降り頻る月たちの天空に-------第2章 <1>-------
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 パルラが遠く続く荒野をぬけると、豊かな自然に囲まれた町が見えてきた。
 レミュールにある洗練された街とは違い、どこか暖かな『故郷』を思わせるような静かな町だった。
 町は、外に広がる荒野から人々を護るように樹木に優しく包みこまれている。
 全てが『自然』と共生した童話の世界のようなその雰囲気に、ショーレンは一瞬圧倒された。
 ふと思い出したのは、数年前に『創世記念』で魔術派が語った言葉だった。
 ―― 自然と共に在る生活が人々の理想郷である、という言葉。続く言葉は確か、それを成すのは魔術派だという自賛の言葉だったと思うが。
「なあリューヤ、ここの人間は魔術を使うのか?」
 その問いに、リューヤは思わずショーレンを仰ぎみた。
「幽霊……じゃなくてレミュールだっけ? そっちの人間は使わないのか?」
 不思議なものでもみるように、リューヤは逆にそう尋いてくる。
 その反問は、既に彼らが魔術を使うことを肯定しているも同然である。ショーレンは苦笑して肩をすくめた。
「使う奴もいるけど、俺は使えないな」
「ふーん、まあアルディスは見るからに使えなそうだもんな」
 けたけたとリューヤは笑った。確かにどこから見ても、ショーレンに魔術者は似合わない。どこがどうというわけではないが、やはり人にはタイプというものがある。
「おまえなあ、その言い方はないだろう」
 ショーレンは軽くげんこつを作ると、リューヤの頭をポカリとやった。
「あ、弱いものいじめはいけないんだぞ」
 リューヤは頭を抱えて口を尖らせる。別に痛かったわけではないのだが、ショーレンとの掛け合いが楽しくて仕方がなかった。
 今まで自分の周りには、こういうタイプの人間はいなかった。どちらかと言えば物静かな人間が多いのである。
 そんな中でリューヤの闊達さは異色だったのだが、それにも増してショーレンは異彩を放っているように思えた。
「……リューヤ、誰なのその人は?」
 ふと、少年を呼ぶ声がした。
 リューヤがパルラの歩みを止めて振り返ると、そこには洗濯物の入った大きな籐かごを手にした女性が立っていた。
 不審そうにまじまじと、ショーレンを見つめている。
「ローズおばちゃんか。こいつはアルディスっていうおれの友達だよ」
 しゃあしゃあとリューヤはそう言った。
 リューヤが連れている青年は『幽霊』のような気もするが、幽霊には敏感なパルラが拒否反応を示していないので、ローズは不思議に思ったのだ。
 『よそ者』であると知れば、あまり厚遇しないのがこの町の気質なのである。
 彼らにとってのよそ者は、結界向こうのレミュールの人間のことだが、彼らはそれを『幽霊』と呼び、忌み嫌っていた。
 レミュール側にしてもここを『D・E』と呼び、近付かなかったのだから、おあいこと言えばおあいこである。
「……そう。ならいいのだけど」
 リューヤに幽霊を庇う理由などあるわけもない。だからローズはその言葉を信じた。
 青年はこの町では見たことのない顔だが、アルファーダにある他の町の人間なのだろう。自分たちは町の外には出ないが、リューヤはよくイディア様の使いで遠くに行く。その時にでも知り合ったのだろう ―― 。
 ローズはそう納得すると、何かを思い出したように、ぽんと手を打った。
「そういえばさっき、イディア様がおまえを探していらしたわよ」
 その言葉に、リューヤは飛び上がった。
「イディア様が? 早く行かないと!!」
 待たせてはいけないと、リューヤは急いでパルラを走らせようとする。
 そこでふと、彼は困ったように後ろに座っているショーレンに視線を向けた。1分でも早くイディアのところに行きたかったが、ショーレンをここに放り出して行くわけにもいかない。
 ショーレンは、その『イディア様』というのが、さっきリューヤが言っていた『すべてを知る人間』なのだとピンと来た。
 この元気な少年が心底尊敬しているという存在を見てみたい。ショーレンの心に再び好奇心が沸き上がる。
「俺も行こうかな」
「じょーだんじゃない! そんな砂まみれでイディア様に会うなんて、失礼だろおっ!」
 ずずいとショーレンの顔を引き寄せ、思い切り叫ぶ。けれどもショーレンは楽しそうにその目を見返した。
「でも、急ぐんだろ?」
「……ううっ」
 リューヤは小さく唸って爪を噛んだ。
 ショーレンを置き去りにしてイディアの所に行くか。それともイディアを待たせてショーレンを家まで送るか……。
 両方とも嫌だ。そうリューヤは思った。となればショーレンが言ったように、彼をイディアの所に連れて行くしかない。
「仕方ないなあ。でも、そんな砂だらけでイディア様に近付くなよなあ」
 しぶしぶ呟いて、溜息をつく。
 しかし、そうと決まれば一刻も早く出発したい。リューヤはパルラの頸を軽くぽんぽんと叩いた。
「パルラ、イディア様の所に行け」
 パルラは嬉しそうに柔らかな尾を軽く一振りして、「くうっ」と明るい声を上げると足取り軽く走り始める。
 さっき荒野を抜けた時のような疾走ではない。なにせ町の中なのだ。外で遊ぶ子供や、お喋りを楽しむ婦人など往来に人が多くいる。こんな所でパルラが疾走したら怪我人どころか死人が出る。
 それをきちんと理解しているのか、器用に人を避けながらパルラはイディアがいる町の中心に向かって走った。
 町の中心に進むにつれて人の姿や家は減り、反対に樹木の数が増えていく。
 深く静かな森の中を流れる心地好い風に、ショーレンはゆるりと笑った。
「この辺りは、ずいぶん涼しいんだな」
 樹木が地上になげかける優しい影と、柔らかに吹いてくる水分を含んだ涼やかな風に、今まで暑くて肩までたくしあげていた上着の袖を肘まで下げる。
「町の真中にある湖から吹く風のせいだよ。もう少し時間が経つと風が行き渡って、アルファーダ全域が過ごしやすくなる。みーんなイディア様のおかげなんだぞ」
 リューヤは軽く振り返り、得意げな笑みを浮かべた。
「……ほう?」
 ショーレンは感心したように頷いた。
 リューヤの『イディア様』は何でも知っているだけでなく、多くの『恩恵』をもたらしてくれる人物らしい。
 何を根拠に湖から吹く涼風がイディアのおかげと言うのか、などという無粋な疑問はショーレンの頭には浮かばなかった。
 魔術者の中には、その源である大自然をも従わせてしまう人間が稀にいるのだとアスカに聞いたことがあったし、それにショーレンはリューヤの言葉を否定するつもりなど、さらさらないのである。
「イディア様は、みんなに『安らぎの夜』を与えてくださってるんだ。あんまり暑いと眠れないだろうからって」
 アルファーダには夜の『闇』がない。太陽が沈むことなく、天空に在り続けるのだからそれは当然だ。
 闇夜の優しさに包まれることのないここでは、唯一安らげるのが、イディアの『涼風の吹く時間』なのである。
 ショーレンが感心しているようなので気を良くしたのか、リューヤは先程「もったいない」と教えてくれなかったイディアの話を、嬉しそうにした。
 どんなに優しい人なのか。そしてどれだけ偉大な人なのか ―― 。
 本当に彼はイディアのことが好きなのだということが、その言葉の端々からにじみでている。ショーレンは楽しそうに目を細め、そんなリューヤの話を聞いていた。
 ふと、パルラが歩みを止めた。
 気が付くと、眼前に森閑とした湖が広がっていた。
「あっ。もう着いたよ、アルディス」
「 ―― ここ!?」
 思わずショーレンは息を呑んだ。
 碧く澄んだ水をたたえた湖に、静かな趣の神殿が佇んでいる。そして、その脇には白く優美な大鐘楼が……。
 それは、魔術研究所の『湖上の大鐘楼』によく似た風景だった。
「ここがイディア様のお住まいだよ。綺麗なところだろ」
 リューヤは得意気に笑う。ショーレンがあんまりにも驚いたような声を出したので、この景色の美しさに感嘆したのだと勘違いした。
「あ、ああ。綺麗だな」
 ショーレンは驚きを素早く呑み込んで、そう応えた。似たような場所を知っているなどと、このリューヤに言えるはずもない。
「リュー、戻ったようだな」
 不意に風が、柔らかな声を二人の耳に運んできた。今まで閉じていた湖上の建物の扉が僅かに開き、その中に人影が見えた。
「イディア様!」
 リューヤは嬉しそうにその名を呼んだ。その間に湖が広がっていることも気にせずに、イディアに向かって走り出す。
「そこにいなさい。私がそちらへ行こう」
 少年が駆け寄ろうとするのを柔らかな声が制止し、薄藤のローブをまとった一人の人間が、ゆっくりとこちらに向かってくる。
 その人は、水の上を歩いていた。
 鏡のように静まった水面は彼の歩くとおりに僅かな波紋を広げたが、そのローブの裾は濡れることなく、ふわりふわりと風に舞っている。
 その近付いてくる人物を見て、ショーレンは意表を突かれたように目を見張った。
 彼は『イディア』を知的で穏やかな老人だと思っていた。『すべてを知る』という言葉から連想したのが『老人』だったのだが、実際こちらに歩み寄って来るのは自分より二つ三つ若そうな、美しい青年だった。
「イディア様」
 青年が岸に着くと、リューヤはすぐに駆け寄った。
 ぴょこんと頭を下げると、今までに見せたどの表情よりも元気な、溢れんばかりの笑顔を浮かべイディアを見やる。
「いつも元気だな、リューは」
 青年は穏やかな瞳を少年に向け、優しく笑う。
 そのイディアを真向から見て、ショーレンはまたもや息を呑んだ。目の前にいるその人物は、ある人間をショーレンに連想させた。
 ティアレイル=ミューア大導士 ―― 。
 顔の造形は違う。けれども。雰囲気がよく似ていた。
 瞳は同じ翡翠。髪はティアレイルが蒼っぽい銀色なのに対し、イディアは白銀の長髪という違いがあるだけで、同じ銀髪。
 しかし何よりも似ているのは、その表情の作り方だった。
 見た者すべてを安堵させるような、穏やかな穏やかな表情。けれど ―― 精巧な偽物の笑み。
 その仮面の下には、いったいどんな表情があるのだろうか……。
「イディア様、おれを探してたって聞きましたけど、何か御用ですか?」
 リューヤはイディアと話すことが嬉しくて仕方がないのか、弾んだ口調になった。
 イディアはにっこり笑うと、少年の目の高さまで腰を落とした。
「いや、幽霊の街からこちらに人間がやってくる気配があったのでな、町を出る時は気を付けるようにと、そう言おうと思っただけなのだが……」
 イディアは自分の瞳の色と同じ翡翠石を埋め込んだ額環サークレットを揺らし、ショーレンを振り返る。
「もう、会ってしまっているようだな」
 一瞬、身も凍るような激しい恐怖がショーレンの脳髄を走った。
 イディアの額環に埋められた翡翠石が、静かな両眼とは裏腹にショーレンを睨めつけるような鈍い輝きを見せていた。
 剛毅なショーレンが恐怖を覚えるほどに、その翡翠石は深い『憎悪』を宿しているように感じられた。
 イディア本人がとても穏やかな表情をしていたからこそ、なお恐ろしいとショーレンは思った。
 リューヤはそんなイディアの額環の輝きに気付いた様子はなく、照れたように笑う。
「はい。トリイの町から帰ってくる途中、荒れ地で会いました。当分の間、おれの家にいると思います。幽霊の街の話をしてくれるって約束したんです」
 言いながらリューヤは、自己紹介しろとばかりにショーレンをつつく。
 ショーレンは気を取り直すように頭を一度振ると、あざやかな笑みを浮かべて、すっと前に手を出した。
「アルディス=ショーレンだ。こんな砂まみれで失礼する」
 先程リューヤに言われた言葉を思い出し、ショーレンはわざとそう言ってみせた。
 イディアはふわりと笑い、軽く握手に応じた。
「私はイディア=ロット。この聖殿の神官を務めている」
 銀髪の青年はとても穏やかな、春の陽を思わせる口調で言葉を紡ぐ。
 どこから見ても穏やかなその表情が、何故『作り物』だと思うのか、ショーレンは自分自身でもわからなかった。
 しかしどうしても、このイディアという青年からは『穏やかさ』以外のものを感じてしまう。先程のサークレットの件がなかったとしても、自分はそう思ったのだろうとショーレンは自覚がある。
 それは、初めてティアレイルに会った時にも感じたことだったのだから……。
 魔術者に対する偏見を持っているわけではない。けれど、内に宿したあまりに強大な魔力にそう感じるのかもしれない。ショーレンはそう思うことにした。
「……神官、か。レミュールには既に存在しない職種だな」
 感慨深げにショーレンは目の前の青年を見る。
「アルディス、イディア様はこの聖殿に住まわれている、神の御子様なんだぞ!」
 あまりに不躾なショーレンの言葉に、ひっしとリューヤは叫んだ。
 彼にとってイディアは『神』そのものだった。そんな大好きなイディアを軽く見られるのは嫌だった。
「……み、神子?」
 聞きなれない言葉に、ショーレンの目が丸くなる。
「そう呼ばないでほしいと、私は言わなかったかな?」
 イディアは僅かに苦笑を浮かべ、軽く吐息を漏らした。自分は神ではなく、ただの人なのだと。何度言ってもこの少年はきかないのだ。
「ごめんなさい。でも……」
 リューヤは拗ねたように口を尖らせた。イディアがただの『神官』であるなどと認めたくなかった。イディアが自分のことを神官だと名乗ること自体、リューヤは嫌なのである。
「まったく、おまえは……」
 なかば呆れたように、しかしとても優しく、イディアは笑った。
「あとでおまえの家に行こうかな。幽霊の街の話とやらを、私も聞きたい」
 きかんぼうな子供をあやすように、イディアは拗ねてしまった少年の瞳をのぞきこみながら、髪を軽く撫でる。
 リューヤは自分の家に来てくれるというイディアの言葉に、ぱっと顔を輝かせた。
「はいっ! じゃあ、アルディスをちゃんとお風呂に入れてからにしましょう。イディア様のお好きなハーブティーもいれときます」
 今まで拗ねていたことなどさっぱり忘れたように、すっかり機嫌のなおったリューヤは元気にパルラに跳び乗った。
「アルディス、早く行くぞ!」
「げんきんな奴だなぁ」
 急かすように自分を呼ぶ少年に、ショーレンは肩をすくめてみせる。
 この様子だと、リューヤは家に帰ったらイディアのために大掃除でも始めるかもしれない。そう思いショーレンは吹き出した。
「なんだよぉ」
「いや。べつに」
 くすくすと笑いながら、ショーレンはパルラに乗った。それを確認すると、リューヤはパルラの手綱を取る。
「じゃあ、イディア様。またあとで会いましょうね!」
「ああ。楽しみにしているよ」
 元気に手を振って、あっという間に遠ざかるリューヤたちを眺めながら、イディアはくすりと笑った。
 他の人々にはないリューヤの元気さを、イディアはとても気に入っていた。
「 ―― !?」
 ふと、イディアの脳裏に何かの気配がよぎる。それはひどく強力な波動。まるで雷光の直撃を受けたような感覚に、イディアは強く胸元を掴んだ。
「……他にも、まだ来るのか。カイルシアの末裔たちが……」
 唇を噛み、そう呟く。
 そのイディアの表情はリューヤなどが見たことのない、ひどく冷たく、そして燃えるような憎悪の表情だった。
「…………」
 ふわりと、涼やかな風がイディアの髪にまとわりついた。
 まるで何かを警告するように、しかしとても優しく白銀の髪を揺らす。
 その柔らかな風の感覚に、彼はふっと我に返った。憎悪に揺れた翡翠の瞳が理知的な輝きを取り戻し、緩やかに和む。
「そうだな。ありがとう風伯……」
 自分の中に生まれた憎悪を吐き出すように、イディアは深いためいきをついた。
「もうすぐ眠りの夜だ。こんな憎悪を振りまくわけにはいかないからな」
 風の警告に応えるようにイディアはふわりと微笑み、そしてやわらかな瞳を閉じて蒼天を仰いだ。
≪ ―――― ≫
 彼の唇が微かに動き、夢幻的なまでに優美で柔らかな響きを風に紡ぐ。
 それはひどく優しく、そして悲しい旋律。
 人の声とは思えぬイディアのその歌声が風に乗り、ゆるやかに天空を渡ってアルファーダに生きるすべての生命に安らぎの時間を贈る。
 遥かな昔、多くの生命と優しき夜の闇を失ったこの……『昼世界アルファーダ』に捧げる鎮魂歌のように――。




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