ふうっと。まわりが驚いてしまうような大きな溜息をつきながら、ロンはじっとりとフィアセルを見やった。穏やかそうな黒い瞳が、けれどもひどく呆れたような……苛立たしげな剣を含んで細められる。 「それで、預けておいた荷物はどうしたんですか?」 傍から見れば微笑んでいるようにも見える表情の中に、しっかりと怒気を含めているあたりがよけいにコワイ。ぴくぴくとその笑顔が引きつっているのがフィアセルにも良く分かった。 「だから、ごめんって言ってるでしょお」 フィアセルは反省するというよりはむくれたように、上目づかいに少年を見返した。確かに荷物をちゃんと見ていなかった自分も悪いと思うけれども、そんなに怒ることもないではないか。 本当に悪いのは、"麗しのティスリーヴ様"をうっとりと鑑賞していた自分の足元から、非情にも荷物を持ち去った置き引き犯だ。 「……それはそうなんですけれどね。持って行って下さいと言わんばかりに道端に荷物を放っておいたりしなければ、盗られることもないんですよ」 ロンはさらに深い溜息をついた。確かに持って行った犯人が一番悪いに決まっている。けれどもしっかりと管理をしていなかった方も悪い。少女の言葉はまったくもって責任転嫁もいいところだ。 優秀な神官を貸して欲しい。そう自分はきちんと大司教のロイルに言わなかったのだろうか? 一瞬そんな思いにとらわれた。けれど何度思い返してみても、自分はちゃんと国王からの言葉を伝えた記憶しかない。 だからこそ、外見はどうにも司祭には思えないけれど、きっと中身は素晴らしく徳のある少女なのに違いないと無理やりそう思い込んで、こうしてここまで来たのだけれども。この一事でぷっつりと我慢の限界。自分の心をなだめるように騙すのはもう限界だった。 今まではいちおう『優秀な司祭』ということで敬意をもって接してはいたが、それももう出来そうにはない。とりあえず敬愛する国王の使いで迎えに来た相手なので、この少女に対して口調だけは丁寧にしておこうと、ロンは心の中でそう結論付ける。 「船に乗るお金、ありませんから。クレスセルトまで歩くことになります」 このファーラント=ビューロからクレスセルトまで。歩いていったのでは何時間かかるか知れない。この炎天下の中を歩くとなればなおさらだ。下手をすれば日射病・熱射病にもなりかねない。 それは自分の体力的な問題にも大きく関わることだったのだけれども。ロンはそんな事態を招いた少女に、ことさら冷たく言い放った。 置き引きが不可抗力であったり、心から反省していたりするのであれば『王の使い』だと特権を振りかざして役場に頼み、無賃で船に乗せてもらうことも考えただろう。しかし大道芸に見入っていて気が付かなかったというフィアセルの悪びれない態度に、そうする気持は綺麗さっぱり失せていた。 こんな少女をシルクス陛下が招聘したのだと思われるのは、ロンにとっては心外だった。 「歩くって、このくそ暑い中をっ!?」 「……言葉の通りです」 司祭だという少女の『くそ暑い』という言葉遣いにぴくりと眉をひそめ、ロンは静かにそう応える。はっきり言って、自分だって本当はそんなことはしたくない。自慢にはならないけれど、体力にはまったくといっていいほど自信がないのだから。 けれども、このフィアセルという少女には少し灸が必要だと思う。 「犯人を見つけて、お金を取り戻せばいいじゃない」 フィアセルはぷくりと拗ねたまま、そう提案してみせた。お金さえ取り戻せれば、延々と続く真夏の道を歩くこともなく、涼やかな湖の風に吹かれながら王都に着くことが出来るのだ。 ロンはちらりと眼鏡越し少女を見やり、わざとらしく溜息をついてみせた。 「犯人の顔、覚えてるんですか?」 「うっ……」 ぎくりと、フィアセルは表情をこわばらせる。大好きな……憧れのティスリーヴを見ているだけで、周りのことなど何一つ憶えてはいなかった。 「あ、でも……ほら。周りで犯行現場を見てた人がいるかもだよ!」 「……ふう。みんなその大道芸人とやらに見入っていて目撃者なんか居ませんよ。それにもう、この辺には居ないでしょう。僕が君に荷物を預けてから、かなりの時間が経っているんですからね」 問題児と接する忍耐強い教師のように、ロンはフィアセルに強いて静かに言った。 「分かったわよ。歩けばいいんでしょ、歩けば」 ぴょんっと、フィアセルは寄りかかっていた柱から身体を起こし、腰に手を当てるように仁王立ちになる。 「そうと決まれば早いところ出発だね。……まあ、歩くのって嫌いじゃないし。いいや」 気分の切り替えも早いのか、にこにことフィアセルは笑った。 「…………はぁっ」 やってられないというように、ロンは頭をゆるゆると振った。どうにもこの少女には敵わない。どうしてこうも楽観的な思考なのだろうか? 思考の有り方が自分とはまったく違いすぎて理解に苦しむことこの上なかった。 「歩くのも楽しいもんねえ。暑ささえなければもっといいんだけどさあ」 「僕はちっとも、楽しくありません」 ロンは眉をぴんと跳ね上げて、睨み据えるように少女を見やる。フィアセルは、そんなロンの表情に可笑しそうに声を上げて笑った。 「歩くって言ったのはロンなんだからね。さて、出発しましょうか。従者くん」 「誰が従者なんですかっ!?」 「だって、ロンは王様に言われて私を迎えに来たんでしょう? 私は願われて赴いてあげるわけだし、だったら私のがあんたよりも格上じゃない」 にこにこと、フィアセルは悪戯な笑みを浮かべてロンを見やる。王命で自分を迎えに来たくせに、無情にも炎天下を歩けと言う少年を少しからかってやろうと思ったのだ。 「……まったく。大司教はなんでこんな……」 ぶつぶつと文句を言いながら、しかしロンは強いてにっこりと笑んで見せた。 「ええ。本当にそうですね。フィアセルさんは置き引きにまで施しをされるほどの素晴らしい御方ですからね。確かに僕よりも格が上なんでしょう」 「嫌味なヤツ〜」 からかおうと思ったのに反撃されて、フィアセルは少しむくれたように肩をすくめた。まったく、穏やかそうな顔をして口から出てくるのは嫌味ばかりなんだからと、目の前に居る少年をちらりと見上げる。 けれども、ロンの棘のある笑顔を見ているうちに、なんとなく可笑しくなった。 自分の周りには大人しい人間が多い。それは神官だからいうこともあるのだろうけれど、フィアセルにはそれが物足りないと思うこともあった。 だから、こうも自分と言葉の掛け合いが出来る相手というのが新鮮で、楽しくも思える。なんとなく、この少年をもっと怒らせてみたいなどと不埒ことまでも考えてしまうフィアセルだった。 「まあいいわ。王様のお願いに応えて行ってあげるんだから、感謝してよね」 「……分かりました」 もう何を言っても無駄だろうと諦めたのか、大きな溜息をつきながらロンは肩を落とすように頷いた。 「じゃあ、しゅっぱーつ!」 元気に街の外に向かって歩いていくフィアセルに、もう一度、ロンは大きな溜息をついた。 これから長い道のりを歩くことも厳しいと思ったけれども。あの少女と二人で一緒に行動するということに、もっと大きな不安を抱く。 「……厄日だ」 ぽつりと呟いてから、信じられないほどの速さで前を行くフィアセルを見やり、慌ててそのあとを追いかける。自分の体力がいったいどこまで保つのだろうか? あまりの速さに一瞬不安がよぎるロンだった。 王都クレスセルトまでの道程は、まだまだ遠い ――。
『喧嘩するほど仲がいい?』 おわり |
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