降り頻る月たちの天空に-------第4章 <1>-------
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 太陽の光を反射して金色に煌く砂の海と、白く輝く流月の塔の領域を分けるように置かれた一対のオブジェに寄り掛かりながら、ティアレイルは深く息をついた。
 ゆうるりと見上げる天空には、レミュールの蒼月がぼんやりと白く掛かっている。本来ならばひっそりとした夜の闇が優しく大地を包み込んでいるはずの時間。
 今それを示すものは、青空にかかる白い月と、アルファーダに『眠りの夜』を告げる、イディアの柔らかな鎮魂歌だけだった。
 その優しい祈りに、アルファーダに在る生命たちは悪夢のような過去に苛まれることなく、安心して深い眠りにつく。
 人々の記憶にあの恐ろしい事件はなく、ただただ『御子様』を中心に、この数百年のあいだ緩やかな時の流れの中で優しい暮らしをしてきたのだろう……。
 そう思い、ティアレイルは再び溜息をついた。
 しかし ―― その生活は再び自転が始まり、自然たちの生命活動が正しく行われるようになれば、すぐに壊れてしまう。そんな予感がティアレイルにはあった。
 アルファーダに生きる者たちが、こうしてイディアに守られながら、ゆるやかで優しい生活をしていられるのは、自転が止まっているからこそなのだろうと思う。
 何百年も前に失われたアルファーダの生命いのち
 カイルシアが流月の塔を動かす原動力とするために彼らを世界につなぎとめ、そしてイディアがそれらの生命をカイルシアから守っているのだという。
 アルファーダの者がそうして魂という存在だけになりながらも、確かにこの地で生きているというこの現実は、自転を止めたこの惑星……世界に歪みがあるからこそ、成り立っているに違いなかった。
 惑星がまわるということ。それは時を刻むことに似ている。
 自転が再び起これば『とき』は正確なリズムを取り戻し、世界の歪みは正されていくだろう。それが、自然の法則なのだ ―― 。
 ティアレイルはそう思い、何故だかひどく哀しくなった。空に流れる風を追うように、綺麗な翡翠の瞳が痛々しげに揺れていた。
「蒼月に、魔力は送れそうか?」
 ぽんっと軽く肩に乗せられた手の重みにティアレイルが振り返ると、アスカがやはり空を見上げながら立っていた。
 こちら側に来てからはずっと外していた網膜投影ディスプレイが、久しぶりに彼の左目に装着され、いつもの余裕然とした笑みを佩いている。
「ああ。アルファーダ側には、あの『ちから』は存在していないようだから、蒼月はいつでも動かせるよ」
 ティアレイルは感傷的になっていた思考を彼方へと放り去り、髪をかき上げるようにアスカに視線を向けた。
 もともと蒼月は科学文明から魔術文明への過渡期に、当時の魔術者たちが環境浄化のために創った魔力の結晶である。
 あの、すべてを排除しようとする『波』さえなければ、その軌道を変えることはそれらの魔力よりも強い力を持った人間がいれば簡単なことだった。
「科学派の方の準備さえよければ、あの蒼月がレミュールに戻る時に、緋月とぶつかる位置へ軌道をずらすよ」
 月を動かすと言うのに、まるで部屋の模様替えでもするような淡々とした口調で言うティアレイルに、アスカは軽く笑った。
「今さっきショーレンとルフィアが、イファルディーナの動力を設置しに塔に行ったよ」
 大きく伸び上がりながら、疲れたというように左目の片眼鏡を外す。それを見て、ティアレイルはちょっと笑った。
「アスカでも、疲れることがあるんだな」
「まあな。昨日からずっと寝ないで、しかも網膜フル活動だぜ。ったく、ああいうことはショーレンがやると思ったのに、あいつは塔のコンピューターに掛かり切りになって手が離せなかったからな」
 溜息をつきながら、アスカは参ったというように肩を竦めた。
 イファルディーナの動力部を作り替えるのに、助手が欲しいと言うルフィアの言葉に、アスカが手伝わされていたのである。
「だが、流月の塔にコンピューターがあるとはねぇ。実際に見るまでは信じられなかったよ。しかも、あんなふうな形でな」
 アスカはどこか楽しそうに、幼なじみの顔を覗き込んだ。
「この塔がコンピューターで動いているというのは分かっていたけど、まさか、アスカたちの『科学・魔術相互扶助論』が正しいとはね」
 ティアレイルは翡翠の瞳を軽く細め、アスカを見やる。
 今までに何度かこの幼なじみが聞かせてくれた相互扶助論。そのことごとくを自分は否定してきた。それを思うと、自分の頑迷さが苦々しく思えた。
「いまさら魔術を否定したり、捨てることは出来ないけど、科学を蔑視していた自分が愚かに思えてくる。私は、何も見えていなかったんだな……」
「誤解はとけたんだし、もうティアは科学を否定することはないだろ? それでいいさ」
 アスカは楽しげに笑った。
「ああ。でもやっぱり、科学は好きになれないけどね」
 苦笑するように、ティアレイルは言う。嫌いになったきっかけが間違いだっただけで、今まで感じてきた嫌悪が嘘だったわけではない。
「それでも大進歩さ」
 くすりと笑い、アスカは二つ年下の幼なじみの頭をくしゃりとかきまわした。
「ティアレイル、言われたとおりに聖殿のあった湖から水を汲んできたよ」
 蓮の葉にたっぷり汲まれた清浄きれいな水を抱え、ふわりとセファレットが二人の間に現れた。転移を終えてゆったりと地上に降り立った魔術研の同僚に、ティアレイルはにっこりと笑顔を見せた。
「ありがとう、セファレット」
 そっと彼女が自分へと差し出してくる水に両手をかざし、穏やかに礼を言う。
 そのティアレイルの手に導かれるように、蓮の葉にたたえられた清らかな水が、ゆっくり外へと流れ出た。
 葉から溢れ出た水は、しかし塔の周りに広がる乾いた砂に落ちることはなかった。
 まるでそこに見えない硝子の器でもあるかのように、水はティアレイルの手の内に集められ、深く透きとおる珠玉になっていく。
「それ、何に使うの?」
 目の前でゆるやかに変化する水の姿を興味深げに見つめ、セファレットはすみれ色の瞳を楽しそうに輝かせた。
 ティアレイルがこうして魔術を使う姿は見慣れていたけれども、その小気味良いくらいにあざやかな魔術の行使は、何度見ても楽しかった。
「レミュールをこれで遠視するんだよ。流月を破壊するのと、蒼月・緋月が衝突するのが同時じゃないと、カイルシアの魔力の影響を強く受けているこの惑星……自然たちが受ける負担が大きくなりすぎるから」
 ティアレイルは穏やかな笑みを翡翠の瞳にたたえ、手の中に生まれた『遠視の水珠』をそっと掲げてみせる。
「レミュールを見るのか? でもティア。確か二重結界のせいで、反対側は遠視できないんじゃなかったか?」
「うん。でも……イディアの聖殿があったあの湖。魔術研の湖上の大鐘楼に似ていると思わなかったか、アスカ?」
「ああ、そういえば似てたな」
 アスカは記憶を確かめるようにゆっくりと瞬きをし、そして頷いた。
「私は子供のころ風鏡でアルファーダの過去を見た。魔術研の、あの場所でね」
 ティアレイルはふわりと笑った。
「それに、イディアの聖殿があった湖と魔術研の湖はどこか同じような『気』を持っている。とても……懐かしい気がした。だから、見えるよ」
 さらりと、蒼銀の髪が風に揺れる。まるで優しい風が自分の言葉を認め、勇気付けてくれているようだと、ティアレイルは思った。
「それで私にあの湖の水を持って来て欲しいって言ったのね。あそこの水じゃないと、ダメだから」
 ティアレイルの優しげな顔を彩るその笑みが、久し振りに見る『魔術派象徴』の表情だということに気付き、セファレットの口許に愛らしい笑みがこぼれた。
 レミュールにいる頃は当たり前のように思っていた、人を安堵させる穏やかな『象徴の笑顔』。けれども、アルファーダに来てから崩れることが多かったのだ。
「ようやく自分のリズムを取り戻したみたいだね、ティアレイル」
 クスクス笑いを広げ、セファレットはティアレイルの顔を覗き込んだ。彼女にしてみれば、このティアレイルこそが親しみ深い『ティアレイル=ミューア大導士』なのである。
「ティアは真面目だからな。『仕事』を前にすればそうなるんだよな」
 アスカは遠慮のない笑声をあげた。
「……いつもと変えているつもりはないよ」
 二人にからかわれる形となったティアレイルの頬に、不本意そうな苦い笑みが浮かんだ。しかし、それを覆い隠すように、柔らかな表情がすぐに立ち上がる。
 意図的なのか無意識の行動なのか、ティアレイル自身でさえわらないのではないかと思うほど、それは自然な表情の変化だった。
「セファレット、湖にイディアはいた?」
「うん、いたよ」
 アカデミー内では聞き慣れた、穏やかな風にも似た抑揚をともなうティアレイルの言葉に、セファレットは軽く笑って頷いた。
「……そうか。じゃあ少し出掛けて来る。蒼月が空の向こうに帰るまでには戻ってくるよ。軌道を定めないといけないからね」
 そう言うと、不審そうに顔を見合わせたアスカとセファレットを振り向きもせず、ティアレイルは風の中に姿を消した。
「何しに行くんだかねえ」
 イディアに会いにいくという幼なじみが心配なのか、アスカは眉を曇らせた。
 イディアという存在がティアレイルに何かしらの影響を与えているのだということが、アスカは気に入らなかった。
 流月の塔の前でイディアと術を交えたあとから、ティアレイルの様子がおかしくなった。否、象徴である大導士に戻った。そうアスカは判断していた。
 それが何故なのかは分からない。だが、ひどく嫌な気がするのだ。
「アスカさんも過保護だねえ」
 まるで『心配症なお兄ちゃん』のようだと、セファレットはからかってみせる。アスカは軽く髪をかき上げながら、晴れた夜空のような紺碧の瞳に苦笑を刻んだ。
「別にそういうんじゃないさ。あいつは何でもひとりで背負い込もうとするからな。それが心配なだけだ」
「ふうん? でも、そう仕向けてるのってアスカさんじゃない? アスカさんがティアレイルを対等の位置に見てあげないから、彼、誰にも頼らずに自分だけでやろうとするんだよ、きっと。認めてもらいたくて」
 仔犬のように愛らしい瞳で、しかし辛辣な言葉をセファレットは吐き出した。
 レミュールにいる頃は気が付かなかった。けれども、アルファーダに来ることになって、何日間もずっと一緒に過ごしている中で、彼女はそう思ったのだ。
「……手厳しいことを言う」
 アスカは僅かに唇を歪め、深い溜息をついた。
 自分では特にティアレイルを弟扱いしているつもりはない。だが、ショーレンにも同じようなことを言われたことがあった。
 この二人に言われたということは、他の大多数の人間にもそう見えているということなのだろう。そう考え、アスカは困惑したように軽く頭を振った。
「だけどな……怖いんだよ。あいつが、壊れてしまいそうでさ」
 いつもは自信に満ち溢れた紺碧の瞳が、僅かに自嘲したように細められる。そんなアスカの表情を見るのは初めてで、セファレットは目を見張った。
「心を壊した人間を、もう見たくないんだよ」
 軽く唇を噛み、天を睨み据えるようにアスカは言った。
「……もしかして、前の総帥みたいにってこと?」
 その彼女の問いに、アスカは応えなかった。
 ただ、自分自身の吐き出した言葉に呆れたように、深い溜息をつく。
 確かに、前総帥が狂気の底へと堕ち、そして命を落としたあの頃から、自分はティアレイルの行動や心の動きに対して過剰に反応していたのかもしれない。
 自分にとって大切な存在があんなふうに失われてしまうことを、もう二度と経験したくないと思ったからだ ―― 。
 ふだん意識しない心の奥でそんな思いを抱いていたことに、アスカ自身いままで気が付いていなかったのだろう。自分にこんな弱い面があったのだと、今はじめて気付いたように、アスカは苦い笑みを浮かべた。
「まずいな。確かに俺が仕向けてるよ」
 今まで自分とティアレイルが織り成してきた記憶を振り返り、ようやくアスカはそのことに思い当たる。
 そんな自分の心に区切りをつけるようにひとつ瞬きをしてから、アスカは楽しそうに紺碧の瞳に笑みを佩いた。
「ハシモトって言うときは言うよな。まあ、おかげで助かったけどさ。……さてと、俺はショーレンたちの様子でも見てくるかな」
 セファレットに軽く肩をすくめて見せながら、にやりと笑う。そうしていつもの余裕のある表情を取り戻すと、アスカは塔の中に戻るようにゆったりと歩き出した。
「そうだ。あんなこと俺が言ったなんて、ティアには言うなよ」
 くるりと振り返り、アスカはいたずらっぽく片目を閉じてみせる。自分のそんな弱みをティアレイルには見せたくないのだろう。
 その言い方があまりに可笑しくて、そしてアスカらしくて、セファレットはくすくすと笑って頷いた。




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