降り頻る月たちの天空に-------第4章 <2>-------
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 刹那、風の流れが変わった。
 鋭く激しい風が、塔の天辺から噴き出すように生じる黒水晶の閃光を散じさせるかのごとく吹き荒れる。
 その風は、どこか眩い白銀の光を宿しているように感じられた。
「イディア……」
 ティアレイルは目を見開き、塔の外に浮かび上がる人影を見やった。
 湖の町に残り、カイルシアとは自分なりの決着をつけるのだと、そう言っていた彼が、そこにいた。
 イディアが持つ独特な、穏やかで、けれどもどこか哀しげな眼差しは影をひそめ、強い意志を宿した翡翠の双眸が静かに、そして激しく塔を見据えている。
「何度も……アルファーダを滅ぼさせはしない!」
 湖の町でリューヤと一緒にぼんやりと、けれどもしっかりと心に焼き付けるように町の人々の様子を見ていたイディアは、アルファーダをつつむ穏やかな大気が、禍々しいまでに強力な波動に震えたのを感じたのだ。
 それは、忘れようにも忘れ得ない、300年前にも感じたカイルシアの閃光がもたらされる前触れ。
 その感覚に、イディアは軽く唇を噛んだ。
 300年もの間ずっと自分を牽制し続けてきたあの男の魔力が、そう簡単に封じられるとは思っていなかった。
 成功したとしても、ティアレイルたちやアルファーダに対して強い報復の力が跳ね返って来るだろうと思った。
 だからイディアは最も己の魔力が強まるこの湖に残り、流月の塔の報復が彼らにではなく、自分に的を向けるように魔力の流道を紡ぎ始めていた。
 カイルシアの狂気にも似た東側に対する想念を自分が抑え込み、そして消滅させることで、自分とカイルシアとの因縁をもまた、すべて消し去ろうと思っていたのである。
 けれども……カイルシアの存在がひときわ強くなったのを感じた。そして、全身が粟立つような禍々しい波動 ―― 。
 アルファーダの生命を喰らい尽くす閃光が、再び発動されようとしていることを感じ取り、イディアはティアレイルたちが流月の塔を壊すのをただ待つことをやめ、この塔へとやってきたのだった。
「いつも自由に出来ると思うな……カイルシア!」
 風の中に、静かな怒りを孕んだ声が響く。目の前に、この数百年の間ずっと自分を牽制し続けてきた男の姿があった。
 これまでのような魔力の結晶としてではなく、はっきり『人』としての強い存在感をもったカイルシアの姿が、塔の天辺からアルファーダを見下ろすように佇んでいた。
≪神の……御子、か≫
 ゆうるりと、カイルシアは笑った。
 自分を睨み据える、静かな憎悪と怒りを秘めた翡翠の眼差しは、300年前のあの日は生まれたばかりの赤子だった。
 自分などより遥かに強大な魔力を持ってこの世に生まれ出た。けれども赤子ゆえにその力を使うこともなくアルファーダの滅びを見ることになった、神の御子 ―― 。
≪おまえがアルファーダを大切に想うように、私にはミュールがいとおしい≫
 放電するような激しい音を立てながら、流月の塔はいまにも西側全土に向けてカイルシアの魔力を発動させようと揺らめいている。
 一度はイディアの風に散じたかに見えた黒水晶の魔力は、再び塔の天辺に集まり、大きく膨れ上がっていた。
「……そうだとしても、アルファーダに犠牲を強いるのは許さない」
 白銀に輝く風は大きな翼を広げ、すべての生命を喰らおうとするカイルシアの魔力を呑み込むように天地を翔けた。
 大地がごうっと地鳴りを起こし、樹木たちが大きくざわめき、穏やかに凪いでいた波や湖面が激しく逆巻いている。
 このアルファーダに生きるすべての自然が、生物が、カイルシアの暴挙を食い止めようと働いているように感じられた。
 き……んと、珠玉がぶつかり合うような玲瓏な音色が辺りに響き渡った。イディアの魔力とカイルシアの魔力。二つの強大な波動がぶつかり合う、音。
 そして ―― カイルシアの放とうとした閃光は目的を達することなく風に溶け、霧散するように消えた。カイルシアの、強烈な『意識』とともに。
「止め……られたの?」
 セファレットは茫然と呟いた。
 塔の外で起こっていたことが、まるで現実のようには思えなかった。
 自分たちだけでは防ぎきれない。そう思った刹那、イディアはたった一人でカイルシアを止めてみせたのだ。
 その凄まじいまでの魔力の行使は、まるで夢の中の出来事のようだ。
 人とは思えぬほどに強い魔力を持ったこのイディアの存在が、かつてカイルシアの統治者としての、そして魔術者としての判断を狂わせたのだ ―― 。
 セファレットはほんの少しだけ、カイルシアが哀しいと思った。
「そうみたいだな。閃光の発動は防がれた。……アルファーダを守るのは、やはりイディアだっていうことなのかもな」
 食い入るように成り行きを見つめていたアスカの紺碧の瞳が、ふっと笑んだ。
 閃光を発動させないというイディアとの約束は、けっきょく自分たちの力では果たせなかったけれど、それはそれで良いような気もした。
 かつては守ることが出来なかったこのアルファーダを、イディアは今度はこうして守ることが出来たのだ。
 そのことが彼の心に、ほんの僅かかもしれないけれど、救いと安らぎを与えるのではないだろうか?
「そんなこと、言っている場合じゃないみたいだぞ!」
 ショーレンは何かに気付いたように目を見張り、空を見て叫んだ。
 青く広がる空の中に、イディアの姿がふうわりと浮かんでいた。
 けれども次の瞬間、イディアは力を失ったようにだらりと頭を垂れ、そのまま勢いよく地上に向かって落ちて来る。
 カイルシアの魔力とのぶつかり合いが、イディアを無傷にはおかなかったのだろうか。身体のあちこちに裂傷が見え、そこからゆるゆると流れるものが、瞬く間に薄色の衣に真紅の染みを作っていた。
 風が、ただただ大切な存在を守るように、イディアを押しつつむように流れている。
 しかし風伯もまた、カイルシアの魔力によって傷付いているのだろうか。落下するイディアを止めることは出来なかった。
「いけないっ!」
 ティアレイルは空に手を伸ばすように叫んだ。イディアを、死なせてはいけない。このアルファーダから、奪ってはいけない ―― 。
 どくんと、心臓がひとつ鳴った。
 血に染まり落下するイディアの姿にひどく心が痛んで……ティアレイルは急いでイディアを救おうと、塔の外へと駆け出していく。
「ティア!?」
 アスカや他の面々も、慌ててその後を追って外へと飛び出した。
「イディア様っっ!!」
 彼らが外に出たのと、リューヤの声があたりに響いたのは、ほぼ同時だった。
 自分の目の前から急に転移していなくなってしまったイディアを、一生懸命追いかけて来たのだろう。必死の形相で、リューヤはパルラを走らせていた。
 そのパルラが、ふわりと宙に舞い上がる。頚をおおう柔らかそうな金色の毛が、太陽の光を浴びてきらきらとなびくのが見えた。
 鳥の顔をした馬は、自分たちにとって大切な存在を失くすまいと空を駈け、リューヤを乗せたままイディアの元へと駆け寄っていくのである。
 パルラは風伯の眷属だから空を駈けることが出来るんだよと、以前リューヤが自分に教えてくれた言葉を思い出しながら、ショーレンは圧倒されたように、パルラの雄姿をじっと見つめた。
 風に乗って空を駈けるパルラは、何よりも早く、イディアの元へとたどり着く。
「……良かった」
 しっかりとリューヤに抱えこまえるようにして、イディアの身体がパルラの背に乗ったのを見て、五人の口からほっと安堵の息が吐き出された。
「こんなところでイディアさんを失ってしまったら、私たちのやってること、半分は無駄になってしまうものね」
 にこりと、セファレットはすみれ色の瞳を微笑ませた。
 レミュールを守るのはもちろんこと。けれども、自分たちの目的はそれだけではない。この惑星に再び自転を起こすことでアルファーダをもよみがえらせ、そしてイディアに返したいと思っていたのだから……。
「アルディス!」
 ゆっくりと地上に降り立ったパルラの上から、リューヤはショーレンを呼んだ。
 イディアをパルラから降ろして欲しいのだと目で訴える。自分だけの力では、イディアをそっと降ろすことなど出来そうになかったのだ。
 それに……イディアの身体を染める真紅の液体の存在が不安で。おそろしくて。けれどもリューヤは泣き出したいのを必死にこらえていた。
 ショーレンとアスカは視線を交わし、急いで駆け寄った。そっとイディアの身体をパルラから降ろし、地上に横たえる。
「大丈夫だ、リューヤ。このくらいの傷なら癒しの術で何とかなるだろう」
 涙をいっぱいに溜めた大きな瞳でじっとイディアを見つめている少年に、アスカはやんわりと言った。
 イディアの身体をおおう裂傷はかなりの深手で、しかも無数にあったけれど、少しずつ、ふさがってきているようにも見える。
 それが彼自身の治癒能力なのか、それともアルファーダの自然たちが、彼を癒そうとしているのかは分からなかったけれど ―― 。
「……カイルシアの魔力の結晶の……周囲を守り固めていた『結界』を取り除いたのは、おまえたちか……」
 ふいに、閉ざされていたイディアのまぶたが震えるように開かれ、静かな翡翠の瞳がじっとレミュールの五人を見つめていた。
 少し苦しげに頬を歪め、けれどもゆっくりとその身体を起こす。
「あの忌まわしい結界が……カイルシアから感じられなかった」
 常に黒水晶を守っていた『結界』がなかったことで、自分は意外なほどあっけなく、閃光の制圧に成功した。
 もしカイルシアの魔力を高めるコンピューターがそのまま作動していれば、ああも完璧には抑えられなかっただろう。そうイディアは思うのだ。
 生まれてから今まで、あの結界のせいで、純粋な魔力では勝りながらも自分はカイルシアに牽制され続けてきたのだから……。
「ああ。けど、プログラムを解除してもあれだけ強いとは恐れ入ったな」
 ショーレンは苦笑のようにそう呟いた。まさか、三人の魔術者がかかって止められないとは思っていなかった。
 しかも、魔術派象徴と謳われるティアレイルがいながら……である。
 そのショーレンの述懐に、イディアは僅かに首を振った。
「たとえ互角以上の魔力を持っていても、蒼月の移動を同時にやっていてはカイルシアを止めるのは無理だ。それだけに集中しなければ。現に私はアルファーダを救うことだけを考えていた。それが、おまえ達の邪魔になるかもしれないことも承知で……」
 イディアは深く睫毛を伏せた。後悔はしていないが、自嘲的な気持ちが彼の胸中で揺れていた。
「助かりはしたけど、邪魔なんて……?」
 セファレットは不思議そうにイディアを見やる。
 イディアは無言のまま、彼らの傍にそびえたつ流月の塔を見上げた。そうして何かを見つけたように、哀しげに目を細める。
「……やはり、核を破壊してしまった」
 イディアの苦しげな言葉に、皆は塔を振り仰いだ。
 ぱらぱらと、何か白っぽい透明なガラスの破片のようなものが、塔の壁面から剥がれるように落ちてきていた。
「これ、あの時の……?」
 ティアレイルは塔の壁面と落ちてくる破片を手に取って見比べながら、ふと気がついたように呟いた。
 流月の塔に入ろうとして、自分たちを見下ろすような視線を感じた時に見つけた、塔の壁面に埋め込まれた硝子のような球形の物質。
 それが、今はどこにも見当たらない。ならば、この落ちてくる破片はあの球形の物質の破片なのだろう ―― 。
 そこまで考えて、ティアレイルははっと息を呑んだ。
「まさか!?」
 イディアの言葉と、そして自分の魔術者としての勘が、あるひとつの答えを明確に導き出してくる。
 この塔全体がカイルシアの魔力で満たされていたために、今まではそうと気付くことが出来なった。けれど、もしこの答えが正しい答えであるのならば、それは、あまりに恐ろしいことだった。
 怖れるように向けられた眼差しに、イディアは唇を噛むように頷き、そしてティアレイルは、胸を突かれたように目を見開いた。
「どうしたんだ、ティア?」
 あまりに蒼白になった幼なじみの肩を、アスカは心配そうにつかんで訊く。ティアレイルはゆっくりとアスカを振り返り、そうしてわずかに肩を震わせた。
「……流月の塔が、機能を停止しているかもしれない」
「なんだって!?」
 アスカはその言葉に急いで塔の中へと向かった。
 確認するように塔の内部を見回し、そして天井部にゆうらりと浮かんでいるはずの黒水晶を振り仰ぎ、息を呑む。
「黒水晶が!!」
 あっと、ルフィアも声を上げた。
 今まで凛とした輝きを放ちながら、アルファーダをゆうるりと見下ろしていた黒水晶の姿は、もうそこにはなかった。
 光源を失ったように鎮まりかえったその空間は、粉々に砕け散った水晶の欠片がホログラフのようにゆらゆらと映し出されているだけだった。
 古月之伝承などの伝聞から、カイルシアの魔力の結晶は黒水晶なのだと、皆そう思い込んできた。けれども、そうではなかったのだ。
 カイルシアの魔力の結晶は、この流月の塔のすべて。
 そして ―― この塔の魔力の核となっていたのは……塔の壁面に埋め込まれ、太陽を一身に浴び続けていた白い硝子のような、球形のあの物質。
 その魔力の核は、これまでコンピューターによって作り出された結界に守られ、その影が黒水晶として仮想空間に投影されていたのである。
 まるで、本物の核から目を逸らさせ、黒水晶へ注目させるかのように。
 それはカイルシアがこの流月の塔を……否、東側を守るために考えた、もしもの時に備えた策だったのかもしれない。
 けれども、コンピューターによる結界をショーレンたちが解除した事で、核は己を守るものを失い、剥き出しになっていた。
 カイルシアの閃光を抑えようと放たれたイディアの魔力は、その閃光を起こす源であった核をもつつみこんだ。守るものが何もなくなっていた無防備な核は、イディアのその強大な力に耐え切れず、砕け散ってしまったのだ。
 核を失った魔力の結晶は……その機能を停止する。それは、流月の塔の停止。
「……まずいな」
 ショーレンは鋭く舌打ちした。
 蒼月は既にティアレイルの手を離れ、レミュールの空域に入っている。
 本当ならそこで軌道が定まり、『蒼月』は『緋月』に向かって直進し、数時間後には互いの存在を排除しあうはずだった。
 その二つの月の衝突と同時に流月の塔も停止させ、この惑星に対するカイルシアの魔力の影響をすべて無に帰す予定だったのだ。
 しかし、蒼月と緋月が衝突する前に、流月の塔だけがその機能を停止してしまったことで、月は『支柱』を失い、その場でレミュールに落下する。
 それは古月之伝承に記された、三月が乱れ天が落ちるということに他ならない。
「 ―― 月は!?」
 皆の視線が一斉に、ティアレイルが湖水でつくった『遠視の珠玉』に集まった。
 水から生まれた透きとおるような珠玉には、枝を離れた果実のように何のためらいもなくレミュールに落ちて行く二つの月が、ぼうっと浮かび上がって見えた。




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