Misty Night


第一夜 『白銀の月』 前 編



 研ぎ澄まされた刀剣のような新月の下を、りすによく似た純白の小動物が一生懸命に駆けていた。
 それは大きな屋敷の門を器用に潜り抜け、中庭を走り抜ける。そうしてある建物の前に来ると、動物は足を止めて上を仰いだ。
「レーイ! レイフォード!」
 その小さな体のどこから出しているのか、とてつもなく大きな声でそう叫ぶ。
 その叫びは、二階の窓に腰掛けるように月を眺めていた青年を嫌々ながらも振り向かせた。
「……相変わらず騒々しいな、おまえは」
 不機嫌の固まりというような表情で、レイフォードは二階から中庭に舞い下りてくる。かなりの高さがあるというのに、彼はまるで翼でもあるように、ゆったりと芝生の上に着地した。 
 その肩にたたっと駆け上りながら、小動物は青年の耳元だということを気にもせず、先ほどと少しも変わらない大声で言葉を紡ごうとした。
「そこで大声だすな」
 レイフォードは小動物の口を長い指でつまみ、自らの鼓膜の安全を確保する。
 そのあまりにひどい扱いにじたばた暴れて抗議してくる小動物を軽く一瞥し、ちょこんともう一方の手のひらに載せてから、レイフォードはようやくその指を放してやった。
「ふーっ、ひどいなレイは」
 体中で呼吸をしながら、動物は拗ねたようにレイフォードを見上げた。
 いつもいつも。この青年は自分をこんなふうに乱暴に扱うのだ。もっと優しくしてくれてもいいのにと、まんまるの黒い瞳が非難するように細められる。
「……ふん」
 青年は面倒くさそうに軽く息をつくと、手の上に乗る真っ白くふかふかの動物の毛並みを梳くように撫でてやった。
 その心地よい感触にうっとりと目を細めるように喜びながら、けれどもすぐに、はっと我に帰ったようにリスに良く似た小さな動物は純白の顔を怒りで赤く染めた。
「ちっがーう! おれは怒ってるんだからな」
 思わず喜んでしまった自分の失態をごまかすように、小さなこぶしを天に突き上げて、ことさら大きなリアクションをしてみせる。
「はいはい。それで、何の用で俺を呼びにきたのかな? 可愛い可愛い聖獣のリュカくんは」
 仕方がないというように深い呼吸をして、レイフォードはそう問うた。
 純白の小動物 ―― 聖獣リュカ ―― は、ぷくっと頬を膨らませながら、その小さな腕を胸の前で組んだ。
「最近続発してる失踪事件の犯人がレイだって、町の人間が言ってるぞ!」
「……だから?」
 興味なさそうな声が、リュカに返される。
 そんなレイフォードの反応にいっそう腹がたったのか、リュカは激しく抗議するように何度もレイフォードの手の上で飛び跳ねた。
「なんで怒らないかなあ? 無実だろおっ! いくらレイがヴァンパイアだからって悪いことはなんでもレイのせいだなんて、ひどいじゃないかあっ!」
 自分が悪く言われているわけでもないのに、リュカは悔し泣きをしそうな勢いでレイフォードに詰め寄った。当のレイフォードはといえば、深紅の瞳に苦笑を浮かべ、元気な聖獣の頭をちょいっと小突くだけなのである。
「俺はいちいち人間のやることに興味はないんだよ。あいつらが何か言ったとしたって、俺をどうこうできるわけじゃないだろ。お節介なリュカくん」
 小馬鹿にしたようなその口調に、リュカはぐうっと口を噤んだ。当の本人にそう言われてしまえば、もう何も言えないではないか。
 けれども、人間たちの勝手な物言いを怒ろうともしないレイフォードに対する不満の方は、どうしてもおさまりそうになかった。
「ちょっとくらい、怒れよなあ!」
 そう呟いて、リュカは口を尖らせてしまう。
「気が向いたらな」
 レイフォードは軽く笑うと、子供のように拗ねてしまったリュカのふかふかの毛並みをもう一度撫でてやった。
「気晴らしに、散歩にでも行くか?」
「うんっ!」
 元気いっぱいに返事をしたリュカに、思わずレイフォードは笑いをかみ殺したような表情になる。散歩と言っただけで、こんなにも機嫌を直す小さな動物がおかしくて仕方がなかった。
「ガキ!」
 楽しげに言いすてると、レイフォードは聖獣の小さな体をひょいと抱き上げ、左肩に乗せてやる。
 ちょこんと、リュカがバランスよく自分の肩に座ったのを確かめると、レイフォードはゆうるりと闇の坂を下りて行った。


 このところ立て続けに起きている失踪事件。その失踪した者は皆、このあたりで美しいと評判の少女たちだった。
 吸血鬼は美しい娘の血を好むというのが一般的に知られていることだった。それで人々は、これは丘の上の大きな屋敷に住むヴァンパイアの仕業に違いないと噂していたのである。
「都の神官さまが、あの悪しき吸血鬼を退治してくださらないかねえ」
 町の人間たちは自分の力ではどうにもならないとばかりに、他力本願なことを口々に言った。これ以上の『ヴァンパイア被害』をなくすために、今日も町長の家で話し合いが行われていた。
 『悪しき吸血鬼』だなどと、リュカが聞いたらまた怒り出すに違いない。レイフォードがいつ、町の人間の害になることをしたというのだろうか。リュカは声を大にしてそう叫びたくなる。
 レイフォードと知り合ってからもう百年以上たつけれど、彼が悪さをしているのを見たことも無ければ、ましてや『食事』をしているところさえも見たことがない。
 それなのに"ヴァンパイア"だというその事実だけで、どうしてこうも悪く言われるのか。リュカにはそれがどうしても許せなかった。
 本人がいっこうに気にしないものだから、代わりにリュカが怒りっぽくなっているのかもしれない。
 それが聖獣らしくないとレイフォードにはからかわれるのだが、『レイの友人』だと自負しているリュカには自分の反応は当然だと思うのだ。
「すぐにでも教会に行って頼んできましょうよ。このままじゃ不安でしょうがないわ」
 婦人の一人が身を細めるようにそう言うと、周囲の者は頷きあった。
 次は誰がねらわれるか分からない。それは自分の娘かもしれないし、恋人かもしれないのだ。そう思うと、皆じっとしていられなくなった。
「よし。今から教会に頼みに行こう! 今夜はおのおのがしっかりと戸締まりをして、屈強なものは神官様が吸血鬼を退治なさる手伝いをしようじゃないか」
 代表者らしき者がそう言うと、町人たちは「わあっ」と歓声を上げた。まるで、もう退治したかのような熱狂ぶりだ。
 自分たちが信じる神に使える都の神官が、たかが吸血鬼ごときに負けるわけがない。彼らはそう信じているようだった。


 ゆったりと、月夜の散歩を楽しんでいたレイフォードとリュカは、町外れの小さな公園にたどり着くと仄暗い街灯のともる長椅子に腰掛けた。
 人気のない公園の噴水がさらさらと優しい水の旋律を紡ぎ、水面に映った星月を揺らめかせる。それは夜の美しさをこの上なく際立たせた。
 レイフォードは感嘆したように天を見上げ、ひっそりと笑んだ。こういう静かで穏やかな夜はひどく心も安らいでくる ―― 。
 けれども、その静かな闇にゆうるりと浸っていることはできなかった。
 肩に座っていたリュカが、レイフォードの耳元に揺れる十字のピアスをぷらぷらと揺らすように、いたずらしてくるからだ。
「いっつも思うんだけど、十字架を身に付けてるヴァンパイアなんてレイくらいだよねえ。なんで付けてるのさあ?」
 今までに何度も同じ問いを投げかけたけれど、いつも絶対まじめには応えてくれない。それでもリュカは、問わずにはいられなかった。
 ふつう、ヴァンパイアにとって『十字架』など天敵のようなものではないか。人々は『魔』から身を守るために、それを身に付けていると聞いた事がある。
「……ふん? これは単なる嫌がらせだよ。神官や十字架なんてものは、俺には効果ないってことを教えてやってるのさ」
 レイフォードは情緒も何もあったものじゃない聖獣に呆れたような深紅の瞳を向けた。
「ほんとーかなあ」 
 いまいち信用できないというように呟いて、リュカはレイフォードの肩を滑り降りる。
 案の定まじめに応えてはくれなかったけれど、この質問に答えるときのレイフォードはいつも少し淋しそうだとリュカは思っていた。それが何故なのかは判らないけれど ―― 。
 知り合ってからかなりの年数が経つというのに、リュカはレイフォードのことを多くは知らなかった。それが何だか悔しい。
 ぼんやりとそんなことを考えながら滑り遊びをしていたリュカは、勢いあまってレイフォードの肩、そして長椅子からも滑り落ち、ころころと噴水の方にまで転がっていく。
 何か柔らかなものにぶつかって、ようやく止まることが出来た。
 ほっと一息をいてから、リュカは自分を止めてくれた物体に感謝しようと顔を上げて、その黒い瞳がきょとんとまんまるく広がっていく。
「……え?」
 いま自分が転がってきた長椅子の方を見やり、そしてまた目の前の『もの』をまじまじと見る。そうしてリュカは、風が震えるほど大きな声で友人の名を呼んだ。
「レ、レイーっ!?」
 その突拍子もない大声に、長椅子に腰掛けたまま夜空を見上げていたレイフォードは、非難するようにリュカを睨み付けた。
 それでもリュカはかまわずに、自分の傍をレイフォードに指し示す。そこにはやはりリュカの大声に驚いたのか、茫然と純白の聖獣を見下ろす『レイフォード』の姿があった。
 その手には、ぐったりとした美しい少女を抱えながら ―― 。
「!?」
 かちりと、二人の視線が闇の中で噛み合った。
 同じ姿の、鏡に映しあったような二つの影。二人は一瞬、時間が止まったかのようにお互いだけを凝視した。風に揺れる漆黒の髪も、怜悧な深紅の瞳も、ゆったりとした黒衣も同じ。
 ただひとつ、耳元に揺れる十字のピアスの存在だけが、ふたりの違いをあらわしていた。
「レ、レイー?」
 おたおたと、リュカはピアスを付けた方のレイフォードを見上げた。いったいどういうことなのか、早く説明してもらいたかった。わけの分からない現実に直面して、自分の小さな頭の中が、疑問符でいっぱいになって爆発でもしたら大変だ。
 そんなリュカの声に、絡み合っていた二つの視線が僅かに逸れた。呼ばれた方の『レイ』が、小さな友人を見たのである。
 刹那、もう一人の『レイフォード』は抱えていた人間を放り出して、逃げ出すように公園の反対側に駆け出していた。
「させるかよ!」
 身軽な体をふわりと宙に舞わせ、レイフォードは男の前に回り込む。
「俺になろうなんて、一億年早いんだよ。ったく、どこの大ばかだ!」
 いきなりそう叫ぶと、レイフォードは男の腕を強くねじり上げた。
 自分が本物である以上、目の前にいるのは偽者。"仮の姿"をとっているにすぎない『別の存在』なのだ。
 町の人間たちに凶悪犯だと言われることは別にどうでもいい。だが、それが他人に自分の真似をされたことによって起こった結果だとすれば、腹がたつ。『自分』の姿をとっていいのは、自分だけなのだ。
「そうだよ。レイになるならもっとセーカク悪くならなきゃ」
 リュカは、わずかな抵抗をしただけで、あっさりと捕まってしまった『偽のレイフォード』の前にちょこんと座ると、もっともらしくそう言った。
 こんなふうに神妙に捕まっているようでは、まだまだレイにはなれないよと、楽しげに笑う。
 実際にもう抵抗を諦めたのか、男はレイフォードが手を放しても逃げようとはしなかった。もしこれがレイならば、絶対にこんなに素直につかまったりはしないだろうと、そうリュカは思うのだ。
 もっとふてぶてしくて、尊大でワガママで意地悪で……。
「おーまえは黙ってろ!」 
 放っておけばいつまでも自分の悪口を言い続けそうなリュカにげんこつをくれてやってから、レイフォードは気を取り直すように深い呼吸をつく。そして、
「自分の姿に戻れ」
 深紅の瞳に氷点下の炎を帯び、レイフォードは男に命じた。逆らえば何をされるかわからないと思わせる、危険な眼光。
 しかし男はきつく唇を噛み締めただけで、元の姿をとろうとはしなかった。悔しさを抑えるように、ぐっと地面を両手の爪で深く抉る。
「……?」
 そんな男の態度に、レイフォードは僅かに首をかしげた。何故だか、男の存在に不思議な違和感を感じたのだ。その違和感を探ろうと、観察するように自分の姿を真似た男をまじまじと眺めやる。
 そしてレイフォードは、はっと息を呑んだ。
「おまえ……姿がないのか?」
 驚き、呟くように問い掛ける。男は顔をあげ、諦めたように吐息をついた。
「そうだ。私は……この人世で取るべき『姿』を持たぬ」
「じゃあ、なんで人世に来たのさあ?」
 リュカは不思議そうに男を眺めやった。ここで現せる姿が無いなら、こんなとこに来ないで姿を現せる場所にいればいいのに。そう思うのだ。わざわざ人世に出て来て苦労することも無いじゃない。能天気な言葉をリュカは言った。
「…………」
 男は苦笑を刻み、無邪気な聖獣を眺めた。
 ひどく愛らしく元気な純白の獣。おそらく、誰からも愛されるであろう存在。一定の場所でしかその『姿』すらとることのできない自分に比べ、神に愛でられた者の何としあわせなことか。
 この純白の獣を見ていると、創造主の不公平さをあらためて思い知らされる。
「……捕まるわけにはいかない。私はあの少女との約束を……」
 男は熱に浮かされたように呟くと、いきなりリュカを掴み上げた。
「う、わあっ?」
 あまりに予想していなかった出来事に、リュカは何度も瞬きを繰り返し、自分が掴まったのだと理解する。いくら体を動かそうとしても、無意味にもがくだけしかできない。自力でこの手から逃れるのは無理で、リュカは泣きそうになった。
「れーいー」
 助けを求めるように友人の顔を見やる。
「……馬鹿聖獣」
 あまりに間抜けな小さな友人に、レイフォードは呆れて天を仰いだ。
 そんなレイフォードに、男は思いつめたような眼差しを向けてゆらりと立ち上がる。
「私は……捕まるわけにはいかないのだ!」
 もう一度呟くと、彼はリュカを連れたまま闇の中に消えて行った。
「……で、俺に助けに来いって言うのか? ったくリュカの大馬鹿が」
 レイフォードは不満げな口調で呟いた。
 あんな訳のわからない『お節介な聖獣』など放っておこうか? あいつと出会ってから、自分の静かだった生活は狂ってばかりじゃないか ―― 。
 そう思いながらも、自分はなぜか『姿なき男』の気配を追っている。
「ふん……。らしくないよな」
 自嘲的に頬を歪めると、不揃いに揺れる漆黒の髪を無造作にかきあげ、再び天を仰いだ。その手がふと、耳元で揺れるピアスに触れた。
「…………」
 ぴくりと、レイフォードの肩が揺れた。
 ピアスに触れた長い指が、微かに震えたように十字の形をなぞる。
 ふうっと、レイフォードは深紅の瞳をどこか遠くを見るように細めた。
「わかったよ……。もう意地を張るのはやめるよ」
 まるで誰かに囁くように、レイフォードは呟く。そして深い息をひとつ、ゆっくり吐き出すと、大きな外套を翻した。
 ふわりと、黒い影が優雅に闇空に舞いあがる。そしてそのまま、夜空に浮かんだ大きな影は闇に溶け込むように消えていった。


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