印なのだ……ということを。
 老女は外界の視線からユライアを完全に隠すように、神殿の奥深くで守り育てた。八歳になるまで、ユライアは神殿から外に出ることは決してなかったのだ。
 けれどもある夜、寝苦しくて外に出た。外といっても神殿の中庭だ。夜は庭にも出るなと言われていたけれど、少しくらいなら平気だろうと、そう思った。
 しかし、見つかってしまったのだ。最も見付かってはいけない存在に ―― 。
 その夜ユライアは夢の中で、今まで決して開かなかった御簾が開くのを見た。
 そして……自分を今まで闇王から隠し、守り育ててくれた老神官は深い闇に呑まれ、この世のどこにもいなくなった。
 老神官は、水伯がこの世で一番最初に生み出した人間として、人々に敬われていた人物だった。
 そんな尊い存在が西海の町に居るということが、この地方の人々にとって誇りだった。それが、彼のせいで消えてしまったのだ。
 それを知った町の者たちはユライアを憎んだ。不吉なもの。禍を呼ぶもの。その髪や瞳の色があらわすように禍神なのだ、と。
 禍を呼ぶものは滅ぼすべきだ。人々はそう口々に言い、ユライアは捕らえられた。
 けれどもそうとは思わない……色への先入観を持たなかった者たちは、まだほんの幼い子供だったユライアを不憫に思い、処刑される前にこっそりと逃がしたのである。
 それ以来、ユライアは西海の人間に追われ続けている。
 自分たちの住む西から彼が立ち去ったというだけでは安心できなかったのか。まだたった八歳の幼子を殺すために、何人もの大人たちがあとを追いはじめたのだ。
 それには、闇王の関与もあったのだろう。
 少年と同じ『人間ひとの手』で彼に絶望を与えることで、みずから望んで人世を捨てさせ、自分のもとへ来るように仕向けるつもりだったのかもしれない。
 ユライアはしかし、『絶望』という言葉を故意に自分の中から放り出した。『夢』という、希望に溢れる言葉を大切に抱き続けた。
 自分を育ててくれた老女がいなくなる直前ユライアに話してくれた、神聖五伯でさえも咲かせることのできなかった幻の蒼い花。『咲夜蒼花』を信じて ―― 。
 それを咲かせなさいと。禍の象徴である真闇を……そうではなくする方法を見つけなさいと。そう言った老女の言葉を信じて ―― 。
 夢が無ければ人は生きられない。
 ユライアは、夢を否定しようとするアスレインによくそう言った。
 それは、ともすれば挫けてしまいそうになる自分自身への、戒めの言葉でもあったのだ。

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2003.8.13 up
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