++ 忘れ水に眠る鬼 ++
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「……ねえ」 沈黙に耐え切れないというように、悠音は隣に座る鬼の青年に声をかけた。彼女が「少し休憩しよう」と言ってから、ゆうに三十分は経っていた。 そのあいだに、悠音は混乱する頭と心を整理していたのだろう。どこか吹っ切れたような、さっぱりとした表情がその小さな顔に浮んでいた。 「なんだ?」 大楓の幹に寄り掛かり何か考え事でもするように目を閉じていた実斐は、呼びかけられて少女の方へと顔を向けた。 鬼だということを理解して怖れているのではないかと思ったが、彼女のその目はしっかりと実斐の顔を見つめている。その気丈さに青年は意外そうな笑みを浮かべ、先の言葉を促すように視線を返す。 「なんで、あなたはここに封じられたの? 悪いことをしたの?」 悠音はズバリと訊いてみた。 もし本当にこの青年が鬼で、悪事のせいでここに封じられたのだとしたら。出口を探して一緒にここから出ることは、本当に良いことなのだろうか? そんなことを考えてしまったのだ。 五十年に一度の神迎の神事は、目醒めそうになる鬼を再び鎮めるために行うのだと、神職の宇山は言っていた。そして自分はその神迎の神事の一番手として、神矢の献上式を行うことになっていたのだ。 それなのに ―― その自分が鬼を解き放ったのではシャレにもならない。 青年は可笑しそうに悠音を見やり、そうして微かに笑った。 「……良し悪しは我には分からぬよ。我は己のやりたいように行い、欲しい物は手に入れ……ただ好きなことをしていたに過ぎぬ。そのどれかが、人間には不都合だったのだろうよ」 彼のその"やりたいこと"や、"欲しいもの"を手に入れる方法にこそ問題があるのだろうとは思ったけれど、悠音は深く追求はしなかった。 「じゃあ、もうひとつ質問。本当に……人間を食べるの?」 おそるおそる訊いてみる。さっき彼は悠音を喰らうと言ったのだ。気にもなろうというものだ。 「喰らうさ。鬼にとって人の肝はよい滋養となるのでな。……ふふ。そなたらだって、魚や獣を喰ろうたりするであろうが」 本気とも冗談とも取れる口調で鬼の青年は、にやりと笑った。 「それにしても、ずけずけと訊く娘だな。怖い物知らずというかなんというか……」 実斐は呆れたように少女を見やり、ゆるゆると頭を横に振った。まっすぐと伸びた黒髪がさらりさらりと流れるように波打つのが、とても綺麗だと悠音は思った。 「 ―― だって。私はあなたを鎮めるための神事に参加するはずだった人間だから。あなたと出口を探してしまっても良いのかなって。やっぱりそう思うじゃない」 悠音は脇に置かれた弓道具の入った袋を指し示す。 こんなことを言うと本当に殺されてしまうかもしれないと思いながらも、そうはならないことを知っている自分もいて。悠音は少し困ったように笑った。 「…………」 実斐はちらりと弓道具を見やると、どこか不機嫌そうに片方の眉を逆立てた。 「そうか。そなたが我を射る役目だったか……」 軽く腕を組むように、青年は溜息をついて天を仰ぐ。こつんと、頭の天辺が木の幹に触れていた。彼のその漆黒の瞳が何を見ているのかは分からなかった。けれども ―― どこか寂しそうな表情だと、そう思った。 見ているこちらの方が胸が痛くなるような……。 「あ、あの。あなたを射るわけじゃなくて、私は神さまに矢を献上するための射をするだけだよ」 思わず弁解などしてしまう自分が滑稽だったが、それでも悠音は何か言わずにはいられなかった。何故だか……彼が酷く傷付いているような気がしたのだ。 「ふん。だがその矢で、我はまた眠りに就かねばならぬのは変わらん」 ちらりと少女に視線をおろし、実斐は皮肉げに口端をつりあげた。 「眠りながら蓄えた力で、封印を破り自由になる。そう思うても、目覚める間もなく再びこの身を矢に貫かれる。五十年間たくわえし力が霧散し、我はまた深い眠りに落ちる。いつもその繰り返しよ。……そなたのいう"神事"が続く限りは、いつ終わるとも知れぬ永久の眠りだ」 憎々しげに、青年は吐き捨てた。 「…………」 どのくらいの永い時を、この人はそうして過ごしてきたのだろうか? 悠音はその膨大な時の長さを想像して息を呑む。 五十年ごとに行われるという『神迎の神事』。今年で確か二十回を超えたのだと、祭りの打ち合わせの時に聞いた覚えが悠音にはあった。では。彼はもう、千年以上もそうして独りで眠っているのだ。繰り返される絶望を胸に ―― 。 「なっ、何をいきなり泣いておる!?」 慌てたように、実斐は少女の顔を見やる。隣に座る少女の大きな瞳から、ほろりと一筋の涙がこぼれていた。 「わっかんないよ。ただ……哀しくなったの。わかんないよ」 自分でも理由が分からないとばかりに頭を振って、悠音は涙の溜まる瞳で青年を見やる。 ただ、哀しかったのだ。この人が、ずっと独りで眠っていたのだということが ―― 。自分を封じた者を憎むように。けれどもどこか傷付いているように見えるその漆黒の瞳が……哀しかった。 自分はこの鬼の青年のことを何も知りはしない。それなのに ―― 封じられる際にその身に受けた矢傷よりも。彼の心の方が深い傷を負っているような気がして……胸が痛んだ。 「本当におかしな娘よのう」 驚いたように悠音を見ていた青年の表情が、ふっと和んだ。可笑しそうに漆黒の瞳を細めて、ぽむぽむと少女の癖のある栗色の髪を軽くはたく。 「そなたが我を起こしたのでな。今回ばかりは勝手が違う。もう、我は眠りにつくことはないだろうよ。何せ射士どのがここに居るのだ。神事を行うそなたがこの空間から外に出た時は、我もまた解放されておる。一度出てしまえば、二度と同じ徹は踏まぬよ」 自信たっぷりにそう告げる青年のその声は、どこか暖かかった。軽くあたまに載せられた大きな手も、とても優しい。 奇妙なことながら、彼は自分を慰めてくれているのだと分かって悠音は少し可笑しくなる。くすりと笑うと、哀しい気持ちと一緒にすぅっと涙が引いていった。 「……やっぱり、あなた。鬼には思えないなぁ」 悠音はどうしても分からなかった。たとえこの人が本当に鬼なのだとしても、封じられなければいけないような悪事を働いたのだろうか? 喰らうだのなんだのと怖ろしいことも言うけれど。本心だとは到底思えないのだ。 「それに。ここに封じられている鬼は髪が紅葉みたいな色なんだって宇山さんは言ってたし。やっぱり嘘なんでしょう」 「まったく疑い深い娘だ。しつこいというか。まあ……そのうち嫌でも納得するであろうがな」 今さらまだそんなことを言いだす少女に実斐は呆れたような眼差しを向ける。この期に及んでまだ信じないとは、いったいどういう思考の持ち主なのか。 「じゃあ、納得させてみなさいよ」 負けじと、悠音はその漆黒の瞳を見返した。どうして自分がこんなにまでして彼を鬼だと思いたくないのか。自分自身の心がとても不思議ではあったけれど ―― 。 はらりはらりと。大楓の木から幾枚かの紅葉が舞うように地に下りて、二人の視界をかすかな紅に彩った。 ほんの僅かな静寂のあと、実斐は軽く顎を上げて、悠音を見下ろすようににやりと笑った。その眼差しからは先程までの暖かさは消え失せ、射るように強い。 「これならば、そなたは納得するのか?」 さらさらと。青年の姿が紅葉に霞むように揺れた。ゆらゆらと漆黒の髪が風に誘われるようにたなびき舞い上がる。 「 ―― !?」 ふわりと風になびく漆黒の髪が、ともに舞う紅葉たちを従えるように深紅の色彩へと変化していく。そして ―― 月の光のように美しい蒼銀に輝く二本の細い角が……紅い髪に埋もれるように伸びていた。 ―― 綺麗。 思わず、悠音はそう呟いていた。 目の前に居る"存在"は、確かに先ほどの青年の顔をしていた。けれども髪の色が違う。そして人間にはありえない、二本の細い角。とうに鬼だと分かっていたにも関わらず、その姿を見るのは大きな衝撃でもあった。 けれども ―― その美しさは"人"の姿をしていた時よりも更に強い。怖れよりも憧憬。そんな思いを抱かせる容姿。泣きたくなるほどに綺麗だと、そう思った。 「……どう、して? なんで姿が……変わったの?」 悠音は目を見開いたままそう呟いた。怖れたのではない。ただ。なぜ今までその姿ではなかったのかという純粋な疑問から出た言葉だった。 ついさっきまで。彼を鬼とは思いたくなかった自分が確かに居たのに。けれども今は ―― 鬼の姿に魅せられてしまっていた。その存在自体が、まるで魂を揺さぶるかのように。 「そなたが納得させろと言うたのであろうが」 くすくすと、鬼の青年は笑う。 「だがまあ……ようやく我も真の姿に戻れたな。力が足りぬと、貧弱な人間のような姿に押し込められてしまうのだから屈辱的なことよ」 茫然と自分の姿を見つめている少女に、実斐は可笑しそうに笑う。今度こそ、少女は自分が鬼だということを納得して慄いているのだろうと思った。 だから。さらに脅かすようなことをさらりと言ってのける。 「そろそろ力も完全に戻ろうが……そなたは出口を探そうともせぬ。我に喰ろうて欲しいと思うているとしか思えぬが?」 今まで眠りの中で蓄えてきた力は、空の器に水をそそぐかのように徐々に己が身に漲るように戻って来ている。自分の姿を取り戻すことが出来たことからも、あと少しですべての力を取り戻せるであろうことが実斐には分かっていた。 彼女が休憩しようとこの場所に座りこんでから、既に一時間ちかくは過ぎているのではないかと思われた。 「あなたは ―― 私を"喰らう"つもりなんかないとしか思えないけど?」 我に返ったように悠音は強い口調で言い返す。じっと青年の漆黒の瞳を見返す少女の眼差しには怖れも、憧憬の彩もすでになかった。ただ気負わぬ笑みさえも浮かんでいて……実斐は驚いたように目をまるくした。 「だって。本当に喰らうつもりなら、わざわざそんな脅かすようなこと言って急かしたりしないでしょ、普通」 にっこりと、悠音は笑った。 この青年が鬼だということはもう疑うべくもない。けれども。一緒に居た時間を思い返してみれば、その行動は本当に普通の人間と同じで。俗に言う『極悪非道な鬼』などでは決してないのだと、悠音には思えた。 もちろん、この神苑に封じられたことを考えれば、それなりに悪いこともしてきたのだろうけれど ―― 。 「…………」 内心を見透かされたようで、鬼の青年は嫌そうに眉をつりあげた。 確かに自分は ―― 既にこの少女を喰らうつもりなどなかった。 けれども彼女が言うように自分が『良い鬼』だから、というわけではない。人間を喰らうことに罪悪感などはない。この場所に封じられる以前はそれこそ幾人喰ろうたか分からないのだから。 自分がやりたいと思ったことだけを行い、欲しい物は必ず手に入れる。自分はそういう鬼なのだ。 いま己がしたいこと。それは、この少女を喰らうことではない。この閉じられた空間を彼女とともに抜け出ることだ。 そして ―― 欲しい物は自由。ただ、それだけのことなのだ。 こんなにものんびりとしてなかなか出口を探そうともしない少女など放り捨てて、何故ひとりで封印を破ろうと思わなかったのか。なぜこの少女と"一緒に"と思ったのか。それは自分自身でも不思議だったけれど ―― 。 「……ふん。勝手にそう思うがよい。あとで後悔するのはそなただ」 自分を良い鬼だと思いこむ少女に忠告めいた言葉を投げて、実斐はぷいとそっぽを向いた。 「はいはい。じゃあ、そろそろここから出るための鍵。探そうかな。あなたに食べられないように」 まるで子供のような青年の仕草に、くすりと笑って悠音は言った。 鍵を探して ―― 神苑に封じられていたこの紅い鬼を解放する。それが良いことなのか悪いことなのかは分からなかった。けれども、少女はそうすることを決めていた。 |
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