Misty Night


第一夜 『白銀の月』 後 編


 町を見守るようにそびえる塔が、優しい月明かりの中、どこか寂しそうに佇んでいた。
 何のために建てられた塔なのか知る人間はこの町にはいない。ただ古くから在るものなのだと皆は言う。頑丈な鍵が掛けられているので、誰もその塔に入れないのだ。
 しかし誰も居ないはずの塔の最上階では、ひどく美しい少女がひとり、椅子に座って虚ろな瞳で街を眺めていた。
 その少女の瞳が見慣れた姿を映し出し、儚げだった表情に柔らかな笑顔が広がった。
「ユラ!」
 少女は椅子から立ち上がり、窓から入ってきた青年を嬉しそうに出迎えた。
「……すまぬ。今日はおまえに美しい歌声を贈るつもりだったのだが、手に入れることができなかった」
 青年は少女の顔を見ると、悔しげにそう言った。
 もう少しで手に入れられたのに。あんな邪魔が……自分が真似た姿の『本人』なんかと出会ったりしなければ!
 青年、ユラはそう言ったきり唇を噛んでうつむいた。
「ユラ……」
 少女は哀しげに睫毛を伏せる。
 彼はこうしてこの塔を訪れるたびに、贈りものを持ってきた。
 愛らしい笑顔。あでやかな舞。美しい髪。ありとあらゆる美しい者たち……。少女はしかし、そんな事は望んでいなかった。
 ただ、何故こんなところに居るのか? そう尋ねられたとき、一度だけ漏らした言葉。
 すべてを奪われ、この塔に閉じ込められたのだと。この塔から一歩でも出れば自分は霧のように風に溶けて消えてなくなってしまうのだと、そう嘆いたあの時から、ユラは動いた。
 ならば奪われたものを取り戻し、ここから出してやろう。そう静かにユラは言ったのだ。
 奪われたものすべてを取り返せば、きっとこの塔から出ることができる。そう、言ってくれたのだ……。
 それを今更拒絶しては彼がもうここに来てくれなくなるかもしれない。そう思うと、彼女はユラが持ってくる『贈り物』に対し、何も言うことはできなかった。
 けれども現実に対する罪悪感に、美しい少女は瞳に深い影を落とす。
 しかし彼はその表情の変化の意味を間違えた。『歌声』を取り戻せなかったことに気落ちしたのかもしれない。そう思った。
「……だが、珍しいものを手に入れたのだ」
 ユラは懐から真っ白なふわふわの何かを取り出すと、少女を元気付けようと、不器用な笑みを口元に浮かべた。
「本物の聖獣だ。これの生き血は何にでもよく効くらしい。もしかすると、この生き血を飲めば、おまえの失ったものすべてを取り戻せるかもしれぬ」
 気を失っているのか、ぴくりとも動かない小さな動物を少女の前に差し出し、ユラはそう告げる。
 生き血を飲む ―― 。その言葉に、抵抗し疲れてぐったりとしていたリュカは慌てたように体を暴れさせた。
「そんな効果はないよおっ!」
 ヴァンパイアである友人のレイフォードだって、自分の血を食しようとしたことが無いのに、なんでヴァンプもどきがそんなこと言うかなあと、情けない反論をしてみせたりもする。
 けれどもユラは無表情でそんな言葉を聞き流し、鋭く尖った爪をリュカの首に突き立てようと手を上げた。あとちょっとでも力が入れば、リュカの純白の体は真紅に染まるだろう。
「待ってユラ! わたし、その子を飼いたいわ」
 ぴたりと、今にも聖獣の喉を切り裂きそうだったユラの爪が止まった。
「この聖獣を……飼う?」
「ええ。ふかふかしていて、とても気持ちよさそうだもの」
 不信げに眉を上げた青年に、少女は懇願するようにそう言った。その瞳は真剣な眼差しを宿している。
「……わかった。好きにするがいい」 
 仕方がないと深い息を吐き出して、ユラは聖獣を少女に手渡した。
「聖獣の生き血がだめならば、急いで歌声を取り戻して来なければならぬ。あの……ヴァンパイアに捕まる前に……」
 自分を遥かに凌駕する能力を持った、あのレイフォードというヴァンパイア。
 すぐ『姿無き自分』を見破ってしまった彼に、再び捕まるようなことになればもう逃れることはできないだろう、そうユラは思う。
 だから彼は、急がなければならなかった。
「私はまた、出かけてこよう」
 ユラはほんの少しの時間さえも惜しいというように、そのまま塔を後にした。少女がひどく哀しい瞳で自分を見ていたことにも気付かずに。
「……君はあのユラって人が好きなの?」
 リュカはあの男が去ったことにほっとしながら、少女の膝の上でそう訊いた。
「好……き?」
 少女は驚いたようにリュカを見つめた。そんなことは、考えてみたこともなかった。
 ただ、そばにいて欲しかった。初めて自分の『声』を聞いて、ここにやって来てくれた優しい青年。それが、ユラだったから。
「でしょ? おれには分かるのさっ」
 得意げに、リュカは笑った。さっきまでの怯え顔などどこに飛んで行ってしまったのか。いつもの能天気な『リュカペース』に戻っている。
「変わってるのね、あなたって」
 くすくすと、少女は笑った。
 この小さな動物を見ていると、何故かとても楽しい気分になってくる。
「……言っとくけど、おれリスじゃないからね。聖獣のリュカだよ。だから飼うって言うのはやめてね」
 小さな手を腰に当て、威張ったようにそう宣言する。
 その口調がまたおかしくて、少女はころころと笑った。
「リュカさんね、ごめんなさい」
「……まあ、よくレイにも言われるけどさ。おまえはペットだって」
 ぺろりと舌を出す。
 少女はおかしそうに、リュカのふかふかの頭を撫でた。
「あ、そうだ。君のこと、なんて呼べばいい?」
「フィーア」
 少女は満面の笑みをたたえ、そう名乗った。
「ふーん、可愛い名前だねえ」
 名は体をあらわすって本当だなあと、感心したように呟きながら、リュカは少女の肩に足を投げ出すようにちょんと座る。
 肩に乗っているとその人の顔がすぐ近くに見えるから、リュカはそこが大好きだった。
「守護聖霊か」
 刹那、闇に浸透するような涼しげな声とともに、ぬっと窓に大きな影が浮かび上がる。
「げげっ! もう帰ってきちゃったのお!?」
 その声の主を確認して、リュカは逃げるようにフィーアの背後に隠れ込んだ。
 流れるような漆黒の髪も、他人を威圧するかのような深紅の瞳も、よく見知った人物のもの。けれどリュカは、それがレイフォードだとは思わなかった。
 先程自分の喉に爪を突きつけたユラがあまりに強烈で、そっちが先に思い浮かんでしまったのだ。
「あの……どなたですか?」
 フィーアは怪訝そうに、侵入者にそう尋ねた。明らかに警戒した表情。
 そんな少女の反応に、男は僅かな苦笑を刻んだ。そしてすっと手を伸ばすと、聖獣の首根っこをひょいっと捕まえる。
「まったく、自分の飼い主もわからないのか、おまえは。犬猫にも劣るな」
「あーっ!? レイだあっ!」
 慌てたように足をばたばたさせながら、ひっしとレイフォードの腕にしがみつき、怖かったと泣いて見せる。
「ばーか、今更遅いんだよ」
「……えへへ、ごめーん。だって来てくれると思わなかったんだ」
 リュカはいたずらっ子のように、ぺろりと舌を出して笑った。
 いつもいつも「邪魔だからどっか行け」と悪態をつかれてきた。本当に彼にとって自分はうっとおしいのかもしれないと思った事もある。
 だから、こうして迎えに来てくれた事が、リュカは死ぬほど嬉しかった。
「おまえみたいなペットはいれば煩いが、いなけりゃそれなりに淋しいもんだからな」
 レイフォードは苦笑するように聖獣の頭をこづいてから、ひょいとそれを肩に乗せ、今度は少女の方を見る。
 あまりに儚げな、そして愛らしい少女の姿 ―― 。
「ふ……ん。この町の守護聖霊はとびきり美人だって、あいつは言ってたが、俺はもっと気の強そうな女の方が好みだな」
 不謹慎なことを言いながら、レイフォードは肩を竦めた。
 あいつって誰? そう、リュカが興味を示したのを見て、ヴァンパイアの青年は苦笑した。
「おまえなんかと会うよりも、ずーっと以前からの友人だ」
「えーっ! レイに友達がいたのお?」
 余りに予想外な返答に、リュカは素っ頓狂な声を上げた。
 自分とレイフォードが出会ってから百年以上たつ。その間に、彼の家に誰かが訪れてくるところなど見たこともない。
 耳に十字架のピアスを付けているせいか、同族のヴァンパイア達でさえ、レイフォードのそばに近寄ろうとはしないのだ。
 そんなレイフォードの屋敷にいるのは、自分の他には、家事(?)一切を取り仕切っている使い魔のこうもり、ダストくらいじゃないか!
 リュカは自分の知らない『友人』がレイフォードに居ると思うと、なんだかとても悔しくて、問い質すようにワアワア騒いだ。
「……うるさいな、おまえは。もう随分と昔の事だ。人間だったんでね、とっくに死んだよ」
 いつもは強い眼光を放つレイフォードの深紅の瞳が、僅かに沈んだように見える。
 もし、この場に彼の使い魔ダストがいたら、リュカは即座に翼で殴られるか、もしくは吸血攻撃をされていたに違いなかった。「御主人様にそれを思い出させるな!」と。
「ごめーん」 
 友人のあまりに珍しい表情に、リュカは驚いて頭を下げた。
 同時に、だからレイは人間に甘いのかと合点する。どうして人間達に何を言われても怒らないのか、他のヴァンプみたいに悪さをしないのか、ずっとリュカは不思議だったのだ。
 まさかレイフォードに昔とはいえ人間の友人がいたとは……。
「べつに、昔のことだ」
 ばさりと漆黒の髪を後ろに払いながら僅かに吐息をつくと、レイフォードはいつもの自信たっぷりな表情に戻る。
「それよりもリュカ、お嬢さんが困ってるぞ」
 人の悪い笑みを浮かべ、レイフォードはフィーアという名の少女を指差した。
「あ! そーだった。これはね、おれの友達なんだ。だから怖がらないでいいよ、フィーアちゃん」
 突然の来訪者とのやり取りを目を丸くして見ていた少女に、リュカはそう説明する。
「あ、レイが『ユラ』の真似をしてるんじゃないからね。ユラが『レイ』の姿を真似してるんだよ。こっちが本家本元さっ」
 間違えたら困ると、そう念を押す。
「その人の真似って? ユラとその人、ぜんぜん違うと思うけど……?」
 フィーアは不思議そうにレイフォードを見た。どうみても、ユラと同じような姿には見えない。
 その言葉に、今度はレイフォードとリュカが驚いた。この少女にはユラは『レイフォード』の姿には見えていないというのだ。
 『姿なき者』であるユラの、『真実の姿』を見ているのかもしれない。決まった場所でしかあらわすことの出来ないと言っていた、本当のユラの姿を。
 レイフォードは感心したように口笛を吹いた。
「さすがは聖霊だな。……それとも」
「愛だあっ!」
 すかさずリュカが叫び、レイフォードのげんこつをもらう。
 かなり痛かったのか、リュカは大きな瞳いっぱいに涙を浮かべ、頭を何度もさすりながら、ふてくされたように加害者を見た。
 おまえが馬鹿を言うからだと、冷たい視線を返してから、レイフォードはフィーアの座る椅子の前に立つ。
「何故、守護聖霊があんな者を傍に置いてる?」
 少女の瞳を覗き込むように、レイフォードは肘掛けに手を置いた。
「……ずっと、誰かに来て欲しいと思っていたの。誰かに気付いて欲しかった。町のみんなは、私がここにいることを忘れてしまったから……」
 長い間『守護聖霊』として町を見守ってきた少女は僅かに肩を震わせた。
 新しい『神』がこの町……否、世界中に広まった現在、遥か昔の人間達が守護聖霊として『古代の神』に捧げた『巫女』の存在など、誰もが忘れ去っていたのである。
 そういう祭事が太古にあったということは知っていた。
 けれどもそれは、現在の人々にとっては信仰の対象ではなく、過去の『歴史』としての意味しかもっていなかったのだ。
 華奢な肩が震えるのを見て、リュカはつられたように哀しそうな表情になる。信仰を失った神は可哀相だ。そうリュカは思った。
「だからといって、あの男に復讐させるのはどうかと思うが?」
 レイフォードは冷たく言い放つ。
 神がその信仰を失うということ。それは確かに哀れだ。けれども、人が今までの信仰を捨て、新しい『神』に縋る時、それには大きな理由があるはずなのだ。復讐などと筋違いもはなはだしい。
「レイっ!」
 リュカは非難するように友人を見た。悪いのはフィーアじゃなくて、彼女を忘れた町の人じゃないか。そう叫ぶ。フィーアは神ではなく、神に捧げられた巫女だ。それを忘れるなんて、人間は勝手すぎる。
「………」
 レイフォードは耳元で揺れる十字架を軽くもてあそびながら、苦い笑みをつくった。
 ヴァンパイアである自分が、神について語るという奇妙さに自分自身でも呆れた。
「復讐なんて、私そんなこと考えていないわ……」
 フィーアは強く頭を横に振った。そんなこと考えるわけがない。自分には、この町を守ることだけしか存在意義がないのだから。
「だが、おまえの『嘆き』があいつに人間を襲わせているのは確かだ。それを、おまえが望んではいないとしても」
「!!」 
 ああっと、少女は悲痛な吐息を漏らし顔を覆った。確かに自分が言ったひとことのせいでユラは動いているのだ。自分を、この塔から救い出してくれようとしているのだ……。
「そういえば、さっき町の人間達が『ヴァンパイアを捕まえる』とか騒いでいたが、偽者のあいつは捕まるかもしれないな。都の神官が駆り出されていたようだったから。もし捕まったら、俺ならともかくあいつなら確実に殺される」
 レイフォードは更に酷薄な笑みを見せ、打ちのめされた少女に追い討ちをかける。
 自分と対峙した時のあの弱さじゃ、その辺の人間ならいざ知らず、到底『都の神官』には敵わないだろう。そうレイフォードは思うのだ。
 ただ、あんなに弱いくせに、何故この自分の姿を真似ることが出来たのか、それだけは不思議だった。
 他者の、それもレイフォードのような力強く鮮烈で圧倒的な存在を有する者を真似するには、それなりに力が強くなければ出来るはずがない。何が、あのユラという姿なき魔物にそんな力を与えているというのだろうか? 非常に興味深い。そうレイフォードは思う。
「 ―― !?」
 がたんと、耳に不快な音をたてフィーアが椅子から立ち上がった。
 ユラが退治されてしまう。そう思うと、彼女はじっとしていられなくなった。震えるように窓枠を握り締め、漆黒の闇に包まれた夜の街をじっと見下ろす。
「ユラ、ユラ……!」
 この塔から動くことの出来ない『聖霊』は、血を吐くように男の名を何度も呼んだ。
 これまで自分が感じてきた孤独感、寂しさ。それよりももっと強い、それは、激しい恐怖だった。
「探しに行ってみるか?」
 不穏な微笑を頬に刻みながら、しかし、レイフォードはいざなうように甘やかに、少女の耳許に囁いた。
 この塔に『聖霊』として封じられている彼女が、ここから動くことが出来ないことは知っていた。この塔を出れば、夜露のように風に溶けて消えてしまうことも、ちゃんと知っていた。
 けれども、レイフォードはそうフィーアを誘ったのである。
 はっきり言えば、彼は試したのだ。フィーアという聖霊はどんな人間なのか。自分の保身を優先するか。それとも……。
「行きます!」
 予想外に、少女はためらうことなくきっぱりとそう言った。思わずレイフォードの目がまるくなる。まさか、こんなにも簡単に応えてくるとは思わなかった。
「儚げにみえて……どうしてなかなか」
 にやりと、レイフォードの深紅の瞳が楽しげに笑う。
 どうやら自分は少し誤解していたようだ。この少女は儚さを武器にユラを動かしているのだと、そう思っていたが。ちょっと苛め過ぎたか。そう反省する。
「リュカ、こんな時くらいだろ、おまえの出番は」
 肩に乗っていたリュカをぽんと少女に放り投げ、レイフォードは軽く片目を閉じた。
 初めて、優しい笑みがその口元に浮かんでいた。
「それでも一応『聖獣』だからな。少しの間なら、この塔の『気』を君の周囲に織成すことも出来るだろう。できるな、リュカ?」
「もっちろん♪」
 一応という言葉は気に入らなかったが、リュカは元気に返事した。
 フィーアの役に立ちたかったし、それに、なによりレイフォードに自分の力を認めてもらえたようでとても嬉しかった。
 レイフォードはくすりと笑うと、ばっと漆黒の外套を翻す。
「じゃあ、おまえがお嬢さんを連れて行ってやりな。たぶん町外れの教会だ」
 無責任にそう言って、闇に消えようとしたヴァンパイアの友人に、リュカは慌てて跳び上がった。
「レイは、どこに行くんだよおっ!」
「俺は、久しぶりに遊んでくる」
 にやりと笑うと、彼はひょいとリュカの背をつまみ、再び少女の手の中に落とす。
「じゃ、がんばれよ、リュカ」
 そう言って、今度こそレイフォードは闇の中に消えて行った。


 ばたばたばたと、大勢の足音がした。もう、その角を曲がってここに来る。追いつかれてしまう。
 何故、今夜は邪魔ばかり入るのか! ユラは腹立たしげに唇を噛んだ。
 せっかく『美しい歌声』が手に入りそうだったのに、大勢の人間が来た。いつものように追い払おうとしたのに、その中に一人だけ居た、奇妙な服装をした男が何か言葉を紡ぐと、どうしてか力が抜けた。闇にも翔べなくなった。
 そんなことは初めてで、ユラは恐ろしくなって逃げた。
 まだ誰にも捕まるわけにはいかない。フィーアを解放してやるまでは……!
 その思いだけで、彼は必死に走る。
 けれど、だんだんと足が重くなった。まるで地面の中から数十本の腕が伸び、その腕が一本、また一本と自分の足をがっちりと掴んでくるような、恐ろしい気配。
 余りに強烈な引く力に、ユラはついに地に膝を突いた。必死にそれを振り払おうともがき、呼吸も荒くなってくる。
「いたぞお、丘の上の屋敷のヴァンパイアだ!」
 たいまつを持った男たちが、獲物を見付けた狩人のように叫んでいる。
「さすが都の神官様だ。あのレイフォードが、弱ってるぞ!」
 普段は怖れてその名を決して呼ばなかった町の人間達は、弱っているヴァンパイアの姿に、勝ち誇ったように笑った。
「攫った娘達を返せ! この吸血鬼野郎が」
 怒りに任せて人々が蹴飛ばしても、殴っても、神官の捕縛にかかったユラは、抵抗することすら出来ない。
 何でこんなにも自分は何も出来ないのか! あまりの無力さがユラにはもどかしく、そして悔しくて、ぎりぎりと歯ぎしりをした。
「……おかしい。こんなに簡単に、ヴァンパイアが捕まるわけはない」
 都の神官は不信げに呟いた。以前も何度か他の町で吸血鬼退治の依頼を受けたことがある。いずれも成功してはいるが、もっと苦戦を強いられたものだ。
 町の人間は知らずに混同しているが、もともと吸血鬼とヴァンパイアではまったく違うものなのである。
 ヴァンパイアと呼ばれる者達は、吸血鬼の何十倍も、いや、何千倍も強い。
 そして、このザレードの町に住むといわれるヴァンパイアのレイフォードは、その中でも破格の存在だと噂されている程だ。それが、こうも簡単に自分の術にかかるとは、到底思えるものではなかった。
 とどめを刺すには、ヴァンパイアの名を呼ぶことになる。それが本当に平気なのか、神官はとても心配になった。
「なに弱気を言ってるんです? 現にこの間抜けは捕まってるじゃないですか。早く止めを刺しちゃってくださいよ」
 人々は興奮状態に陥っていた。自分たちより強力なはずのヴァンパイアを、こうも自由に痛めつけられるのだ。
 神官は町人たちの殺気立った視線に、しぶしぶ頷いた。そして、覚悟を決めたように胸の前で大きく十字を切る。
「汝、ザレードの町のレイフォード。悪しきヴァンパイアよ……」
「おまえなんかに名を呼ばれるほど、俺は落ちぶれた覚えはないんだがな。それに俺は『ザレードの町のレイフォード』ではなく、レイフォード・セレア・ディファレナだ。フルネームをちゃんと言わないと、俺を調伏ころすのは無理なんじゃないか?」
 ふと、からかうような声が人々の頭上に降り注ぐ。そう言ってわざわざフルネームを教えてやるあたりが、レイフォードの意地の悪さだろう。おまえたちに自分は倒せない。そう言っているも同然だ。
「うっわあ!」
 町の人間たちは頭上を見上げ、そして驚いたように口を開けた。
 漆黒の衣に身を包んだ青年が深紅の瞳をこちらに向けて浮いていた。いつも自分たちが見る、不遜なまでに堂々とした美貌の青年。深紅の瞳は氷点下の炎を思わせる。
 神官は目敏くレイフォードの耳元に揺れる十字のピアスを見付け、悲鳴をあげた。十字架を身につけて平気なヴァンパイア。それは神官にとってはひどく恐ろしい存在だった。
 十字架は聖なる象徴。ヴァンパイアはもちろん、どんな魔の力をも封じる効果があると信じられていたのだから ―― 。
「まあ、そんなに遊びたいって言うなら付合ってやらないこともないが」
 楽しげに笑い、レイフォードは神官の目の前に下りてくる。もう、それだけで神官は気が遠くなった。
 魔に属するものにとって、名はその存在を現す誇りだといわれている。だからこそ意に沿わぬ相手には決して呼ばせないのだ。それを無闇に呼べば大変な事になるということは、魔を知る者の間では常識とも言えた。
 その名を、自分は正式ではないにしろ調伏するために呼んだのだ。
「あ、あ、あ……」
 言葉にならない叫びを口の中で繰り返し、神官はあとずさる。明らかに太刀打ちできない。目の前のヴァンパイアが発している気に、神官は悟っていた。
 レイフォードは優雅に地面に舞い下りると、ちらりとユラに視線を向けた。
 神官の呪縛に捕えられたユラは、突然現れたレイフォードに絶望の表情になる。彼もまた、自分を捕まえに来たに違いなかった。
「…………」
 レイフォードはしかし、ふんと顔を背けると、ユラではなく人間たちをじっと見やった。
「…………」
 彼は、こんなふうに惨めに捕えられている自分の事よりも、調伏しようとその名を呼んだ人間たちへの報復を考えているのだろうか? そうユラは思った。ならば……ならばその隙に、自分は逃げ出そう。今なら、闇に溶け込める。
 人間たちが、レイフォードに慄いている、今ならば……。
 ユラはそっと駈けた。小道に入り、息を殺す。誰も、追ってくる気配はなかった ―― 。


 動きにくそうな裾の長いドレスをひるがえすように、少女は走っていた。
 外の景色を見るのはもう、何百年ぶりだろうか? けれど、そんなものを見ている余裕など、彼女にはない。彼は、ユラは無事だろうか? ひどい目に遭っていないだろうか? それだけを考え、彼女は走った。
 仄かに明るい街の通りを抜け、細い小道に足を踏み入れる。この道が一番教会への近道だと、小さな聖獣が肩の上で教えてくれたのだ。
「あっ! あそこに!」
 リュカは大声で叫んだ。小道の真中に、息を切らせた人影があるのに気が付いたのだ。
 びくりと、影は揺れた。そしてゆうるりと顔を上げ、こちらを見やる。
「……ユラっ!」
 その苦しげな様子に息を呑み、フィーアは青年に駆け寄った。遠めにも分かるほどひどく怪我をしているようだった。
「……フィ、ア?」
 ユラは信じられない物を見るように目を見開いた。彼女はあの塔から出れば霧散してしまうのではなかったか?
「な、何をやっているんだ! こんな所に……!」
 ユラは動転した。彼女が消えてしまう。居なくなってしまう。それは、とても恐ろしいことである気がした。
「ごめんなさい。ごめんなさい。私のせいでこんなことに……」
 ふわりと、フィーアは傷だらけのユラの体を抱き締める。
「私の嘘のために……ごめんなさい」
 少女は哀しげに呟いた。
 自分が守護聖霊としてあの塔に封じられていたのだという事。人間たちを襲っても、決して自分が解放される事はないという事。そして、もっとちゃんと自分の思いを伝えていれば、こんなことにはならなかったのだ。
「……フィーア、君は塔でしか生きてゆけぬと言った。それも……嘘なのか?」
 ユラは茫然と問うた。決して怒っているわけではない。むしろ安心さえしている自分に驚いたくらいだ。
「それは本当。でも……このリュカさんがあの塔の気をそのまま私の周りに織成してくれているの。だから、いまは平気」
 フィーアは言った。
「その聖獣が……」
「まあねっ! でも、レイもそっちに間に合ったみたいで良かった」
 にこにこにことリュカが笑う。
 その言葉に、さっき突然現れたヴァンパイアが実は自分を助けに来ていたのだと気付き、ユラは苦笑した。
「……レイさんは大丈夫かしら? 都の神官が来ているのでしょう?」
 ユラのぼろぼろの体を見やり、フィーアはレイフォードの身を案じるように眉根を寄せた。自分たちのために、ひどい目に遭っていなければよいのだが……。
「レイなら平気さっ! なにせ、あいつ普通のヴァンパイアじゃないもん。十字架はけっこう好きみたいだし、太陽の光なんてまったく平気なんだから。ましてや今は深夜だもの。レイの時間だよ」
 リュカはまるで自分の事のように、得意げに言った。
「闇夜を統べる王のようだったな……彼は」
 ユラはふうと、さっき現れた時のレイフォードを思い出し、呟いた。あれなら絶対に人間などに負かされることはないだろう。
「私の役目は……終わったのだな」
 ゆっくりと呼吸を吐き出しながらユラは微笑んだ。この少女に、あのような強い味方がついたのならば自分は必要ない。それに……
「おまえの『願い』がなくなった今、私が人世に居る理由は、もうない……」
 僅かに淋しげな眼差しを少女に向け、ユラはそう告げる。
 フィーアは美しい睫毛を伏せ、そして、意を決したように顔を上げ、じっと青年の瞳を見つめた。
「ユラ。私の本当の願いを……聞いてくれる?」
「本当の願い?」
 ユラは不思議そうに少女の言葉を繰り返す。フィーアは大きな瞳いっぱいに涙を浮かべ、ゆっくりと頷いた。
「あなたと一緒に居たい。ずっと傍に居て欲しいの。それが……私の本当の願い」
「 ―― !?」
 信じられないというように、ユラは少女を凝視した。しかし、少女の瞳に浮かぶのは、自分への確かな『想い』と、断られることへの怯え。
「……私には、この人世でとるべき姿がないのだ。私は……ただの月光つきあかりにすぎない……」
 暗闇の中、少女の塔をいつも優しく照らしていた月光つきあかり。彼女の孤独を感じ取り、月夜を我が物としていたヴァンパイアの姿を借りてこの人世に現れた、暖かな……ユラ。
「彼女に見えてる『おまえ』は、俺の姿とはまったく違うそうだ」
 いつ現れたのか、レイフォードが彼らの背後に悠然と立ち、静かに声を掛ける。
 ふと、ユラの瞳に白銀の波が溢れ出た。姿なき自分を見てくれる者がここにいる……。その言葉はユラの迷いを溶かしていくように、優しく彼の心を包み込む。
「『愛はすべてを超える』ってね」
 リュカが茶化すように呟いた。げんこつが飛んでくるかな、と思いながらレイフォードを見上げたが、彼は微かな苦笑を浮かべただけだった。
「……だが、俺の前でのラブシーンはやめてほしいな。なにせ『外見』は俺なんだから」
 お互いの心を通わせた二人の姿に辟易したように、レイフォードは呟く。
「あ……」 
 ユラとフィーアは顔を見合わせて、楽しそうに笑った。
 そして、レイフォードとリュカに深々と頭を下げると、お互いを護り合うように、そっと彼女の塔に戻って行った。
 リュカは、まんまるな瞳を楽しそうに友人に向け、たたっと肩に駆け上る。
「ねえ、レイも昔、あ〜んな恋をしたことがあったりして。だから親切だったんでしょお?」
 からかうように笑うリュカの頭に、レイフォードは軽くげんこつをお見舞いした。
「……ばーか」
 苦笑とも微笑とも思える複雑な表情で彼は呟くと、リュカをフードに放り込みながら、白銀に輝く月の塔を一度だけ見やる。
 そして、丘の上の屋敷にゆっくりと帰って行った。
 これから離れることはないであろう、二人の『聖霊』の姿を思い浮かべながら。
 そのレイフォードの耳許で、美しい十字のピアスがさらさらと、静かに静かに揺れていた。


.........第一夜『白銀の月』 完

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