++ 忘れ水に眠る鬼 ++
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あの刻。あの場所で。私は"鬼"と出逢ってしまった。 それは ―― 運命だったのかもしれない。 あの刻。この場所で。我は"人"と出逢ってしまった。 それは、避けられぬ宿世からの |
かさり。かさりと地面に落ちた小枝や葉を踏みしめて、少女は歩いていた。形のよい桜色の唇が、きゅっと一文字に結ばれて不機嫌さを示す位置にずっと貼りついている。 どこか幼さの残るその顔を彩るように、僅かに癖のある栗色の髪が肩の上であちこちを向いて揺れていた。 桔梗が描かれた霞色の小袖に漆黒の袴。そして背には潤朱色の筒袋に入れられた長い荷物と同色の巾着袋を背負っている。この足場の悪い小道を歩くには、やや不向きといえる格好だった。 「……まだ着かないの?」 大きな溜息をついて、少女はかいてもいない額の汗を拭うように隣を見やる。 「すみません。あと少しです。控え室から射会の会場までは二十分ほどかかりますので……」 彼女の隣を歩いていた初老の男性は、白髪まじりの頭を申し訳なさそうに下げた。自分よりもひと回りもふた回りも若そうな少女に対して慇懃な態度で答えるのは、彼女が男にとって大事な人間の娘だからだ。 「あの場所からこっちは神苑と呼ばれておりまして神社の聖域ですので車は入れませんのです。建造物も禁じられておりましてね、控え室も離れた場所に建てるしかないんですよ。この先にあるのは、祭りのための射場だけです」 「聖域、ねえ。こっちは袴で歩きにくいのになぁ……」 散った木葉が地面の土色を隠し、黄色や紅が鮮やかな落葉の絨毯がずっと遠くまで続いていた。周囲を見渡してみても紅葉にもえる木々ばかりで、ちっとも目当ての場所が見えては来なかった。 千数百年もの歴史があるといわれる由緒正しい藤城神社。子供の頃からよく境内で遊んでいたこの神社の奥深くに、こんな場所が隠されていたとは知らなかった。あたりを眺めながら、そう少女は軽く目を細める。 観光や参拝の人々が訪なう拝殿や社殿の周りに流れる、どこか気さくな静粛さとは違う。さすがに神の苑と呼ばれる聖域だけあって、どこまでも清浄で厳かな気が流れているように感じられる場所だと思った。 「まあ……紅葉が綺麗だからいいか。散歩気分、でね」 少女は周りで艶やかに彩付く紅葉の木々を見やり、小さく笑う。 これから自分は粛々と神事の一役を担うことになるのだ。それを思うと、このまま不機嫌な心持ちではさすがにマズイかなと思ったのかもしれない。 そもそも少女 ―― 神迎の神事は秘儀として一般に公開されることはないが、十八歳にして既に四段という高段位を得て国体で優勝したこともある弓道の腕前も然ることながら、この藤城町でも有数の資産家であり、氏子として藤城神社に莫大な寄付をしている逢沢家の一人娘である彼女がその役目につくことには、誰も異論がなかった。 「とくに今年は見事なんですよ。神迎えの神事が行われる年ですからねえ。……この見事な神苑の紅葉を我々神職の者は見られても、一般の方々にお見せ出来ないのが心苦しいところですがね」 少女が紅葉のおかげで機嫌を直したことが分かったのか、初老の男はにこにこと笑った。 「……どうして神迎のある年だから、なの?」 まるで祭りを行う年はいつも以上に綺麗なのだと言いたげな男の顔を、悠音は不思議そうに見やる。男は目じりの皺を深めるように笑った。 「この苑のどこかに鬼が封じられているそうでしてね。その鬼の髪が紅葉の色なんだそうです。五十年に一度、鬼は目覚めそうになる。目覚め始めたことによって溢れ出た妖力で木葉がその鬼の頭のように例年以上に紅くなるんだそうですよ」 白髪混じりの頭を撫で付けるように押さえながら、男は赤く染まった木々を見やる。 「ああ、でも心配はいりません。鬼は解き放たれはしませんから。新たに封じなおしてもらうために神をお迎えするのが『神迎の神事』ですからねえ」 今の世に鬼なんて信じる人もいませんが伝統行事なのでね。そう男は可笑しそうに付け加えた。 「ふーん……」 悠音はぐるりと周りの木々を見渡した。 確かに、この世の物とは思えぬほどに美しく色づいた紅葉が、夢幻的なまでに広がっている。 こんなふうに綺麗な紅葉をつくる鬼だったなら毎年でも起きてくれればいいのにと思う。もちろん鬼なんかこの世には居らず、お伽噺の中だけに居る存在だと分かっているからこそ言えることではあるのだが。 「 ―― あれっ?」 ふと、悠音は木々の間に何か光るものがあるような気がして、目をまるくした。 よく目を凝らして見てみると、それは物ではなく、ただ水に陽が反射しているようだった。木々の間を落ち葉に隠れるようにして、細い水の流れが出来ているのだ。 「あんなところに小川があるの?」 思わず道を逸れて水の方へと足を向ける。何故か、その細い水流に心惹かれた。 「逢沢さん、あまり時間ないんですよー」 慌てたように男は悠音の名を呼んだ。あまり道草を食っては神事の時間に遅れてしまう。それに、この小道から外れて神苑と呼ばれるこの聖域をむやみやたらに歩き回るのはご法度でもある。 それでもぐんぐんと歩いていく少女に仕方なさそうに溜息をついて、男は呼び戻すために足の向きを変えた。 「……わっぷ!?」 ふいに強い風が木の葉を巻き上げるように吹き荒れた。紅葉が渦巻くように宙を舞い、一瞬視界が遮られる。 「 ―― おう、さわ……さん!?」 風が収まり男が目を上げると。ついさっきまでそこに居たはずの少女の姿はどこにも見えず……まるで掻き消えたかのように居なくなっていた ―― 。 悠音はおもわず目を丸くした。 細く流れる水を見ようと近付いた途端に突風が吹いた。砂埃が目に入りそうで、思わず目を閉じたのはいいのだけれど。風が収まって目を開けてみれば、目の前にいきなり見たこともない若い男がいたのである。 しかもその男は ―― 眠りこけていたのだから。 「……さっきまで居なかった、よねぇ。この人」 悠音は茫然としたまま呟いた。 このあたりに生えている木々たちの中でも最も太く大きい楓の木。幾本もの注連縄が周りに巻かれているので、御神木だろうと思われるその木の根元に寄り掛かるようにして、若い男が固く目を閉じていた。どこか蒼褪めて見えるのは、陽の加減だろうか。 その青年が寄り掛かる大木の脇を、先ほど彼女が見つけた細く澄んだ水がさらさらと流れている。 けれども。風が吹く前にはこの木の根元にこんな青年はいなかったのだ。 少し離れた背後には自分を案内してくれていた宇山という初老の男がいたはずだが、この青年とは似ても似つかない。 「ねえ、宇山さん。この人さっき居なかったわよね? ……あれ?」 悠音はうしろを振り返り、さっきまで一緒に居たはずの初老の男性が居なくなっていることに気が付いて目を見開いた。 「……一人で先に行っちゃったの? あの人だけ行っても仕方ないじゃない。射士は私なのに」 道草を食う自分に怒って先に行ってしまったのかもしれない。そう思い溜息をつく。そうだとしたら失礼なことこの上ないと思ったけれど、神事の開始まで時間が迫っているのは確かだったので、自分も早く戻ろうと思った。 しかし ―― この青年を放っておいてもいいものだろうか? 一瞬だけ考える。 ここは神苑。普段は神社に関係のある人間のみ。今日ならば神事に関係のある人間しか入っては来れないはずだ。それならば、おそらく彼も関係者なのだろう。 そう思ってしげしげと青年を見てみれば、やはり祭りの装束としか思えない、紅みを帯びた墨色の狩衣姿をしていた。 座っているとはいえ地面についてしまうくらいに長い黒髪。それが、自分よりもきめ細かいのではないかと思える白い肌にまとわりついている。顔の造作は悠音が今まで見たこともないくらいにとても綺麗に整っていた。 社務所で祭りの打ち合わせは何度かしていたけれど、この青年には会ったことがない。それならば、彼は自分の出番には関わり合いのない役割りを担った人なのだろうと思った。 「もうすぐ、神事が始まる時間よ」 ちょっとだけ声をかけてみる。けれども青年はぴくりとも動かなかった。 仕方がないので、悠音はそのまま青年を置いて行くことにした。射場についたら宇山にこの青年のことを言って、迎えに来させれば良いかと思ったのだ。 何せ自分は祭りの一番最初に出番があるのだ。そうそう遅くなるわけにはいかなかった。 「先行くからね」 いちおうそう声をかけてから、抱えていた弓道具を背負いなおして悠音はくるりと来た道を戻る。そんなに遠く道を外れた覚えはなかった。だからすぐに小道に戻れるはずだった。 それなのに ―― いくら歩いても先ほどの小道に出ることが出来ない。それどころか、まっすぐ歩いていたはずなのに。しばらくするとまた、青年が眠る大楓の木の下に辿り着いていた。 二度三度とやってみても、結果は同じだった。 「……な、なんでよぉ」 思わずぺたりと地面に座りこんでしまう。自分の方向感覚が狂っているのか、それとも何か知らない不思議な力でも働いて堂々巡りになっているのか……。一瞬、先ほど宇山が話してくれた"鬼"の話が頭に浮ぶ。 「ばかね。そんなのありえない。ありえない」 自分の考えが馬鹿馬鹿しくて、悠音は思わず苦笑した。 おそらくどこも紅くて似たような景色だから、まっすぐ歩いているつもりが少しずつずれていただけのことだろう。 そう思った時、悠音はふと気がついた。もしかしたら、この青年もそうやって神苑から出られなくなって、ふてくされて眠ってしまったんじゃないだろうか? 「ねえねえ、あなた。ちょっと、起きてよ!」 最初はぽんぽんと肩を叩き、それでも起きないのでゆさゆさと身体を揺らしてみる。 ぴくりと、瞼が震えた。 長い睫毛が震えるように持ち上げられ、スローモ-ションでも見ているかのようにゆっくりと青年の瞳が開いた。深い、どこまでも深い漆黒の瞳だった。 「目、醒めた?」 掛けられた声に、ぼんやりとしていた焦点が次第に光を取り戻し、ゆうるりと悠音の姿に合う。 「……誰だ?」 己の肩をつかむ存在に、青年は不審そうに目を細めた。 「あなたも紅葉に迷ってここから出られなくなったんでしょう? 一緒に神事の会場に行こうよ」 にこにこにこと、少女は青年の顔を覗きこむ。 「誰だ?」 やや苛立たしげに、青年は再度問うた。その言い方があまりにも威圧的で、悠音は少し頬をふくらませた。けれども初対面なのだからまあ名前くらいは名乗ろうと、不満を抑えて言葉を返す。 「感じ悪いなぁ……まあ、いいけど。私は逢沢悠音。あなたは?」 「はるね、か。良い名だ」 ふっと青年は笑う。思わず見惚れてしまいそうなくらいに、それは艶やかな笑みだった。 なんて綺麗な人なんだろう ―― 。 相手が名乗りを返さないことへの怒りも忘れて、悠音はしげしげと青年の顔を見つめた。女性の持つ美しさとは違う。男性特有の鋭く強い圧倒的な美貌。その漆黒の眼差しに、吸い込まれてしまいそうだと思った。 「ふふ。我に喰われに来たか?」 つ……と、細く長い指で青年は少女の頬から鎖骨のあたりを撫でる。その指に僅かに力が込められて、爪が立った。 その感触は滑らかで心地よい。思わずうっとりと身を委ねそうになってしまう自分を感じて、かあっと、悠音は顔を赤くした。 ―― 怒りと。羞恥の為に。 「え、えろじじい!」 思わず背負っていた荷物で青年の頭を殴り飛ばしていた。 あんなふうに艶かしく触れられたことは生まれてこのかた一度もない。初対面なのに、なんて馴れ馴れしいのかと、思わず二度三度と巾着袋で殴りつけてしまった。 「…………」 しかし殴った相手からの反応がまったくないので、悠音は不思議に思う。 もしかしたら寝惚けていただけなのかもしれないし、首に触れられただけなのにちょっとやりすぎたかなと思いつつ悠音がおそるおそる目を向けると、青年はこちらではなく、茫然と自分自身の手を見つめていた。 「……まだ完全には力が戻っておらぬ、か」 苦笑するように唇の片端を吊り上げて、青年は訳の分からないことを言う。 その表情があまりにも自嘲的で。この美貌の青年は今まで女性にこんなふうに怒鳴られたことがないのかもしれないと、悠音は思った。それが彼女の大きな勘違いだったと知るのは、まだ少し先のことではあるけれど。 「あなたね。ちょっと……ううん。いっぱい綺麗だからって、女がみんなあなたの思い通りになるとは思わない方が良いんじゃないかしら。もっと誠実に生きなさいよ」 思わず、悠音はそう言っていた。この綺麗な顔の青年は女達にちやほやされて生きて来たに違いない。そんな堕落した生き方よりも、まっとうに生きた方がこの凛とした美しさには似合うのにと、勘違いもはなはだしいことを少女は思い込んでいた。 「……くっくっ」 何が可笑しかったのか、青年は肩を震わせるように笑った。流れるような黒髪がゆらゆらと波立って見える。顔に落ちかかってきた髪をさらりとうしろに跳ね上げてから、彼はゆっくりと立ち上がった。 「面白いな、娘……悠音だったか?」 青年はぽんぽんと、悠音の頭を軽く押さえるように叩く。 「我を目醒めさせしことの礼は言おう。それに免じて今は喰らわぬ。だが我に力戻ったとき……まだそなたがここに居るようならば、遠慮のう先ほどの続きをするがな」 にやりと悪戯めいた笑みを浮かべて、青年は少女の顔を覗きこんだ。真っ直ぐに見つめてくる漆黒の眼差しが強すぎて、悠音は思わず目を逸らした。 「ふん。その前に、この忌まわしい檻を抜け出す方法を探さねばならんのがやっかいだがのう」 悠音の驚愕もそっちのけで、青年は勝手なことばかりを並び立てる。 「ちょ、ちょっと……あなたいったい……なんなの?」 まるで時代劇のようなその口調も。言っている言葉の意味も。さっぱり理解できない。いや、意味は理解できるのだ。ただ、何故そんなことを言っているのかが分からなかった。 ようやく絞りだすように出てきた少女の疑問の言葉に、青年は華やかな。そして切れ上がるように艶やかな笑みを浮かべた。 「我は ふわりと。青年の大腿部までもおおう長い漆黒の髪が風にさらわれて宙を舞う。 その漆黒の色が一瞬……紅葉をまとう深紅に輝いたように見えた。 |
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