『遊びと研究』
うーんと。大きく伸びをしながら背もたれに身体を預け、ショーレンは天井を見上げた。
味気ない研究室の白い天井の端に小さな染みを見つけて、くすりと笑う。あれは先日、この科技研に所属してはいない友人が付けたものだった。
「あいつがあんなに興奮することもあるんだよなあ」
普段はしゃあしゃあとした余裕な態度を崩さない友人の、その時の様子を思い出したようにショーレンはにやりと目を細めた。
「なーに、一人でにやけてるんだよ。ショーレンくんは」
不意に横のドア付近から可笑しそうな声が聞こえ、ショーレンは再び笑う。聞きなれた良くとおる低音。その声の主こそが、いま自分が考えていた相手だったのだから。
おそらくまた魔術研の制服のままで勝手に科技研内に入ってきたのだろうと推測しつつ、楽しげに振り返る。案の定、海軍士官の軍服を思わせる白い制服を着た友人が、なにやら紙袋を肩に引っかけるように立っていた。
「ふふん。世にも珍しかった出来事を思い出していたのさ。アスカくん」
普段は互いに『くん』など付けて呼ばないくせに、こういうときに付けるのは会話で遊んでいる証拠だ。アスカは笑い含みにショーレンを見返した。
「珍しいこと?」
「ああ。おまえの魔力と俺のコンピューターが初めて接触に成功した時のことさ」
意志の強そうな藍い瞳を可笑しそうに細め、ショーレンは友人に天井を示す。その黒い小さな染みを見て、アスカは思い出したように苦笑した。
「あー、あんときの染み、落ちなかったのか? 悪かったな」
ぽりぽりとこめかみを軽く掻きながら、アスカは肩をすくめてみせた。あれは、自分がぶちまけたコーヒーによって付いた染みだった。
もちろん、わざとやったわけではない。
魔術と科学は互いに補いあうことで、より大きな力を発するという『科学魔術相互扶助論』を研究していた二人にとって、二つの力の接触成功は夢への第一歩といってもいい。
だからショーレンのコンピューターが接触成功を示す表示をあらわしたとき、歓喜のあまりアスカは手にしていたカップを思わず放り投げてディスプレイに駆け寄ったのだ。
「まあ、ちゃんと薬剤使って拭けば落ちるんだろうけどな」
「特に支障はないからいいってか? おまえらしいよ」
くっくっとアスカは肩を揺らして笑った。
「いや、とりあえず記念&戒めって感じだな。あれを見れば、これから研究に行き詰ってもさ、やろうって気持ちになれるだろ」
ショーレンは藍い瞳に闊達な笑みを浮かべ、互いに共通した夢を持った親友を見やる。
「ますます、ショーレンらしいよ」
アスカは可笑しそうに、けれども力強い笑顔になった。
「確かに、行き詰ることだらけだからな。まあ……もうちょっと研究が進んで少しでも賛同者が得られれば、手早く研究も進められるんだろうけどな」
この科学魔術相互扶助論は、まだ誰にも認められてはいない。ショーレンとアスカと。二人だけが考え、そして研究していることだった。二人とも互いにアカデミー所員として他にほかにやらなければならない任務も多く、扶助論の研究だけに没頭できないのが現状だった。
「ああ。そういえば、こないだルフィアがすごく興味を示してたからデータを貸したんだ」
「ふうん。ルフィアが手伝ってくれれば、かーなり良いトコいけそうだな」
科技研随一の技師といわれる女性の名前に、にやりとアスカは笑った。
惑星流体力学の研究者であり、またコントロールタワーのコンピューター管理を任されているショーレンと。科技研随一の誉れ高い技師のルフィア。そして魔術者である自分。三者三様の知識と経験を持ってすれば、また新たな展開を見ることが出来るのではないかと考えて、アスカは気分が高揚した。
「ははっ。そうだな。ルフィア協力してくれるってさ。で、おまえにって『コレ』を預かってる」
ショーレンはどこかイタズラな悪ガキのような表情をして、引き出しから小さな包みを取り出した。
「……なんだ、それ?」
「開けてみろよ」
可笑しそうに促されて、アスカは訝しげに包みを開く。その紺碧の瞳が、一瞬きょとんと丸くなった。
「片眼鏡? ……ああ、これって確かこの間発表された最新の網膜投影ディスプレイだよな」
脳波で操作し網膜に直結して表示させるコンピューターの最新機。科技研の発表を見たとき、一般発売したら欲しいなと思った記憶がある。だが、何故それをルフィアが自分にくれるのか、よく分からなかった。
「ふっふっふっ。甘いな、アスカ。それは普通の網ディスじゃない。ルフィアが相互扶助論のデータを基にして開発した魔術者専用だからな。おまえにしか使えないよ。まあデータが完璧じゃないから試作機らしいけどな。俺たちの研究が進めばそのたびに改良してくれるって言ってたぞ」
友人が左目に網膜投影ディスプレイを接続するのを見やりながら、ショーレンは楽しそうに笑う。
「すっげえな。さすが科技研随一の技師だ」
普通の網膜投影ディスプレイにはない機能。己の魔力とコンピューターのスムーズな接触と展開に、アスカは感嘆の声を上げた。これがあれば、どこででも研究を進められるし、魔力の解析や多くの範例も今まで以上に楽に得ることが出来るだろう。
「そりゃあ、ルフィアだからな」
自分が褒められたように、嬉しそうにショーレンは笑う。同僚であり友人でもある女性技師のことは本当に尊敬し、また信頼もしていた。
「それより、さっきから気になってたんだけどな。その紙袋は何なんだ? アスカ」
肩に引っ掛けるように友人が持っている荷物を視線で指し示し、ショーレンは訊ねた。
「ん……ああ。幻のカニクリームコロッケサンドだよ。ここに来る途中で買ってきた。昼食まだなんだ、俺」
にやりと、アスカは片目を閉じて笑う。
「限定百個で、たった十分で売り切れるというアンドーのあれか。よく買えたな」
「まあな。本当はどっかで食事してからここに来ようと思ってたんだが、店先を通ったら偶然コレがあったから急遽予定変更したんだよ」
特権階級的な立場にいるアカデミー所員の報酬はそれなりに高額である。けれども自分やアスカの生活感覚はまるで庶民的だった。それがなんとなく可笑しくて、ショーレンは思わず口元が緩んだ。
「そっか。じゃあ、さっさと食事して研究に取り掛かろうぜ。せっかくルフィアがスゴイ物をくれたわけだしな」
「うん? ショーレン。今日はもうコントロールタワーの方へは行かなくていいのか?」
「ああ。さっきウィードと交代したばかりだからな」
科技研所員としての今日の勤務時間はもう終了したのだというショーレンの言葉に、アスカは紺碧の瞳を細めて頷いた。
「じゃあ、お遊びはここまでにして、そろそろ本題に入るとしますか。ショーレン博士」
「望むところですな、アスカ導士」
お互いに視線を交わして、思わずぷっと吹き出す。同じ夢を共通する親友と出会えたこと。そして楽しく研究できるということ。それは、とても幸せなことかもしれないとショーレンは思った。
それは、アスカにしても同じ思いだった。
魔術と科学だけに限らず、何事も個々に偏るよりも"他"と協力し合い短所を補うことで、より大きな力が得られるのだとアスカは思う。
研究に没頭するだけではなく。遊ぶだけでもなく。こうしてショーレンという人間と出会い協力し合うことで、己の夢がひらけたように。
「ま、気長にやろうぜ。時間はたっぷりあるんだしな」
意志の強い笑みをその表情に浮かべながら、二人は最初の成功の証ともいえる天井の染みをもう一度。どちらが言うでもなく、ゆうるりと眺めやった。
『遊びと研究』 おわり
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