Misty Night



第四夜 『覚醒の空』  後 編



「……なんだ、これは?」
 思わずレイフォードは深紅の瞳を最大限に見開き、呆然と呟いた。
 居間の扉を開けて中の様子を見た瞬間に、レイフォードでさえも一瞬立ち竦んだ。ダストが驚いて薬湯を床にぶちまけたというのも頷ける。
「うわ、こりゃまたひどくなったねえ」
 レイフォードの背後からひょこっと顔を出して、アデルフィオは苦笑いをするように言った。
 神の眷属であるはずの聖獣。純白の柔らかな毛並みを持つリュカの眠っている籐籠の上空には、黒い蛇にも似た翳がとぐろを巻くように渦巻いている。それはあまりにも禍々しい、魔の気配だ。
 その翳はリュカの全身の毛穴という毛穴のすべてから這い出るように湧き上がり、白いはずの身体が黒いモノに覆われ隠れている。そうしている間にもどんどんと翳は膨れ上がっているように見えた。
「……ふざけた真似を」
 レイフォードは軽く頭を振ると、気を取り直したように部屋へと入っていく。
 先ほど自分がリュカを横たわらせた籐籠の中を覗き込むと、そこには誰からも愛されるであろう聖獣の愛らしい姿は見る影もなく、グロテスクにさえ思える黒い翳の塊りだけが、禍々しく存在していた。
「おい、リュカ?」
「……れ……ぃ」
 黒い翳の隙間から、ちらりとリュカの瞳がこちらを見たような気がして、レイフォードはほっと息をついた。ほんの微かにではあったけれど、自分の呼びかけに応える小さな声も中から聞こえた。
 どうやらまだ、リュカは無事なようだ。
「いったい、なんでこんなことになってるんだ」
 レイフォードは軽く眉をあげ、居間の天井辺りに渦巻く黒い翳に目を向ける。
 あれは何かの『魔』がそこに居るというよりも、ただの『気』だった。魔族が持つ独特の禍々しい『気』。リュカたち神の眷族が言う『毒気』や『邪気』だ。それを、聖獣であるリュカが持っているはずがないのだが ―― 。
「決まってるじゃないか。君やコウモリくんの放つ魔の気だよ。100年間もリュカは身体の中にそれを溜め込んできたんだからねぇ。ああもなる。まあ、この間の夢魔の毒気が最後の引き金になったんだろうけどね」
 アデルフィオは毒気の充満した部屋には入ろうとはせず、扉の外からこちらを覗き込むように言った。
 どうして彼が数週間前に起きたクフェラとの一件を知っているのか? レイフォードは一瞬不快げに目を細めた。たまたま知っていたのか。それともこちらの様子をずっと伺っていたのか……。おそらく後者だろうとは思ったが、今はそんなことを問題にしている時ではない。
「俺やダストの気……あれがか?」
「そうさ。いくら君がほとんど闇の気配を持たないヴァンパイアでも、魔族であることには変わりがないからね。共に寝食しているリュカの身体には、そりゃあ魔の毒気が蓄積されていくよ。まあ、君たちの『気』はあんなに禍々しいものじゃないけれどね」
 レイフォードの放つ気は魔族にしては珍しく、静かにたゆたう月闇のような穏やかな『気』だった。あれならば神の眷属である天人あまつひとや聖獣でもほとんど影響は受けないはずだし、浄化することも可能だ。
 しかしリュカは浄化することも知らず、ただただ自分に降りそそぐ『魔の気』を体内に溜め込み、濃縮してきたのだろうとアデルフィオは苦笑した。
 100年間濃縮されたがゆえに、あの『気』はこの屋敷に住む魔族が本来持っている闇の気配以上の禍々しさを放ち、黒々ととぐろを巻いているのだ。
「リュカはいまだ成獣していないお子様だからねぇ。もっと早くに来て上げれば良かったな」
 アデルフィオはどこか緊張感を欠いた、軽い口調でそう言って肩をすくめてみせる。
「……成獣していないって、生まれて100年以上経ってるのにか?」
 レイフォードは目を丸くした。確かにリュカには聖獣としての力があまり見られなかった。だがそれは単に修行不足なのだろうと思っていたのだが。
 聖獣は、千変万化の生き物だと云われている。力に応じて空を翔ける鳥にも、大地を駆ける馬にも変化することが出来る。古代から人間たちが神秘の生き物として言い伝えてきた不思議な動物たちは、神に愛でられたこの聖獣たちが転変した姿のひとつに過ぎないのだ ―― と。
 それなのに、リュカは小さな白いリスのような姿しか持たない。元は下級魔コウモリのダストでさえ人型になれるというのに、リュカには出来ない。
 リスではないのだと、いつも自己主張していたことを考えれば、わざとそういうふうに擬態しているわけでもなさそうだった。それがまだリュカが成獣ではなく幼獣だったからなのだと言われれば、大いに納得がゆく。
「なんだ、気付いていなかったんだ? ヴァンパイアくんは」
 アデルフィオは琥珀の瞳を子供のように細めて、くすりと笑った。
「ふん。あいにく俺は聖獣なんてのはリュカしか知らないんでな。成獣してるかどうかなんて判断しようがない」
「そのことじゃなくて、リュカが成長していない理由に気付いてないのかと言いたかったんだけどね、私は」
 今までは入ろうとしなかった部屋の中にゆったりと足を踏み入れ、アデルフィオはレイフォードの隣に並んだ。そうして意味深げに微笑むと、黒い翳に包まれた聖獣に手を伸ばす。ふわりと彼が抱き上げると、少しずつリュカをおおっていた翳が薄くなっていくような気がした。
 相変わらず天井には翳が禍々しくとぐろを巻いていたけれども、黒い塊から抜け出すことが出来たリュカは、友人の姿を探すようにうっすらと目を開けた。
「……理由? 何だっていうんだ」
 ぐったりとしながらも息のある聖獣にほっと軽く息をつき、レイフォードは両手で漆黒の髪をかきあげた。その手が僅かに耳元のピアスに触れる。
 問い掛けながら、何故か胸の奥がもやもやと気持ち悪いような……ひどくイヤな気がした。普段は安らぐはずの十字のピアスが、重石のように心に影を落とす。
 天の青年が発するだろうその先の言葉を聞きたくないという不可思議な思いにとらわれて、レイフォードは軽く唇を噛んだ。
「こうもりくんも、いつまでたっても少年の姿のままだよね」
 アデルフィオはそんなレイフォードに気が付いたのか、もう一度くすりと笑った。そして深紅の瞳の青年にではなく、今度はダストに向かってにこりと微笑む。
「えっ?」
 突然話を振られて、言葉に詰まったようにダストは口を引き結んだ。
 確かに自分は人型を取るとき、何故かいつも少年の姿になってしまう。己が心から敬愛しているご主人様と出会った時そのままの姿だ。
 あれからもう五百年以上は経っているだろうか。本来ならば成長して大人の姿を取るのが普通だと思うことがある。だが、わざと子供の姿をしているわけではない。ダストはやはり、大人になれないのだ ―― 。
「子供のうちにレイフォード様と血の契約を交わしたから。成長が止まったのかもしれません……」
 ダストは軽く首をかしげ、そう言った。
「…………」
 深く、レイフォードは息を吐いた。
 今まで、気にしたことがなかった。ダストが何故いつまでも少年の姿をしているのかなど。
 ダストが好きでそうしているのだと思っていた。レイフォードだって、やろうと思えば少年の姿になることくらい簡単に出来る。それを成すだけの力と知識さえあれば、外見年齢などはどうにでもなるものだった。
 しかしダストの応えを聞けば、それが故意ではなかったのだと分かる。
「おまえは、リュカもダストも成長していないと言いたいわけだな……」
「うん。その理由に心当たりは、ないのかな?」
 アデルフィオは何でもない事のようにくすりと笑い、裏腹に、レイフォードの顔からは血の気が失せたように、どこか蒼褪めて見えた。
 その様子に、天の青年は軽く溜息をつく。本当にこの……強力な魔の証である深紅の瞳を有したヴァンパイアの弱点は、意外なほどに分かりやすい。
 毅然と。不敵に。いつも余裕のある泰然とした態度を崩さないこの男が、"ある揺さぶり"にはとてつもなく脆いことをアデルフィオは知っていた。
「俺……か」
 天を仰ぐように、レイフォードはそう言った。アデルフィオの態度と、成長しない二人の共通点や多くの事情を考えてみれば、おのずとその答えに行き着く。
 そっと、もういちど耳元のピアスに触れる。毅然とアデルフィオに向けられた深紅の瞳は、けれどもひどく哀しい彩を織り成していた。
「ふふ。さすがだねぇ。現実から逃げたりはしないんだね」
 意味ありげにアデルフィオは、琥珀の瞳を細めてレイフォードを見やる。
「過去からは逃げ続けてるのにね」
「……逃げてなどいない」
 苛立たしげに鋭利な刃を深紅の瞳に立ち上げ、レイフォードは天の青年を見返した。主人の心がざわりと哀しく激しく揺らめいたのを感じ取り、ダストは思わずレイフォードの服の裾を掴んだ。
 ここに自分が居る。そのことを伝えたかった。
「そっか。確かに逃げてはいないよね。ただ君は、あの時から一歩も……前に進んではいないだけなんだから。大切な人を手に掛けたあの時のまま、動けずそこに佇んでいる。道を失った迷い子のようにね」
 慈悲深き天の青年は、残酷なほど穏やかに。微笑みながらそう告げる。
 ぎりっと、レイフォードは唇を噛んだ。
「君が普通の人間だったら、ただ自分の中の悲しみが続くだけで済んだだろう。だが君は魔だ。しかも、破格な力を持ったね。君は無意識のうちに"彼が居ない時の流れ"を認めていないから。その力は君の側にいる者たちにも影響を及ぼして……留まらせてしまう。だからダストは成長しない。リュカも、100年経っても成獣しない」
 すっと右手を上げて、アデルフィオはレイフォードの漆黒の髪に触れる。その手をはじくように動いたレイフォードの腕を、強く掴んだ。
「そのことを、君は認めないといけないんだよ」
「 ―― !」
 深紅の瞳が凍りついたように、しかし鋭い眼光をアデルフィオに突き立てる。
 逃げているつもりはなかった。大切だった友人をこの手に掛けたことも後悔してはいない。しかし ―― 後悔しないことと、事実を受け入れて前に進むことは別だ。癒されることのない傷が、確かにレイフォードの心の奥に潜んでいる。それが時々 ―― 血を流して痛む。
 500年以上も経っているというのに、彼は今のことであるように思い出すことが出来るのだ。
「そ、そんなの何も支障がないんだからいいじゃないですか! レイフォード様が望まれるなら僕は子供のままが良いし、それで今までずっとやってきたんです。貴方なんかにとやかく言われる筋合いはありませんっ!」
 ダストは思わず叫んでいた。
 主人の深紅の瞳はいまだ毅然とした眼光を放ちアデルフィオを見据えているけれども、どこか張り詰めたような……少しの加圧で砕け散ってしまうような、苦しさを内包しているように思えて、見ているだけで哀しい。
「レイを……悪く……いうなぁ」
 ぐったりとしながらも、リュカは怒ったようにアデルフィオを見上げていた。
 意識が朦朧としているので何が起きているのかはよく理解できなかったけれど、自分を腕に抱いた見知らぬ青年がレイフォードを責めていることだけは分かった。レイフォードが、苦しげだということも分かった。
 自分をあの黒い翳から出してくれた恩人とは思ったが、大好きな友人を苦しませるこの亜麻色の髪の男が、リュカは許せないと思う。
「やだな。まるで私が楽しんでヴァンパイアくんを虐めているみたいじゃないか」
 アデルフィオはひょこっと肩をすくめた。
「私はリュカのことを助けるために言ってるんだけどな」
 言いながらリュカの顔を覗き込む。この小さな聖獣をおおっていた毒気は取り払ったが、体内のものまでもを浄化することは出来ない。それは、リュカ自身がやるしかないのだから。
 そのためには、リュカの聖獣としての力が必要になる。今のままでは、弱すぎるのだ。
「……リュカを……救う?」
 はっと我に返ったようにレイフォードは双眸を細め、凛と天の青年を見やる。
「そうだよ。すべての毒気を浄化するには、リュカは成獣にならないとねぇ。停滞していた刻を一気に押し流すのは危険だけど、今のリュカは非常時だから仕方ない」
「……どうやって成獣させるというんだ」
「天人や聖獣が生を享ける泉だよ。そこにリュカを連れて行く。……もし君が心から"彼の死"を受け入れ前に進む心が持てるのならば、リュカの停滞していた時間は泉の力を借りて一気に流れ、成獣できる」
 にこりとアデルフィオは笑った。
「それなら、さっさとリュカをそこに連れて行け」
「おや。君は彼の死を受け入れる気になったのかな、リュカのために?」
「…………」
 可笑しそうな響きを持つ天の青年の言葉に、レイフォードは軽く瞳を閉じ、天を仰ぐ。そうしてゆっくりと再び開いた深紅の瞳をアデルフィオへと向けた。
「……別にリュカのためじゃない。おまえなんかにコケにされて、黙ってうじうじしているのはシャクだからな」
 どこか苦笑するように、レイフォードはゆるゆると頭を振った。
「ふうん。それならそれでもいいや。でも、泉にはもちろん君が連れて行くんだよ。停滞させていた張本人なんだからねぇ。まあ、神の泉に近付いて、魔族である君が無事かどうかは保障できないけど」
「そ、そんな! レイフォードさま……」
 ダストは心配そうに主人を見上げた。聖なる天人であるはずのアデルフィオは、まるで悪魔のようだとダストは思う。何故こうもご主人様を苦しめるようなことばかりを言うのか。
 リュカも、アデルフィオの腕の中で小さく呻いた。自分のためにレイフォードが怪我をしたりひどい目に遭うのはイヤだった。
「ふん。馬鹿らしい」
 レイフォードはしかし、ダストやリュカの心配とは裏腹に、にやりと唇を吊り上げた。
「神の泉だかなんだか知らないが、そんなもの、俺には効かない」
 気持ち良いくらいの断定と、切れ上がるようなあざやかな笑みが美しい頬に浮かび上がる。  それは、ダストがむかし一目で魅了されたのと同じ、溢れるような自信に満ちた、けれどもとても静かな笑みだった。
 その笑みが、とても綺麗だとアデルフィオは思った。  いくら何でも神の泉に入ってまったくの無事にはいかないだろうと思う反面、この深紅の瞳の青年ならば大丈夫かもしれないという思いも不思議と涌いてくる。
「じゃあ、案内してあげよう」
 ばさりと。今までは姿が見えなかった真っ白な翼が、アデルフィオの背に揺らめいた。それが柔らかな風を起こすように、居間から広い中庭へと続く窓から流れ、リュカを抱えたまま夜空にふわりと舞い上がる。
「レイフォード様がいらっしゃるなら、僕も!」
 それについて夜空に飛翔しようとした主人の服を掴み、ダストはじっとレイフォードを見上げた。ここに……守られた屋敷の中にひとり置いて行かれるのはあまリにも哀しかった。
「おまえは、ここで食事の支度をして待っていろ。リュカがきっと腹をすかせて帰ってくるぞ」
 くすりと笑い、レイフォードはダストの頭を軽く撫でた。この使い魔には、これから訪う泉の聖気はおそらく堪えられないだろうと思う。だから何とせがまれても一緒に連れて行くわけにはいかなかった。
「主人の留守を預かるのも、使い魔の役目だ」
 可笑しそうに口元を笑ませ、レイフォードは外套を翻すようにふわりと夜空に舞い上がる。
 そのいつもの余裕ある主人の笑みに、ダストは嬉しくなった。心配することなどは何もない。そう思う。
「はいっ。レイフォード様のお好きなコーンスープを作っときます。じっくり煮込んでおきますからね」
 にこりと笑って、ダストは飛び去っていく主人の姿を見送った。


 アデルフィオにつれられて辿り着いたのは、何か甘い香りのする場所だった。花の香りなのか。それとも違うものなのか。甘やかな香りがあたりを包み込んでいた。
 時の流れが違うのか。夜だというのにそこには燦々と暖かな日がさしている。緑に濡れる木々の葉が優しく泉を包むように生い茂り、葉の隙間をこぼれるようにそそぐ木漏れ日が、水面を黄金に煌かせた。
 それはまるで、人が夢見る楽園のようだと、レイフォードは思った。
「あの泉にリュカを浸けるんだよ」
 ばさりと翼を閉じて、草の上に舞い降りた天人はそう言った。腕に抱いたリュカをそっと差し出して、レイフォードの深紅の瞳を試すように見やる。
「ふん。心配しなくても、やるって言っただろうが」
 微かに口端を吊り上げて、レイフォードは笑った。確かにこの地には聖なる気が満ち満ちている。いや……この場所自体が聖気。聖なる気が形を取って木々や泉。自然となっているかのようにさえ思える。
 太陽の光も、聖なる気も。普通のヴァンパイアにとっては天敵とも言えるものたちすべてを凌駕する力を持ち、今までは好んでそれらを受けていたレイフォードだった。しかし今この場所でまとわりついてくる聖なる気は、それらの比ではない。肌をちりちりと灼くかのような痛みが、体中に感じられた。
 さすがは聖なる者が生を享ける場所だけのことはあると思った。
「レイ……ごめんねぇ……」
 いまだ熱の冷めぬ小さな身体をむくりと起こし、リュカはレイフォードを見上げた。剥き出しになっている白皙の頬に、ひとすじの紅い流れが出来ているのを見て、哀しそうに目を細める。
 本当にいつも自分はレイフォードに助けられて……迷惑をかけてばかりだと改めて思い、切なくなった。
「ばーか。"ペット"の面倒を見るのは飼い主の役目なんだよ、バカ聖獣」
 にやりと、レイフォードは笑った。
「ペットだなんてひどいや。友達だろお、レイ」
「どうだかね。俺は友は選ぶ主義なんだ。尊敬できるやつ以外は友人にしない」
 泉に向かって歩きながら、レイフォードは可笑しそうにリュカの顔を覗き込む。むうっと、拗ねたようにリュカは口を尖らせた。
 レイに尊敬されるなんて一生無理だ。リュカは悔しいけれどそう思った。何せこのヴァンパイアの青年は誰よりも強く、そして誇り高い魔族のなのだから。
「まあ、俺が感嘆するくらいに立派な聖獣の姿を見せてくれるんなら、考えてやらない事もないがな」
 ぐったりとしているくせに大いに拗ねた聖獣に可笑しそうな深紅の瞳を向けて、レイフォードはあざやかに笑った。
「え……?」
 リュカは目をまるくして、レイフォードの顔を見上げようと身体を動かした。しかしそれよりも早く、ひたりと、冷たい水の感触が全身をつつみこむ。
 ゆるゆると染み込むように、心地よい水の気配が小さな身体を浸してゆく。その感覚がとても懐かしいと、リュカは思った。ずっと昔。ここでこうして泉に浸っていたことがある ―― 。
 今まで全身を襲っていた気だるさも毒気の苦しさも。すべてが水に洗われてゆくような気がした。
「…………」
 泉の中に沈んでゆくリュカを眺めながら、レイフォードは深く息をついた。ここに連れて来るだけではリュカは助からないと言った、あの男の言葉を心の中で反芻する。
 天を仰ぐようにゆうるりと瞳を閉じ、髪をかきあげるように耳元のピアスに触れる。びくりと、一瞬レイフォードの肩が震えるように揺れた。
「センリ……」
 大切だった友人をこの手に掛けたその光景が、まざまざと脳裏に蘇った。後悔はしていない。自分のやったことの意味を、忘れたこともない。けれども確かにアデルフィオの言うとおり、自分は彼の"死"を認めていなかったのかもしれないと思う。
 心に残るその存在は大きすぎて ―― 彼がいた現実を思い出と変えていくことが……失うことが怖かった。
「けど、思い出すのはいつも最期だ……」
 ふと、レイフォードは呟いた。胸の奥が灼け付くような痛みをこらえるように、強く手を握りこむ。
 センリの事を考えて頭に浮かぶのは、いつも最期の瞬間。楽しいことも、幸せだったことも。たくさんの思い出があるというのに、思い出されるのは辛い記憶でしかない。
「ふ……ん。そんなんじゃあ、あいつに怒られるな」
 自分が思い出すのがそんな記憶ばかりでは、きっとあの友人は怒るだろうと思った。せっかく楽しい思い出がたくさんあるのにもったいない……と。
 そう考えて、可笑しくなる。怒る、というよりも仕方がなさそうに笑うだろう友人の口調までもが想像できて、くすくすと、レイフォードは声を上げて笑った。
 込み上げるように笑んだその深紅の瞳から、不意に、ぽたりと涙が零れ落ちた。友人の生命が失われた500年前はけっして流すことのなかったモノが、ようやく彼の中から静かに静かに零れ落ちてゆく。
 ぽたり。ぽたりとこぼれ落ちる透明な雫に、コトリと、何かが心の中で動いたような気がした。
 刹那、泉が光を帯びた。
 目を明けていられないほど強く、激しく、天に向かって煌いて、純白の大きな鳥が舞い上がる。
「……リュカ……か?」
 その美しさに思わず感嘆の吐息を漏らし、レイフォードは天を見上げた。
 ばさりと柔らかな翼をはばたかせ、泉の水を撒き散らすように飛翔するその鳥は、この世のものとは思えないほど見事で……優雅な姿をした神鳥だった。
「レーイー、おれ空飛べちゃったよお」
 けれども、にこにこと応えてくる声は相変わらずのリュカだ。その優美な姿にあまりに似つかわしくない口調に、レイフォードはくすりと笑った。
「何でいきなり鳥なんだよ、おまえは。水をかぶっただろうが」
「えー。だって、早く水から出て上がらなきゃって思ったら、考え付いたのが鳥だったんだもん」
 旋回するようにかすかに天に羽ばたいて、リュカはレイフォードの方へと戻ってくる。
「ったく、考えなしのバカ聖獣が」
 水が滴る漆黒の髪を揺らしながら、呆れたように口端を吊り上げる。しかし撒き散らされた泉水に涙が洗い流されたその瞳は、静かに穏やかに笑んでいた。
「ごめーん。でもレイ、おれのこと見直した?」
 さっきレイフォードが自分に言った言葉を思い出しながら、リュカはにこにこと問い掛ける。友人と認めてもらえるだろうか? 少しドキドキする。
 レイフォードは軽く目を細め、「少しだけな」と笑った。
「えー。少しだけなんて……うわあっ!」
 リュカは不満げにレイフォードの肩に舞い降りようとして……ぽてんと地に落ちた。きょとんと目をまるくしてレイフォードを見上げるリュカの姿は ―― 純白のリスに似た愛らしい小さな姿に戻っていた。
「あれ? あれ? 元に戻っちゃったよぉ」
「…………」
 レイフォードは軽く目を見張り、問い掛けるように後ろを振り返る。
「あははは。成獣したからって何でもすぐに出来るようになる訳じゃないからねぇ。今の転変は、一気に力が解放されたから出来たに過ぎないよ。まあ、少しずつ学んでいくんだね、リュカ」
 口も手も挟まずに、じっと成り行きを眺めていた天の青年は、可笑しそうに笑って二人に歩み寄った。
「まあ、成獣はしたわけだから、もう今回のような騒ぎが起きることはないと思うけどね」
「ふう。よかったぁ。それなら一安心だよね、レイ」
 リュカはたたっといつものように、レイフォードの肩に駆け上る。あの苦しい思いをしなくて済むなら、別にほかの事はどうでもいいやと思った。
「それにしても、君は本当に興味深い魔族だな。この聖域に来て、しかも泉の水を浴びたのに、その程度で済んでいるんだからねぇ」
 しげしげと、アデルフィオはレイフォードの姿を眺めやる。普段と変わらず不遜なほどに優雅に、深紅の瞳の青年は強い存在感を放っている。僅かに頬に走った紅い筋だけが、彼に与えられた疵だった。
「ふん。だから俺には効かないって最初から言ってるだろうが」
「まあねぇ。そうじゃないかとは思っていたけど、やっぱりちょっとショックだなぁ。ここの誰も、簡単には君に勝てないってことだからね」
「……別に争うつもりもないからな。いいんじゃないか?」
 にやりとレイフォードは笑った。
 本当におかしなヴァンパイアだと、アデルフィオは改めて思った。
「リュカ、そろそろ帰るぞ。ダストが食事を作って待ってる」
 いつものように左の肩に座る小さな聖獣に、レイフォードは可笑しそうに声をかける。
 ご飯と聞いて、リュカは諸手をあげて喜んだ。初めての病気や急な成長と転変で体力をたくさん使ったのだ。元気を取り戻した今は、かなりおなかがペコペコだった。
「私も一緒に行こうかなあ。おなかもすいたし、ヴァンパイアくんともう少し話がしたいしね」
「お・こ・と・わ・り・だ」
 にこにこと同行を提案するアデルフィオに、レイフォードはふんと顎を上げた。
「それと、あまり他人の家の様子を伺うもんじゃない。……気になるのは分かるが、いくらおまえでも度が過ぎるとそれなりの対処をさせてもらうからな」
 アデルフィオが自分たちの様子をかなりの割合で把握していることに釘を刺すように、レイフォードは深紅の瞳に力を込めて言い捨てる。今回は確かにそれで助かった面もあったけれど、やはり覗かれているのは気持ちのいいものではない。
 アデルフィオは軽く肩をすくめ、苦笑するように頷いた。この破格な力を有する魔族の青年を本気で怒らせるつもりなど毛頭ない。そんなことになれば、自分が敗けるということは既に実証済みなのだから。
「仕方ないなあ。でも今度は、お茶くらいは出してくれると嬉しいんだけどね」
 ぱちりと軽く片目を閉じて、アデルフィオは笑う。
「ふん。気が向いたらな」
 ふわりと夜空に舞い上がりながら、レイフォードは僅かに笑った。そうして優雅に外套を翻すと、ダストが待っているだろう屋敷へと戻っていった。


「それにしてもレイフォード様、あのアデルフィオって人はいったい何なんでしょうね? 変な天人ですよね」
 敬愛する主人と小憎らしい聖獣の前にスープを並べながらダストは軽く首を傾げる。レイフォードはちらりとリュカを見やり、可笑しそうに目を細めた。
「あいつはリュカの親父だからな。変なのは遺伝なんだろう」
「ええっ!?」
「おれの、おとうさんっ!?」
 思いもしなかったその言葉に、二人の目はまんまるになる。聖獣に親がいるというのははじめて聞いたし、ましてやリュカ本人が知らないことを、何故レイフォードが知っているのか。二人の驚きは大きい。
「うん? 言っていなかったか? それは悪かったな」
 さして悪くもなさそうに、レイフォードはあっさりとそう応えた。
 神の眷属も魔族も、親から生まれた者と、そうでないものの二種類がいる。そうでない者の方が多いけれどもリュカは珍しく親から生まれた聖獣だった。
「まあ、おまえには悪いが俺はあいつが嫌いだからな。来ても歓迎しない。会いたきゃ自分で会いに行きな」
 にやりとレイフォードは笑う。どうせ放っておいても、またそのうちあの能天気そうな顔をした天人は顔を出すのだろうが ―― 。
「うーん。急に親だって言われても実感ってわかないもんだねぇ」
 驚愕覚めやらぬ態で頻りに首を傾げるリュカを楽しげに眺めながら、レイフォードは軽く目を細める。この、どこか穏やかで賑やかな雰囲気が懐かしいと、何故かそう思った。
 無意識にそっと、右手を耳元に触れさせる。思い出したのは ―― 哀しい記憶ではなく、大切だった友人の明るい笑顔。
「…………」
 静かに、レイフォードは深紅の瞳を微笑ませ、大きな窓へと視線を向ける。
 窓の外に広がる紺碧の空は、もうじき夜が明けようとしていた ―― 。


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2004.2.8 up