『星の出逢う夜』
そわそわと。生徒たちはどこか落ち着かない様子で終業のベルが鳴るのを待っていた。
今日はこの町最大の祭りといわれる『星祭』が開かれる日だ。授業などはそっちのけで、もはや心は祭りへ傾いている者がほとんどである。
だからといって、それを一概には叱れないのがこの日の特徴だ。気分が高揚し、気もそぞろになっているのは大人たちとて同じだったのだから。
「……ということで、今日はそろそろ終わりにしましょうかねえ」
にこりと。この小さな町でただ一人の教師である初老の紳士はそう笑った。このまま話をしていても誰も聞いてはいないだろうし、年に一度の星祭はやはり幾歳になっても楽しみなものなのである。
「今夜は星のお祭りです。怖ろしかった夜の闇に安らぎをもたらしてくれた星姫をたたえる日ですから。皆さん、羽目をはずさないように楽しんでくださいね」
師の言葉に、わあっと歓声が上がった。
帰り支度をするのももどかしく教室を掛け出て行く者や、楽しそうに友人たちと話しながら帰って行く者。それぞれ行動は違ったけれど、とても楽しそうだということだけは皆一緒だった。
「ねえねえ、ファティスは星祭に誰と行くの?」
「うーん。いつもどおり家族で行くよ」
ゆっくりと帰り支度をしていたファティスは、友人の問い掛けに空色の瞳をにこりと笑ませてそう応える。
星祭に家族以外といった記憶はない。なにせ開催が夜なので、家族と一緒のほうが安心なのだ。
「そうなんだあ。じゃあ今年も、ファティスに"あれ"は必要ないんだね」
意味深げに言う友人に、ファティスは軽く首を傾けた。
「ユリアもいつも家族と一緒じゃなかった?」
「……実は、私ミーシャを誘ってみようと思うのっ! ねえ。うまくいくように貴女も祈っててくれる?」
仲良しのユリアは少し照れたように言いながら、ファティスの手をきゅっとつかむ。ミーシャというのが、ユリアがずっと片思いをしていた相手だということをファティスは知っていた。
「うんっ。もちろんだよ。一緒に行かれるといいね、ユリア。私、応援してるから」
ファティスはその手を握り返し、頑張れというように強く笑ってみせた。
この『星祭』には、少女たちの間でひそかに信じられているジンクスがあった。
星祭の最後には、人々の願いが込められた多くの短冊を焚き上げて天に送る儀式がある。それを好きな男の子と一緒に見ながら祈れば将来必ず結ばれるという、いかにも乙女チックなジンクスだ。
十六歳になってもまだ恋のひとつもしたことがないファティスは、そのジンクスに思いを込めたことは一度もなかったけれど ―― 。
「ありがとっ。頑張る。……じゃあ、また明日ね!」
ユリアは勇気を奮い立たせるよう強く頷くと、ひらひらと手を振って教室から出て行った。
「うまくいくといいなぁ」
その後ろ姿を見送りながら、にこにことファティスは明るい笑みを浮かべた。なんだかとても、ユリアが綺麗に輝いて見えた。彼女をそんなふうに変化させるのは、ミーシャという存在なのだろう。
そんな大好きな男の子がいるというのはちょっぴり羨ましい気もしたけれど、自分にはまだそういった縁がないのだから仕方がない。
「さってと、家にかえろうっと」
ゆっくりと帰り支度を終えて、ファティスは軽やかに帰路についた。
「あれ? なんだろう……この音色」
賑やかな星祭りの飾り付けに彩られた町並みを、家に向かってのんびりと歩いていたファティスは、ふと、風の中に微かに流れる柔らかな笛の音色に気が付いて立ち止まった。
今までに聴いたことのない不思議な旋律が、風に乗って流れている。それは ―― とても優しい。
辺りを見まわしてみても、それらしいものはない。ただ明るい顔をした人々が行き交うだけだ。けれども耳を澄ませてみれば、やっぱり風の中に優雅な音色が含まれている。
「やっぱり聴こえる。なんて……綺麗な音」
うっとりと、ファティスは呟いた。一瞬にして、その音色に心を奪われた。何故だか分からないけれど、その旋律はひどく愛おしく、とても懐かしい気がした。
もっと近くでその音色を聴きたいと、風をたよりに旋律を追いかけるファティスは、自分が町の外に出たことさえも気が付かなかった。
町と町を結ぶ街道沿いに広がる草原の中にぽつんと佇む大きな木。その木の下で、浅葱色の略衣を着た黒髪の青年が太い幹に寄りかかるように笛を奏でているのが見える。その彼の肩には今まで見たこともない、夜になる少し前の薄藍の空を彷彿させる翼を持った綺麗な鳥が止まっていた。
「……あの人が奏でているんだぁ」
初めて聴くこの不思議な旋律は、もしかすると異国のものなのかもしれない ―― この地方では滅多に見ることのない珍しい黒髪に目を奪われながら、ファティスはゆっくりと青年に近付いていく。
不意に、ファティスの存在に気が付いたように笛の音色がやんだ。それまで閉じられていた青年の瞳がゆっくりと開かれて、闇夜のような黒い瞳が少女へと向けられた。
「あ、あの。私、その笛の音色を追いかけてきたんです。あんまり綺麗だったから……。え……と、演奏の邪魔しちゃってごめんなさい」
ぺこりと、ファティスは頭を下げた。彼の大切な時間を壊してしまったように思えて、とても後悔した。それに、せっかくの笛の音が途切れてしまったことも寂しかった。
「いや。謝ることはないよ。ここは私だけの場所というわけではないのだからね」
ふわりと、青年は柔らかな笑みを浮かべてファティスを見やる。その眼差しはどこか暖かく、やんわりと出来た陽だまりのようで、思わずファティスは真っ赤になった。
近所の男の子達に接する時とは違う、何か不思議な気持ちが心を揺り動かす。それが何を意味するのか分からないまま、ファティスはただただ俯くことしか出来なかった。
「…………」
妙にかしこまってしまった少女を見やり、青年はくすりと笑った。そのままゆうるりと笛を口許に持っていき、先ほどと同じように美しい旋律を生みだしてゆく。
彼の紡ぐ笛の音色はどこか哀しく。しかしとても優しく暖かい。ゆるゆると穏やかな空間を織り成していく。ただの音楽がこんなにも愛しいと感じられたのは、ファティスはこれが初めてだった。
「本当に素敵な旋律ですね。私、こんなに優しい音色を聴いたの初めて」
一節を奏で終えてゆっくり唇から笛を離した青年に、ファティスは感激したようにそう言った。優しい音色のせいだろうか。さっきまでの緊張感もゆるりと解けていた。
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいな」
青年は穏やかな闇色の瞳を細めて淡い笑みを返す。その微笑に安心したように、ファティスは若草色のスカートをふわりと風にあそばせて彼の隣に腰を下ろした。
「今の、なんていう曲なんですか? 初めて聞くメロディだわ」
「うん? ああ……『咲夜蒼花(』というんだ。星生まれの伝説を歌ったものでね、紅旭国(の曲だよ」
少女の明るい眼差しに、青年は可笑しそうに応えた。
「ホンシュイ……って東の大国の? じゃあやっぱり、お兄さんは異国の人だったのね」
異国の人間ならば、この黒い髪も闇色の瞳も納得がいくというものだ。この国では黒髪黒瞳の人間などほとんどいないけれど、他国にはそういう色彩も多いと聞いたことがあった。
紅旭国といえば世界で一番最初に建国されたといわれる古い国家で、始祖はファゼイオ=ホンシュイという創世期の人物だといわれている。
その王は星祭りの主役(でもある"星姫"と同時期に存在していたと伝えられており、神帝の国として他国からも一目置かれている大国だ。
「そちらの国では、いまみたいに綺麗な曲がたくさんあるの?」
わくわくと、ファティスは大きな瞳に好奇心を乗せて、身を乗りだすように訊く。その様子に、青年は笑むように目を細めた。
「そんなにさっきの曲が気にいったなら、教えてあげようか? どうせ、今日はあそこの町で星祭りを見て行く予定だったから、夜まで暇なんだ」
ここからほど近い場所に見えるファティスの町を指し示してから、やんわりと微笑んで、青年は美しい拵えの横笛を差し出してくる。
「 ―― 本当に!? 嬉しい」
思いも掛けない青年の提案に、ファティスは溢れんばかりの笑みを浮かべて頷いた。
自分はあの曲を教えてもらえることを喜んでいるのか、それとも、この青年と一緒にいられるということが嬉しいのだろうか? 自分自身でもよく分からなかったけれど、ただただ。心が弾んだ。
彼とは初めて出会ったはずなのに、穏やかな草原のようなその笑顔が、涙が出そうになるくらい懐かしい。まるで旧知のように。隣にいて安心する自分が不思議だった。
「私、横笛なんかやったことないけれど……よろしくお願いしますっ!」
自分の中に生まれた不可思議な感情を隠すように、ファティスはぺこりと頭を下げる。
「大丈夫。すぐに吹けるようになるよ」
やんわりと目を細めた青年もまた、彼女を見つめる瞳にはどこか懐かしげな彩が浮かんでいた。
「でも……不思議だな。なんだか、貴女とは初めて会った気がしない。お互いに名前すら、まだ知らないというのにな。こんなことは初めてだ」
青年は戸惑うような笑みを見せて、軽く首を傾ける。
「あなたも、そう思うの? 実は私もなの。……ほんとに不思議ね」
目の前にいる青年が自分と同じ感想を抱いていたことに目を丸くして、ファティスはくすりと笑った。
「私、ファティスって言います。あなたのお名前は?」
「 ―― 朱蓮(。この鳥は星蒼(だよ」
青年は左肩に止まる美しい鳥を軽く撫でるように手を動かすと、やんわりと笑った。
初めて見る顔。初めて聞く名前。けれども ―― やはり、お互いが懐かしい。
「これでもう、知らない同士じゃないね。よろしくね、朱連」
「ああ。そうだね。よろしく。……ファティス」
にっこりとファティスが笑い、朱蓮はやんわりと微笑んだ。
ふと、その肩から美しい薄藍の翼をもった朱連の鳥が優雅に舞い上がり、ゆるやかに互いに見つめあう二人の天上を旋回するように羽ばたいた。
まるで、二人の出逢いを祝福するかのように。
蒼き花が散り、人世に生まれた美しく優しい夜空の星たち。それを讃える『星祭り』の夜に。
遥かな時間(を超えて、古き"約束"が真実となる ―― 。
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2007.7.6 up
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