蒼き花 散りて星 |
〜 星生まれの咏 〜
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柔らかな自然の温もりあふれる森の中を、ユライアはゆっくりと歩いていた。道々に名前も知らないような多くの木々や花々が咲き乱れ、そこを行く人の目を楽しませてくれる。 そんな、静かなくせにどこか賑やかな森の中を、ユライアはしばらく奥へと進む。 「 ―― ?」 急に視界が開け、きらきらと差し込んでくる明るい陽射しに、木陰に馴れていたユライアの瞳がわずかに細められる。 目の前に広がるのは、背の高い木々たちの中に何故かぽっかりとあいた円形の空間だった。そこには樹木はなく、若草の薫るような穏やかな草原と、小さな小さな泉が存在していた。 澄んだ水をたたえた泉の水際では、小鳥やうさぎ。仔狸や狼など、様々な種類の動物たちが争う事もなく水浴びを楽しんでいる。 まるで動物たちの楽園とも思えるその場所を見つめながら、ユライアは瞳に掛かりそうになる長い前髪を軽くかき上げ、ほうっと息をついた。 「だいぶ森の奥まで来たみたいだな。この森にこんな場所があるとは知らなかった。……でも、来てみて良かった」 薄い藍色の瞳を穏やかに細め、周囲の自然を眺め回す。こんなに美しく優しい場所ならば、あの幻の花と云われる咲夜の蒼い花も育つかもしれない。そう思うと嬉しかった。 ユライアは小さな布に包まれた珠玉のような『種』を取り出すと、恭しく、そっと自分の右手に載せた。 その上に左手をかざすと、ゆっくり瞳を閉じる。 「……我、月の石を種と成し、神の花を育まん。天なる花を星と云い、地なる花を夢と云う。蒼き花は地に咲きて、生くるものの夢となり、 穏やかな春風のようなユライアの声が、森の中をゆるやかに巡る。 それは、普通の人間が知るべきはずのない、創造の神歌の一節だった。 その静かな旋律に、泉で水浴びをしていた小鳥が瑠璃の翼を広げ天に舞い、ユライアの咏に唱和するように、美しい鳴声をあげた。 ふと、ユライアの右手に載せられた『種』が白銀の輝きを帯びた。否、ユライア自身から、その光は生まれているように見えた。 神歌を詠う青年から発せられるその淡い光は、珠玉のような種に吸い込まれるように消えていく。 ふと、泉の側に寝そべっていた雪のように純白の狼が僅かに首をもたげ、おもむろに立ち上がった。ゆったりとどこか優雅な仕草でユライアに歩みより、その足に頬をこすりつける。 ユライアはふっと瞼を開くと、淡い微笑を浮かべた。 「おまえが、この咲夜の種を撒いてきてくれるのか?」 白狼は水晶のような瞳をユライアに向け、微かに頷くように頚を前に傾ける。 「とても大切な種だから、気をつけて」 浅葱の布に再び種を包み、ユライアはそれを白狼の口元に差し出した。狼はそっとそれを口にくわえると、翔ぶように泉の周りを駆け始めた。 白狼がめぐるその跡を、白銀の粉が雪のように降りそそぐ。その、小さな粒子の一粒一粒すべてが咲夜蒼花の種といわれるものだった。 「うまく咲いてくれればいいのだけれど……。私はもう、あまり長くはこの土地にいられない」 ユライアは白狼が振り撒く『種』を見つめながら、寂しげに瞳を伏せ、呟いた。 今まで何度も種は蒔いた。けれども決して花開くことはなく、みんな土に溶けて消えた。今度こそ、咲いて欲しい。ユライアは強くそう願った。 あの少女を置いて、この町を去らねばならない。それは、西海の人間……自分を滅ぼす事が使命だと信じ込んでいる『追手』の感覚を感じてしまった以上、もう避けられない。 せめて、その前に花を咲かせたかった。 ―― 何故出て行くの? 瑠璃の翼を持つ小さな鳥は、ちょこんとユライアの肩にとまり、そう耳元で囁く。その小鳥の言葉がわかったように、ユライアは苦笑にも似た、諦めのような笑みを浮かべた。 「……アスレインに迷惑がかかるからね」 ふわりと小鳥の躰を撫でてやりながら、青年は答えた。 ふと天空を見上げ、ユライアは吐息を漏らす。既に太陽が傾き始めている事に、彼はようやく気が付いた。 東の空から少しずつ、薄藍色の天翼が闇夜を導くように広がってくる。 「そろそろ帰らなければ。アスレインが心配するといけない」 戻ってきた白狼の背を軽くさすりながら、ユライアは穏やかに微笑んだ。 「……花が咲くまで、この場所を見守っていてくれるかな?」 泉で水遊びをしていた動物たちに問い掛けるように、彼は静かな藍色の視線を彼らに投げる。 白狼は軽く喉を鳴らし、瑠璃の小鳥は甘えるようにユライアに頬擦りをした。仔狸やうさぎやリスたちも顔を上げ、ユライアの静かな瞳を見入っている。それは、肯定の意であるようだった。 「ありがとう」 ユライアは静かに笑い、動物たちに別れを告げて森の泉を去って行った。 「ユライアっ! どこにいるの?」 アスレインの悲鳴にも似た声が、夕闇の中にひび割れた音程を響かせた。今にも泣き出しそうな表情のまま、人通りの少なくなった小路を走り、アスレインは必死に叫んでいた。 神聖水伯宮でファゼイオと別れ、家に戻ってみると、部屋にユライアがいなかった。それだけで、彼女の心は大きく乱れてしまったのである。 いつもなら家の中で、ユライアの帰りを今か今かと楽しみに待っていただろう。けれども水伯に言われた言葉が頭の中で繰り返し響き、アスレインは心細さと不安に、その身を震わせた。 ―― ユライアがいなくなる! そう思うと、じっと待っている事が出来なかったのだ。 既に日も傾いて、恐ろしい闇夜が訪れるまでもうあまり時間がない。それでもなお、アスレインは家に帰ろうとはしなかった。 多くの禍いを生むと言われる夜の闇よりも、ユライアが消えてなくなってしまうことの方が、少女には恐ろしいことだった。 「ねえ……ユライア。どこにいるの?」 何度呼んでも返らないユライアの声に、アスレインは耐え切れなくなり、ぺたんと地面に座り込んだ。まるで見知らぬ場所に置き去りにされた子供のように、蒼い瞳が不安と怯えに染まる。 「も……やだ。ユライア……返事してよお」 アスレインは大声を上げて泣き出したい気分になった。 自分の心がこんなにも、ユライアに依存していたとは今まで思ってもみなかった。彼が遠くに行ってしまうかもしれない。そう考えただけでこんなにも苦しくなるなんて ―― 。 「そこにいるのは、アスレインか?」 ふと、穏やかな声がアスレインの頭上で起こり、柔らかな草原のような匂いが風とともに泣きべそ顔の少女を包み込んだ。 アスレインは、弾かれたように瞳を上げた。 道の両脇に生い茂る木々の隙間から、自然に溶け込むような静かな薄藍色の髪が覗いて見える。 「ユラ……イア?」 「そうだよ」 何故だか涙声で自分の名を呼ぶアスレインに、ユライアは優しく微笑んで歩み寄った。 「もうすぐ夜が訪れるよ。早く家に帰ろう」 かがむようにアスレインの腕を取り、そういざなう。 その彼女の大きな蒼い瞳いっぱいに溢れそうな涙の粒を見つけ、ユライアは軽く目を見張った。 「何かあったの? アスレイン」 「ううん、何も……何もないよ」 瞳に涙を溜めたまま、しかし彼女はにっこりと笑った。 ユライアが自分の隣にいる。それだけでアスレインは十分だった。今まで自分を押しつぶそうとしていた大きな不安が、ユライアの優しい瞳を見ただけで、はるか彼方へと消え去ったように思える。 心細くて暗闇に沈み込んでしまいそうだった心が、こんなにも軽い ―― 。 「……そう? じゃあ、早く帰ろうか。帰ったら一緒にシチューでも作ろう」 ユライアはにっこり笑うと、片手に抱えていた籘籠の中のたくさんの野菜をアスレインに見せた。 その籠いっぱいに詰まった新鮮そうな野菜に、彼女は大きな瞳をくるりとさせ、くすくすと笑った。 「すっごーい。それだけあったら、十人分くらい作れそうだね」 ユライアが何気なく言った『一緒に』という言葉がいつも以上に嬉しくて、はしゃいだ口調になる。今までべそをかいていたのが嘘のように、アスレインは明るい表情になった。 「ああ、そうだね。たくさん作ってファゼイオを呼ぼうか?」 ユライアは改めて自分が持っているたくさんの野菜を見て、そう提案する。 「だめっ!」 ユライアがびっくりするほど素早く、アスレインはその提案を却下していた。 きょとんと、目を丸くしたユライアを見て、アスレインは恥ずかしそうに頬を赤く染める。 「あ……あの、だってファゼイオとはさっきまで一緒だったし、だから、えっと……」 思わず口を突いて出た強い否定をごまかすように、彼女は慌てて理由を並び立てた。 今日一日の中でユライアと二人でいたのは朝だけなのに、そんなのつまらない。だからユライアと二人がいい! そう言われて、ユライアはくすりと笑った。 「それは申し訳なかったな。じゃあ、今夜はアスレインの気がすむまで隣にいないとね」 くすくすと目元に笑いをにじませながら、いたずらな少年のように軽くウィンクして見せると、ユライアはアスレインの金色の髪をポンポンと叩く。 その優しい手のぬくもりに、ふと、マリンブルーの瞳が美しいひとりの女性……水伯の姿と言葉がアスレインにの脳裏を横切った。 ―― 彼の優しさは罪なこと。 ―― 何も知らないあなたに彼といる資格はない。 ―― この町を出るように伝えて。 先ほど自分の心を打ちのめした水伯の言葉が、アスレインの中に再び聞こえてくる。 そんなの、絶対にいや! アスレインは心の中でそう叫んだ。心に焼き付いて離れない水伯を追い出そうと、ちらりとユライアの横顔を見る。 そこにいるのはいつもと変わらない、穏やかな穏やかなユライア。アスレインは、ほっと息をついた。 「うんっ! そうだよ。わたしの気がすむまで、今日は隣にいてもらうからね」 にっこりとそう言って、アスレインは明るい空色のワンピースを翻し、家に向かって走っていく。 「…………」 ユライアは一瞬、どこか遠くを見るようなまなざしをした。薄い藍色の瞳が、寂しそうな光をゆるやかに灯す。 今あるこの穏やかな時間は、いつまで続けることができるのだろうか? 自分は、いつまでここに……アスレインと一緒に居られるのだろうか? そんなことを考えたのかもしれない。 ふと、ユライアは苦笑した。考えても仕方のないことだった。もう、ここに居られる時間は限られてしまっている。 自分がここに。アスレインの側にいたいと願っても、それは決して叶わないのだ。 「アスレインには言わないといけないな……」 自分が近いうちにこの町を立ち去るということ。もう、一緒にはいられないということ。 ひとこと ―― さよなら……と。 そう思うと、なんだか不思議な気がした。今まで自分は誰にも別れを告げたことなどなかった。 これまでは一箇所にとどまることはなく、周囲の人間が自分を覚える前に次の町へ向かう。そんな、人々の間をただ通り過ぎて行くだけの風のような生活をしていたのだ。 ユライアを禍神の化身だと信じ、滅しようとする追手の存在が、今までずっと彼にそんな生活を余儀なくさせていた。 だから、最初はアスレインに出会ったこの町も、通り過ぎるだけの……ふらりと立ち寄っただけの町になるはずだった。 ただ……両親を一度に亡くし、その悲しみに夢を否定しなくては生きていけなくなった少女があまりに哀しくて、つい心を向けた。 心を向けたら、離れられなくなった。 少しの間この町にいよう。あと一日だけ……もう一日だけ。この少女が元気になるまで。自分が……追手に見つかるまで ―― 。 そうやって、だんだんと日延ばしにしてきた出立。どうしても、彼女を置いて行くことが……離れることができなかったのだ。 けれども。こんなにも長い間、追手に見つからなかったのは、本当に奇跡的としか言いようがないことだった。 「……禍神、か」 ユライアはひとつ深い呼吸をつくと、禍神の証拠だと西海の人々が言う、薄藍色の髪を静かにかき上げた。 「いつまで続く? こんな……」 自分にこんな烙印を押した存在を罵るように、ユライアは彼らしくない、苛立たしげな瞳で天を睨む。 そんな小さな彼の反抗を嘲笑うかのように、空は薄紫の天翼を広げ、真闇の王を導くように朱金の残照を西へ西へと追いやっていく。 その変えようのない大自然の営みに、ユライアは諦めたように吐息をついた。 「ユライア、早くおいでよお!」 アスレインの呼ぶ声がした。なかなか来ないので、心配になったのだろう。拗ねたように腕を組み、ユライアが来るのを道の向こうで待っている。 その声にユライアはゆっくりと微笑んだ。沈み掛けの陽を背にして陽炎のように佇むアスレインが、視界に優しく満たされる。 「ごめん、すぐ行くよ」 彼独特の草原のように穏やかな笑みが、その顔いっぱいにゆうるりと広がった。 細く長く自分の方に伸びている少女の影を追うように、ユライアは一歩、また一歩と、確かな歩みを進めていく。 まるで自分がここに、彼女の側にいるという現実。その事実を心に刻み込み、離れ離れになるという、そう遠くはない未来の思い出とするかのように ―― 。 |
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