++ 君のその手に在るものを ++
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藤乃森の公園の一角にある小さな池には、色とりどりの鯉たちが幾匹も棲んでいる。その澄んだ水底をたゆたうように泳ぐ魚の姿を眺めながら、正也は大きな溜息をついた。 「ちっ。気楽に過ごしてんな」 自分はこんなにも思い悩んでいるというのに、ゆらゆらと平和に気持ちよさげな池の鯉が、とてつもなく憎らしく思えてくる。 けれども睨むように池を見ていた眼差しが、ふっと切なげに細められた。 「結局ダメってことなのかなぁ……」 幼馴染みでもあり、一年ほど前にやっと"彼女"となった女性……葉月の顔を思いだして、正也は短く刈られた頭髪をがりがりと掻きむしるように、もういちど深い溜息をついた。 ひと月前、正也は女友達と二人で飲み明かして朝帰りになった。もちろんただの友達で、浮気などではないと胸をはって言えるけれども、葉月とは価値観の違いから大喧嘩になった。そのあと一ヶ月ものあいだ冷戦状態が続き、会うこともままならなかったのだ。 その会えない日々が辛くて。自分には葉月しか居ないのだと改めて正也は痛感していた。だからこそ一大決心をして、謝ると共に求婚までしてしまったのだ。 タイミング的に間が悪過ぎだったと言われれば、まったくその通りだろう。 「やっぱ、俺がバカなんだろうなぁ」 ふうっともういちど溜息をついて、正也はゆるりと天を仰ぐ。 「だからってさ。朱金に輝く鱗を持った鯉なんて居るわけないじゃんか。葉月のやつ」 正也の間が悪いプロポーズに対する彼女の答えは、直接的な拒否ではなかった。けれども、あまりに不思議な返事だった。 ―― 朱金に輝く鯉。昔の約束どおり、それを見せてくれたら結婚しても良い。まるで正也を試すかのように、そう彼女は言ったのだった。 常識的にありえない無理な要望に「おまえはかぐや姫か」と溜息もつきたくなる。 ましてやそんな奇妙な約束をした覚えは、正也には一切なかった。だからといって、好きな気持ちはもちろん変わるわけもなく、諦めることなど出来るわけもない。それで途方にくれていたのである。 「くそっ」 苛立ちまぎれに正也は足元にあった小石を思いっきり蹴り飛ばした。池の中に蹴り込むつもりだった小石は、けれどもコントロールが乱れ、対岸を通りかかった青年の足もとへと飛んでいく。 「あ、やばっ」 こつんと青年の膝の辺りに当たってから、小石は弾むように地面へと落ちた。 不思議そうにゆうるりとこちらを振り返った青年の顔に、正也は見覚えがあった。確か、時折りこの公園で子供たちに手品を見せているマジシャンだったはずだ。仕事で営業まわりをしている時に何度か見かけたことがある。 「……あんたに当てるつもりじゃなったんだ。悪かったな」 自分よりも四つ五つ若そうな青年に、正也は言い訳がましく頭を下げた。池の鯉への八つ当たりを見られたこともバツが悪かった。 「いえ。ちょっと当たっただけですから大丈夫ですよ」 にこりと笑う青年の目はとても和やかで。まるで甘いチョコレートのように見える。その平和そうな顔がなんだかひどく癪に触って、思わず正也はつかつかと手品師の青年へと歩み寄っていた。 「あんた、確か手品師だよな?」 不機嫌そうな声で正也はそう尋ねる。石を当てられたのは自分ではなく彼だというのに、これではまるで立場があべこべだ。内心では苦笑しながらも、機嫌は斜めに傾く一方だった。 「ええ。そうですよ」 手品師の青年 ―― 鳴沢真秀はそんな正也の声音を気にした様子もなく、さらりと微笑んだ。 ひと房だけ伸びた胡桃色の髪が、それを結ぶ蒼いリボンと一緒になって風に舞ってみえる。その様子はひどく穏やかで、優しそうな青年によく似合っていた。 「 ―― そんな人のよさそうな顔してるけどさ、手品師なんて詐欺師と同じようなものだよな」 まるで八つ当たりでもするように、正也は不機嫌な表情でふんと顎を上げる。 「甘い夢で人を騙して欺くことが仕事なんだから性質が悪いんだよ」 「……はあ」 きょとんと真秀は目を丸くした。手品を詐欺だといわれたのは初めてだったし、とつぜん会った人間にそんなことを言われたのにも驚いた。けれどもすぐに、気を取り直したように笑顔になる。 「そう言われてしまうと困るけど、人を騙すことは悪いことだけとは限らないと思いますよ。夢を与えられるなら嘘も必要だと思うし。中には騙されることで救われる人もいますからね。まあ、もちろん詐欺は次元が違いますけど」 やんわりとした口調で、真秀は不機嫌そうな男に言葉を返す。 「夢、ねえ。……そこまで言うなら、あの池の鯉を朱金に輝く鯉にしてみせろよ」 口をへの字に曲げたまま、正也はいきなりそう言った。 「あの池の鯉を……朱金にですか?」 「そうだよ。出来るもんならやってみろよ。夢を与えるのが 嘲るように正也は口許を歪めた。手品師にだって、タネも仕掛けもないことは出来るはずもない ―― そういう意地悪な思惑が満面に現れていた。 「ええ。手品は、人を笑顔にするためのものですから」 たまに手品を悪意のこもった目で見る輩に遭遇することはある。そういう者たちを軽く往なす術は心得てもいたが、いま難癖をつけてくるこの男性からは根本的なところでの悪意は感じなかった。 だから、嫌がらせに近い正也の言葉にも真秀はやんわりと目を細めるように微笑んでいた。 「でも朱金の鯉が見たいのなら、僕が手品で出さなくたって誰にでも見られますよ」 にこりと、手品師の青年は首を傾げるように笑う。そのあまりに和やかな笑顔と口調に、正也はこの日何度目かの深い溜息をついた。 「……ったく。ほんっとに調子の狂う奴だな、おまえ」 これでは苛々している自分がまるで馬鹿みたいだと正也は思う。そしてまた……不思議なことに手品師の青年の和やかな笑みと少しハスキーな声は、ささくれ立った己の心を少しずつ癒すように心地好かった。 「誰でもって、在り得ないだろ。そんなの」 あまりにも簡単そうに言うマジシャンに、正也は呆れたように苦笑を向ける。そこには先ほどのような棘はなかった。 「でも……ほら」 ぱちりと悪戯っぽく片目を閉じて、手品師の青年はひょいっと、長い人差し指を天に向けた。そのあまりに自然体の動きに、思わずつられたように正也は天を仰向いた。 そこにはただ、赤く染まる夕焼けの空が在った。 沈みかけの夕陽が西の空にこれでもかというくらいに大きく見えて、ゆらゆらと名残惜しそうな残照であたり一面を朱に染めている。 「んだよ。なにもないじゃないか」 けれどもその他に変わったところは何もなく、天を見上げたまま、正也は不満そうに声を上げた。 「綺麗な夕焼けですね」 くすくすと楽しげな声音が耳に届いたので、正也はじろりと真秀を睨むように視線を下ろした。そんなことで、いちいち喜ぶような年齢ではない。そう言おうとした。けれども ―― ふと、目の端に映った池の様子に、思わず目が丸くなる。 「……まさか」 夕陽を浴びた池は、他の景色と同様に柔らかな朱色に染まっていた。その残照を受けた鯉の鱗がまるで朱金に輝いているように見えているのだ。 それは ―― 大自然が織り成す不変の営みが見せる、偶然の芸術。 「あ……」 ふと、正也は何かに気付いたように目を見張った。 子供の頃 ―― 自分は偶然これを見たことがあったのだ。それがあまりに綺麗で。不思議で。この光景を葉月に見せたくて。必死に走って家まで呼びに行ったことを思い出す。 けれども戻ってくる間に陽は落ちて、もうこの幻想的な光景は消えていた。次の日も、その次の日も、雨やら何やらで結局は葉月にそれを見せられないまま日は過ぎ、自分はすっかりとそのことを忘れていたのだ。 けれど ―― 彼女はずっと憶えていた。ほんの些細な約束を。 正也は忘れ去っていた自分の愚かしさを呆れるように唇を噛んだ。きっと葉月は、あの頃のように純粋な気持ちでお互いを見つめなおしたかったのだろう。 「朱金の鯉、見られました?」 手品師の青年は先ほどと同じ柔らかな笑みを向けてそう訊いて来た。正也は、溜息をつくように頷いた。 「ああ。けどさ、なんか子供騙しみたいなもんだよなぁ」 幼い頃は奇跡のように思えた現象も、いま見てみれば珍しいものでも奇跡でも何でもなかった。見ようと思えば、この時期にこの場所で。誰もが見られるものだ。けれども ―― 。 「時には、騙されてみるのも良いものですよ」 にこりと、真秀は甘そうなチョコレート色の瞳に笑みを宿す。 「ふん……まあな」 苦笑するように、しかしとても可笑しそうに、正也はゆっくりと笑いを返した。 子供だましのようなこんな光景でも、きっと葉月は喜ぶだろう。幼い頃の約束。何年越しもの約束がようやく果たされるのだから ―― 。 そのとき見られるであろう彼女の笑顔を思い浮かべると、ほんわりと幸せなような、温かいような、こそばゆい気分だった。 「じゃあ、僕はこれで失礼しますね。これから"営業"なんです。正直、仕事でやる手品にはあまり気が向かないんですけどね。まあ、仕方ないから」 ちらりと時計を見て、手品師の青年は肩をすくめるようにそう言った。いたずらな子供のように、ぺろりと小さく出された舌が可笑しかった。 そうしてゆるやかな足取りで、若きマジシャンは夕陽の沈むほうへと向かって歩いていく。 柔らかな朱金に染まる景色の中で、最初に会った時と同じように、蒼いリボンで結ばれた胡桃色の髪がふわりと風に流れて揺れるのが見えた。 「マジシャン……か」 あの穏やかな顔をした青年は手品をやったわけでも、魔法を見せてくれたわけでもない。けれども、やはり彼は人に夢を与えるマジシャンなのだろう。 自分から遠ざかって行く青年のうしろ姿を眺めながら、ぼんやりと正也はそう思った。 「……ありがとよ」 もう聴こえないかもしれない。けれども……正也はぶっきらぼうにそう呟いた。 『偶然』 おわり
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