降り頻る月たちの天空に-------第4章 <2>-------
前頁目次次頁




「……なんて速度なのっ!?」
 自失したように、セファレットは息を呑んだ。普通では考えられない速さだった。
 ぐんぐんと、月が近付いていくのが、珠玉越しに目に見えて判る。
「あれでは三十分もしないうちに大気圏に突入するぞ!」
 ショーレンはざっと計算をし、そう告げた。三十万km以上もの距離を、月がそんな速さで落下してくるのである。それを見ているレミュール側の人間の恐怖や、推して知るべしだった。
「…………」
 ティアレイルは落ちていく月を睨むように見据え、強く唇を噛み締めた。震えるように小刻みに揺れる両のこぶしを握り締め、天を仰ぐ。
 レミュールを襲う災いから必死で逃がれ、救いを求め集まる人々。けれど、何も出来ないティアレイルを責めるように見開かれた目 ―― 。
 それらのすべては、自分が視た最初の『予知』に鮮明に描かれていたことだ。
 完璧な的中率を誇る予知。矛盾しているようにも思えるけれど、今まではその完璧な予知ゆえに、自分が手を加えることで未来を変えることも可能だった。
 しかし今、ティアレイルが視た最悪の未来は対策を講じているにも関わらず少しも変わることなく、確実にレミュールに押し寄せようとしている。
「……落とすわけには、いかないんだ」
 自分に言い聞かせるように呟き、ティアレイルは深い呼吸をひとつ吐きだした。
「ショーレン。月がレミュールに辿り着くのは……三十分後か?」
 静かな口調でそう訊かれて、ショーレンは水珠が映し出すレミュールの光景に釘付けだった視線をすいっと上げ、ティアレイルを見やる。
 その藍い瞳には、渋い表情が浮かんでいた。
「大気圏に入るのが……だ。けど大気圏突入すれば、もうどうしようもないからな。止めるなら残された時間は二十分あるかないかってとこだろうな」
 緋月が太陽形態でないことだけが救いだと、ショーレンは思った。
 もし太陽形態の緋月であったなら、大気圏に入るよりもっと前に、その光と熱だけで、レミュールに甚大な被害をもたらしているに違いなかったのだから ―― 。
「……そうか。じゃあ、二十分後の緋月の推定位置を出してくれ。その場所へ蒼月を転移させる。それだけの時間があれば、何とか転移させられるから」
 ティアレイルは穏やかな表情のまま、何か決意したように瞳だけを凛と閃かせる。
「蒼月を動かすのはもう無理よ。二重結界の向こうだし、あの、すべてを打ち消してしまうちからが充満した中に在るんだよ、ティアレイル!」
 横から口を挟んだのはセファレットだった。
 あの『波』の中でショーレンの身すら自由にならず、その上、ひどい怪我までも負ったティアレイルをその目で見たのは、彼女だけだった。
「ああ。そうだよ。ショーレンの身すら自由には出来なかった。だが、場所を選べなかっただけで転移は出来たろう? それならば、私の持つ魔力のすべてを解放して蒼月に向ければ、その多くを打ち消されたとしても、指定した場所に蒼月を転移させるくらいの魔力は残る」
 ティアレイルは静かな、しかし確かな自信を感じさせる『魔術派象徴』の表情をして、そう言い切った。
「それにね、セファレット。蒼月はさっきまで私の魔力の支配下にあった。二重結界の向こうに在っても、それは変わらない」
「でも……」
 セファレットは哀しげに眉根を寄せた。すみれ色の瞳が沈痛な色に染まり、けれども何も言えずにうつむいてしまう。顔に似合わず頑固なこの大導士が、ちょっとやそっとでは翻意しそうにないと分かったのだ。
「自分が犠牲になろうとか、バカな事を思うんじゃないぞ!」
 アスカはぎりっと唇を噛み、ティアレイルの肩を強く掴んだ。
 この幼馴染みの真面目さが、いつかこんな解決案を導き出すのではないかと心配だった。そうわかっていたというのに、ずっと傍に居ながら違う思考の方向をティアレイルに示すことが出来なかった自分が、アスカは腹立たしかった。
 人の体が耐えられる魔力の大きさには限界がある。その限界を超えた魔力を解放すれば、人は命を落すことになる。
 ―― 数百年前に全魔力を発動させて命を落とした、あのカイルシアのように。
 ティアレイルはふっとアスカを見やり、ゆうるりと翡翠の瞳を細めた。長い間ふたりで紡いできた多くの記憶を見るように、穏やかに笑む。
「死ぬつもりはないよ、あっちゃん。ただ、私は自分が出来ることをするだけだ」
「…………」
 ふと、アスカは気が付いた。そのティアレイルの笑みが、いつものつくり笑顔ではないということに。心から、穏やかに笑んでいるのだ。
 他人が見れば何の変わりもない、いつもの表情だったかもしれない。けれども、幼い頃から見てきたアスカには、確かにその違いがはっきりと感じられた。
 何かがふっきれたというのだろうか。それとも、己の命を捨てることを覚悟した者だけが持つ心の鎮けさなのか ―― 。
 幼い日に出会ってから今までずっと、自分が感じてきたティアレイルの不安定さが、きれいに消えているような気がした。
「ずっと考えてた。トリイの町の少女が……小夜が私に向けた言葉を。どうして自分は東側の人間なのかって。それが、ようやく分かったような気がするんだ」
 ティアレイルはゆっくりと、流月の塔の入り口に顔を向けた。
 そこには衣を真紅に染めたままのイディアが、リューヤに助けられるように佇んでいた。静かに、けれども毅然とした眼差しをこちらに向けて。
 ふと、互いの視線が引き寄せられるように重なりあい、ティアレイルはそっと目を細める。そこから感じられるのは、どこか懐かしい想いだった。
「たぶん……私はイディアで、イディアは私なんだと思う」
 ティアレイルはもう一度アスカに視線を戻し、やんわりと言った。
 魔術者の持つ魔力には、それぞれ特性がある。それが似ている者はいても、同じ者などは決していない。
 一卵性双生児でさえ、その特性は微妙に違うものになるのだ。
 しかし、流月の塔の前で互いの力をぶつけ合った時に感じたのは、己と寸分も違わない魔力。自分とイディアは、まったくその特性が同じだったのだ。
 それは、二人が同一の存在であるという証し。
 生まれた時代も。場所も。両親だって違う。それでもなお二人は同じ魂を有し、そして現在いま、こうして同時に存在していた。
 それが生命を司る神々の単なる気紛れなのか。それともこのアルファーダという自然たちの意志だったのか。
 けれどもそんなことは、今のティアレイルにはどうでもいいことだった。
 ただはっきりと分かることは、自分はアルファーダではなく、レミュールに生まれるべくして生まれたのだということ。
 初めて出逢った小夜は「何故レミュールの人間なのか」とティアレイルに問うた。そして自分はその言葉に大きく動揺した。
 けれど、今はもう動揺などしない。自分は、イディアのいる場所とは反対の……東側に生まれなければならなかったのだから ―― 。
 生まれるのが遅すぎて、誰も……何も救えなかった神の御子。
 必要なときに必要な力を持ち、そして救うことが出来るであろう自分。
 まったく同じ魔力の波動……魂を持ったふたりの、それは決定的な違い ―― 。
 ティアレイルは、イディアが現実には決して手に入れることの出来なかったものを、たくさん持っていた。
 家族。友人。守るべきもの。そして……穏やかな生活。
 イディアがアルファーダで得ることの出来なかった、たくさんの『普通の幸せ』を。まるでレミュールでやり直しているかのようにすら思える。
 あまりに深い西側世界の嘆きが捌口を求めて、自分の魂はレミュールへと生まれたのかもしれない。
 だからこそ……イディアと同じ哀しみを繰り返したくないとティアレイルは思った。
「ティアレイル、それは ―― 」
 イディアは驚いたように、目を見開いた。それはかつて自分も一度は思い至ったことだった。けれど、すぐに否定した考えでもあった。
 そんな考えはティアレイルという人間に対して失礼であったし、自分がそれほど哀れな存在だとも思いたくなかったからだ。
 けれど……分かってしまう。お互いの心が。分かりすぎるほどに。自分の心と相手の心が、どこか根底で繋がっているのではないかと思うほどに ――。
「貴方は『カイルシア』を止め、アルファーダを守った。それなら、落下する『月』を止めてレミュールを守るのは私だ」
 ティアレイルはそっと笑んで、イディアを見やる。
 その眼光に宿る固い意志を感じ取り、イディアは哀しげに頷いた。もし自分が今の彼の立場に在れば同じことを主張しただろうと思う。
 相手の心がわかってしまうだけに、反論などできようもなかった。
「おまえは『ティアレイル=ミューア』という個人だ。イディアの複製なんかじゃない。そんなことに囚われるのはどうかしてるんだ!」
 アスカはいつになく厳しい眼光で幼なじみの翡翠の瞳を見据え、強く言い聞かせるように両の肩をつかむ。
 ティアレイルを、止めたかった。
 いくら本人が死ぬ気はないと言っても、己の内に溢れんばかりに宿る魔力すべてを解放することも、あの何物をも排除せずにはおかない『波』の制圧下で蒼月を転移させることも。はっきりと自殺行為なのだ。
 確かにそうしなければ月が落ち、レミュールは壊滅的な被害を受ける。
 アスカはしかし、それがエゴと言われようが、卑怯と謗られようが、自分の幼なじみにやらせるのは嫌だった。
 頭では分かっていても、心が受け付けないのだ。
 一瞬、アスカはカイルシアの心の狂気が理解できるような気さえした。本当に大切なものを守る為ならば、他の犠牲がなんだというのだろうか?
 そんな幼馴染みの言葉に、ティアレイルの表情が淡い笑みを含んで揺れた。
「私だって自分に誇りはあるよ、アスカ。自分がイディアの複製だと思って結論を出したわけじゃない。ただ実際的に考えてみて、あの『波』の中で蒼月を転移させられる魔力があるのは私だけだと思ったから、そう決めたんだ」
 そう言って、ティアレイルはゆっくりと皆を見回した。
 月の軌道を変えるのと違い、転移は複数の人間が協力してやることが出来ない。
 本来の距離や空間秩序などをすべて超越させ、一瞬のうちに違った場所に移動させるのが転移なのだ。それだけに、支配魔力系の統一が必要なのである。
 それは、魔術を扱うアスカとセファレットには、分かりきったことだった。
 まったく同じ魔力を持った自分とイディアが協力すれば、全魔力など解放しなくとも蒼月を転移できるかもしれない。
 けれど、これ以上イディアが強大な魔力を使えば、間違いなく彼の肉体は滅びるだろう。そんなふうにして、この西側世界からイディアを奪うことは避けたかった。
「ティア……」
 言うべき言葉を失ったように、アスカは苦しげに頬を歪めた。
 確かに、今ここにいる人間たちの中でそれが出来るのはティアレイルだけだろう。それは、分かる。……分かってしまう自分が悔しかった。
 何も出来ないのだという思いに、アスカは破れるほどに唇を噛み締めた。
 自分とショーレンとで研究していた『科学・魔術相互扶助論』は、いまだ実用レベルに至ってはいない。カイルシアのように実際に活用するまでに達していれば、何か手立てがあったかもしれないというのに ―― 。
「緋月は……二十分後にこの位置に在るはずだ」
 ショーレンは深い海のような藍い瞳に強い意志をきらめかせ、大気圏ぎりぎり、上空およそ七百kmの地点を示しながら、ティアレイルに告げる。
 そのまま落ちれば、ちょうどレミュールの中心都市。魔術研や科技研が建つ街プランディールに直撃する軌道だった。
「ショーレンっ!」
 非難するように、アスカは科技研の友人の名を呼んだ。
 場所がわかれば、ティアレイルは誰が何と言っても蒼月を転移させる。それがアスカにはよく分かっていた。
「…………」
 ショーレンは意志の強そうな藍い瞳をアスカを向け、軽く首を振った。ティアレイルの意志に任せよう。まるで、そう諭すような眼差しだった。
 ここで何もせずにレミュールを見殺しにしては、ティアレイルも、アスカも、そして自分たちも必ず激しい後悔に苛まれるだろう。
 とくに、救うことが出来たかもしれない力を持っていたティアレイルには、耐えられない苦しみなのではないかと、ショーレンは思うのだ。
 それならば、少しの可能性に掛けてみるのも悪くはない。
「ティアレイルくんがやるなら、大丈夫だよ」
 ふと、涼やかな声が背後で起こった。その声はルフィアのものだった。眩い朝と静かな夜にも似た、色の異なる左右の瞳がまっすぐティアレイルに注がれている。
「でも……」
「アスカくんもハシモトさんも、心配なのはわかるけど、大導士を信じようよ。それに、一人でやらせるわけじゃないもの。私たちだってやることはあるよ」
 なおも逡巡するアスカに、ルフィアは気丈な笑みを浮かべ歩み寄る。その手には、先ほど外壁から剥がれ落ちてきた魔力の核の破片がひとつ、握られていた。
「アスカくん、以前言ってたよね? 便利なものはなんでも使うって」
「……ああ?」
「なら、この流月の塔にある物すべて利用して、大導士の負担を軽くしようよ」
 ルフィアはそっと、核の破片をアスカの右手に握らせる。そのルフィアの手も、微かに震えているような気がした。
「せっかくだもの。『相互扶助論』を現実レベルに昇華させよう」
 長々と自分の考えを説明している余裕はなかった。ルフィアは、それでもアスカに伝わると信じた。
 そして、アスカは分かった。
 今は機能停止させてあるが、せっかくここにはカイルシアの『結界』が在るのだ。それを使わない手はない。
 この『結界』はアスカたちの『相互扶助論』の先駆のようなものなのだ。
 ここにあるのは、魔力を高める為だけのプログラムではあったけれど、自分やショーレンの研究の成果をうまく応用し、発展させることで、魔術者の負担を軽くするものが組めるかもしれない。
「新しい結界プログラムか……。ショーレン!」
 アスカは心を決めた。もともと彼は後ろ向きな思考の持ち主ではない。決断すれば行動は速かった。なにせ、あと二十分しかないのである。
「分かってる。時間との賭けだな。今まで俺とおまえでやってきた研究のすべてはレミュールにある。頭に入ってるデータなんて僅かなものだからな」
 ショーレンは苦しげにそう応える。新しい結界プログラムが出来ればいいとは思う。けれど、一からプログラムを組み始めるには時間が足りなさすぎるのだ。
「大丈夫だショーレン。データなら、ある」
 晴れた夜空のようなアスカの紺碧の瞳が、冴え冴えと閃く。
「D・Eに来ることが決まった時、コレにほとんどの研究データをコピーしてきたんだ。ヒマな時にでも続けようかと思ってな」
 アスカは左目に装着された網膜投影ディスプレイを指しながら、にやりと笑った。
「やってみようぜ。俺たちが新たな結界を組むのが先か。それとも過去の遺物である月が、現在レミュールを消し去るのが先か。大勝負だ」
「アスカ。おまえのその用意周到さと、度胸の良さに敬意を表すよ」
 ショーレンはくすりと笑い、片目を閉じてみせる。そして、少しの時間も惜しいというように急いでコンピューターに向かった。
 しかしカイルシアの魔力を動力としていた流月の塔のコンピューターはすべて落ち、ディスプレイは静かな闇に満たされている。
「生きているのは、やっぱりイファルディーナのメインコンピューターだけか。まあ、これさえあれば十分だけどな」
 気合を入れるように、ショーレンは自分の両頬をぴしゃりと叩いてから、データをイファルディーナにリンクさせるようアスカを促した。
 アスカは軽く頷くと、ティアレイルに向き直った。
「ティア。俺たちが新しい『結界プログラム』を組むまでは、ぜったいに魔力は解放するな。かならず、組んでみせるから」
 紺碧の瞳は真剣に。けれどいつもの余裕のある表情を取り戻してそう言うと、アスカはショーレンたちと共に、新たな結界を紡ぐ作業に入る。
「……わかった」
 ティアレイルは微かに口許をほころばせながらそう応え、そして、すべての感覚を研ぎ澄ますように瞳を閉じた。
 月という巨大なものを己の魔力で包み込み、転移できる状態にもっていく。そのうえ妨害するちからまであるのだから、二重結界の向こうにいった蒼月を再び支配するのには、かなりの時間がかかると見るべきだった。
 二十分。レミュールを救うギリギリの時間であり、そしてティアレイルが自分なりに予想した、月を支配するためにかかる時間でもあった。
 月を支配しようとするのに対し、『波』によって魔力の反発が起こることは、ショーレンを転移させようとした時の件でも明らかである。
 けれども、それを厭う気持ちはティアレイルにはなかった。ただただ、蒼月を転移させることだけを思う。それだけだ。
 月光つきあかりを思わせるティアレイルの蒼銀の髪が、風を含んだようにふわりと揺れた。ゆらゆらと彼のまわりに柔らかな光が生まれ、すべてがほのかな輝きを宿したように感じられる。
 ついっと、セファレットはその隣に立った。ティアレイルが転移だけに集中できるように、彼に跳ね返ってくる魔力の反発を出来る限り抑えるつもりだった。
 どれだけ抑えられるかは不安だったけれど、何もしないよりはいいと思った。
「……イディア様。大丈夫ですか? 休まれたほうがいいです」
 切なげに、そして苦しそうにレミュールの人間たちを見ていたイディアに、リューヤはそっと声をかける。
 もう傷はすべてふさがっていたけれど。それまでにたくさんの血が流れた。そして……たくさんの魔力を使いすぎた。
 立っている力をも失ったように、今にも崩れ落ちそうなイディアの身体を支えながら、リューヤはとても心配だったのだ。
 しかしイディアはゆっくりと首を横に振った。
「ありがとう、リュー。だが私はすべてを見届けたい。この、場所で」
 閃光をとめるためとはいえ、流月の塔の核を破壊してしまったのは自分なのだ。それが原因で引き起こされた現実を、自分は見届けなければいけない。
 負傷し弱った今の自分に何が出来るというわけではなかったけれど、目を逸らすわけにはいかなかった。


「っきしょう。なにが悪いんだよ!?」
 髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜながら、苛ついたようにアスカは床面を蹴った。
 もうすぐ二十分が過ぎようというのに、いっこうに結界が完成しない。あと少しで組み上がりそうだというところまでは、なんとか来ているのだとは思う。けれども、あと何をどうすればいいのか。さっぱり見当がつかなかった。
「イライラすると余計に頭が回らなくなるよ。アスカくん」
「……分かってる」
 落ち着くように深呼吸をして、アスカは天を仰ぐ。
「あれだけ確認したんだ。式はあってると思う。……もしかすると、俺の提示した魔術的観点が微妙にずれているのかもしれないな」
 一分一秒も惜しい。天を仰ぎながらアスカは、魔術者としての感覚を最大限に研ぎ澄ますよう、科学の産物である網膜投影ディスプレイを無造作にはずした。
「ショーレン。今から俺が言う箇所のチェックを頼む」
 静かに目を閉じ、アスカは心に思い浮かんでくるすべてをショーレンに告げる。
 ふと、その心に浮かぶものたちの中にティアレイルの姿が一瞬浮かび上がったような気がして、アスカははっと目をあけた。
 確かに今、見えたのだ。ほんの少しの笑みを口許に浮かべ、自分に「ごめん」と謝った、幼なじみの姿が。
「ティア……まさかっ!?」
「ティアレイル!!」
 アスカが振り向くのと、セファレットが叫んだのはほぼ同時だった。
 目が灼けてしまいそうなほどの眩い輝きが、ティアレイルの身体を突き抜けるように、その空間いっぱいに広がっていた。
 一瞬何が起きたのか、理解できなかった。けれど、すぐに悟る。
 今すぐに月を転移させなければ間に合わないと判断したティアレイルが、結界の完成を待たずにその魔力のすべてを解放したのだということを ―― 。
「この、バカがっ……」
 ティアレイルの身体はゆらゆらと光の中で揺らめきながら、その生命を燃やすように煌めいていた。
 アスカは苦しげに頬を歪めた。今ならまだ、やめさせることが出来るかもしれない。わずかな望みに一歩足を前に進めかける。
 刹那、蒼く眩く燃えるティアレイルの魔力が、反対がわのレミュールの空域にある蒼月に放たれるように、天に向けて噴き上がるように広がった。
 徐々にその輪郭さえも危うく、己の解放した魔力の中に溶け込むように見えるティアレイルの姿に、皆は息を呑んだ。
 信じられないものを見るように、アスカの紺碧の瞳が凍りついたように見開かれる。
「……ティアーーーーっっ!!」
 血を吐くような絶叫が、蒼い光につつまれた流月の塔にこだまするように、長く切なく響いていた。




Back Top Next