++ 君のその手に在るものを ++
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藤乃森の公園は、その名のとおり藤の名所だ。四月も終りの頃になれば、公園のあちらこちらに設えられた藤棚に優美な薄紫の房が優しい景色をつくりだす。 しかし藤の季節は短いため、公園内には他にも四季折々の花が楽しめるように多くの花や木がところどころに植えられていた。 その中の小さな一角に佇む桜のつぼみが少しずつほころんで、優しい淡紅色を帯びはじめていくのを見るのが好きだった。 頬を撫でる風もこの頃には冷たい北風から優しい春風へとかわり、ベンチにこうして座っているのも気持ち良い季節になってくる。 だから毎年この時期に、ぼんやりと日がな桜のつぼみを眺めていてるのも苦にはならなかった。 「今年はすこおし、早いかしらねえ」 いつものこの時期よりもつぼみのふくらみが大きいような気がして、桜子は小さな口許を微笑むようにゆるませる。既にひとつふたつ、小さな花弁をほんのりと覗かせているものもある。 「すぐにでも咲き出しそうだわ。あなたがせっついてくれているのかしら」 くすくすと、まるで木に話し掛けるように笑いながら、皺につつまれた手で木の表面をさするように撫でた。 手のひらに感じる桜の木は陽射しのせいだろうか。ほのかに暖かかった。 「ああ、本当ですね。いつもよりも早咲きになりそうかな」 「 ―― え?」 まわりには誰もいないと思っていたのに。 不意に声をかけられて、桜子はきょとんと目をまるくした。普段の自分ならば跳び上がるように驚いたかもしれない。下手をすれば心臓が止まってしまったかもと思う。 けれどもほんの少しだけしか驚かなかったのは、掛けられた声が優しく穏やかな春の陽ざしのようだったからだろうか。 まるで桜の木が自分に応えたような。そんな気がしたからだろうか ―― 。 「こんにちは」 桜子がゆっくりと視線を向けると、声の主はにっこりと笑いながら軽く頭を下げた。 桜の木の向こうから笑顔でこちらを見ていたのは、桜子がよく見知った青年だった。 「はい。こんにちは。あなたは……いつも噴水ちかくで手品をなさっている方ね?」 桜子は軽く会釈を返してから、くすりと笑った。 若々しく優しそうなその容貌も、男性だというのにひと房だけ伸びた胡桃色のうしろ髪を蒼いリボンで結んでいるその特徴的な姿も、最近とみに物忘れが多くなった自分でも忘れようがないほど印象に残っている。 いつも少しはなれた場所から、子供たちを相手にしている彼の様子を眺めていただけで直接会話したことはなかったけれど、とても人あたりの好さそうな青年だと思っていたから、警戒心はわいてこなかった。 「ええ。そうです」 青年はにこりと笑った。 「時々、遠くからご覧になっていましたよね? 手品がお好きなんですか?」 ゆっくりと桜子に歩み寄りながら、少しハスキーな声が優しく語り掛ける。チョコレートのように甘そうな茶色の眼差しが、微笑むように細められていた。 「ふふふ。こんなおばあちゃんが遠くから見ていた事に気付いてくれていたの? 嬉しいわね」 桜子はくすくすと笑い、皺の刻まれた口許を上品に手で覆う。若い頃はさぞ綺麗だっただろうと思わせるその笑顔に、ひとつにまとめられた綺麗な白髪が、ふわりふわりとまつわった。 「手品は大好きよ。おじいちゃんもね、よくやってくれたものだから」 うっとりと夢でも見るように、桜子はつぼみだけでまだ花の咲かない桜の木を見上げた。そうして手品師の青年 ―― 鳴沢真秀に目を向ける。 「なんとなく懐かしくて、あなたがやるマジックを時々見ていたのよ」 彼女の口調から察するに、"おじいちゃん"というのが言葉どおりの意味ではなく、彼女の大切な連れ添いを意味するのだろうというのは真秀にも分かった。 そして ―― その"おじいちゃん"はもう居ないのだろうということも。 「そうなんですか……。もしかして、だんな様は僕と同業なんですか?」 真秀は柔らかな眼差しを笑ませ、とても上品そうな老婦人を楽しそうに見やった。 「とんでもない。貴方の足元にも及ばない素人マジシャンでしたよ。……密封されたビンの中に100円玉を入れると言ってはビンを割ってしまったり、他にもタネが周りにバレてしまっていたりね」 そのときの様子を思い出したのか、桜子はまるで若い娘のようにころころと笑い声を上げた。その表情はどこか寂しそうで……けれども心から楽しそうにも見えた。 「……素敵なマジシャンだったんですね」 「あら。失敗ばかりだったのに?」 素敵なマジシャンというのは、タネも仕掛けもまるで感じさせずにマジックをする貴方のような人のことを指すのではないかしら? 桜子は首を傾げるように問い返す。 「いえ。上手くやるだけがマジックじゃないですから。僕は人の驚いた顔よりも、喜んでいる顔の方が好きなんです。だから ―― 貴女をそんなふうに笑顔にさせるだんなさまのマジックは、やはりとても素敵だと思います」 真秀はやんわりと笑った。 「ふふふ。ありがとう」 桜子は皺の刻まれた目元に少女のような明るさを宿して青年を見やる。 「そうだわ。ねえ、貴方。もし良かったら、何か手品をしてくださらない?」 急に思いついたように手を打って、桜子は無邪気に笑った。 いつも遠くから見ていたけれど、この若いマジシャンの妙技を近くで見てみたいと思った。 もちろん"おじいちゃん"の若い頃とは似ても似つかないけれど、この優しそうな雰囲気を重ねあわせられそうで ―― 懐かしかった。 「貴方、テレビとかにも出ているらしいから、そういうのはまずいのかしら?」 「え? ……ああ、いえ。大丈夫ですよ。ダメなら、いつも公園で子供たち相手にやったりしません」 意外な依頼に一瞬驚いたけれど、すぐに笑顔を浮かべて真秀は頷いてみせる。 ふだん自分の仕事のマネジメントをしてくれている協会のスタッフからは、あまり往来で……無償では見せないようにと注意されてはいたけれども、そんな"お小言"は気にもしない真秀だった。 「何か、リクエストとかありますか?」 すらりと姿勢を正し老婦人の前に立つと、真秀はにこやかに両手を広げて見せる。さりげなく何も持っていないということをアピールする青年に、桜子は口許をほころばせた。 「そうねえ。じゃあ、花を。何か花が見たいわね」 「花ですね? 了解しました」 どこか悪戯な眼光を茶色の瞳に宿すと、青年は軽くあごに手をあてて少し考えるように俯く。ややして楽しそうに微笑むと、彼女に見せていた手のひらを何かを包みこむように優しく重ねあわせ、それを己の口許に引き上げた。 「上手くいくといいのですけれど」 笑い含みにそう言うと、重ねた両手の隙間からふうっと強く息を吹き込んでみせる。その瞬間、桜子は耳元でさわさわと風が鳴ったような気がした。 かたずを飲んで見守る老婦人の目の前で、真秀は重ねたままの両手を耳元にあてて何か微かな音でも聞くように目を閉じる。 「あ。ちゃーんと花が生まれたようですよ」 どんな音が聞こえたのだろうか。ややして彼はやんわりと甘いチョコレートのような瞳を嬉しそうに見開いて、再び桜子の前に両手を広げて差し出してみせた。 「……まあ! 可愛らしいこと」 先程まで何も存在していなかったその両手には、溢れんばかりのシロツメクサが載せられていた。 真っ白く小さなシロツメクサの花は、桜子にとって思い出の詰まった花だった。夫が初めて自分に見せてくれたマジック。その時に出してくれたのが、やはりこの花だったから。 そして夫は確かその花を ―― 「これじゃあ持ち運びが大変だね」 真秀はやわらかい茶色の瞳をいたずらっぽくウィンクすると、ふわりと空に撒くように花を放り投げた。そうして花のシャワーを受けるように、そっと天に手を伸べる。伸びやかに開かれたその細く長い指がとても綺麗だと、桜子は思わず見惚れた。 一瞬であるようにも、長い時間でもあるようにも思える不思議な時間。さらさらと、小さな花たちは彼の手の内に舞い降りるように空から地面へとふりそそぐ。 「 ―― !?」 すべての花が舞い終えると、天に伸べられた青年の手には綺麗に編まれたシロツメクサの花冠が誇らしげに残されていた。 「運びやすいように冠にしちゃいました」 その花冠を、真秀はそっと桜子の綺麗な白い髪の上に載せる。 「…………」 桜子は自分が泣き出しそうだと自覚した。 この若いマジシャンが"手品のタネ"としてシロツメクサの花を用意していたのは偶然なのだろうと頭では分かりつつも、思わず本当に魔法を見たような気持ちになる。 夫が自分に一番最初に見せてくれた手品 ―― 魔法が。いま目の前で再現されたのだ。 「どうか、しましたか?」 黒い大きな瞳にみるみる涙を溢れさせた桜子に、少し慌てたような真秀の声がかかる。手品をやって泣かれたのは初めてのことだ。その涙の理由さえも分からないのだから、なぐさめようもない。 どうしたものかと困ったように視線をさまよわせる真秀の様子に、ひどく落ち着いた好青年に見えるこのマジシャンが実はまだ経験浅い若者なのだと感じられて……桜子は少し可笑しくなった。 「ごめんなさいね。こんなおばあちゃんが泣いても困っちゃうわね」 懐から藍染めのハンカチを取り出して素早く目元を押さえると、桜子はまだ少し潤む瞳に笑顔を取り戻して言う。 「いまの手品はね、おじいちゃん……年初めに亡くなった夫がね。わたしに初めて見せてくれた手品と同じだったのよ。唯一あの人が成功した手品なの」 「……ああ、そうだったんですか。すみません」 彼女のせっかくの思い出を壊してしまったかと、真秀は申し分けなさそうに頭を下げた。今日何気なく用意していた手品の"タネ"が、この上品そうな老婦人にとって思い出深いものだったとは思いもしなかった。 「いいえ。謝ることはないわ。懐かしくて……嬉しかったのよ」 桜子は微笑むように頭を横に振った。 「きっとあの人も、貴方の手品を見て懐かしんでいるわね。ここに……"桜の木"に居るはずだから」 「え?」 きょとんと、チョコレート色の瞳がまるくなる。桜子は小ぶりな手を口許にあてて、くすくすと笑った。 「おかしなこと言うおばあちゃんだと思われたかしら?」 「あ……いいえ。そういえば、さっきも貴女は桜の木に話しかけているみたいでしたよね。だんな様が桜をお好きだったんですか?」 「ええ。桜が大好きだったの。ふふふ。私の名前も"桜子"というのだけどね」 いたずらな少女のように目を輝かせて、老婦人は真秀の目を見つめ返す。のろけともいえる言葉を照れもせずに言う明るさが好ましかった。 きっと公園に咲く桜の花も。自分の隣で穏やかに咲く"桜"の花も。おじいちゃんは両方ともとても大切にしていたのだろう。そう真秀は思った。 「いつも一緒にココの桜が満開になるのを見ようと約束していたの」 夢を見るような眼差しで、桜子は再び桜の木をみやる。 「……それで、貴女は"ココ"に居るんですね」 「そう。でもね、その約束は果たされないで終わりそうだわ」 ふうっと、老婦人の表情が曇ったような気がした。今まではとても穏やかな明るさを放っていた黒い瞳が、どこか沈んだように陰を帯びていた。 真秀は彼女の次の言葉を待つように茶色の瞳を穏やかに細め、そっとベンチの隣に腰掛ける。 「息子がね、私ひとりでは心配だからこちらに来いって。呼んでくれたの。明日迎えに来ることになってるの。……ここから遠い場所に引っ越す事になるわ」 とくに親しい人間でもないのにこんな事を話すのはおかしいことだと自覚しながらも、何故だか彼に聞いて欲しいと思った。 暖かい。どこまでも優しい茶色の眼差しが、亡くなった夫に似ているからかもしれないと、桜子は自分自身にいいわけをする。 「今年は少し早咲きになりそうだけれど、それでも明日では間に合わないわねえ」 寂しそうに目を細めて、彼女はつぼみを蓄えた桜の木をもう一度見上げた。つぼみは、今にも咲きそうだけれども。だからといってすぐに満開になるわけはなかった。 「…………」 「……あら。ごめんなさい。また困らせちゃったわね。年寄りの戯言だと思って、聞き流してちょうだいね」 黙りこんでしまった青年に桜子はやんわりと微笑んだ。いくら人あたりの好い青年でも、赤の他人にいきなりそんな話をされて困惑しない人間が居るはずもない。 馬鹿な話をしてしまったと、桜子は少し後悔した。 「いえ……そんなことないです」 真秀はどこか困ったように小さく頭を振った。穏やかそうな瞳が何か迷うようにわずかに揺れていた。 その迷いをふっきるように強く目を閉じ、そうしてゆうるりと開く。その、チョコレートのように甘そうな茶色の瞳が微かな光を帯びているように見えるのは気のせいだろうか? 桜子は驚いたように、まじまじと青年の顔を見つめた。 「何か、僕の顔についていますか?」 「いいえ。……気のせいね」 既に彼の瞳に光の波はなく、いつもの穏やかな眼差しが自分を見つめているだけだ。彼の背後でさらさらと風になびく胡桃色の髪と蒼いリボンにそそがれる陽光を眺めながら、おそらくあれも陽の加減だったのだろうと桜子は思った。 「長い時間つきあわせちゃってごめんなさいね。あなたとお話できて楽しかったわ。でも、そろそろ帰らないとね。引越しの準備も、まだ少し残っているから」 「そうですか……。僕もお話できて楽しかったです」 にこりと笑って真秀はベンチから立ち上がる。桜子も桜の木を背にしたまま少し寂しげに微笑みを返した。 その刹那 ―― 。 ふわりと。何かが桜子の頬に触れた。ほのかに香る何かが、ひらりひらりと彼女の肩に落ちかかる。 「 ―― えっ!?」 振り返った彼女の目に映ったのは ―― いつのまにか咲いた満開の桜。淡いピンクの花弁がひらりひらりと。風に舞うように揺れていた。 先ほど彼女が撫でた1本の桜だけが、一気に花を開かせてほのかに甘い香りを周囲に漂わせているのだ。 「夢でも……見ているのかしら?」 少女のように両手で頬をおさえて、桜子は満開に咲き誇る桜の木を狐につままれたように見やる。 いったい何が起きたのか。それは分からなかった。けれども。理由は分からなくとも、この桜の木がほんの僅かな時間で満開に咲き誇ったのは確かだった。 「だんなさまが、最後に貴女と一緒にこの桜を見たかったのかもしれませんね」 ゆるやかに目を細めて、若きマジシャンは笑う。青年のその声がさきほどよりもやや掠れ気味なことを、今の桜子が気付くことはなかった。 「ああ……そうね……。ええ……きっとそうだわ」 桜子は、その言葉を何度も心に噛みしめるように呟く。 「あの人が、約束を守らせてくれたのね」 そうして薄紅に染まる木をいだくように手を伸べた。彼女の細い腕を、ひらりひらりと花のかけらが撫でるように流れ落ちていった。 まるで少女のように明るく輝く桜子の表情を隣で見つめながら、真秀はどこか少し疲れたように小さな溜息をつく。けれどもその甘い茶色の瞳は、静かに微笑んでいた。 桜の花が生み出した穏やかな夢を、確かに見届けるように ―― 。 『桜の夢』 おわり
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