降り頻る月たちの天空に-------第2章 <3>-------
前頁目次次頁




 茫然と空を見上げていたショーレンは、ふっと我に返った。
 このままだとイファルディーナはこの場所にやってくるだろう。あの浮上車は、自分を探しにレミュールからやって来たに違いない。
 けれどもショーレンは何故か、ここにあれを呼んではいけない。そう思った。
 アルファーダの民が、初めて見るレミュールの浮上車に恐れを抱くかもしれない。それに何より、イディアの様子も気になった。
 いつも穏やかな優しい瞳をした青年が、遠目に見ても分かるくらいに動揺している。あんな様子のイディアを見るのは、ショーレンが初めて彼と対面したあの時……サークレットの翡翠石に恐怖を覚えたあの時だけだ。
「リューヤ、悪い。パルラを貸してくれないか? この町から離れたところで、あれを出迎えてくる」
 ショーレンは、やはり隣で驚きの眼差しを空に向けていたリューヤに声をかけた。
「アルディス、あれが何なのか知ってんの?」
「ああ。レミュールの乗り物だ」
 じっとイファルディーナを見つめたまま、ショーレンは応えた。こうしている間にも、車はどんどんこちらに向かって近づいてくる。
「……アルディスを迎えにきたのかな」
 ふうっと、リューヤはしょんぼりとした顔になった。せっかく仲良くなったのに、もうお別れなのかと思うと寂しかった。
「たぶんな。でも、そんな顔すんなよリューヤ。俺はすぐには帰ったりしないぞ。まだこっちで調べたいこともあるしな」
 ショーレンは明るい笑みを浮かべ、沈んだリューヤの頭に手を置いた。意志の強さをうかがわせる藍い瞳が、ぱちりと片目だけ閉じられる。
 『調べる』と言うと無粋な言葉に聞こえるが、ようはレミュールとあまりに違うこのアルファーダに対する好奇心が、まだおさまっていないということなのだろう。
「別にっ、帰らないでほしいなんて言ってないだろ! アルディスが帰ったって、おれは寂しくも何ともないぞっ」
「そーか? 俺は寂しいけどな」
 にっこり笑いながらそう言われて、リューヤはつんっと横を向いた。しかし、楽しげに自分を眺めてくるショーレンの視線に、降参したように息をつく。
「ちぇっ。アルディス、むかつくよなぁ」
 ぼやくように言いながら、リューヤは青年に自分の後ろに座るように指し示した。パルラを貸すのではなく、自分も一緒に行こうというのだろう。
「じゃあ頼むな。リューヤ。それにパルラも」
 ひょいっとパルラの背に乗りながら、ショーレンはくすりと笑った。
 パルラは名残惜しげに一度だけイディアのいる方を見やると、くうっといなないて町の外に足を向けた。
「悪いな。あとでしっかり甘えさせてもらえよ」
 なだめるように軽く背を叩いていてやりながら、ショーレンは再び空を仰ぐ。
 誰が自分を探しに来てくれたのかは知らないけれど、レミュールの人間がこのパルラを見たらどんな反応をするだろうか? ショーレンは少し、楽しみな気がした。


「この辺でいいかな」
 町から少し離れた場所にある細流の川岸にやってくると、パルラは足を止めた。
 身軽にその背から降りると、ショーレンは大空に伸び上がるように、イファルディーナに向かって大きく手を振ってみせる。
「そんなんで、気付くのかなぁ」
 リューヤは疑わしげにショーレンと空を見比べた。
 どこまでも遠く広く続くこの空と大地に比べれば、自分たちなどほんのちっぽけな存在だ。その広大な荒地の中で、たかだか手を振ったくらいで、天を飛ぶ車が自分達に気付くものなのろうか?
「わかるさ。俺の生体波動かなんかを頼りに捜索してるはずだからな。人間が気付かなくてもレーダーがキャッチしてくれる」
 にやりと笑って、ショーレンは更に天に向かって手を振ってみせる。
 イファルディーナはすぐにショーレンに気が付いたように、ゆっくりと高度を下げながら彼らの待つ川岸に近づいてきた。
 微かなエンジン音を上げてゆうるりと川岸近くに降り立つと、驚くリューヤの目の前でその扉が開かれる。
「ショーレン!!」
 その中から見慣れた親しい友人たちの顔が飛び出してくるのを見て、ショーレンは瞳を細めた。中から走り出てきたのは、ルフィアとアスカだった。
 やはり彼らが来たのかという嬉しみと、ほんの1週間離れていただけであるにも関わらず、ひどく懐かしい気がして、ショーレンはくしゃりと笑う。
「よかった……ショーレン。シャトルが爆発した時は、ほんっと驚いたんだよ。すっごく心配してたんだから。左京っていう人が、ここには猛獣もいるっていってたし」
 ぴょんっと長身のショーレン抱きつくと、ルフィアは満面に笑顔をたたえてその無事を喜んだ。
「悪いな、ルフィア。来てくれてありがと」
 にこりと笑って、ショーレンはルフィアの頭を軽くたたく。
「元気そうで良かったよ。まあ、おまえなら猛獣を食うことはあっても、食われることはないと思ってたけどな」
 声を上げて笑いながら、アスカは1週間ぶりに会う友人の顔をしげしげと見やった。もう少しやつれているかと予想していたが、別れた時と変わらず健康そのものなその姿が、なんだか可笑しかった。
「おーまえなあ、ルフィアみたいにもっと感動的な再会は出来ないのかよ。ったく」
 呆れたように言いながら、ショーレンは楽しげに笑った。まあ、それがアスカらしいと言えば、あまりにらしくて嬉しい気もするが……。
「おいアルディス、何だよこいつら?」
 少しむくれたように、リューヤはショーレンの袖を引いた。
 いきなり親しげな人間が現れたのが、リューヤには気に食わなかった。そんな自分がバカみたいだと思いながらも、つい口を尖らせてしまう。
「このあいだ話しただろ。レミュールにいる、俺の親友たちさ」
 ショーレンは軽く笑うと少年にウィンクしてみせた。
「ああっ! むっちゃ変わり者のアスカと、気は強いけど美人なルフィア?」
 小悪魔的な笑みを浮かべ、リューヤはとんでもないことを口にする。
「リューヤ!」
 ショーレンは慌てたように少年の口を塞いだ。けれども、もう遅い。
 ルフィアは軽く肩を竦め、アスカはにやにや笑いを浮かべてショーレンをちろりと見やった。
「ほお。そーんなふうに言ってたんだ俺のこと。ショーレンくん」
「自覚がないのか? 可哀相に」
 ショーレンはリューヤに軽く舌を出してみせてから、わざと真剣な表情を浮かべてアスカに嘆く真似をしてみせた。
「ふん。別に俺は好きなことをしてるだけだから、いいけどな」
 ひょいっと肩をすくめながら、相変わらずなショーレンの言動に安心したようにアスカはからからと笑った。
「アスカ、回収が済んだら出発させたいんだけど?」
 窓からティアレイルが顔を出し、お互いの話に花を咲かせようとした三人を促した。このまま放っておいては、いつまでここで話しているか分からない。
「回収って……ティア、こいつはいちおう物じゃなくて人間だぞ」
 にやりと笑って、親指でショーレンを指す。
「そういうつもりで言ったわけじゃない。私はただ……」
「わかってるって。単なる軽口だ。なんでも真面目にとるなよ、ティア」
 穏やかな翡翠の瞳を苛立たしげに細めた幼なじみに、アスカは大げさに手を広げて溜息をついた。
 それを見て、ショーレンの目が丸くなる。
「ティアレイルも来てるのか?」
 アスカやルフィアが自分を探しに来てくれたのは分かる。しかし、ティアレイルは何故ここにいるのだろうか?
 それに何よりもあの『科学嫌いのティアレイル』が浮上車に乗っていること自体、驚くに値することだ。
「事情はいろいろとな。あとでゆっくり話す」
 アスカは口許を歪めると、肩を竦めてみせた。いろいろと話すことがありすぎて、今すぐここで説明するのは難しい。
「なあ、アルディス。あれ……誰だ?」
 リューヤはくいくいとショーレンの袖を引いた。その幼い瞳がティアレイルに釘付けになっているのを見て、ショーレンはああと頷いた。
 なにせ、自分だってイディアを初めて見た時に『似ている』と思ったのだ。その逆があるのは当然だ。
「ティアレイルっていって、こいつの幼馴染みだよ」
 ぐいっとアスカを前に押し出して、リューヤにみせる。
「……ふうん」
 リューヤは不思議そうに首をかしげてアスカを眺め、そして、おもむろにティアレイルに駆け寄った。
「名前もイディア様に似てるんだねえ。なんで? イディア様のお知り合い?」
 リューヤは無邪気にティアレイルに話しかける。
 その問いかけがあまりに無邪気だったからなのか、ティアレイルは小夜や左京の時のように不快感は感じなかった。
 いつもの穏やかな笑みを浮かべ、リューヤの頭を軽く撫でてやる。
「私は、その人とは全く関係ないよ。……そんなに私とその人は似ている?」
「うーん。顔は違うけど、雰囲気が似てるよ」
 リューヤはにこにこと笑った。大好きなイディアと雰囲気が似ているからなのか、リューヤはティアレイルのことも気に入ったようだ。
 その目にいっそう楽しげな笑みが浮かんでいた。
「ショーレン、あの子は何なんだ?」
「うん? ああ、命の恩人かな。荒野をさまよってるところを拾ってもらったのさ。今はあの子……リューヤっていうんだが、彼の家に住ませてもらってるんだ。あいつひとり暮らしだからな、今の俺は気楽な居候だ」
 不思議そうなアスカの問いに、ショーレンは楽しげに笑った。
 リューヤに出会わなければ、自分はあの荒野をずっとさまよう羽目になったかもしれない。自分が落ちたあの場所と、この湖の町にはかなりの距離がある。自力でたどり着いたとは思えない。そうなれば、自分は生きていなかっただろう。
 そうショーレンは思うのだ。それほど町の外は荒廃している。いろいろとリューヤに話を聞いてみても、それは確実なことに思えた。
「あんな子供がひとり暮らしか?」
「もともとは孤児だったらしいんだ。ここにはイディアっていう神官がいるんだが、彼に育てられたと言ってたな」
 イディア ―― ! アスカはふいに友人の口から出たその名前に目をみはった。それは、トリイの町でさんざん聞かされた名前だ。
「ショーレン、イディアって奴の話をあの子から聞いたことあるか?」
 いつになく真剣な表情がアスカの面に浮かび、ショーレンをじっと見やる。ショーレンは訝しげにそんな友人を見返した。
「ああ。イディア本人とも何度か話したことあるけど、それがどうかしたのか?」
「……いや。ここに来る途中、トリイの町ってとこでいろいろ言われたんだ。ティアがそいつに似てるとかなんとか」
 ショーレンは納得したように頷いた。
「顔かたちが似てるわけじゃないぜ。なんていうのかな。雰囲気が似てるっていうか。ほら。あの表情の作り方なんてそっくりだぜ。あとは腹の底では何考えてるか分かんないとこもな」
 穏やかにリューヤと話しているティアレイルを視線で指し示し、ショーレンはにやりと笑った。
 ティアレイルもイディアも、いつも穏やかに微笑んではいるけれど、ショーレンからしてみれば、2人とも本心から笑っているようには見えなかった。
「ふーん? ティアの考えてることなんて分かりやすいと思うけど。……でも」
 アスカは軽く眉根を寄せた。
 あの時……こちら側に来たばかりの頃、風の中に感じた気配を自分もティアレイルに似ていると思った。それがイディアの気配だったのだろう。そう思うと、なんだかとても嫌な気がした。
「ティアに何か悪い影響がなければいいんだが……」
 考え込むように呟いて、宙をかるく睨む。ショーレンの口から出た2人に対する評価に、何故だか妙な胸騒ぎがした。
「前から思ってたんだけど、おまえってティアレイルのことになると心配性になるよな。過保護っつうか、普段とまったく態度が違うんだよ。それじゃあ友人ってよりも保護者みたいだぜ、おまえ」
 ふいに深刻そうな表情をした友人に、ショーレンは溜息をついた。
「……そうか?」
 アスカは訝しげにショーレンを見る。
 まるで自覚がないらしい。幼い頃からずっと兄のように接してきたのだから、仕方がないといえば仕方がないのかもしれない。
 だがティアレイルにとってはあまり嬉しくはない反応だろう。仮にも『魔術派の象徴』と呼ばれ、一身に人々からの尊崇を受けている存在なのだ。ショーレンはその心中を思い、苦笑した。
「これは、いったい何の集まりだ?」
 ふいにイファルディーナとその周囲に風が起こった。
 緩やかな優しい風とともに届いた静かな声音に、そこに居たすべての瞳がそちらに向けられる。
 ゆうるりと薄藤のローブをまとった美しい銀髪の青年が、風の中心に佇んでいた。
 彼はどこか青ざめたように、しかしひどく優しげな微笑を口許にたたえ、周囲の様子を見つめていた。
「あ……イディア様。アルディスの友達が、迎えに来ちゃったんです」
 寂しそうに口を尖らせて、リューヤはイディアに訴える。家族のいないリューヤにとって、ショーレンが『兄』のような存在になっていることを、イディアは知っていた。
 自分も何度かこの闊達な青年と話をし、確かに気持ちの好い人間だとも思った。けれど ―― 彼がレミュールの人間であることには変わりがない。
「もともとアルディスは反対側の人間なのだから。仕方がないだろう? わがままを言ってはいけないよ」
 イディアは優雅な足取りでリューヤに近付き、同じ目線の高さに腰を落とすと、その髪を優しく撫でてやった。
「……はい」
 リューヤは頷きながら、しゅんと下を向いてしまう。
 そんな様子に不憫だとも思ったが、イディアはこれ以上リューヤに、レミュールの人間と親しくして欲しくなかった。
 哀しげに微笑むと、ゆうるりと立ち上がり視線を元の高さに戻す。
「 ―― !?」
 ふと、その瞳が信じられない物を見たように見開かれた。
 目を向けたその先に、自分を凝視する眼差しがあった。静かに、しかし激しく自分を見ている瞳。自分と同じ感覚を持つ、翡翠の ―― 。
「…………」
 イディアは深く息を吸い込んだ。
 自分と同じ感覚をその身に宿した存在が、そこにいる。その存在にまとわりつく微かな『気』に、それが裏側の人間であることはすぐに分かった。
 レミュールの人間からは、必ずといっていいほどカイルシアの守護ともいうべき気が感じとれる。リューヤがショーレンに初めて会ったときに『幽霊の匂い』と言ったのも、その『気』のことだ。
 一瞬、頭の中に光が拡散したように、イディアは気が遠くなった。
「あなたがイディア……か?」
 ティアレイルは息苦しげに首許を押さえ、薄藤のローブに身をつつんだ美しい青年を見やった。
 自分が他人に魔力で劣ることがあるなどと思ったこともなかったけれど、このイディアの内に秘められた魔力の大きさに、ティアレイルは確かに圧倒されていた。
 そしてまた、奇妙な懐旧の念にとらわれていた。
 この人を、知っている ―― 。会ったことも、見掛けたことすらないはずの人。しかし、確かに自分はこの存在を知っている。そう思った。
 それは既視感だったのかもしれない。ただ、ひどく懐かしい気がした。
 ―― 何故、あなたは幽霊なの? ティアレイルの中にゆっくりと、トリイの町で巫女の少女に言われた言葉がよみがえる。
 それはまるで、自分がレミュールではなくこのアルファーダに在るべきはずの存在だと、そう言っているようではなかったか?
 ティアレイルは考えに沈むように瞳をゆっくりと閉じた。
 そんなティアレイルの思考を現実に引き戻したのは、イディアの静かな声だった。
「……君はいったい何だ?」
 その問いが自分に向けられているのだと、すぐにティアレイルには分かった。イディアもまた、自分と同じ感情を抱いたに違いない。
 目を開けると、イディアは穏やかな、しかしどこか緊張したような翡翠の瞳を、じっとティアレイルに注いでいた。
 ティアレイルは心を落ち着かせるように、ひとつ、ゆるやかな瞬きをした。
「私は……ティアレイル=ミューア。レミュールの魔術者だ」
 ことさら簡潔に、ティアレイルはそう自分を表現した。それ以外に、いうべき言葉が見付からなかった。
「レミュールの、魔術者……」
 イディアはその言葉に、体中の血液が逆流するような感覚に見舞われた。レミュールの魔術者。それは彼にカイルシアの存在を連想させる。
 カイルシア……このアルファーダを犠牲として、自分の生まれ育った大陸だけを、自分の大切な者たちだけを救った男!!
 イディアの心の中で、煮えたぎる憎悪が頭をもたげようと蠢いた。しかしすぐに、イディアは自分の胸元を強く掴み、深く深く息をする。
 激情してはいけない。それが、自分が自分でいるための戒めだった。
「まただ。あのサークレットの翡翠石……」
 ショーレンはポツリと呟いた。
 初めて見た時と同じように、イディアの額で揺れる翡翠石が鈍い輝きを放っていた。いや、あの時よりも更に強く激しい光だとショーレンは思った。
 目の前にいたティアレイルも、もちろんその輝きに気が付いた。
 気付くと同時に、激しい悪寒が走る。イディアに対してではない。額で揺れる、翡翠の珠玉に対してだ。あの翡翠石はイディアが激情するのを待っている。そうティアレイルには思えて仕方がなかった。
「イディア様、どこか具合でも悪いの?」
 リューヤは心配そうに、敬愛する青年を覗き込んだ。こんなにも苦しそうにしているイディアを見るのは初めてだった。
「大丈夫。……何でもないよ」
 イディアは優しい微笑を浮かべ、ふっと顔を上げる。
 穏やかすぎるその表情は、誰かが少し肩を押せば狂気の底へ落ちていくような、きわどい笑みであるようにも見える。
 呼吸を整え、イディアはゆっくりと『幽霊たち』を眺めやる。故意にティアレイルから目をそらすと、その視線をショーレンの所で止めた。
「……もう少し、湖の町にいてやってくれると嬉しい。リューは君がとても好きだから」
「ああ。まだ、帰るつもりはないよ」
 ショーレンがそう応えると、イディアはちょっと笑った。そして、隣に佇む少年の髪を優しく撫でた。
「良かったね、リュー」
「はいっ」
 リューヤは心底嬉しそうに、目一杯の笑顔でイディアに応える。
「……では、私は失礼させてもらう」
 イディアはそう言うと、今度は誰の応えも待たず風の中に消えた。カイルシアの末裔たちから一秒でも早く遠ざかりたい ―― 。それが本心だった。
「大丈夫かなあ、イディア様」
 心配そうにリューヤは眉をひそめた。なんだか、いつもの穏やかで優しいイディアの波長が少し乱れているような気がした。
「『月』の様子を見に行って、疲れてるんじゃないか? 心配するな。明日には普段のあの人に戻ってるさ」
 ショーレンはくしゃくしゃとリューヤの髪をかきまぜながら、にっと笑った。
「ったりまえだろお」
 ぷんと頬を膨らませ、リューヤは悪態をつく。それでもやっぱり心配なのか、町の方をちらちらと見た。
「先にパルラで帰ってろよ。こいつら全部がパルラに乗るわけにはいかないだろ。俺があとから引き連れて帰るよ」
 ショーレンは優しい笑みを浮かべ、少年を追い払うように手を振ってみせる。
「……うん。さんきゅ、アルディス!」
 嬉しそうにリューヤはパルラに跳び乗った。
「じゃあ、またあとでな」
 そう叫ぶと、リューヤはパルラを疾走させ、一目散に町に向かって戻っていった。
 それを見送っていたショーレンの表情が、ふいと真剣さを帯びる。
「……で、アスカやルフィアはともかく、何でティアレイルや、えっと魔術研のハシモトさんまでが来てるんだ? 俺の捜索ってだけじゃなさそうだよな」
 今までの疑問を質すように、ショーレンは4人に順繰りと視線を巡らせた。それ相応な理由がなければ、科技研と魔術研が合同で動くはずがない。
 しかも魔術派の象徴まで出して来たとなれば、1アカデミー員の捜索レベルの問題でないことは明らかだった。
 夜が明けないことで、何か重大なことでも起きたのだろうか? ショーレンの意志の強そうな藍い瞳が凛と閃くように、アスカのところで視線をとめた。
 アスカも表情を改め、深刻そうに頷いた。
「ああ。レミュールが死滅するかどうかって問題さ。実は……」
 両アカデミーの代表者であるロナとルナの二人に聞いた話と、<古月之伝承>についての要点を簡潔にまとめ、自分達が『D・E』と呼ばれるこちら側に来たその経緯と目的を、黒髪の友人に話す。
「ふ……ん、レミュールに月が落ちるのを防ぐために来たってことか。それで『止めなければいけないあいつ』っていうのは、もう見つかったのか?」
 吟味するようにアスカの話を聞いていたショーレンは、不意に顔を上げ、斜め向かいにいたティアレイルを見やる。
 はっと、アスカやセファレットたちも真剣な眼差しを大導士に向けた。
 みんな薄々気が付いてはいた。月を落とす……そんなことが出来るほどの人間はそういるものではない。それにトリイの町の巫女が言ったことを考えれば、おのずと答えは出てくるというものだった。
 ―― イディア。
 あの、突然現れた時に感じた圧倒感。魔術者ではないルフィアにだって、その彼が内に秘めている魔力の強大さを感じ取ることが出来たほどである。
 だが、イディアの人柄というか、その雰囲気を見た限りでは、そんなことをする人物には思えない。否、思いたくなかった。
「たぶん……さっきのイディアという人だ」
 周囲の人間達の思惑を裏切るように、ティアレイルは静かな口調で、やはりその人物の名を挙げる。口調だけは淡々としていたが、その表情は僅かに青ざめていた。
「それは、確かなのか?」
 ショーレンは確認するように問い返す。本当にそうだとしたら、自分の立場は微妙なものになってくる。
「カイルシアが示していた人物は、確かに彼だ」
 ティアレイルは翡翠の瞳に強い意志を浮かべ、科技研の青年の目を見返した。
 しかし、すぐに憂鬱そうな色がティアレイルの瞳に影を差す。
「だが、月を乱そうとする魔力の存在は、彼から感じられなかった」
 言ってから、ティアレイルは自分の言葉を恐れるように両手で口許をおおった。
 さきほど自分と対面した時のイディアの表情と、その額に揺れる翡翠石の鈍い輝きとが、鮮明に脳裏に浮かぶ。
「 ―― 私たちがここに来たことが、イディアを追い詰めることになるかもしれない」
 トリイの町で感じた嫌な予感はこれだったのか! ティアレイルはそれに早く気付けなかった自分を呪った。
 そしてまた、トリイの町の二人の言葉にもっと耳を貸していればよかったと、後悔した。もっと早くにそうと気付いていれば、イディアに会いはしなかったものを……。
「考えるのは、流月の塔に行ってからにしよう。ここでうだうだ考えてたって、何も見えてはこないさ。すべての答えは流月にあるんだろう?」
 ショーレンは溜息をつきながらそう言った。あまりにティアレイルが青ざめているので、落ちつかせないといけないと思った。
「 ―― ああ。そうだね」
 ティアレイルはどこか虚ろな瞳をショーレンに向け、頷いてみせる。
 ショーレンは一瞬、そのティアレイルがイディアであるような気がして目を見張った。しかし、自分の目の前にいるのはやはり、ティアレイル以外の誰でもない。
 ショーレンは軽く息を吐き出すと、頭を振った。
「今日はひとまずリューヤの家に行こう。あいつならたぶん流月の場所も知ってる」
 一瞬の動揺を隠すように、ショーレンはそう皆を促した。
「そうだな。仕方ないか……」
 アスカは軽く頷くと、町があるという方向へ視線を向けた。
 ティアレイルのことを考えると、これ以上D・Eの人間に会うのは避けたいとアスカは思っていた。しかし、そんなことを言っている場合ではないことも、分かっている。
「家に行くの? じゃあ久し振りに、ちゃんとした場所で眠れるんだね」
 セファレットは嬉しそうに、にっこりと笑った。その、彼女の現実的な欲望を表したひとことに異を唱えられる人間はいない。
「リューヤくんには迷惑かもしれないけど、私もそれは嬉しいな」
 ルフィアは明るい笑顔をつくると、セファレットの言葉に同調する。
 1週間もちゃんとした場所では眠っていなかったのだ。皆に疲れとストレスがたまってきているのは確かだった。
「 ―― 流月の塔の場所が分かるのなら、私にも異存はない」
 ティアレイルはやや青ざめたまま、そう言った。
「じゃあ決まりだな。今日はとにかく休もう。イファルディーナは町の人間が驚くとまずいから、ここに置いていけよ」
 そう言うと、ショーレンは他の4人を促し、徒歩で湖の町へ向かって行った。




Back Top Next